史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

豊橋 Ⅱ

2018-08-26 17:13:49 | 愛知県
(龍拈寺)


龍拈寺

 豊橋市街の龍拈寺(りゅうねんじ)は旧東海道沿いにあって、文久三年(1863)、徳川家茂が上洛途中に宿泊したという記録が残る。
 「王政復古」(久住真也著 講談社現代新書)によれば、文久三年(1863)将軍徳川家茂の上洛に際し、随従する行列は約三~四千人と過去に実施された将軍上洛と比べて格段に規模が小さく、大名迎列に近いものであった。宿泊所は、駿府城を除き、本陣もしくは寺院が使用され、新規に修繕することは制限する等、質素を標榜した。同年二月二十八日、宿泊予定であった桑名の本統寺が「陰気な様子」であるとして、宿所変更の要請が家茂の側近から老中水野忠精になされた。その理由としてあげられたのが、二十五日に宿泊した三河吉田の龍拈寺は、座敷内がひどく陰気であり、家茂が不快に感じ、善処するように命じたことがあったからとされる。結局、水野は寺側の準備にかかわらず、急に宿所を変えるのは将軍の「不徳」にもなるとして、要請には応じなかった。
 龍拈寺は昭和二十年(1945)の豊橋空襲で山門を覗いて全伽藍が炎上し、「陰気な様子」といわれた本堂はコンクリート製に建て替えられている。個人的には寺というのは、どこでも基本的に陰気で、そこに宿泊して愉快なものではなかろう、という気がする。

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蒲郡

2018-08-26 17:09:46 | 愛知県
(乃木山)


乃木将軍像

 蒲郡市「山の上の洋食屋はなわ」のある小高い山は、通称乃木山と呼ばれ、その名のとおり頂上に乃木希典の立像がある。ここの乃木将軍は若干頭でっかちである。
 展望台から蒲郡市街を一望することができる。


忠魂社


蒲郡市街

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西尾 Ⅱ

2018-08-26 16:51:48 | 愛知県
(長圓寺)


長圓寺

 八年前(正確には2009年の年末から2010年の正月にかけて)、家族旅行で訪れて以来の西尾・蒲郡となる。西尾貝吹の長圓寺は、徳川家の重臣板倉家の菩提寺で、石を敷き詰められた小径を上って行くと、森の中に歴代当主の墓が並んでいる。
 この場に立ち入ったら藪蚊の猛攻撃を受けるので、それなりの準備をお勧めする。私は不用意にも半袖Tシャツだったもので、両腕をボコボコに刺されました。


板倉家墓所への参道

 長圓寺は、もと岡崎市中島町にあった永安寺が前身で、慶長八年(1603)、京都所司代を務めた板倉勝重が再建して、中島山長圓寺と改めた。寛永七年(1630)、勝重の長男重宗が父の七回忌を機に現地に移した。長圓寺には、勝重の座像や肖像などが伝わる。板倉家墓所にある朱塗りの肖影堂は、寛永七年(1620)に重宗が建てた板倉勝重の霊廟である。肖影堂の目の前に板倉勝静の墓がある。


肖影堂

 板倉勝静は、桑名藩主松平定永の八男。備中松山藩主板倉勝職の養子となり、嘉永二年(1849)襲封して周防守を称した。資性温順にして恭謙、藩祖勝重および祖父松平定信の遺風を継いで、文武ともに成績が現れた。碩儒山田方谷を重用して、藩校有終館を興し、川田剛、三島中洲らを要路に据えた。文久二年(1862)には老中に進み、外交事務を主管した。長州再征や一橋慶喜の将軍就任、慶喜のもとで幕政改革に取り組んだが、鳥羽伏見にて敗戦。慶喜とともに東帰して、朝廷から官位を褫奪され藩邸も没収された。老中を辞して家督を世子勝全に譲り、日光南照院で恭順した。宇都宮英巌寺に幽閉されたが、大鳥圭介に救われて会津に逃れ、十月仙台から榎本艦隊に投じて箱館に移った。板倉氏は父祖累代徳川と親縁があったため、最後まで抵抗する道を選んだのであろう。板倉家墓所にある勝静の墓を前にすると、勝静はここに自らの墓を建てるために父祖に恥じない道をとったように思えてしまう。
 明治二年(1869)二月、勝静、勝全父子は安中藩に禁固され、封三万石を削られた。明治五年(1982)、赦されて帰国し、これより隠居して世事を断ち、みずから松叟と号した。明治九年(1876)、東照宮祠官となったが、基本的には公職に就かず、明治二十二年(1889)、年六十七で病没した。駒込の吉祥寺にも墓がある。


板倉家墓所


樹功院殿正四位耆徳松叟大居士
(板倉勝静の墓)


中興院殿泰山源昌大居士
(板倉勝弼の墓)

 本来、板倉家は勝静の嫡男勝全が継ぐことになっていたが、勝全が父とともに箱館まで転戦していたため、新政府にはばかった勝静が、第四代藩主板倉勝政の孫勝弼を後継に指名した。最後の藩主、そして板倉家宗家第十四代を継いだ勝弼は、明治二十九年(1896)、五十一歳で世を去った。

 長圓寺の板倉家墓所には、島原の乱の殉難者や子爵にして陸軍騎兵隊に属した勝貞、十六代勝豪、十七代重俊らの墓もある。藪蚊がいなければ、いくらでも時間を過ごせる空間である。

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岡崎 Ⅲ

2018-08-26 16:48:03 | 愛知県
(源空寺)


源空寺

 岡崎市中心部に所在する源空寺に本多忠考(ただなか)の墓がある。源空寺は、慶長十六年(1611)、岡崎城主本多豊後守康重の菩提所となった。


勝雲院殿従五位天譽晴空壽僊大居士
(本多忠考の墓)

 本多忠考の墓は、歴代寺族の墓の前の一等地に建てられている。本多忠考は、岡崎藩第四代藩主。本多忠勝系本多家宗家十四代となる。文化二年(1805)、三代藩主本多忠顕の四男に生まれ、当初忠祥と名乗った。文政四年(1821)、父の隠居に伴い家督を継いだが、病弱で藩政を執れなかった。岡崎藩では、文政十一年(1828)、矢作川洪水で七十人余りの死者と甚大な損害を被り、藩財政は逼迫した。天保六年(1835)、養子忠民を迎えて隠居した。明治十二年(1879)十一月二十一日、死去。享年七十五。
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豊田

2018-08-26 16:24:19 | 愛知県
(幸福寺)


幸福寺

 例年になく早く梅雨が明けた。せっかくの好天というのに週末、家でぐずぐずしているのは勿体ない。早朝四時に自宅を出て、愛知県を目指した。この日は、豊田、岡崎、西尾、蒲郡、豊橋を回って、静岡県の浜松、河津各地の史跡を訪ねるという遠大な計画を立てた。途中、睡魔に襲われ、雨に祟られることもあったが、何とか計画とおり実行することができた。


宇都宮三郎藤原義綱墓

 豊田市郊外の幸福寺に我が国の近代科学技術の先覚者と称される宇都宮三郎の墓がある。宇都宮三郎は、天保五年(1834)、尾張藩士神谷半右衛門の三男として名古屋に生まれ、十六歳の頃、宇都宮小金次と名を変え(神谷家の旧姓)、後に三郎と改めた。江戸出張の際、脱藩し、勝海舟の招きで製錬所に出仕し、名称を化学所と改称した。「化学」という言葉を公に使用した最初といわれる。明治七年(1874)、セメントを日本で最初に製造し、その後も耐火煉瓦、炭酸曹達、ヤスリ紙、製鉄釜の改良、清酒醸造法など工業化学分野に輝かしい業績を残した。明治十七年(1884)、病により工部大技長を辞したが、その後も化学技術者として活躍し、多くの後継者を育成した。明治三十五年(1902)七月、肺結核により東京にて没。享年六十九。


神谷家墓所

 幸福寺の墓地は無縁墓石を整理したらしく、かなり縮小されている。その中にあって宇都宮三郎夫妻の墓は、堅牢な石段の上に設けられていて、墓地に入れば直ぐに分かる。宇都宮三郎は自ら考案した化学装置付きの棺に入って、ここに眠っている。三郎の本家である神谷家の墓所も夫妻の墓の隣に設けられている。

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新城

2017-10-06 23:58:23 | 愛知県
(勝楽寺)
 新城市川路夜燈の勝楽寺門前に巨大な岩瀬忠震の顕彰碑がある。岩瀬忠震没後百五十年を記念して平成二十二年(2010)、この石碑が建てられた。
 岩瀬忠震の父は、設楽貞丈という旗本で、東三河東郷(現・新城市)周辺を領地としていた。その縁でこの場所に顕彰碑が建てられたというわけである。


勝楽寺


「純忠」岩瀬忠震顕彰碑

(洞雲寺)
 洞雲寺の境外北東にある墓地に森の石松の墓がある。森の石松の墓を探して墓地内を歩いていると、ちょうど墓参りに来ている男性から、「これが森の石松の墓だ」と教えていただいた。男性によれば、墓前に日本酒などが供えられている墓ではなく、その左手にある小石を積み上げたような小さな墓石が森の石松のものらしい。


洞雲寺


森の石松の墓


森の石松の墓

 森の石松が生まれたのは、天保二年(1831)頃といわれるが定かではない。石松が生まれた山本家は、元信州諏訪の藩士だったが、後に主家を浪人し、堀切(現・新城市富岡)で百姓となり、代々山本荘次郎を名乗った。庄屋を務める家柄で、父助治は作手大和田の郷士稲吉庄右衛門応貞の妹かなを妻に迎え、二人の間に次男として生まれたのが石松である。
 助治は屋敷内にあった諏訪神社の分神を、請われて伊勢の人に譲って以来、不運に見舞われることになった。石松三歳のとき、火災で家が焼け、この時母かなと飼っていた馬を失った。助治は土地を人に預け、石松を連れて遠州森町在の山へ炭焼きの出稼ぎに出た。石松七歳のとき、森の天宮神社祭礼で迷子となり泣いているところを森の五郎親分に拾われて、その弟の新寅に引き取られて育てられた。石松十四歳のとき、五郎親分のところに立ち寄った清水の次郎長の目にとまり、見込まれて引き取られ、以来清水一家の人となった。次郎長の片腕として、一家の誰よりも強く、義理と人情に厚い人物として今に伝わる。万延元年(1860)没。

(森の石松生家跡)


森の石松生家跡

 洞雲寺から一キロメートルほど西へ行った富岡堀切に森の石松の生家跡がある。遺構らしきものは何一つ残っておらず、八名郷土史会の建てた案内板があるのみである。

今夏の史跡の旅はここまで。新城を出たとき午後三時前であったが、渋滞が予想されたので、早めに切り上げた。午後七時半にはレンタカーを返却しなければならない。ちょっと早過ぎるかと思ったが、渋滞は予想を上回った。第二東名高速を東上したが、沼津辺りから混み始め、御殿場で動かなくなった。その後も厚木まで断続的に渋滞が続き、八王子に帰ったのは予定時間を一時間も超過してしまった。お盆休みの渋滞は「夏の風物詩」とも呼ばれるが、それほど生易しいものでもない。渋滞は翌日の方が深刻だといわれていたので、一日早く帰ることにしたのだが、結局渋滞に巻き込まれてしまった。疲労が倍加した。

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名古屋 Ⅵ

2017-05-27 23:40:48 | 愛知県
(平和霊園 つづき)


大原幽学先生墓

 今年のゴールデンウィークは、京都から松江経由で隠岐の島に渡り、鳥取、若狭を経て福井に至り、さらに金沢と山代温泉で一泊ずつするという忙しい予定を組んだ。初日は午前四時に起床して家を抜け出し、始発に飛び乗った。京都に移動する途中、名古屋で下車して平和霊園に立ち寄る。平和霊園に来たのは何回目になるだろうか。これだけ頻繁に訪れても、まだ新しい発見がある。

 まず万松寺墓地の大原幽学の墓を訪ねる。
 大原幽学は、寛政九年(1797)、名古屋の生まれ。尾張藩家老大道寺玄蕃の二男ともいわれるが出自の詳細不明。ただ万松寺は大道寺家の菩提寺である。文化十一年(1814)、十八歳のとき父の勘当を受けて家を去り、京都に出て田島主膳に身を寄せ、そこで儒学、和歌、易学等を学び、次いで高野山に登って仏教を修め、文政三年(1820)、下山して畿内、中国、四国等を遍歴した。天保元年(1830)、中山道を経て信濃に至り、上田および小諸において町人らに性学(道学)を説き、翌二年、江戸へ出、次いで房総に学んだ。こののち下総各地において、農民の教化指導に当たったが、天保六年(1835)、香取郡長部村に居を定めて農村改革に尽力した。天保九年(1838)には先祖株組合(信用組合の先駆けを成すものといわれる)を結成し、土地の均等保有による自作農村落の建設を図った。嘉永五年(1852)、領主清水家の嫌疑を受け、江戸に召し出され取調され、こののち弾圧が続き、安政四年(1857)には先祖株組合の解散を命じられた上、百日の押込に処された。小石川茗荷谷の旗本高松彦七郎の家に閉居し、翌年、長部村に帰されたが、三月一日未明、同村の墓地において自刃した。六十二歳。


要斎細野先生墓

 細野要斎は、文化八年(1811)の生まれ。幼い頃より学問を好み、儒学、書道を修めるとともに、垂加神道の伝を受けた。天保十三年(1842)、家を継いで、馬廻組・大番組として仕えた。嘉永六年(1853)、学才を認められ、藩校明倫堂の典籍の職を任じられた。安政四年(1857)、病気を理由に典籍の職を辞した。慶応四年(1868)、明倫堂特命教授として復職。同年十一月、藩主徳川義宜の侍講。ついで、明倫堂の督学に進んだ。明治二年(1869)、藩は学制の改革に着手し、その結果、明倫堂の姿も改められ、新しい明倫堂に漢学教授として迎えられた。明治三年(1870)、病気により明倫堂を辞職し、その後は自宅にて教授した。そのかたわら、尾張藩先人達の業績などを記した「尾張名家誌」に力を注いだ。明治十一年(1878)没。六十八歳。傍らには息細野栗斎の墓もある。

 実は「名古屋名家墓地(全)」によれば、上田仲敏帯刀(蘭学者、砲術家 宇都宮三郎の師)の墓が東輪寺墓地にあるというので、平和霊園の北の端っこにある東輪寺墓地まで足を延ばした。しかし、東輪寺墓地には比較的新しい墓石ばかりで上田帯刀の墓に出会うことはできなかった。

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名古屋 熱田

2016-12-09 22:16:43 | 愛知県
(熱田神宮)


熱田神宮

 有名な熱田神宮は、今からおよそ千九百年前の景行天皇の時代(西暦113年)に、草薙神剣を熱田に祀ったのがその始まりといわれる、とてつもなく古い歴史を持つ神社である。戦国時代には織田信長が桶狭間の合戦の前にここで戦勝を祈願してから出陣した。その御礼として奉納した瓦葺きの塀(通称・信長塀)は、今でも見ることができる。私が訪れたこの日は、七五三で着飾った子供にたくさん出会った。
 明治十三(1880)以降、勤王家の角田忠行が長くこの神社の宮司を務めた。

(宮の渡し公園)


熱田湊常夜灯

 熱田の宿・神戸(こうど)の浜から、桑名宿まで東海道では唯一の海上七里の海路で、東西の人々の往来が盛んであった。文政九年(1826)二月、名古屋の本草学者水谷豊文、その門下生伊藤圭介、大河内存真らは、ドイツ人医師シーボルトがオランダ使節に随行して江戸へ参府する際、それから同年四月、長崎への帰路、当地で会見し、教えを受けた。のちに彼らは名古屋の医学、植物学の研究に多大な貢献をした。


七里の渡し

 現在、七里の渡しは、「宮の渡し公園」として整備され、船着場も往時の雰囲気さながらに再現されている。昭和三十年(1955)に復元された常夜灯は、寛永二年(1625)、藩の家老であった成瀬正房(正虎)が、父正成の遺命を受けて、須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に建立したのが最初で、その後風害で破損したために、承応三年(1654)、現在地に移り、神戸町の宝勝院に管理が委ねられた。寛政三年(1791)、附近の民家からの失火により焼失、同年、成瀬正典によって再建されたが、その後荒廃した。


七里渡船着(尾張名所図会)

 この絵は七里の渡しを描いたもので、道沿いに並ぶ旅籠などの家々や、岸に繋がれた船、道を行き交う人の多さから、当時の賑わいが伝わる。

(熱田荘)


熱田荘

 宮の渡し公園の向かい側に熱田荘という古い建物が残されている。この建物は、明治二十九年(1896)に建てられた「魚半」という料亭で、木造、二階建て、切妻造、桟瓦葺平入り、正面庇付の建物で、のちに三菱重工業の社員寮として使われ、現在は高齢者福祉施設として利用されている。

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名古屋 Ⅴ

2016-12-09 22:09:14 | 愛知県
(愛知県図書館)


愛知県図書館

 この日も京都からの帰り、名古屋で途中下車して、地下鉄の一日乗車券を購入して、市内を探索した。最初の訪問地が、地下鉄丸の内駅近くの愛知図書館である。
 愛知県図書館は、名古屋城三の丸跡に建てられた施設で、現在地に移ったのは平成三年(1991)のことである。
 この場所は、大原幽学の生誕地であり、時代を少し遡ると、尾張藩の用人、寺社奉行などを歴任し、俳人としても名を残した横井也有(孫右衛門時般)もこの地に屋敷を有していた。ただし、横井孫右衛門家は也有隠居後に屋敷を他所に移している。なお、横井孫右衛門家からは幕末、青松葉事件で斬首された横井時足が出ている。

大原幽学は、寛政九年(1797)尾張藩重臣大道寺直方の二男として、名古屋城内三の丸大道寺邸内で生まれた。神・儒・仏の三道を究め、一つの学問を開き、性学または性理と名付けた。天保九年(1838)、下総国香取郡長部村八石に先祖株組合を組織し、農村生活の改善に力を尽くした。


大原幽学出生地

(長久寺)
 長久寺は、清須城主松平忠吉が旧領の武蔵国忍城下で祈願所とした寺を清須に移したもので、慶長十五年(1610)、清須越の際、現在地に移され、豪壮な表門(薬医門形式)もその時に移建されたものである。
 この寺の北裏には、儒学者細野要斎が明治十一年(1878)六十八歳で没するまで住んでいたという。


長久寺


細野要斎宅跡

(名古屋市立中央高校)


名古屋市立中央高校


宇都宮三郎出生地

 市立中央高校の敷地は、宇都宮三郎の出生地である。宇都宮三郎は、天保五年(1834)、尾張藩主神谷義重の三男としてこの地で生まれた。藩校明倫堂に学び、後に上田帯刀の門に入り、西洋砲術と火薬の研究に没頭し、嘉永年間(1848~1854)、着発弾をつくることに成功した。安政四年(1857)、西洋砲術研究のため脱藩した後、幕府の洋書調所製煉方を経て、幕府陸軍所で軍制改革に参画した。維新後は、開成学校教官などを経て、明治十五年(1882)、工部大技長となった、セメントや耐火レンガの製造、製造法の改良など、我が国の化学工業界の先駆者として偉大な足跡を残した。

(橘公園)


橘公園


おためし場腑分けの跡

 地下鉄東別院駅から徒歩五分、橘公園の場所は、旧称新屋敷といい、藩士の新刀試しに供した場所であった。嘉永七年(1854)には、名古屋で初めての人体解剖(腑分け)が行われた。当日の参観者は、吉雄俊蔵ほか、六十余名。石黒済庵の執刀により、東西の医書を対照して行い、洋書の正確なことが分かった。ちなみに明和八年(1771)、杉田玄白らが江戸小塚原で最初の腑分けを行ってから八十三年後のことであった。
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碧南

2016-10-01 18:59:28 | 愛知県
(貞照院)


貞照院

 碧南市へは東海道線刈谷で乗り換えて、名鉄線で三十分。碧南中央駅で下車する。事前調査では駅前で自転車を借りることができるはずであったが、実際に行ってみるとそれらしいものは影すら見つけられなかった。市が運営している無料の循環バスもあるらしいが、一日に四本しか走っておらず、あまり実用的ではない。
 太陽が遠慮会釈なく照り付けるが、覚悟を決めて歩き始めた。


正五位山中先生墓

 貞照院には山中静逸(信天翁)の墓がある。墓地は、寺の境内の道をはさんで向かい側にあり、その道路側に山中家の墓域がある。

 山中信天翁は諱を献、雅号は信天翁のほか、静逸、対嵐山房、二水間人など。文政五年(1822)の生まれ。実家は東浦村の大地主で、沼津藩御用達の家であった。父山中七左衛門有功も文人・画家であった。篠崎小竹。斎藤拙堂らに学び、安政年間に上京して梁川星巌、梅田雲浜、頼三樹三郎らと交わった。安政の大獄後、修学院村に隠れ住んで岩倉具視と接触した。慶応四年(1868)二月、徴士内国事務局判事に任じられた。東幸御用掛、桃生県(のち石巻県)知事、登米県知事、伏見・閑院・白川各宮家令等を歴任。明治四年(1871)六月、官職を辞して京都嵐山に隠棲し、詩賦書画をこととした。明治十八年(1885)、六十四歳で死去。

 同じ墓所には父山中子敏(有功)の墓もある。


子敏先生墓

(神明社)
 神明社は、どこにでもありそうな神社であるが、本殿の傍らに山中信天翁の顕彰碑が建てられている。この神社の近所は、気のせいか山中姓の家が多いが、恐らくその中の一つに信天翁の縁者もあるのだろう。


神明社


信天翁山中先生之碑

(康順寺)


康順寺

 康順寺の最寄り駅は名鉄北新川駅である。この駅にも貸自転車も路線バスもなく、片道三十分、ひたすら歩くしかない。


静照院殿前對州釋昇覺大居士(本多忠鵬の墓)

 康順寺に最後の西端藩主本多忠鵬の墓がある。墓地の最前線にあるので、すぐに見つかる。
 本多忠鵬は、安政四年(1857)、藩主本多忠寛の長子に生まれた。慶応二年(1866)、九歳で二代藩主に就いた。十二歳のとき、西端藩知事、さらに西端県知事となったが、廃藩置県により東京に移り住んだ。明治二十九年(1896)、三十八歳にて死去した。

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