史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「海を渡った幕末の曲芸団」 宮永孝著 中公新書

2019年09月29日 | 書評

三連休の一日、あまりにヒマだったので、神保町の古本屋まで往復してきた。往復三時間、現地で一時間近く歩いて、この日の収穫はこの新書一冊であった。値段は三百円。ちょうど二十年前に発刊になったこの本は、今となっては書店で手に入らないものになってしまったが、非常に面白かった。これが三百円とは信じられない。

外国との和親条約締結から八年が経った慶應二年(1866)四月、幕府は留学生や商人たちの海外渡航を公認することになった。寛永十二年(1635)の海外渡航禁止以来、約二百三十年後の政策転換であった。「海外渡航差許布告」が出て約半年後、芸人たち(軽業師・曲芸師)がこの制度を利用して海外にはばたいた。本書で紹介しているのは、「帝国日本芸人一座」の一行十八人である。

彼らは太平洋を横断してサンフランシスコに渡り、パナマ海峡を経由して東海岸に到達し、ニューヨーク、フィラデルフィア、ボルチモア、ワシントンそしてボストンなど各地で公演を続け、大西洋を渡ってフランスに至り、パリ、リヨン、イギリスではバーミンガム、マンチェスター、ウェイクフィールド、リーズ、ブラックバーン、さらにオランダではロッテルダム、アムステルダム、スペインのマドリード、バルセロナ、バレンシア、セビリア、ポルトガルのリスボン、ポルトと、各地で好評を博した。

この当時、西欧では既にサーカスもあったし、オペラや管弦楽の演奏会もあった。娯楽には事欠かなかったと思うが、それでも異国からやってきた異装の芸人集団は、確実に彼らの心をつかんだ。これがヒットすると見込んだ興行師リズリー先生の眼に狂いはなかった。

「帝国日本芸人一座」の出し物は、こままわし、うごく詩編、蝶の舞など。一座の中には十二歳以下の子供四人も含まれていた。公演の最初には足芸の浜碇定吉が自分の肩の上に一丈五尺の竹竿を立て、それを梅吉(十二歳)が昇っていってそこで「オール・ライト!」と声を発する。この芸で梅吉は「リトル・オール・ライト」というあだ名をつけられ一躍大人気となった。

現代日本では街中にエンターテイメントが満ち溢れ、かつてお祭りなどで見られた見世物小屋はすっかり過去のものとなってしまった。軽業師とか曲芸師と呼ばれる伝統的な芸人が姿を消してしまったとしたら少々残念なことである。昨今、体操競技や新体操などで日本選手が世界的に活躍する姿を見るにつけ、軽業師の伝統は脈々とアスリートに受け継がれているのかもしれない。

三年余りに及ぶ彼らの足取りが比較的正確に今日に伝えられることになったのは、一座の後見人として同行した高野広八が、こまめに日記を残してくれたおかげである。「広八日記」によれば、一行はワシントンで大統領(リンカーンの次代アンドリュー・ジョンソン)と面会を果たしている。喧嘩に巻き込まれたこともあれば、ホテルの部屋が盗難に遭ったこともある。一座の一人「こままわしの菊治郎」がロンドンで病死するといった悲劇にも遭遇した。火事で持ち物や現金まで燃えてしまったこともある。帰国寸前のニューヨークでは通訳のバンクスが興行収益を持ち逃げするといった事件も起こった。案外そういったトラブルにも平然としていた広八であったが、ロンドンの娼家で現金を持ち逃げされたときは奮然として警察に被害を届け出て犯人逮捕に結びつけた。それまで各地でせっせと娼婦を買っていた広八であるが、この事件以降ぴたりとやめてしまった。よほどこの一件に懲りたということであろう。

彼らが帰国したのは、明治二年(1869)三月のことである。既に江戸幕府が崩壊し、明治の世になっていた。

幕末人が西欧文明を実見した記録は数多残されているが、庶民の眼を通したものは貴重である。広八は外国語もできないし、西欧文明に接してもその原理などは理解できなかったであろうが、それでもエレベーターや巨大な建造物には素直に驚嘆している。

「あとがき」によれば、筆者宮永孝氏は、二か月に及んで彼らとほぼ同じ旅程をたどり、現地調査を重ねた。これにより「広八日記」だけでは不明であった一部の地名が明らかになっている。

これほど面白い書籍が現在刊行されていないというのはどういうことか。もっと多くの人に読んでもらいたいと思う一冊である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「新選組 最後の勇士たち」 山本音也著 小学館文庫

2019年09月29日 | 書評

相馬主計、安富才助と沢忠輔という三人の実在の新選組の元隊士を主軸に据えた小説である。この三人を「新選組隊士録」(相川司著 新紀元社)からかいつまんで紹介すると、以下のとおりである。

 

相馬主計…天保十四年(1843)、笠間藩士の子に生まれる。本名は船橋太郎。新選組加盟は慶應三年(1867)秋頃。同年十一月の油小路の変にも出動した。鳥羽伏見から甲陽鎮撫隊にも従軍し、大石鍬次郎らと近藤勇の本陣を固めた。箱館では一時陸軍隊に所属し、新選組の軍監を務め、のちに箱館新選組の隊長となって市中取締の職務を担った。明治二年(1869)三月二十三日の甲鉄襲撃にも加わり負傷した。五月十一日、官軍による箱館総攻撃を受けて、土方歳三が戦死を遂げると、同月十五日降伏。相馬主計は幹部の一人として榎本武揚、大鳥圭介、荒井郁之助、永井玄蕃らとともに東京に送られた。坂本龍馬殺害と伊東甲子太郎殺害の嫌疑をかけられ、新島への流罪となった。明治五年(1872)在島二年で赦免されるが、主計は新島に土地を得て在住を申請したが、認められず妻を連れて東京に戻った。切腹した明確な時期や理由は不明。

安富才助…天保十年(1839)、備中足守藩士の子に生まれた。文久三年(1863)、娘を養女に出して脱藩。元治元年(1864)十月、江戸での隊士募集に応じて新選組に入隊した。慶應三年(1867)六月には諸士調役に昇進。同年十二月頃より勘定方を切り盛りし始め、鳥羽伏見以降は小荷駄方を務めた。甲州から会津へと転戦し、会津では負傷した土方に代わって隊長を務めた斎藤一(この頃は山口次郎)の下で副長となった。土方に従って箱館に渡り、新選組隊長代に就いた。箱館では一時新選組を離れて五稜郭詰めの陸軍奉行添役に就いた。大野右仲、相馬主計らとともに土方歳三を補佐する側近であった。明治二年(1869)五月十一日、土方が戦死したとき、安富才助、大島寅雄、沢忠助の三名が付き添っていたといわれる。才助は五稜郭から土方の遺族に宛てて書簡を送っているが、その末尾に「早き瀬に力足らぬや下り鮎」という追悼句を残した。戦後、青森、弘前で謹慎した後東京に送られ、足守藩に送還されそこで禁錮とされる。「新選組始末記」に「江戸にて阿部十郎に切殺さる」と記され、長らくこの記事が信じられていたが、最近になって明治六年(1873)五月に足守で没したことが判明した。

沢忠助…生没年不詳。新選組への入隊時期は不明ながら、慶応四年(1868)三月の勝沼での戦闘では近藤勇の馬丁をつとめている。近藤亡き後は、土方歳三に従って会津から蝦夷地へ渡り、土方の死に立ち会っている。箱館を脱出して遺品と安富才助の書簡を日野宿の佐藤彦五郎に届けた。

 

以上が素材というわけだが、これに筆者は絶妙な創作を加える。安富と相馬が箱館で被弾し、安富は左手の指を全て失い、相馬は左腕を失った。戦後、相馬は新島に流され(これは史実とおり)、安富は八丈島に流刑となる。相馬は赦免されれば新しい世に出て活躍したいという思いを抱いていたのに対し、安富は「島で果てる」覚悟を固めていた。対照的な二人であるが、皮肉なことに赦免後に新政府から仕事の誘いがあったのは安富の方であった。

もちろん安富才助や沢忠助が陸軍省に務めていたというのは創作。御陵衛士に合流しようとした茨木司が惨殺されたのは史実であるが、その息が真相を知るため新選組に接近したとか、生き残った隊士の命を狙ったというのも創作である。この茨木司の息子が物語で大きな役割を担っている。

鳥羽伏見の戦闘で傷ついた相馬と安富を外科手術で救うという重要な役割を果たす田島応親は実在の幕臣である。ただし、田島に医術の心得があったのかどうか私にはよく分からない。維新後、その軍事技術をもって新政府に仕え、陸軍参謀局に出仕したのは事実である。安富はその田島の誘いを受け、八丈島で朽ち果てる覚悟を翻し、島を出て陸軍省に出仕する決意を固める。

江戸に出た安富才助は、元御陵衛士阿部十郎と遭遇する。阿部十郎は返り討ちにあうが別れ際に「貴様はいまここで死んだのだ、ならば、俺はもう貴様を追う筋はござらん」と奇怪な科白を吐いた。これが、安富才助が阿部十郎に斬られて死んだという誤伝を生んだという、新選組マニアをうならせる創作が挿入されている。逆に「誤伝」を知らなければどうしていきなり阿部十郎が出てきて、このような奇怪な科白を吐いたのか、読者はピンとこないであろう。

物語は、創作と史実が綯い交ぜになりながら、衝撃のラストへと突き進む。無論、相馬主計の自刃という最後が待ち受けているわけだが、ネタ晴らしをするのも野暮なので、今回はこの辺りで…。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中之条 Ⅳ

2019年09月21日 | 群馬県

(清見寺)

 お盆ということもあって清見寺は大勢の人が集まっており、駐車するスペースを見付けるのに苦労した。

 

 清見寺

 

 

 町田家の墓

 

 清見寺に町田明七の墓を探して広い墓地を一周した。私が探した限り、町田家の墓地は墓地中央の一か所しかなかったので、ここに明七が眠っているのであろう。

 たぶん町田家の墓にある「町田氏奥津城」の左手の墓石だと思われるが、墓石の文字を読み取るのを怠ってしまった。

 

(林昌寺)

 

 林昌寺

 

 

小渕恵三之墓

 

 林昌寺は柳田禎蔵の菩提寺である。禎蔵の墓を探して広い墓地をグルグルと歩き回ったが、見つけることはできなかった。柳田家の墓石は複数見付けたのだが…。代わりに?元総理大臣小渕恵三の墓に出会うことができた。

 

(吾妻神社)

 横尾の吾妻神社は和利宮とも呼ばれ、古くから地域の崇敬を集めた。拝殿をはじめ、境内の献額に、天保九年(1838)の絵馬、文政六年(1823)の句額、明治十一年(1878)の算額などがある。

 

 

 吾妻神社

 

 

篁菴先生碑銘(高橋景作碑銘)

 

 参道入口には高橋景作の顕彰碑が建てられている。篆額は東久世通禧。明治三十四年(1901)、門人による建碑。

 

 

 吾妻神社の句額

 

 文政六年(1823)の句額は、十一の小間に分れていて、各小間に俳句と作者の肖像が描かれている。句額序文にある「樹つら樵士」は、高橋景作のことで、「花すみれ」の句をあげている。句額の画家は不詳。

 

(高橋景作生家)

 

 

高橋景作生家

 

 横尾の高橋景作の生家である。さすがに当時の建物は残っていないが、前庭に建つ大きな蔵は関係資料を保存するためのものであろうか。

 景作は、寛政十一年(1799)、横尾村名主高橋政房の長子に生まれ、幼時より俊才として知られ、医学を志して伊藤鹿里に学んだ。その後、高野長英の塾大觀堂に入って一年あまりで塾頭となった。天保九年(1838)、横尾村に戻り、医師として診療にあたる傍ら、郷里の子弟を育てた。蛮社の獄で投獄されていた長英は、弘化元年(1844)、牢舎の火災に乗じて脱獄した。景作は、潜行した長英をここから一キロメートルほど北方の文珠院に匿ったとされる。念のためその辺りを車で走ってみたが、文珠院を発見することはできなかった。

 

 

高橋景作生家と関係資料

 

 

高橋景作句碑

 

 雲雀より上に馬なく峠かな

 

 この句は、天保十五年(1844)高橋景作が中之条を離れる師を見送った際に詠んだものである。

 

 

篁菴高橋盈卿翁之墓

 

 高橋景作は明治八年(1875)、七十七歳で没した。高橋家の墓は、生家跡の裏山にある。

 高橋家には、たくさんの遺品が残された。三十六年二十冊に及ぶ日記も伝わったが、長英逃亡期間のものは残されていない。ほかに自ら書写した和・漢・洋にわたる写本、メスフラスコ、秤などの医療用具、大觀堂の陶印、文人墨客との交流を示す書画や書簡、自筆の書幅や文芸作品など多岐にわたっており、景作の生涯を語る貴重な資料となっている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中之条 Ⅲ

2019年09月21日 | 群馬県

(沢渡温泉 まるほん旅館)

 嫁さんと長女が一泊二日で京都・大阪に帰省するというので、二人を駅に送ったその足で、懸案となっていた中之条町の高野長英関連史跡を訪ねることにした。八王子から片道約二時間半のドライブである。

最初の訪問地は、沢渡温泉まるほん旅館の駐車場。この場所は、高野長英の弟子の一人、福田宗禎(そうてい)の屋敷跡である。残念ながら、昭和二十年(1945)の大火で焼失してしまい、一切の建物は残っていないが、まるほん旅館向い側の駐車場に説明板が建てられている。

 

 

福田宗禎屋敷跡

 

 福田家は、屋号を「丸大」といい、湯宿と医者を兼ねていた。明治まで沢渡には、上中下(かみ・なか・しも)の湯があり、源泉をめぐって東に福田家、西に関口系の家が宿屋を開いていた。福田家は、「丸本」六右衛門と本家とする「丸本」系と、「丸大」喜右衛門を本家とする「丸大」系の二系統があった。享保年間、「丸大」の婿となった関根浅右衛門は宿と医者を兼ね、その子宗禎は、家伝薬七宝丸とともに医者として有名になった。

 二代目宗禎浩斎は、二宮洞庭に学び、富山藩医になるなど医学を修めて帰省、家業についた。研究熱心な宗禎浩斎は、蘭方医学研究を志して高野長英の弟子となり、その評判を聞いて患者も年間三千人を越えたといわれる。

 

(沢渡温泉 見晴公園)

 

 

浩斎福田翁墓碑

 

 見晴公園の一角に福田家の墓所があり、そこに宗禎(浩斎)の墓碑がある。

 福田宗禎(徳郎・浩斎)は、寛政三年(1791)、沢渡温泉の丸大福田家に生まれた。宗禎は襲名で、浩斎は五代目である。三十歳のとき父が没したため帰郷して家業を継いだ。医師として名を上げ、多くの弟子を養成したが、自らの精進も怠りなく、常に新しい医学研究を求めていた。天保二年(1831)、高野長英の弟子となり、ゲッシェルの外科医学書を翻訳した。長英の著書「救荒二物考」(きゅうこうにぶつこう)の刊行、火災にあった長英の塾再建にも援助をした。蛮社の獄で入牢した長英の身を案じつつ、天保十一年(1840)、五十歳で没した。

 浩斎の墓碑は、明治十三年(1880)、嫡子宗禎(文同)によって建立されたものである。

 

 

 福田家の墓

 

(鍋屋旅館)

 中之条の市街地に戻って、鍋屋旅館を訪ねる。中之条に潜入した高野長英を匿った田村八十七(やそしち)の屋敷跡である。

 田村八十七らは、手を尽くして長英をかくまったとされるが、当時、長英の人相書きが出回っており、証拠となるものは全て焼却したため、今となっては長英が中之条で潜伏した詳細は明らかではない。

 

 

 鍋屋旅館

 

(町田家)

 

 

町田家のシイの木

 

 鍋屋旅館から数十メートル東の町田家は、(恐らく)高野長英をかくまった町田明七の屋敷跡である。今も町田氏が居住されている。町田家には樹齢三百年樹高九メートルというシイの大木がそびえている。

 

(高野長英先生淹留之地)

 

 

高野長英先生淹留之地碑

 

 横尾の高橋景作が高野長英の塾「大觀堂」に入り、天保七年(1836)には塾長に進んだ。大飢饉となったその年、長英は福田宗禎方に逗留しながら、日本最初の生理書「医原枢要」の出版費用を柳田禎蔵(鼎蔵)と共同出資した。この時、ソバと馬鈴薯が凶作に良いという話を福田・柳田両氏から聞いたことが、「救荒二物考」の出版に繋がった。天保九年(1838)、江戸の大火で長英の自宅が全焼した折には福田・柳田両名が筏で木材を送る等、二人は長英を熱心に支援した。

 柳田家は昭和三十年代に前橋に移住したため屋敷跡は跡形もないが、その後、長英の曽孫長運氏による「高野長英淹留之碑」が建てられた。

 

(中之条町歴史と民族の博物館)

 

 

中之条町歴史と民族の博物館

旧吾妻第三小学校校舎 

 

 教育資料室

 

 中之条町歴史と民族の博物館は、明治初期の擬洋風建築である旧吾妻第三小学校校舎を活用したものである。高野長英が高橋景作に宛てた書状や沢渡温泉の歴史をたどる展示などが見所である。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

足利 Ⅲ

2019年09月21日 | 栃木県

(徳蔵寺)

 

 

 徳蔵寺

 

 

五百羅漢像

 

 

早川翁生壙碑

 

 この日の最終目的地は足利市の徳蔵寺である。

カメラを持って自動車から降りたところで、寺の住持さんと出くわした。こちらから頼んだわけでもないのに「せっかくだから五百羅漢堂を開けてあげよう」と県の重要文化財に指定されている五百羅漢像を見せていただいた。「早川彦平の顕彰碑を見にきたんです」と伝えると、快く墓地入口までご案内いただいた。住持さんによると、この石碑は明治十三年(1880)、早川家の屋敷内に建立されたもので、その後、徳蔵寺に移設された後、小山市内の実家近くや遺族の住む埼玉県内を転々とした。平成二十九年(2017)秋、遺族である鈴木英夫氏から足利市を経て徳蔵寺に連絡があり、この寺に安置されることになった。実に八十二年振りに徳蔵寺に戻ったわけである。

早川彦平は、梁田宿で旅籠「上総屋」を営み、二百人をかかえた梁田宿の顔役であった。慶応四年(1868)三月九日、梁田宿の旧幕府軍を官軍が急襲して激戦となったのが梁田戦争である。古屋作佐衛門率いる旧幕府軍(衝鋒隊)は六十四人の戦死者をだして敗走した。この時、彦平は、梁田宿にいた旧幕府軍の動向を官軍に通報し、地元民の誘導、近隣から押し寄せたやじ馬の整理に当たったといわれる。戦後は出身地である小山で病院や学校建設に関わったという人物である。

 石碑に刻まれた「生壙」とは生前に自分でつくっておく墓のこと。傍らの石碑には「死後業績をたゝえ碑が建立」されたとあるが、「死後」ではないのではないか。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桐生

2019年09月14日 | 群馬県

(桐生天満宮)

 桐生は古くから養蚕業や絹織物業で栄えたが、江戸期に入って桐生天満宮を中心に市街地が形成されていった。桐生の織物業は幕府にも高く評価され、桐生は天領とされた。

 桐生天満宮に至る直線道路の両側には、江戸時代から続く当時の区割りや古い建物が今も伝えられている。

 

 

桐生天満宮

 

 桐生天満宮の公式ホームページによれば、その起源は「第十二代景行天皇の時代」というから、西暦でいうと紀元後70~130年となる。景行天皇は日本書紀に現れる天皇で、実在性は定かではないが、ともかくこの神社の歴史はとてつもなく古いということである。社殿は寛政五年(1793)の落成。県指定の重要文化財である。

 桐生天満宮の境内に橘守部筆の筆塚があると聞いたので、わざわざ足を伸ばしてみた。

 

 

筆塚

 

 公式ホームページの境内案内にも筆塚のことは記載がなかったので、本当に存在しているのか不安であったが、意外とあっさりと見つかった。ただし、この筆塚は全文が壮麗な草書で書かれており、素人は一文字も判別できない。

 橘守部は、文化六年(1809)、武蔵幸手に移住し、その折、桐生、足利の機業家らから支えられながら、独学で古典研究に励んだ。守部は文政十二年(1829)に江戸に戻り、その後、多数の書を著し晩成の人といわれるが、その基礎は幸手時代に培われたのであろう。

 

 

矢野本店店舗および店蔵

 

 桐生市内の伝統的建造物群保存地区の建物は、大正年間に建てられたものが多い。ひと際広い敷地を誇るのが矢野本店である。店舗は大正五年(1916)に建てられたもので、当方は決して大正生まれではないものの何か懐かしさを覚える建物である。和風の店舗に隣り合って、有鄰館と呼ばれる洋風のレンガ造りの倉庫が並んでいるのが面白い(現在はギャラリーや舞台、コンサート会場として利用されているらしい)。矢野本店は、享保二年(1717)、創始者である初代矢野久左衛門が近江から来住し、寛延二年(1749)、二代久左衛門が桐生新町二丁目に店舗を構えたことに始まる。清酒・味噌・醤油の醸造業のほか質商として家業を広げ、明治期以降は荒物・薬種・染料・呉服・太物・銘茶部門を扱うようになった。昭和二年(1927)、十代目の久左衛門が桐生最初の百貨店である矢野呉服店を開業するなど、桐生の商業発展に大きく貢献し今日に至っている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

玉村 Ⅱ

2019年09月14日 | 群馬県

(藤枝家墓地)

腰椎ヘルニアを再発してもう三か月近くが経過したが、さっぱり改善の兆しもみられず、痛みと戦う日々が続いている。

この日も休みをとって朝から通院であった。診察が始まる時間には待合室は人であふれていて、いったい何時になったら自分の番が回ってくるのかとため息をついた瞬間、意外と早く自分の名前が呼ばれた。待合室にひしめいていた多数の老人は、診察よりもリハビリだとか注射や点滴が目的のようで、診察を待っている人は存外少ないのかもしれない。

幸いにして早々に病院から解放されたので、病院の近くでレンタカーを借りて久々に遠征することにした。腰は痛いが、運転席に座っているだけであれば痛みを忘れることができる。目的地は、高野長英が潜伏していたことで知られる群馬県中之条町である。

八王子JCTで中央道から圏央道に乗り換えようとしたところで、車の列が微動だにしない大渋滞に遭遇してしまった。いつもはだいたい日の昇る前にこの辺りは通過していて渋滞に逢ったことはなかったので、これは予想外であった。休日ならいざ知らず、平日の昼間でも普段からこんなに交通量が多いのだろうか。予定外の時間のロスとなりスタートから躓いてしまった。あっさりと中之条町遠征は諦めて、同じ群馬県ながら比較的近場の玉村町、桐生市にカーナビの目的地を設定し直した。

 

 

藤枝家墓地

 

 竹さんより、「お探しの鈴藤勇次郎という人の墓は、実家である刀匠藤枝家に移されているらしい」という情報をいただいた。かつて前橋の隆興寺で鈴藤勇次郎の墓を探して、出会うことができなかった時点でギブアップしていたのだが、俄然再挑戦の意欲が沸いてきた。

 といっても、藤枝家の墓がどこにあるかを探し当てる必要があった。玉村町歴史資料館に問い合わせたところ、実に懇切丁寧に地図付きで場所を教えていただいた。

近くに大きな墓地があるが、藤枝家の墓はそこから少し離れた畑の中に単独で存在している。

 

 

賢光院英義居士(藤枝太郎英義の墓)

 

 藤枝英義(てるよし)は、文政六年(1823)、上野国川井村(現・玉村町)の生まれ。父は刀工藤枝英一。松平大和守家に仕え、主家が川越に移ると君命を受けて転住した。鈴藤勇次郎の実兄に当たる。明治九年(1876)、五十四歳で死去。

 

 

藤枝玉鱗子之墓(金華院玉鱗居士)

藤枝英一の墓

 

 藤枝太郎英義、鈴藤勇次郎兄弟の父、藤枝英一(てるかず)の墓である。玉鱗子と号した。嘉永四年(1851)没。

 

 

為藤枝家先祖菩提

 

 ということで、藤枝家の墓域にある墓石を一つひとつ確認したが、残念ながら鈴藤勇次郎の墓を発見することはできなかった。ただし、墓誌に藤枝英一や藤枝英義らの名前とともに、鈴藤勇次郎の名前も刻まれていたので、恐らく藤枝家の墓に合葬されているのだろう。

 墓誌には、「幕末海軍士官小十人格咸臨丸乘組 賢栄院誠昌勇道居士 慶應四戊辰年八月二十四日 英一二男 鈴藤勇次郎(諱)致孝」と記録されている。

 

(慈恩寺)

 廃藩置県後、川越藩を離れた藤枝英義は慈恩寺に移り住み、農具を作ったり、村人の相談に乗ったりして過ごした。

 

 

慈恩寺

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吹上

2019年09月14日 | 埼玉県

(吹上宿)

 吹上は、鴻巣と熊谷の間に位置する「あいの宿」として発展した街である。幕府公認の宿場ではなく、宿泊は禁じられていたが「立場」と呼ばれる休憩所が設けられていた。

文久元年(1861)十一月十二日の午前、和宮一行は吹上で小休をとっている。残念ながら、和宮が休憩をとったとされる立場の位置はよく分からない。

 

 

 中山道 至鴻巣宿

 

 吹上駅から中山道に沿って歩いてみたが、宿場の両端に石碑が建てられている以外、往年の宿場町を偲ぶものは見当たらない。

ただ一つ吹上神社は、恐らく江戸の頃よりこの場所にあったのだろう。

 

 

 吹上神社

 

 

 中山道 間(あい)の宿

 

 吹上神社をさらに熊谷宿方面に進むと、JR高崎線をわたる跨線橋のたもとに石碑がある。ここから徒歩で二十分ほど東に行った踏切の手前にもう一つ石碑がある。

 

 

中山道 間の宿吹上

 

 吹上宿は、日光東照宮を警護する八王子千人同心が通る日光火の番道(八王子道・千人同心道とも)と中山道が交差する要衝にあった。また、鴻巣宿と熊谷宿の距離が長かったため、その中間で休憩する場所として重きを成した。

 ここ数か月、腰椎ヘルニアに苦しんできたが、このところ数日昼間は幾分痛みが軽くなった。調子にのって吹上まで遠征した。まだ本調子とはいえないが、少し光明が見えてきたような気がする。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仙台 Ⅹ

2019年09月07日 | 宮城県

(光明寺)

 仙台出張の空き時間に、レンタサイクルを調達して、市内の寺院を回った。仙台市内にはDATE BIKEという貸自転車がある。前もって会員登録をした上で予約しておくと、パスコードが付与されて、その番号で解錠できるという仕組みである。NTT docomoと提携しており、東京都内にも同じようなシステムが展開されている。こういう便利なシステムは、もっと全国各地に拡がって行くと有り難い。

 最初の目的地は、北仙台駅に近い光明寺である。

 

光明寺     

 

本郷文大夫源時保墓

 

 本郷文大夫は銃士。山家正蔵隊。慶応四年(1868)六月二十九日、磐城小名浜にて戦死。五十一歳。光明寺(「幕末維新全殉難者名鑑」では紹明寺となっているが、光明寺の誤りであろう)に遺髪が収められた。

 

(秀林寺)

 

秀林寺 

 

 

大槻家歴代之墓(大槻安広の墓)

 

 大槻定之進安広は、天保八年(1837)、仙台藩士大槻安貞の分家に生まれた。戊辰戦争には軍目付として白河口に出陣。官軍の参謀世良修蔵を藩士田辺覧吉、小栗大三郎とともに処刑した。田辺は自刃、小栗は失踪したのに対し、安広は検司という立場から捕縛され糾問を受けたが、申し立てが明確であったため赦され、仙台へ帰った。明治二年(1869)、芋沢村(現・仙台市青葉区芋沢)に転居。以後、殖産に力を注ぎ、開墾や植林事業に従事した。明治十七年(1884)、宮城県郷六村外六ヶ村の戸長に推され、植林事業の奨励に努め、後に県会議員に選出された。県より桑苗の無償交付を受けて各村毎戸への配植や養蚕講師の招聘を行ったほか、長男広人を東京西ヶ原の蚕業講習所に入所させ、卒業後は養蚕飼育事業を担当させた。明治三十一年(1898)死去。六十二歳。

 

 

荒井家之墓(荒井宣行の墓)

 

 荒井宣行は、天保三年(1832)の生まれ。星恂太郎率いる額兵隊に入隊して頭取・裁判役などを務めて戊辰戦争を戦い、仙台藩恭順後は榎本武揚らと旧幕府軍と行動をともにして蝦夷地に渡った。蝦夷地上陸時には、土方歳三の配下に入って松前攻略に活躍。蝦夷地平定後は、大野村を守備した。新政府軍と旧幕軍が明治二年(1869)四月より決戦を開始すると、木古内口に出兵して抗戦を続けた。箱館総攻撃では千代ヶ岡陣屋に出陣したが敗退。五月十八日、降伏を迎えた。箱館称名寺、弁天台場で謹慎した後、明治三年(1870)四月、赦免。仙台藩は脱藩士の帰藩を認めない姿勢をとっていたが、七月帰国を赦された。その後は郵便局長などを務めた。俳諧を好んだという。明治三十九年(1906)、死去。七十五歳。墓石側面には千歳園一叟という雅号と、行年七十七と刻まれている。

 

(永昌寺)

 

永昌寺 

 

有路家之墓(有路徳治墓)

 

 有路徳治は銃士。慶応四年(1868)五月一日、白河にて戦死。墓石には、「實覺悟心信士」という法名と諱「正常」が刻まれている。二十二歳。

 

 

鈴木家之墓(鈴木市郎左衛門墓)

 

 鈴木市郎左衛門(または一郎左衛門)は、茂庭周防家老。志田郡松山住。隊長。慶応四年(1868)八月二十日、磐城旗巻にて戦死。墓石側面には、行年五十一歳と記録されている。

 

 

従七位松倉恂墓

 

 松倉恂(まこと)は文政十年(1827)の生まれ。小姓として藩主伊達慶邦に仕え、進んで公議使出入司となり、戊辰戦争時の困難な藩財政を主務した。兵器・軍艦奉行として横浜外国商社と交渉、また勝海舟らに出入りし、戊辰戦争の運命について勝の語るところを聞いて悟るところがあったという。戦後、家跡没収閉門に処せられ、大童信太夫らと潜伏の生活を送ったことがあったが、のち愛媛、岩手各県に出仕。勧業に能吏の才をふるった。仙台区長、伊達市家令を経て隠棲、詩酒に余生を送り、明治三十七年(1904)、年七十三で没。

 

(荘厳寺)

 

荘厳寺

 

 

倉兼小兵衛貞秀之墓

 

 倉兼小兵衛は銃士。七番大隊。慶応四年(1868)七月十一日、羽前金山にて戦死。

 

 

忠兵義了信士(進藤小四郎墓)

 

 進藤小四郎は茂庭周防家来。慶応四年(1868)七月、磐城口にて戦死。

 

(江巌寺)

 

江巌寺

 

 

顯□義遼居士(若生善四郎の墓)

 

 若生善四郎は慶應四年(1868)七月十八日岩代本宮にて戦死。五十三歳。「幕末維新全殉難者名鑑」には記載がない。

 

(林宅寺)

 

林宅寺 

 

 

飯澤左久馬源頼進之墓

 

 飯澤左久馬は銃士。慶応四年(1868)五月一日、白河にて戦死。遺髪が林宅寺に葬られた。

 

(青葉城つづき)

  青葉城の大手門跡近くに若生文十郎の顕彰碑が建てられている。

 若生文十郎は、天保十三年(1842)の生まれ。雅号は楽斎、天逸、仏山。慶応四年(1868)三月、会津征討に当たって近習となり、会津に副使となって派遣され、謝罪賞典の方針を生みだした。奥羽列藩同盟の成立にも与り、五月軍務局詰、七月郡奉行に任じられ、急遽農民隊の徴募・結成に当たった。八月、番頭格軍事参謀となり、白石本陣にあって戊辰戦争に奮戦した。明治二年(1869)郡奉行兼応接掛として活躍中、政府の鎮撫使に捕えられ、家跡没収の上、切腹を命じられた。年二十八。弟精一郎は、自由党結成に参加。宮城県下の民権運動の草分けとなった。

 

                       

天逸若生君碑銘

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする