史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

佐川 Ⅲ

2013-05-18 14:19:00 | 高知県
(名教館址)


名教館址

 佐川の郷校、名教館址の石碑が、街の中心部中西保育園の傍に建てられている。
 ここから東に五分ほど歩くと、墓地がある。歴代名教館の教授は山本家が継いだが、山本家五代の墓がある。


山本家墓所
山本澹斎(左から二番目)
山本竹園(右から二番目)

 名教館は、安永元年(1772)国家老深尾重澄が創設したもので、初代塾長に山本日下(にっか 通称仙蔵)が任じられ、以後塾長は世襲で山本家が務めた。

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日高 Ⅱ

2013-05-18 14:14:33 | 高知県
(北添佶麿誕生の地)


贈従四位北添佶麿先生誕生之地

 八年前にチャレンジして果たせなかった、北添佶麿誕生地に再び挑戦した。線路に面して地元の中学生の作成した「勤王志士 北添佶麿生誕の地」という巨大な看板が目印で、ここから二百メートルほど山手に進むと、石碑が建てられている。


勤王志士北添佶麿生誕の地

 北添佶麿は、天保六年(1825)の生まれ。代々岩目地村の庄屋で、幼少時よ学問を好み、間崎哲馬に学んだ。文久三年(1863)能勢達太郎と脱藩し、同年五月には海路北海道視察をとげ、北方の海防策を考えるとともに大陸に雄飛しようと遠大な志望をいだいたという。元治元年(1864)、池田屋で会合中を新選組に襲われて闘死した。三十歳。

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筆山 Ⅱ

2013-05-12 22:37:44 | 高知県
(筆山)


正四位勲四等丸岡莞爾之墓

 筆山の墓地を久し振りに歩いた。無限に広がる墓石から、何の当てもなく丸岡莞爾の墓を探し当てるのはほとんど気の遠くなる作業であったが、どういうわけだか案外あっさりと出会うことができた。改めて高知の墓地との相性(そんなものがあるのか分からないが)を感じることができた。なお、丸岡莞爾の墓は東京青山霊園にもある。

 丸岡莞爾は久万の出身。維新前の通称は吉村三太といった。幼少より国学者鹿持雅澄に学んで勤王の志に目覚め、脱藩して長崎へ出た。そこで坂本龍馬らと交流。維新後は官界に入り、沖縄県、高知県知事などを歴任した。晩年は詩や絵画を楽しみ、歌人としても名を成した。


武市佐市郎墓

 武市佐市郎は郷土史家で、武市半平太の同族。土佐史談会全盛期の指導に当たり、高知県史、山内家史の史料収集、編纂に尽力した。

(真如寺)


真如寺

 真如寺は、慶長七年(1602)在川和尚が開基した山内家歴代の菩提寺である。道路をはさんだ南側の日輪山(筆山)に初代山内一豊以下、歴代藩主の墓所がある。

(山内家墓所)


山内家墓所

 山内家歴代藩主の墓所は、残念ながら非公開である。ここには初代一豊以下、十五代豊信(容堂)を除く、全ての藩主が埋葬されている。なお、容堂の墓は、東京鮫洲にある。


従三位子爵山内豊尹墓

 筆山中腹に山内家分家の墓所がある。鬱蒼たる森の中に古い墓石が眠っている。中には苔生して碑文が読めないもの、転倒したまま放置されているものも散見される。何とか保存の手が入ることを期待したい。
山内豊尹は山内容堂の長男である。

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鴨部 Ⅱ

2013-05-12 22:28:48 | 高知県
(能茶山墓地)


甲藤清澹墓・甲藤春海墓

 左側の甲藤(かっとう)清澹と刻まれているのが、甲藤馬太郎の墓である。甲藤馬太郎は、江戸の桃井塾で剣術を修めた。安政五年(1858)十一月には坂本龍馬とともに立川番所まで水戸藩士に会いに行った。


土岐真金墓

 土岐真金(まかね)は、島本虎豹、島村要とも称した。慶応二年(1866)以来、坂本龍馬との交友を深め、京都で国事に奔走した。龍馬が遭難したときもいち早く現場に駆けつけている。


二宮梶平直道墓

 「幕末維新全殉難者名鑑」によれば徒士(足軽とも)。輜重隊。土佐郡鴨部村の人。慶應四年(1868)八月二十三日、会津滝沢で傷、死。四十九歳(四十三歳とも)。


島本為太郎輝茂墓

 雇足軽。鋭衝一番隊。土佐郡鴨部村の人。慶應四年(1868)八月二十三日、若松で傷。二十四日、死。十八歳。

 高知県下の墓地を歩いていて、偶然戊辰戦争の戦死者の墓を見つけた。時間をかけて歩けば、もっと探し出すことができたかもしれない。高知県には古い墓石が大切に保存されている。これが高知県の史跡訪問の楽しみでもある。

(甲藤馬太郎邸)


甲籐馬太郎邸

 鴨部三丁目に甲籐馬太郎旧邸がある。甲籐馬太郎は、藩の致道館剣術教授を務め、維新後は初代鴨部村長となった。司馬遼太郎先生の「竜馬がゆく」(「風雲前夜」)では、水戸藩からやってきた住谷寅之介らを接待するために指名された「おどけ者」として紹介されている。

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柴巻

2013-05-12 22:19:59 | 高知県
(田中良助旧邸資料館)
 柴巻の田中良助邸は、資料館として無料公開されている。私が訪ねると、近くで農作業をしていた方が声をかけてくださり、室内に通していただいた。


田中良助旧邸資料館


田中邸室内

 田中家は柴巻の豪農で、坂本家が所有していた坂本山の山番をしていた。坂本龍馬がよく遊びに来て泊まったという家屋が保存されている。龍馬が子供たちと水遊びに興じたといわれる池や、龍馬が使ったという碁盤なども残されている。


田中良助墓

 田中良助は、龍馬のよき理解者であったといわれる。文久元年(1861)には、武市半平太の密命を受けて長州に旅行するに先立ち、龍馬は田中良助から二両という大金を借金している。


八畳岩


八畳岩からの眺め

 田中良助邸の裏山に八畳岩と呼ばれる奇岩がある。龍馬はよくここから遠くを眺めていたという。

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東秦泉寺

2013-05-12 22:09:52 | 高知県
(天場山墓地)


(竹村)東野先生墓

 竹村東野(とうや)は、野市出身の儒学者で藩校教授館の教授。のちに家塾成美塾を開いて人材を養成した。なかに中岡慎太郎、土方久元、岩村道俊、大石圓(まどか)、新宮馬之助、安岡嘉助、安岡覚之助らがいる。


小南五郎之墓

 小南五郎(最初は五郎右衛門と称した)は、文化九年(1812)に土佐藩士小南民右衛門の子に生まれた。安政四年(1857)には藩主容堂の側用人となったが、容堂が安政の大獄で処罰を受けると、帰国して幽閉された。文久元年(1861)許されて、吉田東洋暗殺後は大目付に抜擢されて活躍した。しかし、文久三年(1863)藩論が一変して勤王党が弾圧されると、自宅謹慎を命じられ、改易に処された。慶応三年(1867)、大目付に復職し、戊辰戦争では東征軍を監した。維新後は刑法官判事、ついで高知藩権大参事、宮内省御用掛となったが、明治十年(1877)辞職して高知に戻った。明治十五年(1882)七十一歳で死去。土佐藩の上士では珍しく勤王党に理解を示した。墓は天場山墓地の深い藪の中にあり、碑銘は三条実美の書、碑文は細川潤次郎による。

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北秦泉寺

2013-05-12 22:06:32 | 高知県
(土方久元生家跡)


土方久元生家跡

 維新後農商務大臣や宮内大臣を歴任した土方久元(楠左衛門)の生家跡である。秦泉寺のひどく奥まったところにある。これが後の伯爵の生家跡かと思うと感慨深いものがある。久元の父は、土佐藩士土方理左衛門久用といったが、かなり貧しい生活を強いられていたのではないか。

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西久万 Ⅱ

2013-05-12 22:03:59 | 高知県
(福岡家久万墓地)


福岡家久万墓地

 坂本龍馬の坂本家は、家老福岡家の預かり郷士であった。幕末の当主は、福岡宮内孝茂といい、容堂を助けて藩政を統括した。元治、慶応年間には藩兵を率いて上京し、御所を警護した。福岡宮内孝茂の墓はここでは見つけられなかったが、その子友次郎孝英の髪塚を発見した。


福岡友次郎孝英髪塚

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薊野 Ⅱ

2013-05-12 21:59:40 | 高知県
(真宗寺墓地)


岡田(以蔵)宜振

 今回の高知旅行の最後の訪問地が、薊野の真宗寺墓地である。岡田以蔵の墓は、以前訪ねたときはじめじめした藪の中に埋もれていたと記憶しているが、いつの間にか日の当たる丘の上に移動して、今度はスター扱いである。以前の忘れられたような扱いもどうかと思ったが、これはこれで違和感がある。


寧浦岡本先生墓

 岡本寧浦は、安芸郡安田浦乗光寺の僧となり、大年と称した。妻は岩崎弥太郎の母の姉である。京、江戸に出て儒学を学び、安積艮斎らと師友の交わりを結び、名声を博した。弘化三年(1846)に開いた家塾は、門人千人を超えるといわれた。墓石には安積艮斎の長文の撰文が刻まれている。


田内秀弘墓

 田内秀弘は刀工。左行秀に鍛刀術を学んだ。幕末、宮川助五郎が土佐国秀弘銘の刀で数名を斬ったことから、その名を知られることになった。


原荘九郎幸綱

 「幕末維新全殉難者名鑑」によれば、原庄九郎幸雄となっているが、「幸綱とも」と補足されている。以下、「幕末維新全殉難者名鑑」の記述。歩行。折衝七番隊。城下南新町住。明治元年(1868)九月十七日会津本郷にて戦死。十九歳。


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南国 Ⅲ

2013-05-06 16:48:36 | 高知県
(宮地彦三郎の墓)


宮地彦三郎真雄墓

 宮地彦三郎は、文久三年(1863)に脱藩。坂本龍馬に出会い海援隊に参加した。このとき八木彦三郎と名乗った。龍馬暗殺時にいち早く現場に駆けつけた一人。

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