史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

アンコール遺跡とカンボジアの歴史 フーオッ・タット著 今川幸雄編訳 めこん

2024年01月27日 | 書評

来月、テト(旧正月)休暇を利用してカンボジアを旅行することになった。これを機にアンコールワット遺跡とカンボジアの歴史を学習しておきたいと思い書籍を探していたところ、まさにぴったりの書籍名の本をみつけたので早速取り寄せた。本書は前半がアンコールワット等の遺跡の解説、後半がカンボジアの歴史に関する記述となっている。

本書によれば、カンボジアに初めて国家が成立したのが西暦68年。インドからきた一人のブラフマン(カースト制でいう最高位の貴族)がこの地で挙兵し、コークトロークに侵攻して征服した(成立の経緯については諸説あり)。コークトローク(Kouk Thlok)は、プノンペンの100キロメートルほど南、ベトナムとの国境の街である。

その後、現代に至るまで何人もの王が立ったが、いずれも強い政権とはならず、興廃を繰り返した。振り返ればアンコールワットに遺跡群を残したいわゆるアンコール王朝(802~1431頃)がもっともカンボジアが隆盛を誇った時代であった。この時期、クメール民族は世界最大級の文化遺産を建立したというだけではなく、チャム(チャンパ)人の侵攻を幾度となく退け、軍事的にも強大であった。しかし13世紀初頭、クメールの西でシャム族が統一王朝を樹立する(スコータイ王朝)と、その軍事的圧迫を受け衰退した。その後、西はシャム、東はベトナムからの圧力を受けて、政治的には安定せずほとんど国家の体をなさない状態が続いた。カンボジアの暗黒時代といわれる。

それにしても隣国カンボジアから見ると、ベトナムというのは非常に好戦的で煩わしい存在であった。ベトナム人は紀元前から中国の歴代王朝からの干渉を受け、彼らの「中国嫌い」は骨の髄まで染みついている。これと全く同じことがベトナムとカンボジア間の関係にも言えるのではなかろうか。ベトナムは、今度は加害者に立場を変えることになるが、それほどカンボジアに対して罪の意識を感じていないかもしれない。カンボジア人がベトナムに対してどのような感情を抱いているのか、直接聞いてみたいものである。

カンボジアの悲惨な歴史は、アンコール王朝の滅亡から始まっているが、我々がこの国に抱いている強烈な負のイメージは、戦後の歴史に起因している。ベトナムがインドシナ戦争やベトナム戦争を経てようやく独立を獲得したのに対し、ノロドム・シハヌーク国王は粘り強く独立運動を展開し、国際世論にも訴えた結果、血を流すことなく1953年に独立を成し遂げた。しかし1970年、親米派のロン・ノル(当時国防相)がシハヌークの外遊中を狙ってクーデターを起こし、クメール共和国の樹立を宣言。ロン・ノルは激しい反ベトナム(反共産)キャンペーンを展開し、南ベトナム民族解放戦線(NLF=ベトコンと呼ばれることが多い)を敵視し、カンボジアに住むベトナム系住民を迫害・虐殺した。さらにアメリカ軍や南ベトナムに要請して、自国を空爆させるといった無茶苦茶なことをやりだした。当時アメリカが「反ベトナム、反共産主義」というだけでロン・ノル政権を支持していたことも理解に苦しむ。

ベトナム戦争が終結し米軍がインドシナ半島から撤退すると、後ろ盾を失ったロン・ノル政権も追い詰められ、1975年にクメール共和国は崩壊した。ロン・ノルに代わってプノンペンに入城したのが、ポル・ポトを首魁とするクメール・ルージュである。彼らは極端な原始共産主義への回帰を標榜し、都市の富裕層や知識階級、留学生などを次々と虐殺した。このとき百万を超える国民が虐殺されたといわれる。今もカンボジアの各地でポル・ポトによる虐殺の跡(キリング・フィールド=大虐殺が行われた刑場跡)を見ることができる。やがてクメール・ルージュに反発したベトナムとカンボジアとは戦争状態となるが、1979年、ベトナムのプノンペン攻略によってクメール・ルージュは掃討された。その後もカンボジア内戦は泥沼化が続き、1993年、シハヌークが国王に復し、現代に続くカンボジア王国が誕生し、ようやくカンボジアに平和が訪れた。我々外国人がアンコールワット遺跡を自由に見学できるようになったのも、この時期以降のことである。

こうしてカンボジアの歴史を概観すると、その国を率いるリーダーの資質がいかに国民の生活や平和に大きく影響するかという当たり前のことを実感する。我が国の歴史を見れば、昭和初期(戦前の20年)の常軌を逸した時期を除けば、国のリーダーは(完璧とはいわないまでも)比較的真っ当だったといえる。特に明治維新から日露戦争に至るまでの国家の黎明期ともいえる重要な時期、大久保利通や伊藤博文といったリーダーは、国家の行く末を真剣に考えていたという点で優秀であった。これは我が国にとって本当に幸いであったと思う。

 

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青山霊園 補遺 Ⅸ

2024年01月20日 | 東京都

(青山霊園)

薄井龍之

 

小蓮薄井龍之

室 貞子 墓

1種イ2号8側

 

一時帰国中の貴重な一日、嫁さんが草加市(埼玉県)に用事があるというので、そこまで自動車で送っていった後、迷わず訪ねたのが青山霊園である。何度訪ねても新たな発見がある。

この日はひたすら霊園内を歩いて、薄井龍之の墓を探し当てることができた。

薄井龍之(たつゆき)は、文政十二年(1829)、信濃国飯田の富商の生まれ。家運が傾いたため、江戸へ出て昌平黌の学僕となり、かたわらで頼三樹三郎に師事。三樹三郎が幕吏に捕らえられたとき、途上で奪回しようとして捕らえられ入獄した。脱獄して水戸の天狗党に加わり、元治元年(1864)、筑波挙兵に参加して上京の途中、小諸藩士に捕らえられたが、またしても脱走。上京して岩倉具視の知遇を得、維新後、裁判官となった。高橋お伝の裁判官としても知られる。大正五年(1916)、年八十八にて没。

 

藤井九成(きゅうせい)

 

藤井九成墓

室 八重子之墓

1種ロ15号8側

 

藤井九成は天保八年(1837)、京都の生まれ。曾祖父は明和事件に連座した藤井右門である。父が病んで家系が豊かではなかったため、三条家の小姓となった。十四歳のとき、同家儒臣富田織部に従って数年間西国を歴遊し、のち明経博士伏原家の孔彰堂に通学した。安政三年(1857)、家を弟に譲り、変名して国事に奔走した。このこと伏原家より九成の号を与えられ、通称とした。岩倉具視と親交があり、その幽居中も訪れ、ついで大業に参画した。その邸宅が薩摩屋敷とも藪続きであったため、西郷・大久保らの密議の結果を三条・岩倉に送る使者を務めた。慶應四年(1867)、戊辰戦争に東山道鎮撫使岩倉友定の軍監として征討軍に参加した。のち岩倉家家令、ついで諸職を経て宮内省陵墓守長となった。明治四十三年(1910)、年七十四歳で没。

なお藤井邸は烏丸通り拡張の折、山科稲荷山に移築されている。

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西陣 Ⅲ

2024年01月13日 | 京都府

(善福寺)

 

善福寺

 

 善福寺(上京区尼ケ崎横町出水通千本西入355)は、多田郷士隊が屯所として使用したという寺である。多田郷士隊というのは、北摂多田庄出身者による郷士隊で、戊辰戦争が始まると招集されて上京し、その後、東山道軍や北総総督軍に従って各地を転戦した。多田隊には従軍した隊員とは別に京都に残った留守隊員がいた。また東山道総督軍に従軍した隊員は、慶應四年(1868)六月に京都に凱旋している。そのうち脇田頼三、新井三郎、赤松譲之助、大島賢司、多田佐市、新井左近の六名は、岩倉家の用人・常勤となって仕えることになった。残された多田隊留守隊は、吉村雅楽介、中沢主計、森本左近、長谷中司の四人が頭取となって、善福寺を屯所として駐留を続けた。彼らは新たに入隊所を募り増員されたが、同年十一月末、吉村ら幹部が隊の金を酒宴・遊興に使ったとして隊内から訴えられている。さらに明治二年(1869)一月には、頭取批判グループ、吉村・森本・長谷らを中心としたグループ、頭取の一人中西を中心としたグループに分裂。その後も彼らは分裂と合流を繰り返したが、明治二年(1869)七月二十日、新政府刑法官より多田隊廃止が発せられた。残留していた隊員はそれぞれ出身地に引き取られたが、その後には多額の借金が残されたという(「戊辰戦争と草莽の志士」高木俊輔著 吉川弘文館)。

 

(大幸寺)

 

大幸寺

 

 「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)によると藤井九成の墓が大幸寺にあるというので、墓地を歩いてみた。藤井姓の墓が二つ見つかったが、藤井九成の血縁者かどうかは不明。

 その後、青山霊園で藤井九成の墓に出会ったので、彼の墓は移葬されたとみるのが自然であろう。

 

(瑞雲院)

 

瑞雲院

 

 同じく「明治維新人名辞典」情報だが、瑞雲院には画家横山華渓の墓があるという。こちらも探し方が十分ではなかったのか、発見に至らず。

 横山華渓(かけい)は、文化十二年(1815)の生まれ。生家は、柏屋という若狭国高浜町の名門で、農桑と酒造を業とした。幼より絵心が豊かで、堀尾某に学び、長じて京都で岸駒の門に入り、また横山華山に師事し、天保八年(1837)、師が没すると横山家を継いだ。堂上公家諸侯に出入りして大作をものし、紫宸殿の襖絵に「十八賢画像」を謹写したという。遺作ははなはだ多いが、特に「蘭亭の図」は山水を描いた大作である。余徳として桑苗施行を企て、年々八十万本の桑を若狭および近国の有志に頒つことを五ヵ年に及んだ。元治元年(1864)二月、年五十で没。

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円町 Ⅴ

2024年01月13日 | 京都府

(慈眼寺)

 慈眼寺(じげんじ)は、天正十年(1588)、鷹司信房の妻嶽星院が父の熊本城主佐々成政の菩提を弔うために建立したもので、墓地には佐々成政の墓がある。当初、西陣の地に建てられたが、後に寺町丸太町に移され、寛文三年(1663)に現在地(上京区七番町)に再建された。墓地には南画家山本梅逸の墓がある。

 

慈眼寺

 

山本梅逸居士(山本梅逸の墓)

 

 山本梅逸(ばいいつ)は、天明三年(1783)、尾張名古屋の生まれ。父は彫刻士山本友右衛門。初め張月樵に画を学ぶ。父が早世し、一時神谷天遊の学僕となった。中林竹洞と親交し、ともに京都に出て「芥分園画伝」や明・清の名蹟に学び、画技を磨いた。山水・花鳥をよくし、繊細な筆と姸麗な賦彩を特色とし、京洛の地に大いに行われ、名声竹洞と比肩した。煎茶をよくし、しばしば雅客を迎えて茶会を催した。藩侯の御殿落成に際し、江戸の谷文晁と襖絵を描いたこともある。一時江戸に下り、文晁の斡旋を得て画名上がったが、流行におぼれて次第に人気が落ちた。天保三年(1842)以降、ニ~三年間京都にとどまり、安政元年(1854)、七十二歳のとき名古屋に帰って、藩の御絵師格となった。笛や和歌にも長じた。門下に藤堂凌雲らがいる。門人梅所を養嗣子とした(同じ墓に梅所も葬られている)。安政三年(1856)、年七十四にて没。

 

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烏丸 Ⅴ

2024年01月13日 | 京都府

(新町通り)

 

幸野楳嶺生誕地

 

 四条烏丸の交差点から西に二本目の筋が新町通りである。四条通りから新町通りを下ると、三十メートルほどのところの民家の前に幸野楳嶺生誕地を示す小さな石碑が建てられている。幸野楳嶺は、弘化元年(1844)、金穀貸付業を営む安田四郎兵衛の第四子としてこの地に生まれた。嘉永五年(1852)、楳嶺九歳のとき、円山派の絵師中島来章に入門した。なお新町四条の生家は、元治元年(1864)の禁門の変で罹災したという。

 

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下鴨神社 Ⅳ

2024年01月13日 | 京都府

(御蔭通り)

 

明治天皇御駐輦所寒天製造場阯

 

 下賀神社の前の道(南側)は御蔭通りと名付けられている。歯医者の隣の民家の前に「明治天皇寒天製造場阯」碑が建っている。明治十年(1877)、二月一日に行幸があった。

 

(本満寺つづき)

 三上復一(またいち)の墓を訪ねて本満寺の墓地を歩いた。三上家の墓は複数発見したが、復一が合葬されている確信は得られなかった。

 三上復一は、天保四年(1833)、京都西陣の生まれ。三上家は禁裏御寮織物司(旧織部司)に所属した六家のうちの一つで、元亀二年(1571)、大舎人座の兄部(こうべ)に任命され、宮中の織物をつかさどり、明治三年(1870)まで代々相勤めた。復一は万延元年(1860)、平田家より養子に入り、織物司三上家の最後で、文久二年(1862)越前介の口宣案を拝受した。孝明天皇の葬儀、明治天皇の即位時の様々な装束を調進し、東京遷都にも扈従したが、まもなく帰京して稼業一筋に生きた。大正八年(1919)、年八十七にて没。

 三上家は今も京都市上京区紋屋町に存続しているそうだ。実家の近所なので、一度確認に行ってみたい。

 

(阿弥陀寺)

 阿弥陀寺には織田信長、織田信忠父子の墓があることで知られる。

 寺に伝わる話によれば、本能寺が襲われたという情報に接した阿弥陀寺住職清玉上人は直ちに本能寺に駆け付けた。しかし、清玉上人が目にしたのは自害して果てた信長の遺体であった。上人は信長の首をもらいうけ、闇に紛れて寺に持ち帰り、ここに葬ったといわれる。

 墓地に入るには寺務所にて五百円を支払わなくてはいけない。私の目当ては、織田信長の墓ではなくて、石山基文・基正父子の墓だったのだが、石山姓の墓石すら発見することはできなかった。仕方なく織田信長・信忠父子の墓の写真を撮って撤退。

 

阿弥陀寺

 

織田信長(右)・信忠父子の墓

 

森蘭丸らの墓

 

清玉上人の墓

 

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京都御所 Ⅹ

2024年01月13日 | 京都府

(博覧会場跡)

 

博覧会場跡

 

 東京遷都により京都が寂れるのを心配した京都府関係者は、明治四年(1871)、日本最初の博覧会を西本願寺で開いた。この時、伝統的産業品を網羅して展示し、京都の殖産興業を図った。第二回から第九回の博覧会は仙洞御所内で開催され、明治十四年(1881)の第十回から、御所内に建設された常設会場が使われた。大正三年(1914)以降は、岡崎の京都市勧業館が会場となった。

 

(鴨沂高校)

 鴨沂(おうき)高校正門前に「明治天皇行幸所京都府尋常中学校」碑が建てられている。明治二十年(1887)二月一日の行幸。

 

鴨沂高校

 

明治天皇行幸所京都府尋常中学校

 

(廬山寺つづき)

 廬山寺は、紫式部が育ち、独身時代を過ごしたのは紫式部の曽祖父藤原兼輔が建てた邸宅であり、父為時の邸宅においてであった。この邸宅で結婚生活を送り、一人娘の賢子(かたこ)を育て、源氏物語を執筆したとされる。来年(令和六年(2024))の大河ドラマで舞台となる場所である。

 

贈正五位秋元正一郎(安民)墓

 

 秋元安民(やすたみ)は、文政六年(1823)の生まれ。安民は諱。通称は正一郎、正蔭、逸民、御民などと称した。姫路藩校仁寿山黌の使丁となって和漢の書を読み、のち大国隆正に就いて国学・歌道を修め、一時その養子となり名を正蔭と改めた。のち辞して本姓に復した。伴信友に従学ののち、播州三木に塾を開き、その後藩に召還されて国学寮教授となった。安政年間江戸出役中、洋書を通じて洋式帆船を研究し、藩主にその建造を進言して、同藩に全国初の様式船建造の緒を作った。文久二年(1862)、藩主酒井忠績に随従して上京し、同藩勤王の首唱者として活躍したが、同年八月、京都三本木の寓所にて病没した。年四十。

 

正二位前權大納言藤原定祥卿墓

(野宮定祥の墓)

 

 野宮定祥(さだなが)は、寛政十二年(1800)の生まれ。父は左近衛権中将野宮定静。文政七年(1824)閏八月、左近衛権少将に任じられ、天保元年(1830)十二月、左近衛権中将に進み、天保六年(1835)十二月、参議となり、従三位に叙された。天保十一年(1840)七月、東宮(孝明天皇)三卿に補され、その践祚に至るまで側近として仕えた。弘化三年(1846)、石清水八幡宮臨時祭に際し、孝明天皇は特に外患を祈祷するや、その勅使を奉仕した。その後、嘉永元年(1848)二月、議奏に進んで朝政にあずかったが、嘉永四年(1851)五月、これを辞し、安政元年(1854)六月、祐宮(のちの明治天皇)非常付となり、権大納言に進んだ。安政五年(1858)、年五十九で没。

 

 定祥の長男野宮定功(さだいさ)の墓も蘆山寺にあるはずだが、特定できなかった。野宮定功は安政五年(1858)の八十八卿列参に参加するなど公武合体派公家の一人として活躍し、維新後は山陵御用掛などを務めた。

 

仁孝天皇皇子 鎔宮(のりのみや)墓

孝明天皇皇女 壽萬宮(すまのみや)墓

 

 寿万宮(すまのみや)の墓は、墓地入口に土塀に囲まれている。背伸びしてようやく墓の一部を覗くことができる。

 寿万宮は、安政六年(1859)三月の生まれ。父は孝明天皇、母は掌侍堀河紀子である。法名は宝蓮華院という。万延元年(1860)八月、和宮降嫁の議が和宮の固辞によって難航した際、孝明天皇はその前年に誕生したこの皇女を代わりとして将軍家茂へ降嫁させることを決意し、幕府と交渉することになった。しかし、何分にも幼少であるため成立せず、宮も翌文久元年(1861)五月、わずか三歳で薨じた。

 

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堀川寺ノ内 Ⅲ

2024年01月13日 | 京都府

(妙顕寺つづき)

 妙顕寺墓地で藤井勘七の墓を探した。藤井家の墓はいくつか見つけたが、藤井勘七のものと特定できる墓石はなかった。

 藤井勘七は、天保十三年(1842)の生まれ。諱は永尚。通称は熊次郎といった。藤井家は、京都三条烏丸に店を構え、禁裏御用呉服司に呉服物を納入した御用商人七家のうちの一つである。管理奉行は中世末より内蔵寮の山科家で、孝明天皇・明治天皇の儀式の時に主に女官用呉服類を調進し、その余暇に京中で高級呉服の販売も行っていた。元治元年(1864)七月の禁門の変に御所の女官たちが比叡山に避難したとき、足袋三十足の火急の注文があり、戦火の中を届けた。この変で屋敷も火災に遭ったが、直ちに復興した。東京遷都後、二男が宮中の御用を勤めたが、洋装化の風潮と三越らの新興勢力に押されて次第に衰微し、京都店も同時に衰えた。明治四十二年(1909)、年六十八にて没。法名「永遠院尚道日雅信士」。

 

(妙蓮寺)

 堀川通りの西側に妙蓮寺の広い境内がある。墓地には赤穂浪士四十六名の遺髪墓がある。切腹した四十六名の遺髪を同志であった寺坂吉右衛門が赤穂城下へ持ち帰る途中、京都伏見に住む片岡源五右衛門の姉宅に立寄り、遺髪を託した。主君の三回忌にあたる元禄十七年(1704)、この姉が施主となり菩提寺である妙蓮寺に墓を建立して遺髪を納めた。以降、三百年の風雪により損傷甚だしいため、近年再建されたものが現在の墓石である。

 

妙蓮寺

 

赤穂浪士遺髪墓

 

帝室技藝員幸野楳嶺埋骨處

 

 妙蓮寺墓地には日本画家幸野楳嶺(こうのばいれい)の墓がある。

 幸野楳嶺は弘化元年(1844)、京都新町四条の生まれ。九歳で中島来章(円山応瑞門)に学ぶ。二十四歳のとき、父方の幸野家を再興した。明治四年(1871)、塩川文麟に師事。明治十一年(1878)、同志と京都府立画学校設立を建議し、明治十三年(1880)、開校すると副教員となった。明治十五年(1882)、第一回内国絵画共進会審査員、同絵事功労賞、同著述賞受賞、同二回展銀印。次々と画塾を開設し子弟を要請した。門下に竹内栖鳳、菊池芳文、川合玉堂、都路華香、上村松園らがある。明治二十五年(1892)、シカゴ万国博覧会に「秋日田家」を出品。明治二十六年(1893)、帝室技藝員になった。明治二十八年(1895)、年五十二で没。

 

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八尾 Ⅲ

2024年01月07日 | 大阪府

(聞成坊)

 JR八尾駅から徒歩で十数分の市街地に聞成坊という寺がある。その北東の角に「飯田忠彦旧棲地址」碑が建てられている。

 

聞成坊

 

飯田忠彦旧棲地址

 

 石碑は、右手の鉄枠で補強された方である。「飯田忠彦旧」まで読むことができる。

 この場所は、八尾の十三ヶ村の大庄屋飯田家の屋敷跡である。飯田忠彦は徳山藩士生田兼門の二男に生まれ、縁あって飯田家の養子となった。非常な読書家で、いつも二階で読書に耽っていたことから「二階先生」と呼ばれた。若くして「大日本史」を読んで発奮し、勤王の志厚く、有栖川宮家に仕えたが、安政の大獄に連座し、また桜田門外で再び捕らえられ、自殺した。

 

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和泉

2024年01月07日 | 大阪府

(黒鳥山公園)

 

黒鳥山公園

 

 和泉市の黒鳥山公園は広くて見晴らしの良い公園である。その一画に天皇駐輦碑がある。藪の中にあって、なかなか見つけにくい。

 

天皇駐輦碑

 

 明治三十一年(1898)十一月十六日、明治天皇による大演習統監を記念した石碑である。

 

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