史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「阿部正弘」 後藤敦史著 戎光祥出版

2023年05月27日 | 書評

嘉永六年(1853)六月のペリー来航は、日本史の画期となる事件であった。その時、老中首座(現代風にいえば内閣総理大臣)という地位にあって難局に当たったのが本書の主人公阿部正弘である。

正弘については、ペリー来航時に幕府がその事情を朝廷に報告し、かつ全大名にアメリカ大統領の親書を示し、意見を求めた。福地桜痴(源一郎)はこれで幕府の倒壊が早まったと明確に正弘を批判している。

一方で、正弘がもっと長生きしていれば、幕府の倒壊はなかったという説もある。阿部は安政四年(1857)に三十九歳(満三十七歳)で病死したが、彼がもっと長く生きていれば幕府と薩摩が敵対することもなく、幕府の倒壊も避けられたのではないかというのである。

いずれにせよ、正弘はこの時期の幕府の鍵を握る存在であったことは間違いない。これまであまり阿部正弘というキーパーソンの事績を詳しく論じた本を読んだことがなかったので、非常に興味深く読み進めることができた。

そもそも阿部正弘はどのような思想をもった政治家だったのだろう。有名な人物でありながら、案外我々はこの人物について良く知らないのである。

阿部正弘は開国派だったのか。鎖国派だったのか。旧幕臣の大久保忠寛(一翁)は「ペリー来航の時点で開国論を唱えていた老中は、正弘と松平忠優(忠固)であった(明治二十一年(1888))」と語っている。しかし、本書によれば、当時の史料からわかるのは鎖国祖法の維持に苦慮し、日米和親条約締結後は鎖国の立て直しを目指している正弘の姿である。正弘が鎖国祖法の限界を認識するようになったのは、安政二年(1855)末頃である。

正弘は天保十一年(1840)、二十二歳の若さで寺社奉行に就いた。寺社奉行というのは、勘定奉行、江戸町奉行と並ぶ三奉行の一つ。三奉行の中でも最上位にあたる。二十二歳での就任は、それ以前の寺社奉行の中ではもっとも若いという。

寺社奉行であった天保十二年(1841)、正弘のその後のキャリアにも影響を与えた「中山法華寺一件」と呼ばれる大事件が発生した。阿部は前将軍家斉、現将軍家慶の権威を守りつつ、女性と密通した日啓という問題人物を排除するという形で決着をつけた。この事件の処理で正弘は株を上げた。将軍の信任を得たことで、それまでの歴代老中の中でも最も若い年齢(二十五歳)での老中就任へと繋がった。正弘が老中に就任した直後、天保の改革を推進した水野忠邦が罷免された。従って、この時正弘が同僚として水野と顔を合わせることはなかった。

その後、弘化元年(1844)、水野忠邦が再び老中に任じられると、忠邦の登用に反対した正弘は登城をボイコット。登城を再開した正弘は、牧野忠雅と連携し、水野と水野一派(その代表格が鳥居忠耀であった)の排除に動いた。翌年二月、水野忠邦が辞任すると、その翌月正弘はついに老中首座となった。

水野忠邦の強権的な政治を間近に見ていた正弘は、合議を経て慎重に判断を下すという手法に徹した。彼のこの政治手法は生涯を通じて一貫している。のちにペリー来航時に全大名に諮問した政治手法もこの延長線上にあると言って良いだろう。

阿部正弘は島津斉彬や伊達宗城、松平春嶽といった開明的大名と親交を結んでいた。その事実だけを切り取ると、彼自身も開明的な思想を持っていたようなイメージがあるが、本書を読む限り、思想的にはどちらかというと保守的である。

弘化年間、異国船が日本近海に出没するようになると、正弘は無二念打払令の復活を画策した。そういう意味では正弘は、思想的にはむしろ徳川斉昭に近い。正弘は一貫して斉昭を政権に取り込もうと意を砕いているが、政治的に保守派、攘夷派に配慮したという側面もあるかもしれないが、心情的に斉昭の考えに同調していたのである。とはいえ、斉昭がヒステリックに主張するような「何が何でも夷人を打ち払え」という極端な攘夷ではなく、その点ではバランスの取れた思想を有していた。時代が下るにつれ、斉昭とは距離を置くようになっていったのである。

正弘は本音では打払令を即刻復活させたかったようだが、決して我を押し通そうということはしない。何度も評定所一座、勘定方や海防掛の意見を聴取し、彼らのコンセンサスを得るように努め、最終的には合意が得られないと見ると、穏健な外国船対応に落ち着いた。この辺りが「現実的政治家」である阿部正弘の真骨頂であり、決して無茶苦茶をしないという意味で長期に渡って多くの関係者の支持を得られた理由であろう。

「現実的政治家」としての正弘の本領が現れたのが安政年間、ペリー来航後の対応である。対外的強硬策の限界を認識した正弘は突如老中首座を退き、その立場を「蘭癖」「西洋かぶれ」とも称される開明派の堀田正睦に引き継いだ。この交代劇は外交方針の転換という意味合いが強い。この時点で正弘は外国との通信・通商は避けられないことを悟ったのだろう。こういった時勢を感知する能力、時勢に応じて対応を変える柔軟性が、阿部正弘という政治家の最大の特徴である。人間は己の思想信条とかイデオロギーからなかなか脱却できないものである。正弘は、いとも簡単に思想的な転換を見せる。

安政四年(1857)、正弘は満年齢で三十七歳という若さで死を迎える。舟橋聖一は「花の生涯」で正弘の死因を「腎虚」としているが、実際に「やり過ぎ」で命を落とすことはないのではないか。状況から見て肝臓癌で亡くなったとするのが自然である。

もともとお酒が好きだった上にストレスも加わり酒量は相当増えていた。ペリー来航という難局を老中首座として対応したその心労は、想像を絶するものがあったと思われる。幕末の動乱が本格化する前に退場してしまったために阿部正弘の評価は必ずしも高くないが、実は非常に重要な役回りを果たした人物なのである。

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「殉死の構造」 山本博文著 角川新書

2023年05月27日 | 書評

本書は、平成六年(1994)に刊行され、平成二十年(2008)に講談社学術文庫から文庫化されたものを、十五年振りに新書として復刊したものである。帯に「画期的な名著が復刊!」と赤い文字で大仰に書かれているが、その宣伝文句が大袈裟と思えないほど「名著」というに相応しい一冊である。

著者はあとがきにおいて「その(殉死の)背後にある武士の気風とか心性(メンタリティ)を明らかにする」ことが「あこがれのテーマ」であり、本書によって「かなりクリアになったのではないか」「まずはその出発点に立ち、全体の見通しをつけた」としている。「気風とか心性」といったつかみどころのない対象を明らかにすることなど、直感的にはかなりムリじゃないかと思ってしまうが、本書を通読するとある程度の納得感がある。

本書は、武士の殉死をテーマとした、森鴎外の有名な歴史小説「阿部一族」が史実に反していることから書き起こす。「阿部一族」は、明治天皇に殉死した乃木希典大将の事件をきっかけに書かれたものである。殉死という前時代的な行為でありながら、明治の人たちの心の底には微妙な共感・賞賛もあった。著者の解釈によると、鴎外が「阿部一族」を創作したのは、乃木の殉死を賛美する一方で死に後れた侍医や側近への心理的圧力があったためという。鴎外は世間の圧力によって人が死ぬような悲劇を繰り返してはいけないと主張したのである。

鴎外は、阿部弥一右衛門の殉死が「周囲から強制された死」であったという描き方をしている。著者は、鴎外が依拠した「阿部茶事談」や「綿考輯録」に潤色が多く、一次史料としては使えないことを明示した上で、弥一右衛門の死の真相を明らかにする。史料の限り、弥一右衛門は細川忠利の葬儀の前、ほかの殉死者と同じ日に殉死している。つまり、鴎外が小説で描いたように弥一右衛門が他より死に遅れたとか、殉死しないからといって他人から非難を受けた事実はないのである。

著者が綿密に調査した結果、小説の阿部弥一右衛門のように周囲から強要されていやいや追腹を切るというパターンはほとんど確認できず、我が国の近世の殉死者は基本的に心からそれを望み、さまざまな圧力を受けながらもそれをはねのけて追腹を切った。しかし、殉死がいかに美風とされた時代とはいえ、誰もが腹を切ったわけではなく、主君から格別な恩寵を受けたとか、破格の待遇を受けたという一定の基準があった。著者は殉死者の多くが主君との男色関係にあったとするが、これは状況証拠から類推するしかないところで、なかなか実証が難しいものである。

将軍秀忠や家光が亡くなったときに重臣(老中や年寄経験者)が殉死した例はあるが、それはむしろ例外であり、殉死者には軽輩や下級家臣が圧倒的に多い。彼らは客観的に見ても「栄達」といわれるような破格の待遇を受けたわけではないし、殉死によって子供が引き立てられたという事実もない。主君とのほんのわずかな接点 ――― たとえば主君が居宅に立ち寄り縁側に腰をかけ、そこで親しく声をかけられたとか ――― そうしたご厚恩に感激し、追腹を切ったという例が実に多い。

我々の感覚では、殉死とは忠義心の発露のように考えられているが、案外そういう例は少なく、実は忠誠心とは少し離れた、主君への愛情であるとか、或いはもっと非合理的で衝動的な行動であった。現代人から見ればありそうに思える、打算的な殉死の例(つまり自分が殉死することで子供が加増されるような「商腹」)はそもそも存在していない。

下級家臣には、到底現代人には共感できないささいなことで殉死する者が少なからず存在した。彼らは主君への愛情とか忠誠心ではなく、「死にゆく者の美学」だけで腹を切ったのである。十七世紀後半には我先にと殉死を願う風潮は一種の流行のようになった。ほかの大名家の殉死者の数に負けないようにという対抗意識もあったのかもしれない。こうした独自の美学にこだわり、その美学のために簡単に命を擲ってしまう下級武士のことを、著者は「かぶき者」と称している。

かぶき者というのは、もともと「傾く」からきており、偏った異様な風俗(服装や髪型)や行動をとるものを指している。かぶき者の気風を代表する気質は、当時「奴気質(やっこかたぎ)」と呼ばれていた。

好色を好み、「侍道」の勇気を重んじ、人のために命を惜しまず、親方・老人を大切にし、自分の命を捨てて他人を救い、徳を重んじ、人のできないことをやり、敵対したものを許さない…

これが当時の奴(やっこ)の代表的な人物像だという。殉死した下級家臣はれっきとした武士ではあったが、ほとんど彼らの心性や行動原理は無頼の徒と変わらない。

もともと武士という集団は、戦場という舞台で最大限のパフォーマンスを上げるため、秩序を度外視し、いざとなれば生命を投げ捨てる心性をもった勇者であった。戦いの時代が去り、そのような戦闘集団は活躍の場を失うが、新しい時代に適応できない者は非合理的な心性を純化して受け継いだ。本書で「かぶき者はこの側面が極端に肥大したもの」という高木昭作氏の言葉を引用している。彼らが競って殉死したのは、自らの美学とか、それを通り越して単なる「自己陶酔」「自己主張」のためである。彼らのメンタリティを、忠誠や打算といった現代的な尺度で理解することはできない。

著者はさらに論を進め、忠臣蔵で有名な赤穂浪士の討ち入りにも「かぶき者」的な心性が見られるとか、「死ぬことと見つけたり」で有名な「葉隠」は没我的忠誠を強制しているのではなく武士の自己防衛のための教訓を説いているのだとか、とてもユニークで興味深い議論を展開している。

著者山本博文先生の著述については、忠臣蔵関係の記述は史実と異なる、信憑性に疑問が残るといった批判もある。本書では難解なテーマに取り組み、多種多様な史料に当たりながら、非常に平易で明快。令和二年(2020)に六十三歳で逝去されたが、まだまだこれからという年齢だっただけに惜しまれる。

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