三連休の一日、あまりにヒマだったので、神保町の古本屋まで往復してきた。往復三時間、現地で一時間近く歩いて、この日の収穫はこの新書一冊であった。値段は三百円。ちょうど二十年前に発刊になったこの本は、今となっては書店で手に入らないものになってしまったが、非常に面白かった。これが三百円とは信じられない。
外国との和親条約締結から八年が経った慶應二年(1866)四月、幕府は留学生や商人たちの海外渡航を公認することになった。寛永十二年(1635)の海外渡航禁止以来、約二百三十年後の政策転換であった。「海外渡航差許布告」が出て約半年後、芸人たち(軽業師・曲芸師)がこの制度を利用して海外にはばたいた。本書で紹介しているのは、「帝国日本芸人一座」の一行十八人である。
彼らは太平洋を横断してサンフランシスコに渡り、パナマ海峡を経由して東海岸に到達し、ニューヨーク、フィラデルフィア、ボルチモア、ワシントンそしてボストンなど各地で公演を続け、大西洋を渡ってフランスに至り、パリ、リヨン、イギリスではバーミンガム、マンチェスター、ウェイクフィールド、リーズ、ブラックバーン、さらにオランダではロッテルダム、アムステルダム、スペインのマドリード、バルセロナ、バレンシア、セビリア、ポルトガルのリスボン、ポルトと、各地で好評を博した。
この当時、西欧では既にサーカスもあったし、オペラや管弦楽の演奏会もあった。娯楽には事欠かなかったと思うが、それでも異国からやってきた異装の芸人集団は、確実に彼らの心をつかんだ。これがヒットすると見込んだ興行師リズリー先生の眼に狂いはなかった。
「帝国日本芸人一座」の出し物は、こままわし、うごく詩編、蝶の舞など。一座の中には十二歳以下の子供四人も含まれていた。公演の最初には足芸の浜碇定吉が自分の肩の上に一丈五尺の竹竿を立て、それを梅吉(十二歳)が昇っていってそこで「オール・ライト!」と声を発する。この芸で梅吉は「リトル・オール・ライト」というあだ名をつけられ一躍大人気となった。
現代日本では街中にエンターテイメントが満ち溢れ、かつてお祭りなどで見られた見世物小屋はすっかり過去のものとなってしまった。軽業師とか曲芸師と呼ばれる伝統的な芸人が姿を消してしまったとしたら少々残念なことである。昨今、体操競技や新体操などで日本選手が世界的に活躍する姿を見るにつけ、軽業師の伝統は脈々とアスリートに受け継がれているのかもしれない。
三年余りに及ぶ彼らの足取りが比較的正確に今日に伝えられることになったのは、一座の後見人として同行した高野広八が、こまめに日記を残してくれたおかげである。「広八日記」によれば、一行はワシントンで大統領(リンカーンの次代アンドリュー・ジョンソン)と面会を果たしている。喧嘩に巻き込まれたこともあれば、ホテルの部屋が盗難に遭ったこともある。一座の一人「こままわしの菊治郎」がロンドンで病死するといった悲劇にも遭遇した。火事で持ち物や現金まで燃えてしまったこともある。帰国寸前のニューヨークでは通訳のバンクスが興行収益を持ち逃げするといった事件も起こった。案外そういったトラブルにも平然としていた広八であったが、ロンドンの娼家で現金を持ち逃げされたときは奮然として警察に被害を届け出て犯人逮捕に結びつけた。それまで各地でせっせと娼婦を買っていた広八であるが、この事件以降ぴたりとやめてしまった。よほどこの一件に懲りたということであろう。
彼らが帰国したのは、明治二年(1869)三月のことである。既に江戸幕府が崩壊し、明治の世になっていた。
幕末人が西欧文明を実見した記録は数多残されているが、庶民の眼を通したものは貴重である。広八は外国語もできないし、西欧文明に接してもその原理などは理解できなかったであろうが、それでもエレベーターや巨大な建造物には素直に驚嘆している。
「あとがき」によれば、筆者宮永孝氏は、二か月に及んで彼らとほぼ同じ旅程をたどり、現地調査を重ねた。これにより「広八日記」だけでは不明であった一部の地名が明らかになっている。
これほど面白い書籍が現在刊行されていないというのはどういうことか。もっと多くの人に読んでもらいたいと思う一冊である。