史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「幕末維新懐古談」 高村光雲著 岩波文庫

2017年07月29日 | 書評
高村光雲(1852~1934)といえば、明治期を代表する木彫家で、上野の西郷隆盛像や皇居の楠木正成像の製作者としても知られる。「座談の名手」としても有名で、本書は田村松魚や息子の光太郎を相手に生い立ちから彫刻家として名を成すまでを、様々なエピソードを織り交ぜながら語ったものである。なるほど読み手を飽きさせない語り口は、「名手」と呼ぶのに相応しい。
座談が筆記されたのは、高雲が七十歳を迎えた大正十一年(1922)前後のことだが、何より驚かされるのはその驚異的な記憶力である。「名高かった店などの印象」では、浅草雷門付近の名店を紹介するが、酒屋の隣が薬種屋、その手前がそば屋、その次が金物屋でその南が天婦羅屋といった具合に目の前に街並みが浮かんでいるかの如くである。何のメモもなく、記憶だけを頼りに話しているとすれば尋常ではない。この常人離れした観察眼と記憶力が芸術の道でも活かされているのかもしれない。
彫刻の世界というのは、少なくとも私には全く縁の無い世界である。光雲が師匠に弟子入りした頃は、芸術ではなくて、飽くまで仏像などを彫る仏師としてこの道に入ったということがよく分かる。仏師から何時しか彫刻家に転身し、芸術としての評価を勝ち取ったのも、高雲の功績であろう。
感心したのは、矮鶏(ちゃぼ)を彫ると決まれば四方に手を尽くして矮鶏を入手して飼い、狆(ちん)を彫るとなれば評判の良い狆を手元において始終観察を怠らない。光雲の代表作の一つとなった「老猿」を彫るときも、自宅で猿を飼った(時にその猿が逃げ出すこともあったという)。全く妥協をせず写実(リアリティ)を徹底すれば、そうするのが当然なのかもしれないが、「そこまでやるのか」というのが正直な感想である。
住友家から委託を受けて、楠木正成像を製作した経緯なども詳しく紹介されている。やはりこの時代の銅像製作には力が入っている。兜や鎧の考証なども、専門家の力を借りて調べ尽くしており、後世から見ても批判の余地のないものとなっている。これと比べれば昨今大量生産される銅像は、いかにも軽い。
残念なことに、上野西郷像の製作については本書ではひと言も触れられていない。他のことはペラペラと語り残しているだけに、西郷像についての言及がないことは不自然なくらいである。
上野戦争や浅草大火などの体験談もリアリティがあふれる。同時代の証言として貴重なものである。

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「「会津の悲劇」に異議あり」 八幡和郎著 晋遊舎新書

2017年07月29日 | 書評
「会津の悲劇」ばかりを強調し、会津藩を「悲劇のヒーロー」に仕立て、敵役の薩長は全て「悪」という論調には正直にいって辟易しているが、本書の八幡和郎氏の主張は、「会津の悲劇」を真っ向から否定するものである。我々は同じ史実を見ているはずなのに、見る人によって右にも左にも見えてしまう。これが歴史の難しさであり面白さでもあるが、結局真実は何だろう。後世の人間は結局真実を知ることはできないのであろうか。
会津武士のルーツは大半が信濃で、三河、近江、甲斐、出羽と続く。江戸以前からの会津武士が、保科氏に取りたてられた比率は低いという。筆者は、純粋な会津魂は土着のものではなく、信州の気質こそが会津魂そのものと主張する。それが事実としても、会津という土地で何代にもわたって生活をすれば、それは立派な会津人なのではないか。幕末の会津武士のルーツが会津にないからといって、会津藩士が幕末史に足跡を残した事績をいささかも毀損するものではないだろう。
筆者の批判の矛先は、藩校日新館における教育に及ぶ。藩校では漢学しか教えない。意味も分からず素読をするのは「アルカイーダの神学校のようなもの」とたとえるが、これはちょっと言い過ぎではないか。この時代、日新館に限らず藩校における教育は漢学が中心であったが、アルカイーダのように過激思想を植え付け、テロリストを育成しようというものではない。
有名な「ならぬものはならぬのです」という「什の掟」についても、「一方的な推しつけによる幼児教育は、現代的な教育論の立場からは強く批判されている」とする。しかし、百五十年前の教育を現代の尺度で批判するのにどれほどの意味があるのか。そもそも育成しようという人材像が、当時と現代ではまるっきり違うのではないのか。
松平容保は忠義の人として知られるが、筆者にいわせれば江戸幕府ではなく、孝明天皇に忠義を尽くしただけで、「将軍より天皇に忠実であるべき」というのであれば、明治天皇の意向に沿うべきだという。そうではなかったということは、単に孝明天皇に従順だっただけと指摘する。しかし、その当時の明治天皇はまだ十六歳の少年であり、孝明天皇のような政治向きの判断ができたわけでなく、実質的には岩倉具視や薩長の言いなりであった。その天皇の意向に沿えというのは、容保に酷かもしれない。
筆者は、身分を越えて士分に登用されることを期待して新選組に参加する若者を「ヤクザに身を投じる若者」と「共通の心理」というが、そこまで貶めるのはどうだろう。勤王の志士は「彼らの主張は筋が通っていたし、市民から支持もされていた」と一方的に評価するが、テロを繰り返す不逞浪士に全面的に正義があるとも言い難い。私も決して新選組を手放しで称賛する気はないが、ヤクザと同一視するのも違和感がある。
司馬遼太郎先生が「街道をゆく」で「明治政府は、降伏した会津藩を藩ぐるみ流刑に処するようにして(シベリア流刑を思わせる)下北半島にやり、斗南藩とした」と記述したことに対して、「これはひどい誤解」「事実と違うことを創作するべきではない」と批判する。しかし、戊辰戦争後、会津藩士が斗南に流刑同然に送られたことは、柴五郎の手記にも記載されていることだし、何も司馬先生だけが主張していることではない。司馬先生の小説にしても、随筆にしても、フィクションをあたかもホントの話のように語る場面があって、読者は騙されないように注意する必要がある。そのことは否定しないが、本件をもって司馬先生を批判するのはちょっと筋違いのように思う。
一方で坂本龍馬が「船中八策」を後藤象二郎に示したと記述しているが、先に紹介したように青山忠正先生に拠れば、「船中八策」は後世の創作であり、もともと存在しないものである。筆者こそ、史実にないことをさもあったかのように書いていることを反省すべきであろう。龍馬暗殺犯についても、見廻組の佐々木只三郎が、会津藩在京公用人の手代木直右衛門の実弟であるという事実をもって、「暗殺を指示したのは松平容保ないし、その弟で桑名藩主の松平定敬らしい」と結論付けているが、これもあまりに裏付けに乏しい。
筆者は「まえがき」で「できる限り中立な立場から、頑固固陋な悪玉でも、逆に悲劇の主人公となった正義漢でもない、会津藩の真実を明らかにしていきたい」としているが、正直にいってとても「中立な立場」とは思えなかった。
一方で「斗南は寒風吹きすさぶ未開地ではない。実収は表高より低い七〇〇〇石だったと広く信じられているが、これはどう考えてもおかしい」という主張は耳を傾けるに値する。悲劇を潤色するために、実収を過小に評価した気配が濃厚である。

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「図解詳説 幕末・戊辰戦争」 金子常規著 中公文庫

2017年07月29日 | 書評
陸軍士官学校を出て、自衛隊に入隊後、幹部学校戦術教官などを歴任した金子常規氏(故人)が昭和五十五年(1980)に刊行した「兵乱の維新史(1)」を文庫化するに当たって「幕末・戊辰戦争」と改題して復刊したものである。戊辰戦争の経緯を軍事専門家の目から検証するというだけでなく、まず序章では古代から幕末に至るまでの戦乱の歴史を解説する。それだけで二十二ページを費やし、筆者のこだわりを垣間見ることができる。
幕末の戦乱、戊辰戦争について、純軍事的な分析だけでなく、筆者の独自の目線から当時の政治的背景にまで踏み込んで言及しているのが、本書の特徴である。
たとえば、大村益次郎について。司馬遼太郎先生の小説「花神」では、あたかも幕末の戦乱を終息させるために忽然と出現し、天才的な才能によって上野戦争や東北の戦乱を短期間で終結させたように描かれるが、金子氏は終始大村益次郎に批判的である。
筆者はいう。
――― 海江田(信義)の表現は多少オーバーであったが、大村のいうほど彰義隊は弱くなかった。
――― 大村はもちろん、自らの戦略・戦術は大成功裡に上野で終り、今また再び会津に向かって進んでいるとますます自信を深めたし、薩側でも、薩兵が強かったからこそ上野戦争は勝利したのだと考えたことであろう。どのように問題の多い部署。指導でも勝利に終われば成功であり、そうなれば欠陥も逆に長所と見られ、多くは反省を生まない。そしてそこには、進歩は生まれずただ停滞があるのみである。
――― 仙台に近づくにつれて抵抗が激化するのは当然で、大村の予測が大幅に甘かった。
――― 八月に入っても、会津攻略の戦況は一向に進まなかった。すなわち大村の会津攻略の構想が実情に合わぬ甘いものだったため、平潟軍の前進はすでに一か月以上遅れており、降雪期に入る前に、米・庄を攻略するのは今や困難と考えられてきた。

 一般には作戦の成功によって政府が勝利を治めたように解釈されているが、実は「中央の戦略失敗の穴を伊地知正治、板垣退助以下の第一線の指揮官の先見・努力と将兵の奮闘が埋めた」というのが筆者の見解である。
 西郷隆盛が無血開城以降、失脚に近いかっこうで政府を追われたということを安藤優一郎氏が盛んに主張しているが、この本でもその経緯が描かれている。同時に筆者は、三条、木戸、大村ラインの、力で敵を圧倒し以後の支配を容易にしようという「覇者の論理」に対し、西郷、黒田らの薩藩の戦争を和で終結させようという姿勢との間に対立があったことを指摘する。戦争の帰趨がほぼはっきりした北越戦線や箱館に、時期を失したようなタイミングで西郷が現れたのは、和の実現を確認するため(あるいは後押しするため)だったという指摘は納得感がある。
 個人的には「庄内藩における学問を重んじる気風と兵の強さは何らか相関があるのでは」と感じていたが、筆者によれば「他藩の多くが朱子学を主軸とし」ていたのに対し、庄内藩の方針は「実利実学に焦点を置き」「いわゆる優秀な第一線従業員・忠実な第一線兵士の養成を狙った」ものだったという。これまた納得感のある答えであった。

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羽生 Ⅱ

2017年07月22日 | 埼玉県
(毘沙門堂)


毘沙門堂

 羽生駅から徒歩数分、毘沙門堂の境内に森玉岡の墓碣銘がある。
 森玉岡は漢詩人で、書も能くしたといわれる。羽生で私塾を開き近隣の子弟を教えたが、その中に若き日の清水卯三郎がいた。それまでの卯三郎は勉強嫌いで相当な腕白小僧であったが、ここで初めて学ぶ楽しさを覚えたという。


玉岡翁墓碣銘

 この墓碑銘は、文久二年(1862)に近在の人たちによって建てられたものである。碑文によれば、森玉岡は酒や旅行が好きな粋人であった。玉岡によりこの地に学術が芽生え、大きな功績を残した。

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太田 尾島

2017年07月22日 | 群馬県
(木崎宿)


日光例幣使道 木崎宿

 天狗党は、太田金龍寺を出ると、日光例幣使道に沿って進み、木崎宿を経て南に進路を取った。現在、木崎宿にはほとんど往時の遺構は残っておらず、新田木崎町交差点に木崎宿を示す石碑が建てられている程度である。

(長命寺)
 木崎宿に到達した天狗党は、長命寺にて先遣隊の伝令の兵と会った。伝令のもたらした情報により、例幣使道の先には伊勢崎藩兵約三百が待ち構えていることが分かった。武力衝突を避けた天狗党一行はここで南に進路を変更した。


長命寺


木崎宿色地蔵

(矢抜神社)


矢抜神社

(最勝寺)


最勝寺

 木崎宿を出た天狗党は、下枝の矢抜神社、最勝寺を抜けて、世良田へ入った。
 東武伊勢崎線世良田駅は無人駅であるが、新田氏所縁の世良田東照宮や新田荘歴史館、長楽寺などが点在しているため、駅前で無料自転車を貸してくれる。この自転車で矢抜神社、最勝寺、木崎宿まで一回りした。
 なお、世良田氏は、徳川家の祖といわれる。世良田駅前には「徳川氏発祥の地」という木標が建てられている。


徳川氏発祥の地

(長楽寺)


長楽寺

 長楽寺は、新田氏の祖新田義重の子、得川義季を開基とし、承久三年(1221)に創建された東日本最初の禅寺である。戦国末期には寺運は著しく衰退したが、徳川家康が関東の地に封じられると、天海僧正を住職に任じて復興に当たらせた。天海は境内を整備し、伽藍を修復し、末寺七百余ヵ寺を擁する大寺院に成長させた。しかし、明治維新によって徳川幕府が崩壊すると、荒廃するに任されたが、最近になってその歴史的価値が認識され、各方面の支援を得て、再興されている。


開山堂


新田家累代墓

 開山堂の裏に新田氏累代の墓地があり、そこに幕末明治期に活躍した新田俊純やその父道純の墓がある。墓地は雑草が生い茂り、蜘蛛の巣が縦横に張っている。もう少し維持保存に手を入れてもらいたいものである。


従四位男爵新田俊純墓

 新田俊純は、文化十二年(1829)、新田道純の長男に生まれた。新田岩松家の嗣子として安政元年(1854)、家督を継いだ。慶応三年(1867)、上野の金井之恭、大館謙三郎らが新田氏の遺臣と称して新田勤王党を組織した。その首領に推戴された。こと露見して党員らは岩鼻の獄に繋がれたが、東山道先鋒総督に東下に会い、高崎における勤王の誠意を披瀝し、中軍随従を命じられ、ついで大総督宮より大隊旗を授与されて、上野国戸倉おける会津軍追討を担当した。慶応四年(1868)五月、朝臣に加えられ、菅沼左近将監触下の中大夫、江戸鉄砲洲開市門の守衛、市中取締に就いた。明治六年(1873)、検査寮出仕。明治二十七年(1894)、年六十六で没。長女は井上馨の妻となった。東京谷中にも墓があり、長楽寺の墓は遺髪を収めたものか。


新田道純の墓


太鼓門

 太鼓門は、鼓楼とも呼ばれ、江戸初期の建造。楼上に太鼓をかけ、寺の諸行事の合図に使用された。


忠霊塔

 忠霊塔は、昭和二十一年(1946)に世良田村によって建てられた。忠霊塔には、明治十年(1877)の西南戦争から太平洋戦争までの二百四十五名の英霊が祀られている。
 西南戦争では、この地出身の柿沼谷吉という兵卒が戦死している。

(世良田東照宮)


世良田東照宮

 徳川家康が亡くなると、その遺体は日光東照宮に葬られたが、当時日光輪王寺と長楽寺の住職を兼ねていた天海は、家光による日光の改修以前の旧社殿の一部を、徳川氏発祥の地である世良田の長楽寺境内に移築して、東照宮を勧請した。
 つまりこの場所は、幕末倒幕に挙兵した新田俊純とその幕府を開いた徳川家康が背中合わせで同居しているという不思議な空間なわけである。

(太田市立新田荘歴史資料館)
 東照宮に隣接して新田荘歴史資料館が開設されている(昭和六十年(1985)に開設された東毛歴史資料館が改称されたもの)。地方の資料館としては驚くほど、立派な施設である。入館料二百円。資料館の前には新田氏が生んだスーパースター新田義貞像がある。


新田荘歴史資料館


新田義貞公之像

 展示はこの地域の原始・古代からの歴史に関わるものから、新田義貞が活躍した南北朝時代、さらに江戸時代に至る出土品、武具、錦絵などが展示されていて、大変充実している。個人的には、新田俊純が残した「武者絵」(明王院蔵)が目をひいた。
 幕末、新田氏の末裔と称する岩松氏が現在の太田市下田島町に屋敷を構えていたが、生活は決して楽なものではなかったようである。岩松義寄(よしより)、徳純(よしずみ)、道純、俊純の四代は、生活の糧を得るために「猫絵」を大量に残した。「新田猫絵」は、養蚕の大敵であるネズミ除けとして人気を集めたというが、多分、ネズミ退治にはあまり実効はなかったのだろう。それにしても猫絵が四代にもわたって描き続けられたということは、新田氏の血筋がそれなりに有り難かられたということを意味している。

(明王院)


明王院

 明王院は、新田義貞が居住した安養寺館跡といわれ、境内には、千体の不動明王像をピラミッド状に積み上げた千体不動塔(延享四年(1747)建立)がある。


不動尊

 不動尊の文字は、新田道純の筆によるもの。

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太田 Ⅱ

2017年07月21日 | 群馬県
(太田行政センター)


太田宿本陣跡地

 八王子から武蔵野線、東武伊勢崎線を経由して三時間超。ここから金龍寺まではバスもレンタサイクルもないので、歩くしかない。太田駅北口を出て、東武伊勢崎線と並行して走っているのが旧日光例幣使道である。太田行政センターの前に本陣跡の石碑が置かれているが、これ以外にこの近辺が宿場町であったことを知らせてくれるものは見当たらない。
 元治元年(1864)十一月十一日、上州路に入った天狗党一行は太田の金龍寺に宿泊した。翌十二日は雨で、天狗党はこの寺に二日続けて宿泊したが、その間、太田宿で兵糧軍資金などの金穀調達に努めた。

(金龍寺)
 金龍寺は、越前藤島で戦死した新田義貞を弔うため、応永五年(1398)、新田岩松系の岩松三河守源満純が開基した寺である。その後、応永二十四年(1417)、金山城主横瀬貞氏(義貞の三男義宗の子)が越前からこの地に移した。天正十八年(1590)、金山城主横瀬信濃守国繁が常陸牛久に移封されると、寺も移った。これを惜しんだ、館林城主榊原康政が田畑八町余りを寄進し、寺を再興した。今も新田義貞の木像、墓が残されている。門前には新田義貞を顕彰する石碑が建てられている。昭和八年(1933)の建立。篆額は、新田義貞の末裔と称する徳川家十六代当主徳川家達。


金龍寺


左中将新田君誠忠碑

(大光院)


大光院

 金龍寺のすぐ南に大光院がある。元治元年(1864)十一月、大田宿に到達した天狗党一行を、金井五郎(維新後、之恭)が訪ねた。彼らが金井と面会したのが、大光院だったといわれる。金井五郎は、天狗党に対して高崎藩・伊勢崎藩との衝突を避けて間道を行くことを助言した。
 金井五郎は、その三年後の慶応三年(1867)、岩松万次郎(後の新田俊純)を担いで挙兵しようとしたが、事前に露見して岩鼻代官所の獄に繋がれた。

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大田原 須賀川

2017年07月16日 | 栃木県
(雲厳寺)
 雲巌寺は、弘安三年(1283)に仏国国師が開山したという古刹である。銅板葺きの山門は、かつてはこけら葺きであったという。江戸前期の建築といわれる。


雲巌寺

 元治元年(1864)十月一日、天狗党は大子から八溝山麓を西に進んで、須賀川から雲巌寺に出た。この時、諸生派は伐木を並べて発砲し進路を阻んだ。その時の弾痕が雲巌寺の山門に残っていたが、今は埋木してあって、確認することができない。

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大子 Ⅱ

2017年07月16日 | 茨城県
(旧外池家住宅)


外池呉服店店舗

 久しぶりに大子を歩いた。以前、この街を訪れたのは、当時中学校二年生だった息子と一緒だったが、その息子も今や大学二年生となった。
 外池家は元治元年(1864)の乱の際、天狗党幹部が本陣としたといわれる。
 外池家は、屋号を「近江屋」と称する呉服屋であった。現在残っている建物は、明治二十九年(1896)の建築で、天狗党が利用した当時のものではないが、初代が当地に移り住み、呉服店を創業した当時のものである。呉服店として平成七年(1895)頃まで営業を続けていた。現在は、器而庵というギャラリーになっている。

(大沢穴観音)
 岩尾山の山腹に間口六メートル、奥行き十メートルほどの横穴洞窟がある。数百年前から地域住民の信仰の洞窟として、洞窟の奥に如意輪観音、聖観音、観音菩薩、馬力神等の身の丈の小さい石仏が二十体ほど安置されている。
 水戸藩士関鉄之介は一時大沢穴観音に身を隠し、当時高柴村で水戸藩の郷士に列した柏忠教が三度の食事を運び匿ったと言い伝えられている。


大沢穴観音

 登山口から穴観音まで距離はわずか数十メートルで、所用時間も五~六分といったところだが、思いのほか坂は急峻で、息が切れる。


岩尾山
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常陸大宮 Ⅲ

2017年07月16日 | 茨城県
(吉田神社)
 吉田神社の所在する下伊勢畑という集落は、鯉沼伊織こと香川敬三の出身地である。慶応三年(1867)、高野山挙兵に参加する際に、死を覚悟した鯉沼伊織は、故郷に自分の頭髪を残した。鯉沼家墓地には鯉沼伊織埋髪塔が残されることになった。
 鯉沼伊織埋髪塔を探して下伊勢畑の吉田神社を訪ねた。鯉沼家の墓地を探して附近をウロウロしていると、突然犬に吠えかかられた。噛みつかんばかりの吠声を聞きつけ、その家の主が出てきて、「何か御用ですか。」と訊かれたので、正直に事情を話した。御主人は「それならうちの墓だよ。」といって、そこまで連れて行ってくださった。神社の本殿のちょうど真下辺りに鯉沼家の墓地があった。御主人によれば、数日前にも茨城県立歴史館の方がこの埋髪塔の取材に来られたそうである。御主人と私が普通に会話している様子を見て安心したのか、犬は急に大人しくなり、私の足もとで盛んに匂いを嗅いでいた。
 鯉沼伊織埋髪塔の裏面には、漢文でこの碑が建てられた経緯が記されている。宮内官僚の股野琢の撰文ならびに書。
 鯉沼伊織は、高野山挙兵のあと、香川敬三と名を改め、東山道軍総督府大軍監として岩倉具定に従って東下した。流山で新選組の近藤勇を捕縛したのは有名である。その後も会津まで転戦した。
 戦後、宮内省に転じ、要職を歴任するとともに、数少ない水戸藩出身者として幕末の同志の名誉回復、顕彰に努めた。


吉田神社


鯉沼伊織埋髪塔


故鯉沼夫人竹子墓

 埋髪塔の横には、鯉沼伊織夫人の竹子の墓。さらに養父で吉田神社神官鯉沼綱彦の墓もある。
 

故鯉沼綱彦君墓

 
(鯉沼家)


鯉沼家

 御主人によれば、香川敬三の家系は次男にあたり、御主人はその家系だという。長男が継いだ方の家には、香川敬三が建てた立派な別荘がある。御主人が「あそこ」と教えていただいた場所に行ってみると、家屋の周辺は雑草が生い茂り、屋敷門も草で覆われて、人が住んでいる気配が感じられなかった。

(吉田八幡神社)


吉田八幡神社

 小田野の吉田八幡神社は、樹齢八百五十年以上、幹の周囲十メートル、樹高五十八メートルという二本の杉の巨木がそびえている。久寿二年(1155)、相模の三浦大介義明が、下野那須野ヶ原に金毛九尾の悪狐退治に行く途中、この神社に参拝し、祈願して植えた杉と伝えられる。その話を聞いた徳川光圀により三浦杉と命名された。


海後瑳磯之介潜居之趾

 桜田門外の変後、実行犯の一人である海後瑳磯之介は、実兄粂之介が吉田八幡神社の神官高野家の養子となっていた関係から、密かに当地で潜伏していた。現在、高野家の庭先に海後瑳磯之介が潜伏していたことを示す石碑が建てられている。海後瑳磯之介は、十八人の桜田烈士のうち、明治まで生き延びた二人のうちの一人である(もう一人は増子金八)。

萬延元年三月二日海後五□之詠める

 国のため君へつくさんことの葉に
 きゆるもうれし露の玉のを

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水戸 上水戸町 Ⅱ

2017年07月09日 | 茨城県
(本行寺)


故信蔵村松君墓

 村松信蔵は彦六の長男。十石四人扶持。馬廻。明治元年(1868)十月一日、水戸城三ノ丸にて戦死。

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