高村光雲(1852~1934)といえば、明治期を代表する木彫家で、上野の西郷隆盛像や皇居の楠木正成像の製作者としても知られる。「座談の名手」としても有名で、本書は田村松魚や息子の光太郎を相手に生い立ちから彫刻家として名を成すまでを、様々なエピソードを織り交ぜながら語ったものである。なるほど読み手を飽きさせない語り口は、「名手」と呼ぶのに相応しい。
座談が筆記されたのは、高雲が七十歳を迎えた大正十一年(1922)前後のことだが、何より驚かされるのはその驚異的な記憶力である。「名高かった店などの印象」では、浅草雷門付近の名店を紹介するが、酒屋の隣が薬種屋、その手前がそば屋、その次が金物屋でその南が天婦羅屋といった具合に目の前に街並みが浮かんでいるかの如くである。何のメモもなく、記憶だけを頼りに話しているとすれば尋常ではない。この常人離れした観察眼と記憶力が芸術の道でも活かされているのかもしれない。
彫刻の世界というのは、少なくとも私には全く縁の無い世界である。光雲が師匠に弟子入りした頃は、芸術ではなくて、飽くまで仏像などを彫る仏師としてこの道に入ったということがよく分かる。仏師から何時しか彫刻家に転身し、芸術としての評価を勝ち取ったのも、高雲の功績であろう。
感心したのは、矮鶏(ちゃぼ)を彫ると決まれば四方に手を尽くして矮鶏を入手して飼い、狆(ちん)を彫るとなれば評判の良い狆を手元において始終観察を怠らない。光雲の代表作の一つとなった「老猿」を彫るときも、自宅で猿を飼った(時にその猿が逃げ出すこともあったという)。全く妥協をせず写実(リアリティ)を徹底すれば、そうするのが当然なのかもしれないが、「そこまでやるのか」というのが正直な感想である。
住友家から委託を受けて、楠木正成像を製作した経緯なども詳しく紹介されている。やはりこの時代の銅像製作には力が入っている。兜や鎧の考証なども、専門家の力を借りて調べ尽くしており、後世から見ても批判の余地のないものとなっている。これと比べれば昨今大量生産される銅像は、いかにも軽い。
残念なことに、上野西郷像の製作については本書ではひと言も触れられていない。他のことはペラペラと語り残しているだけに、西郷像についての言及がないことは不自然なくらいである。
上野戦争や浅草大火などの体験談もリアリティがあふれる。同時代の証言として貴重なものである。
座談が筆記されたのは、高雲が七十歳を迎えた大正十一年(1922)前後のことだが、何より驚かされるのはその驚異的な記憶力である。「名高かった店などの印象」では、浅草雷門付近の名店を紹介するが、酒屋の隣が薬種屋、その手前がそば屋、その次が金物屋でその南が天婦羅屋といった具合に目の前に街並みが浮かんでいるかの如くである。何のメモもなく、記憶だけを頼りに話しているとすれば尋常ではない。この常人離れした観察眼と記憶力が芸術の道でも活かされているのかもしれない。
彫刻の世界というのは、少なくとも私には全く縁の無い世界である。光雲が師匠に弟子入りした頃は、芸術ではなくて、飽くまで仏像などを彫る仏師としてこの道に入ったということがよく分かる。仏師から何時しか彫刻家に転身し、芸術としての評価を勝ち取ったのも、高雲の功績であろう。
感心したのは、矮鶏(ちゃぼ)を彫ると決まれば四方に手を尽くして矮鶏を入手して飼い、狆(ちん)を彫るとなれば評判の良い狆を手元において始終観察を怠らない。光雲の代表作の一つとなった「老猿」を彫るときも、自宅で猿を飼った(時にその猿が逃げ出すこともあったという)。全く妥協をせず写実(リアリティ)を徹底すれば、そうするのが当然なのかもしれないが、「そこまでやるのか」というのが正直な感想である。
住友家から委託を受けて、楠木正成像を製作した経緯なども詳しく紹介されている。やはりこの時代の銅像製作には力が入っている。兜や鎧の考証なども、専門家の力を借りて調べ尽くしており、後世から見ても批判の余地のないものとなっている。これと比べれば昨今大量生産される銅像は、いかにも軽い。
残念なことに、上野西郷像の製作については本書ではひと言も触れられていない。他のことはペラペラと語り残しているだけに、西郷像についての言及がないことは不自然なくらいである。
上野戦争や浅草大火などの体験談もリアリティがあふれる。同時代の証言として貴重なものである。