史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

神川

2012年03月20日 | 埼玉県
(元阿保稲荷神社)
 元阿保の稲荷神社の位置がわからなくて、近くのコンビニの店員に聞いてみた。コンビニの店員は若い女性であったが、メモ用紙に地図を書いて丁寧に教えてくれた。この付近ではガソリンスタンドのことを「ガソスタ」と称するらしい。


元阿保稲荷神社


塩川広平翁生地碑

 稲荷神社の門前に、「史跡 塩川広平翁生地」碑が建てられている。
 塩川広平は、天保元年(1830)に生まれた。塩川家は代々阿保阪稲宝神社の神主を務める家であった。十七歳のとき江戸に出て、文武の修行に励んだ。幕臣小林萬之助や安積艮斎、伊藤代三郎らに学んだ後、市ヶ谷三番町に私塾を開いた。この頃、盛んに諸藩の志士と交わり、尊攘倒幕活動に奔走した。ところが王政復古以降、一転して徳川擁護の立場をとった。明治二年(1869)、新政府参与横井小楠が京都で暗殺される事件が起きたが、その連累の嫌疑から禁固刑を受けた。出獄後は司法省出仕を皮切りに、栃木裁判所、静岡裁判所、沼津裁判所長などを歴任の後、明治二十二年(1889)非職となった。明治二十三年(1890)五十九歳にて逝去。

(大観堂共同墓地)


贈正五位塩川広平之墓

 稲荷神社から数百メートル離れた大観堂共同墓地に塩川広平の墓がある。
 塩川広平は東京・青山墓地に葬られたが、大正元年(1912)遺徳を偲ぶ村民により郷里にも墓が建立された。墓石の裏には、「大正元年十一月十九日 廣彰会建之」とある。

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上里

2012年03月20日 | 埼玉県
(宝蔵寺)


宝蔵寺


新徴院奥山光房居士(関口光房)墓

 関口光房は、文政元年(1818)大御堂村(現・上里町大御堂)に生まれた。奥山念流の剣術を継いだ剣客であった。文久三年(1863)新徴組に参加し、江戸市中警護にあたった。新徴組では剣術世話心得という役職に就いた。戊辰戦争が起こると、光房も新徴組に従って庄内に移った。新政府軍との戦闘に敗れたが、戦後そのまま庄内に残り開墾などをして庄内藩の復興を期した。しかし、夢敗れていつしか故郷である大御堂村に帰った。道場を開いて門弟の育成にあたっていたらしい。明治十八年(1885)六十八歳で没。

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小鹿野

2012年03月20日 | 埼玉県
(正永寺)


正永寺

 小鹿野町小鹿野の正永寺は、広大な墓地を持つ。この中に菊池家の墓域がある。


雙樹院檜山忠省居士
(檜山省吾の墓)

 檜山省吾は天保十年(1839)真庭家の次男として小森村字真庭(現・小鹿野町小森)に生まれた。生家真庭家は名主を務める家柄であった。請西藩の家臣檜山家の株を買い、檜山家を継いだ。慶応四年(1868)請西藩主林忠崇が出陣すると、省吾も軍事掛として従軍した。箱根での戦争に参加したが敗戦。ここから磐城平、会津、仙台と転戦した。維新後は郷里の小鹿野に戻って教員や剣道指南などをしていた。明治十八年(1885)には、旧主林忠崇に妻女を紹介する労をとっている。明治三十七年(1904)六十六歳にて死去。


林舘次郎氏之墓

 同じく菊池家の墓地に「林舘次郎氏之墓」と刻まれた、細長い墓石がある。林舘次郎は、請西藩主林忠交の次男、即ち林忠崇とは異父兄弟という関係である。小鹿野村が請西藩の領有地であった関係から、落魄して旧臣檜山省吾を頼ってこの地に移住したものである。林舘次郎は小鹿野神社の宮司を務め、大正六年(1917)五十五歳で世を去った。

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秩父

2012年03月20日 | 埼玉県
(清雲寺)


清雲寺

 秩父市郊外の清雲寺は、応永三十年(1423)開創という古刹である。
 江戸から遠く離れたこの地に、慶應四年(1868)二月、突如として幕末の風雲に襲われた。のちに清雲寺事件と呼ばれる。
 右大臣大炊御門家信(いえこと)は、嫡男尊正(たかまさ 別に公尊とも)を関東に送り、尊王派を糾合し討幕の気運を高めようとした。尊正は、遠祖後嵯峨天皇第三皇子髯僧大師が開山したという太陽寺(大滝村)に仮御殿を設営し、そこを尊王派の拠点とする意図をもっていたという。
 大炊御門尊正は、清雲寺に入ると忍藩大宮代官所に綸旨を発し、表敬のための出頭を促したが、代官はこれに応じなかった。その数日後、代官所は十六名の役人を派遣し、清雲寺を取り囲んだ。不意をつかれた尊正一行は抵抗する術もなく、悉く討ち取られた。この事件の裏には、大炊御門尊正に随行した医師原島玄徳(このとき天輝源三郎と名乗っていた)と地元の名主宮崎定右衛門との確執があったといわれる。かねてより両人は犬猿の仲だった。宮崎は、「大炊御門一行は偽物である」と大宮代官所に讒訴したという。一方、宮崎は明治七年(1874)尊正の従者佐々木五郎の妻の訴えにより入獄し、翌年獄中で死亡した。


位牌堂の刀痕

 清雲寺では当時の乱戦の跡を見ることができる。本堂内の帯戸には火縄銃の弾痕が残されている。向かって左手の位牌堂の杉戸には、刀痕がある。


大炊御門尊正君追悼碑

 清雲寺の境内には、大炊御門尊正君追悼碑が建てられている。
 大炊御門家は、五摂家に継ぐ清家九家のうちの一つという名門である。尊正の父、大炊御門家信は、安政五年の八十八卿の列参に参加した過激な攘夷派公卿であった。禁門の変以降は他行を禁じられたが、慶應元年(1865)に赦された。同年には内大臣、さらに右大臣に任じられた。維新後は目立った活動がないまま、明治十七年(1884)に隠居。翌明治十八年(1885)六十八歳で死去した。
 尊正(公尊、尊定、尊了など別名がある)は事件のとき二十二歳というが、詳しい履歴は不明。


大雄院殿迷雲智剣大居士
大炊御門尊正公之墓
従士諸霊位

 大炊御門尊正のほかにも、青雲寺事件で命を失った従者も合わせて葬られている。
 このとき尊正に従っていたのは、わずかに十三名。その中には尊正の妾と女中まで含まれていたという。征討軍と呼応して、旧幕府軍の背後を牽制する意図があったとも言われるが、それにしても少人数で幕府の膝元である関東に進出しようというにはあまりに無謀に過ぎた。

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小田原 栢山 Ⅱ

2012年03月17日 | 神奈川県
(報徳堀)


報徳堀

 再び小田原栢山で二宮尊徳所縁の史跡を巡る。この街こそ、訪問者のためにレンタサイクルを用意すべきと思うが、残念なことに歩いて回るしかない。
 最初の訪問地は、西栢山の報徳堀である。天保十一年(1840)、二宮尊徳が湿田の地下を流れる冷水を取り除く目的で掘った排水溝である。これにより永年悩まされていた冷害が解決した。以来、報徳堀と呼ばれているが、一見する限り、その辺のドブと余り変わらない。


報徳堀

 二宮尊徳が掘った“尊徳堀”が今も各所に残っている。小田原市鬼柳、南足柄市竹松などの尊徳堀が知られている。

 報徳堀の遺蹟碑からもう少し北に行くと、土塀に囲まれた剣持家に行き着く。剣持広吉は幕末の曽比村の名主で、二宮尊徳の仕法を取り入れ、荒廃した曽比村の再興に成功したことで知られる。

(油菜栽培地跡)


油菜栽培地跡
背後には雪を冠した富士山が望める

 仙了川の清流に沿って小田原方向に歩く。報徳小学校の前、油菜橋のたもとにやはり二宮尊徳に関係した石碑が建っている。夜間の勉学に必要な灯油のことを心配した尊徳が、わけてもらった油菜の種を撒いたのが、この地である。翌春収穫できた菜種を油屋に持って行って灯油に換えたという。まさに「積小為大」を実践したのであった。

(捨苗栽培地跡)


捨苗栽培地跡

 享和三年(1803)、捨てられている植え残りの稲の苗を、二宮尊徳が耕して水田とし、その年の秋には籾一俵分の収穫を得た。現在、石碑の立つ場所は小さな公園になっているが、その横では地元小学生が体験学習をするための場として水田が作られている。

(二宮先生総本家屋敷跡)


二宮先生総本家屋敷跡

 二宮尊徳の墓がある善栄寺の門前の道沿いに二宮先生総本家屋敷跡碑が建っている。二宮総本家は、この地域の名家であったが、寛政十二年(1800)に当主二宮儀兵衛が亡くなると、総本家は絶えてしまった。これを惜しんだ尊徳は、再興を志して、総本家の敷地内に竹を育て、それを売って資金とした。後年、その資金を元に田畑を買い入れ嘉永年間に復興を果たしたという。その間、ほぼ五十年以上という時間が経過していた。

(松苗碑)


松苗碑

 二宮尊徳といえば農政家と紹介されるのが常であるが、同時に優れた土木技術者でもあった。酒匂川はたびたび氾濫したが、洪水を防ぐために築かれたのが坂口堤である。少年の頃、二宮尊徳は坂口堤に来て読書をし、病気の父にかわって土手工事の労役に出た。尊徳は堤防の補強のために二百本の松の苗を堤防に植えたという。そのことを記念した石碑である。

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鴨宮

2012年03月17日 | 神奈川県
(飯泉観音)


飯泉観音(勝福寺)

 JR鴨宮駅北口にある自転車屋で貸自転車を借りて周辺を探索する。このところ寒い日が続いていたが、この日は幾分寒さがやわらいだ。自転車を漕いでいるうちに体が温かくなってきて、途中でマフラーを外した。
 西に十分ほど走ると、飯泉山勝福寺(通称飯泉観音)に行き着く。創立は奈良時代まで遡るという古刹である。
 境内に跪いて手を合わせる少年の像がある。この像は、少年時代の二宮尊徳が、旅僧から観音経を聞き、一念発起した姿を現している。台座には「尊徳先生一代ノ鴻業ハコノ初志ニ徹シ救世ノ大誓願ヲ具現セルノミ」と刻まれている。


二宮金次郎初發願之像

(二宮尊徳夫人生誕地)


二宮尊徳夫人生誕地碑

 飯泉観音から五十メートルほど北の住宅街の中に二宮尊徳夫人岡田波子刀自生誕地の石碑が建てられている。
 浪子は、飯泉村組頭岡田峯右衛門の娘として文化二年(1805)当地に生まれた。文政三年(1820)、十六歳のとき二宮尊徳に嫁いだ。結婚後、歌子と名を変えた。尊徳との間に二子をもうけた。安政三年(1856)、尊徳は今市で亡くなったが、嗣子尊行を励まして遺志を継がせた。明治四年(1871)六十七歳で没したが、その間、ほとんど郷里に帰ることはなかったという。

(小田原藩主大久保忠真 二宮金次郎を表彰の地碑)


小田原藩主大久保忠真
二宮金治郎を表彰の地碑

 酒匂川沿いに南下し、小田原大橋を小田原方面に渡ったところに小さな公園があり、そこに一つの石碑がある。
 文政元年(1818)、大阪城代、京都所司代の重責を果たし、老中に任じられて江戸に向かった小田原藩主小笠原忠真は、その途上、自領に立ち寄り、領民の中から働き者や親孝行な者十三名を表彰した。その中に三十二歳の二宮金治郎(のちに金次郎、尊徳)がいた。こののち二宮金次郎は、忠真の抜擢を受けて藩主分家の宇津家領の下野国桜町の復興を委嘱された。尊徳は十年の歳月を費やし、幾多の迫害と困難を乗り越え、再建を成し遂げた。

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「司馬遼太郎の幕末維新Ⅰ」 週刊朝日編集部 朝日文庫

2012年03月10日 | 書評
上海出張の往復の機内で読むために、肩の凝らない本を探していて、この本を見つけた。上海まで片道三時間ほど。帰路は偏西風に乗って二時間強である。時間的には四国出張より近いような感覚である。往復の機内でちょうどこの本を読破できた。
司馬遼太郎先生が世を去って十五年以上が経ったが、依然としてこの作家に関する本がハイ・ペースで出版されている。このような作家は司馬先生以外に見たらない。
幕末を取り扱った作品では、「竜馬がゆく」と「燃えよ剣」が人気の双璧であろう。個人的には、「翔ぶが如く」が一番であり、次いで「世に棲む日々」と「胡蝶の夢」が同点で二位。つまり私の嗜好は世の中の人気とはちょっと違う。
この本では、司馬作品の中でもっとも人気の高い小説の主人公である坂本龍馬と土方歳三を取り上げている。
我々の中の坂本龍馬と土方歳三のイメージは、司馬遼太郎先生の小説によって強烈に固定化してしまった。「竜馬がゆく」と「燃えよ剣」は、小説としても面白いし、ここに登場する龍馬も土方も、男が惚れるほどかっこいい。かっこ良すぎるくらいである。それはそれで結構なのであるが、ぼちぼち日本国民も司馬先生の描いた龍馬と土方から卒業しても良いのではないか。
「Ⅰ」とナンバリングされているので、おそらく今後ほかの作品やほかの人物が取り上げられるのであろう。大久保利通や松本良順、吉田松陰が特集されるのを心待ちにしよう。

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「天誅組」 大岡昇平著 講談社

2012年03月10日 | 書評
八王子の「そごう」は先日二十八年の歴史を閉じた。「そごう」の八階にあった本屋さんには良く通ったものである。百貨店の閉店には特に不便は感じないが、この本屋さんが無くなってしまうのは非常に残念に思う。この書店に最後に足を運んだ日、古書コーナーで大岡昇平の「天誅組」を発見した。値段はわずかに二百円であった。この本が発刊されたのは昭和四十九年(1974)である。古い本ではあるが、決して輝きを失っていない。
この作品では、文久二年(1862)の吉村寅太郎の脱藩から説き起こし、文久三年(1863)の天誅組の挙兵までを克明に描く。文久二年から三年という時間は、激動の幕末において、取り分け濃密であり、血に彩られた時代でもあった。寺田屋事件、吉田東洋暗殺、生麦事件、相継ぐ天誅(本間精一郎、島田左近、宇郷玄蕃、目明し文吉ら)、全て文久二年の出来事である(つまりこれらの事件はいずれも今年で百五十年目ということである)。さらに文久三年には、長州藩の下関砲撃、朔平門外の変、小笠原長行による率兵上京、薩英戦争と続く。これら一連の事件が、時に因となり時に果となって、大きな奔流となり、禁門の変、天誅組の挙兵という二つの滝壺へ至る。
大岡昇平は事実を重んじる作家といわれる。本書でも事実を丹念に追いながら、吉村寅太郎がこの短い期間に、志士の間でも存在感を増し、思想的にも過激に傾いていく様子をリアルに描き出した。
天誅組の首領として担がれた中山忠光という若い公卿がいる。忠光が武市半平太を訪ね、三奸二嬪を暗殺しようと持ちかける場面の描写は、勿論当時の書簡などをベースに書かれたものであろうが、忠光という狂気を帯びた個性を描出して見事である。大岡昇平が、単に事実を並べるだけの作家ではないことを証明している。
四百六十ページに及ぶ大作であるが、題名である天誅組の挙兵はその最後の最後である。著者の筆は挙兵で留まり、その後の天誅組の壮烈な最期まで及んでいない。「あとがき」によれば「いずれその後の経過を書いてからまとめるつもり」とあるが、結局それは果たされぬまま、別に「挙兵」「吉村虎太郎」という短編に略述されたらしいが、現実的にこの短編を入手することは今となっては難しい。小説としては、「最期」を描かぬままというのはいささか消化不良感が残る。

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生麦 Ⅱ

2012年03月07日 | 神奈川県
(生麦事件発生現場)


生麦事件発生現場

 本年は、生麦事件から百五十年という記念の年である。久し振りに生麦を歩いてみることにした。
 京急生麦駅から南に進むと、旧東海道にでる。生麦小学校に近い民家の前に、「生麦事件発生現場」を表す説明が設置されている。平成十一年(1999)生麦事件参考館の浅海館長が設置したもので、錦絵とともに生麦村名主の関口氏が残した日記の一節が記されている。当時、生麦は旅人向けの茶屋や商店が軒を並べる立場(たてば)であった。リチャードソンら英国人四人は、この場所で薩摩藩の行列と接触した。生麦事件の碑が建っているのは、旧東海道と国道15号線とが交わる交差点であるが、この場所から約七百メートル離れている。創口から臓腑が落ちるほどの深手を負ったリチャードソンは、必死に馬を駆って神奈川方面に走ったが、石碑のある場所で力尽き、落馬した。

(生麦事件の碑)


旧蹟 (生麦事件の碑)

生麦を訪れたのは、十年以上前のことである。この十年の間に、生麦事件を巡る史跡は随分変化していた。その一つが生麦事件の現場である。
 現在、生麦事件の碑があった場所は、高速道路の延伸工事中(平成二十八年(2016)まで)で、そのため東に三百メートルほどの場所に移設されている。


 生麦事件参考館を拝館するには、事前に電話が必要であるが、「ダメもと」で立ち寄ってみた。訪問すると浅海館長が出てこられて、「ちょうど今、団体さんが来てビデオを観ているところだけど、途中で良ければ入ってください」と言って下さった。生麦事件参考館を訪れたのも十年振りである。浅海館長は八十歳を過ぎているはずであるが(我が父とほぼ同い年である)、極めて饒舌に生麦事件を解説してくれた。
 浅海館長に十年来の疑問を聞いてみた。生麦事件の石碑をどうして中村正直(敬宇)が書いたのかということである。中村敬宇に碑文を依頼したのは、鶴見神社の宮司であった黒川荘三である。黒川は地租を調査するために生麦村を歩いている際、地元の人から二十年前この地で生麦事件があったことを知らされた。事件をこのまま風化させてはいけないと思った黒川は、ここに石碑を建てることを決意し、知己であった中村敬宇に依頼したのだという。
 浅海館長の話は、尽きることがなかった。先日、私が見た外人墓地のリチャードソンの墓。いつの間にか新しく建て直されていたが、これは浅海館長が平成十八年(2006)に傷みのひどかったクラークとマーシャルの墓を新造しリチャードソンと合祀し、追悼式まで行ったものという。浅海館長の執念には頭が下がる。
 浅海館長の本業は、酒屋である。生麦事件参考館に隣接して「酒の記念館」が併設されている。私は「酒」の方はあまり興味はないが、ここに展示されている「トミー・ビール」は一見の価値がある。
 聞けば浅海館長は普段山下公園の近くのマンションで執筆活動をしているそうで、この日参考館でお会いできたのは本当に幸運であった。「ドキュメント生麦事件 英国から見た薩英戦争」という小冊子を三百円で購入して、生麦をあとにした。

コメント (4)
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相良

2012年03月04日 | 静岡県
(相良小学校)


相良小学校

 相良町は、平成十七年(2005)の合併により、現在牧之原市の一部となっている。相良郊外に出ると、日当たりの良い土地は一面茶畑となっている。この辺りも明治後に旧幕臣ら士族によって開拓された土地であろう。

 相良藩の設立は、宝永七年(1710)。本多氏が三代三十六年間続いたが、延享三年(1746)に奥州泉に移った。
 有名な田沼意次が相良藩主となったのは、宝暦八年(1758)のことで、当地に相良城を築いた。築城には十二年という歳月を費やし、三重の堀を巡らし壮大華麗なものだったという。しかし、意次が失脚すると、天明七年(1887)、相良城も没収されて間もなく大半が取り壊された。現在、相良小学校や市役所などが建っている場所がその跡地に当たる。小学校の校舎前に田沼氏居城趾と書かれた小さな石碑を見ることができる。


田沼氏居城趾


相良城模型

 小学校の裏には、相良城を再現した模型が置かれている。往時を知るよすがとしては、校庭に立つ九本のクロマツがある。この松は二ノ丸の土手にあったものである。


相良城二の丸のマツ

(牧之原市立相良史料館)


相良城趾

 前期田沼氏の治世は、三十年足らずで終息するが、文政六年(1823)再び田沼氏が相良領主に封じられた。後期田沼氏は、意正、意留と引き継がれ、天保十一年(1840)意尊が藩主となった。
 本丸跡地には現在牧之原市立相良史料館が建てられている。意尊に関するものが展示されていないか探してみたが、やはり大半は知名度の高い田沼意次に関するものであった。意尊の書軸など数点を見ることができた。
 史料館の展示で目を引いたのは、元治元年(1864)田沼意尊は、天狗党の騒乱鎮圧のため、幕府の命を受けて出兵するが、そのときの借金が嵩み、返済に窮した家老井上某が慶応二年(1866)、責任をとって切腹したという。そのときの資料が展示されている。出征費は当然幕府が負担したのかと思ったが、そうではなく自弁だったようである。天狗党の騒乱は、追討を受けた水戸藩だけでなく、相良藩にも厳しい結果を強いたのである。


相良城本丸跡

(相良油田油井)
 「日本に油田があった」ことなど、知っている人がいるだろうか。
 明治五年(1872)二月、村上正局(まさちか)が当地で相良油田を発見し、同年五月には石坂周造が開坑採掘を開始した。因みに石坂周造は「石油」の名付け親と言われている。翌明治六年(1873)には機械削井に成功した。大正初年のピーク時には手掘井は百五十坑を数えた。明治十七年(1884)には出油量が最高に達し、年産七百二十一klを記録した。現在、昭和二十五年(1950)に開坑された機械堀井一基が残されているのみである。


相良油田油井

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