史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「咸臨丸、サンフランシスコにて」 植松三十里著 角川文庫

2014年08月26日 | 書評
近々アメリカへ出張することになった。行先はニューヨークであるが、せっかくだからこの機にアメリカに関する本を読みたいと思い、何冊か入手した。この本はその中の一冊である(舞台はサンフランシスコですが…)。「咸臨丸、サンフランシスコにて」と「咸臨丸のかたりべ」という二作が収められている。
植松三十里の小説は、これが初めてではない。以前読んだ「群青」も、しっかりとした時代考証、丁寧な人物描写に好感を持ったが、本書読後も同じ感想である。
万延元年(1860)の遣米使節に同行した咸臨丸の太平洋横断というと、勝海舟や福沢諭吉、ジョン万次郎といったビッグネームばかりが取り沙汰されるが、決して彼らだけの力でこの壮挙が実現したわけではない。むしろ、無名の水夫たちの命懸けの働きがあってこそ、可能になったということにもっと目を向けてよいだろう。乗船したのは凡そ百人。その半分は水夫であり、さらにその六割が塩飽諸島出身であった。
咸臨丸は暴風雨に揉まれ、劣悪な環境に置かれた水夫らのうち三名が、サンフランシスコで命を落とした。今もサンフランシスコには咸臨丸の水夫の墓が保存されている。このことは比較的知られた史実であるが、実は熱病のために帰国する咸臨丸に乗船できず、半年ほど遅れて帰国した水夫たちがいた。「咸臨丸、サンフランシスコにて」は、遠く離れたアメリカに取り残された無名の水夫たちの物語である。作者は、想像も交えながら、しかしリアルに、かつ劇的に彼らの心情を表出した。
二作目の「咸臨丸のかたりべ」は、文庫本で百ページに満たない小品であるが、主人公文倉平次郎の崇高な生き方に、ひたすら感動した。
文倉平次郎は、実在の人物である。この人について、司馬遼太郎先生は次のように評している。
――― 文倉平次郎という人物の名は、百科事典にも人名辞典にものっていない。生涯でただ一冊の本を書いたひとが、その社会的立場を表現する肩書としては古河鉱業の社員というに過ぎず、学者でも文筆家でもない。
――― これほど精緻ないわば原典に近い名著が、専門家でもなんでもないひとによって書かれたということについて、人間の情熱というものの不思議さを、書棚でこの本の背文字を見るたびに考えこまされる。(司馬遼太郎「十六の話」~「ある情熱」より)

文倉平次郎の情熱に火を点けたのは、彼がサンフランシスコにいたとき、墓地で三つ目の水夫(源蔵)の墓を見つけたことにあった。現地の図書館で咸臨丸の水夫が現地で亡くなったのは三人だったという事実を知った文倉平次郎は、もう一つの墓を探し出すために、墓所の事務所で下働きまでして、ある日、遂に土に埋まった源蔵の墓を掘り返すことができた。私もいつの日か、サンフランシスコの咸臨丸水夫の墓を詣でてみたいと思う。
墓に関しては、私も人並み以上の執念をもっているつもりであるが、最近は年齢のせいか、見つからなければ割とあっさりと諦めるようになってしまった。「どっかに移葬されたか、無縁墓として撤去されちゃったのだろう」と自らを納得させているが、文倉平次郎の執念を見て、フンドシを絞め直さないといけないと思った。
平次郎は、古河工業の社員として働く一方で、咸臨丸に関する資料を収集し、或いは乗船員の遺族から聞き取り調査をして、定年後「幕末軍艦咸臨丸」を書き上げる。実に八百頁に及ぶ大作であった。初版は五百部しか印刷されなかったという超稀覯本である。
一人の男が生涯をかけて書き上げた作品を読んでみたいと思ったが、二十年ほど前に中公文庫から再版されたものの、現在絶版となっている。「相楽総三とその同志」の書評にも書いたが ――― 売れる、売れないに関わらず ――― このような価値の高い本を継続して出版するのは出版社の責務である。何とか再刊してもらいたい(取り敢えず古本で探しましたけど…)。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「北の墓 ―歴史と人物を訪ねて 上」 合田一道・一道塾著 柏艪舎

2014年08月26日 | 書評
たまたま書店で見つけた本である。北海道に所縁の深い人物の履歴と墓、さらに戒名・諡号まで紹介したものである。上巻は北海道の黎明期から維新期を経て、明治・大正に至る時代。下巻は、昭和・平成編となっている。上巻だけで百名ほどを取り上げているが、個人的には本書で初めて知った人物も多い。
樺戸集治監初代典獄月形潔の墓が、大田区蒲田の安泰寺にあるということも、この本で知ることができた。暑いさ中であったが、早速安泰寺を訪ねた。
ほかにも梶原平馬(旧会津藩士)や関寛斎、吉田知行(旧尾張藩士)など、掃苔したい北の墓は山ほどある。それにしても北海道は遠くて広い。実現するのは、何時のことになるものやら…。
この本に紹介されている人物は、武士や商人、農民或は新政府側もしくは佐幕派など、様々な出自や背景を持った人たちである。敢えてその共通点を見出すとすれば、過酷な北海道の自然に挑んだ、峻烈な性格の持ち主が多いように思われる。
百名に近い人物の墓を訪ねた著者と塾生の執念には恐れ入る。中には北海道ではなくて、九州や関西、関東に所在する墓もあって、相当なエネルギーがないと、この本は完成しなかったであろう。素直に敬意を表したい。
なお、本書 ページに、堀利煕が文久二年(1862)に家督を継いだという記述があるが、堀利煕が自死したのが万延元年(1860)のことなので、どう考えてもこれは間違いであろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「平野國臣」 小河扶希子著 西日本新聞社

2014年08月24日 | 書評
生野の変のことを調べていて、平野國臣という一人の志士に興味を持った。書店でこの本を見つけたので、迷わず購入した。
「幕末の水戸藩」を著した山川菊栄は、國臣のことを「「和歌の心得があって人を動かす歌を詠んだりするだけで軽挙妄動、底の浅い人物」と酷評しているが、本書を読む限り軽薄な人物とは思えない。有職故実に通じ、楽器の演奏にも長けていた。恐らくこの分野でもこの時代の最先端を走っていたであろう。もし幕末に学校があれば、大学の先生くらいは十分に勤まるくらいの水準には達していたのではないか。
また、獄中で紙縒りを文字にして書き上げたという建白書は、討幕、そして天皇を中心とした統一国家を作ることに終始一貫している。國臣が亡くなった四年後に、彼が待ち望んだ天皇中心の統一国家は実現したわけであるが、文久年間から討幕を公然と主張していた人物は、國臣をおいて他にいないのではないか。彼は薩摩藩に期待し、久光に対して複数回にわたって建白書を送っている。久光は國臣の意見を黙殺したが、結局、討幕の主体となったのは、圧倒的な武力を備えた薩摩藩であった。この点でも國臣の先見性には狂いがなかった。
國臣は、長州藩の京都藩邸にいた野村和作の要請を受けて、大和挙兵(天誅組)を助けることを目的に生野における挙兵を実行しようとした。ところが、國臣が長州藩に来てみると、本家本元である長州藩では生野挙兵には消極的であった。いわば國臣は長州藩に見捨てられたのである。本来、この時点で挙兵を思いとどまるべきであった。結局、長州から参加した河上弥市以下の元奇兵隊グループに引きずられて挙兵することになり、自滅同然に鎮圧されてしまった。結果的に、國臣は長州藩に殺されたようなものである。
國臣は福岡藩の出身であったが、ほとんど所属藩の支援を受けることはできなかった。言い換えれば、藩から離れて自由に活動した志士の一人である。彼らは自由に活動できた一方で、悲惨な最期を迎えるのが常であった。本間精一郎、清河八郎、雲井龍雄、戸原卯橘。坂本龍馬もその一人であろう。そして國臣もその例外ではなかったのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小金井 Ⅱ

2014年08月24日 | 東京都
(金蔵院)


金蔵院


小金井小次郎君追悼碑

 JR小金井駅の南口を出て、徒歩凡そ十分の住宅街の中に金蔵院がある(小金井市中町4‐11)。金蔵院は、境内に白萩が多く植えられており、誰いうとなく「萩寺」と称されるようになった。
 金蔵院境内から少し離れた、西念寺の南の墓地に小金井小次郎の墓がある。一際高い追悼碑が目につくので、直ぐに分る。
 小金井小次郎は、文政元年(1818)、名主関勘右衛門の二男に生まれた。天保二年(1831)、十四歳のとき、博打打ちを志願して勘当され、府中の博徒藤屋万吉の弟分となった。天保十一年(1940)、武蔵二塚明神前の大喧嘩で侠名を挙げた。捕えられて佃寄場に服役中、新門辰五郎を知り、兄弟分となった。弘化三年(1846)正月の大火で、寄場への飛び火を防ぎ、辰五郎とともに油倉を死守した功により赦された。のちに八王子相撲事件で三宅島に流刑となり、島の女性と結婚し、明治元年(1868)島から戻った。武蔵・相模に数千人の身内を抱えていたといわれる。維新後は、若者を連れて三宅島に戻り、島の開発に尽くした。明治八年(1875)辰五郎の臨終を看取った。明治十四年(1881)、六十四歳にて没。追悼碑の右に墓があるが、墓碑銘は山岡鉄舟による。
 このところ、黒駒勝蔵、竹居吃安、小金井小次郎といった幕末の侠客の墓を集中的に訪ねることになった。幕末という時代、関東一円に侠客と呼ばれる人種が生まれた。手元の角川「日本史辞典」によれば、侠客とは「弱きを助け、強きをくじくと称して名を売った遊び人。江戸初期の旗本奴、町奴、男伊達などがそれである。多くは賭博、けんか渡世をこととし、親分子分の関係で結ばれていた」とされる。現代社会で見られるヤクザとか、暴力団とは別の人種のようである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飯田 山本

2014年08月17日 | 長野県
(杵原学校)
 杵原学校(旧・山本中学校)は、戦前に建てられた校舎が今に残る。ノスタルジアあふれる空間となっている。かつてこの校舎を使用して山田洋次監督、吉永小百合主演で「母べえ」という映画が撮影された(私はその映画を拝見しておりませんが…)。


杵原学校


松尾多勢子生誕二百年記念碑

 杵原学校の校舎前に、松尾多勢子の和歌が刻まれた石碑が建てられている。多勢子の生誕二百年を記念して、平成二十三年(2011)に建立されたもので、表面には多勢子八十四歳のときの和歌が記されている。この歌は、多勢子の死の三か月前、伴野神社の祭典に際して、青年衆の求めに応じて、病身を起して詠んで染筆したもので、多勢子の絶筆である。

竹むら堂せ子
 皆人乃(みなひとの)
 心毛清く(こころもきよく)
 ゆふ堂春斯(ゆふたすき)
 か希ま具神を(かけまくかみを)
 以左めまつら無(いさめまつらむ)

 心の清い若者たちが、木綿のたすきをかけておみこしをかつぎ、言葉に出して申し上げるのも誠に畏れ多い尊い神様を、慰め致しましょうという大意である。

(竹原家)
 松尾多勢子の生家である。表札を見ると、「石曽根」となっているが、実家竹村家の流れを汲んだ家であろう。
 松尾多勢子の実家は「豪農」と紹介されているが、なるほどそれが実感できるくらいの立派な門構えである。敷地内には昔ながらの土蔵などもそのまま存在しており、この中にはお宝が眠っているのだろうと想像する。
 門前には多勢子の歌碑が置かれているが、あまりに達筆のため解読できない。


松尾多勢子生家


松尾多勢子歌碑

(梨野峠)
 今回の南信州史跡探訪のメイン・イベントが青木から梨野峠を経て、清内に抜ける清内路街道の踏破であった。前日の野球大会で右足に肉離れを起こした身としては、無謀ともいえる行動であったが、なかなかここまで足を伸ばす機会はないので、敢行した。
 実は、飯田市青木には、軍律違反で処刑された天狗党隊士、高橋賢治の墓があるはずだが、辺りを探し回って、見つけることはできなかった。梨野峠から先、清内路への道を歩くことと合わせて、次回の課題となった。高橋賢治は、麓の山本村で盗みを働いたというのが、斬首された表向きの理由であるが、実は彼が党内の不平組の煽動者だったため、見せしめのため公開処刑されたといわれる。


梨野峠

 山本から青木までは、自動車一台がやっと通れるくらいの細い道であるが、舗装道路が通じている。青木は二~三世帯という小さな集落である。ここから歩いて梨野峠を目指す。雨が止まないので、片手には傘をもって、およそ四十五分の登山であった。辺りには霧がたちこめ、足もとは滑り易いという悪条件の中、何とか峠までたどり着くことができた。


青木から梨野峠への清内路街道

 元治元年(1864)の天狗党だけでなく、慶応四年(1868)には赤報隊も清内路を通過している。恐らくその風景は、幕末の頃とさほど変わっていないだろう。
 本来、梨野峠は御嶽山が臨める絶景ポイントであるが、この日は生憎の天気で全く視界が閉ざされていた。汗を拭ったら、すぐさま来た道を引き返す。下りは四十分足らずで青木に到着した。


御嶽山

 天気が良ければ、梨野峠から御嶽山が臨める。御嶽教は、日本古来の山岳信仰の一つで、当地でもこの信仰が盛んになり、梨野峠に御嶽遥拝所が設けられた。この石碑は、嘉永五年(1852)に建立されたものである。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飯田

2014年08月17日 | 長野県
(北原家)
 今回の長野県飯田地方の史跡探訪に当たって、飯田観光協会に不明な史跡の所在を訪ねたところ、実に懇切丁寧に調査していただき、関係書籍のコピーとともに送り届けていただいた。感謝してもし切れないほどである。

 座光寺村の北原家には、今も稲雄の末裔の方が住んでいる。


北原家

 北原稲雄は、文政八年(1825)の生まれ。嘉永二年(1851)庄屋役。父の影響を受けて、福住清風の門人になり、平田篤胤の没後門人となった。市岡正蔵(殷成)は叔父に当り、松尾多勢子は従兄の子である。「弘仁暦運記考」出版助成に奔走し、古史伝上木運動の発起人ともなった。安政末年の南山騒動には百姓の頭領となって活躍した。元治元年(1864)には水戸浪士の信州無事通過を斡旋尽力した。その後、慶応四年(1868)には高松実村や相楽総三に協力した。明治二年(1869)、家督を譲って伊那県に出仕、地価嘆願総代を務めた。初代松本興産社社長、反福沢的立場を取った。明治十四年(1881)、五十七歳にて死去。

(今宮効戸神社)


今宮郊戸神社


明治天皇御製

 今宮郊戸神社周辺は、石碑の森となっている。その中に明治天皇の御製を刻んだ石碑がある。

 あさみどり澄み渡りたる大空に
 広きをおのが心ともがな

 晴れ渡った大空のように広く大きな心を持ちたいものであるという意。明治三十七年(1904)明治天皇の御製である。

 
富岡鉄斎歌碑

 幕末から明治に活躍した文人画家、富岡鉄斎は生涯二度にわたって飯田の地を訪ねている。この石碑は、明治三十六年(1903)、鉄斎がこの地を訪れ、植松したことを記念した歌碑である。石碑に以下の歌が刻まれている。

 神宮能千代の佐可衣を満も連与登
 こ能稺枩越堂てま津る也
 (じんぐうのちよのさかえをまもれよと
 このわかまつをたてまつるなり)

 天狗党は、今宮郊戸神社周辺で休息をとった。このとき役人の手配した昼食が天狗党の手元に届けられた。握り飯や熱い味噌汁、それに漬物など、信州の味に水戸浪士たちは舌鼓をうった。この場所は、飯田城までわずかに二~三㌔の距離である。天狗勢が平穏に通過してくれるかどうか、城下町の人々は大いに心配したことであろう。
 現在、丸山公民館の入口付近に天狗党関連石碑が複数建てられている。


水藩志士留跡碑(天狗党交渉記念碑)

 その一つが、天狗党の挙兵から六十年目となった昭和十三年(1924)に建立された水藩志士留跡碑である。題額は公爵徳川圀順。撰文は徳富蘇峰である。


尊王義士甲子紀念碑

 正面に「尊王義士甲子紀念碑」と記された、高さ五メートルを越える石碑は、明治三十四年(1901)に建てられたものである。書は東久世通禧。
 左側面には、水戸浪士の一人、亀山勇右衛門嘉治が詠んだ歌が刻まれている。

 八束穂のしげる飯田の畔にさへ
 君に仕ふるみちはありけり

 「稲が豊かに穣る飯田の田の畔道にさえも、我々と同じように天皇にお仕えする道が開かれている」という意味である。

(白雪稲荷神社)


白雪稲荷社


松尾多勢子歌碑

 大宮諏訪神社の近くに白雪稲荷神社と呼ばれる小さな神社がある。本殿の前に松尾多勢子の歌碑が置かれている。

 白砂の雪のけころも重ねつゝ
 みのる飯田を受けもちの神

(長姫神社)


長姫神社

 飯田城本丸跡には長姫神社が建立されているが、ほとんど城跡であることも感じられない。飯田城の歴史は古く、十三世紀初頭に築かれたといわれる。江戸時代には、小笠原氏、脇坂氏のあと、寛文十二年(1642)、堀親昌が入封し、以後明治維新まで堀氏が続いた。
 天狗勢が城下に迫ると、飯田城では大手門などに流木を集めて障害を築き、城の垣の外には大砲を並べ、城内には侍や人足を武装させて、天狗勢の襲撃に備えた。しかし、天狗勢は昼食を済ませると、隊列を組んで今宮を出発し、北原稲雄の案内で、城よりずっと西の切石方面で松川を渡り、大瀬木の熊野神社近くまで進んだ。ここで北原稲雄は「飯田城下に入らずに、ここまで来ました。私の役目は終わりました」と一行に別れを告げた。武田耕雲斎は、この労に報いるため、稲雄に着用させていた陣羽織をすすめたが、固辞して帰って行った。この日、天狗勢は、駒場宿に宿泊した。


観耕亭碑

 観耕亭とは、かつて飯田城本丸にあった藩主の小亭のことである。当時の十一代藩主堀親義は、折を見て城外に出て、山水を賞することを楽しみとしていた。しかし、藩主がたびたび外出すると農民の作業の邪魔になる。そこで城内に観耕亭を建て、そこから農民が農耕に勤しんでいるのを眺めて楽しんだという。この石碑は、安政六年(1859)に建てられたもので、碑文は安積艮斎による。

(中央図書館)


飯田城赤門

 飯田市立中央図書館の敷地内にある赤門は、飯田城桜丸の門で、宝暦四年(1754)四月に上棟されたもの。本丸は街から遠く不便なため、普段は桜丸で政務をとったといわれる。赤門は入母屋造りで瓦葺き、鬼瓦には堀氏の家紋である「向梅」が使われている。明治以降、飯田県、筑摩県飯田支庁、下伊那郡役所、地方事務所等の郡衙として使用された。

(羽場)


桜地蔵堂


水戸浪士この道を通る

 飯田市羽場一丁目の交差点の少し西側に桜地蔵と呼ばれる小さな祠がある。その横に「信濃路驛路の趾」と記された大きな石碑がある。さらにその傍らに、元治元年(1864)十一月二十四日、天狗党がこの場所を通過したことを記念した石碑が建てられている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豊丘

2014年08月17日 | 長野県
(豊丘村歴史資料館)


豊丘村歴史資料館

 豊丘村は、松尾多勢子の嫁ぎ先であり、松尾家や多勢子の墓がある。
 松尾多勢子は、文化八年(1811)、信濃国伊那郡山本村の豪農の家に生まれた。十九歳のとき、伴野(現・豊丘村)の豪農に嫁ぎ、主婦として三十年余りを過ごした。その間、和歌を学び、ことに飯田の歌人であり、国学者岩崎道世の説く、尊王攘夷論に深く感化された。文久二年(1862)、五十二歳のとき、意を決して上京し、「歌詠みばあさん」という触れ込みで、諸卿の門に出入し、また宮中の女官と親交を結んだ。同時に久坂玄瑞、品川弥二郎、藤本鉄石らとも交わり、志士を堂上家に紹介したり、両者の連絡に当たったりした。ことに岩倉具視の信任を得、岩倉が奸物として命を狙われたとき、岩倉が奸物ではないことを説いて、危険から免れしめたという。多勢子は、快活で弁舌に長じ、世話好きで資力も豊かであったことから、その世話になった志士も多かった。岩倉家の女参事と呼ばれ、維新後は多勢子の口入で官途に就こうとする者も多かったという。晩年は郷里に隠居して、静かな余生を送った。明治二十七年(1894)、八十四歳でなくなった。

 豊丘村歴史民俗資料館は、豊丘村に関する考古や民俗資料のほか、松尾多勢子の遺品や関係資料を常設展示している。見学していきたかったが、日曜日は閉館日。しかも早朝五時に伊那市内のホテルを出立した私が、豊丘村を訪れたのは未だ午前七時前だった(開館時間は、午前九時~午後四時 入場料は無料)。

(松尾家)


松尾家

 天狗党が飯田藩領を通過しようとしたとき、松尾多勢子は、長男、誠を送り、藤田小四郎に対し「名古屋の大藩に抵抗するは危険が多い。道を美濃路にとり、中津川から上京するのが良い」と具申した。この進言を受けて、天狗党は軍議を開いた。尾張に出れば京都は近いが、木曽路を取れば迂回することになり京都はさらに遠くなる。美濃路越えには清内路関所を通らねばならないが、飯田藩預かりなので平穏に通過できるのではないか、との期待もあった。耕雲斎や田丸稲之衛門らは、このまま三州街道を進み、尾張候を頼ることを主張したが、藤田小四郎ら若手は安易に尾張藩を頼るのは危険、あくまで素志貫徹のため美濃路へ向かうべきと反論した。軍師の山国兵部が小四郎に同調したため、美濃路をたどることに決定した。これを聞いた松尾誠は「これで母も喜びます」と喜び、中津川の親戚、市岡正蔵に手紙を送り、天狗党へのもてなしを依頼した。誠の気配りに感謝した藤田小四郎は、自作の詩と愛用の槍「常光」を贈った。これらは、今も松尾家に所蔵されているそうである。

(慈恩院)


慈恩院


贈正五位松尾多勢子奥墓

 松尾多勢子は、明治二十七年(1894)六月十日に八十四歳で亡くなったが、明治三十六年(1903)、特旨により正五位を贈られた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高森

2014年08月17日 | 長野県

(本学神社)


本学神社

元治元年(1864)十一月二十四日の朝、片桐宿と大島宿を出発した天狗党は、現在の県道二一六号を南下した。大砲を率いて、旗指物を翻し、千人の隊列は長く続いた。山吹(現・伊那郡高森町)を過ぎ、追分橋のたもとから右に入ると、篠山という小高い丘の上に本学神社がある。
 本学神社は、本居宣長、平田篤胤、荷田春満、賀茂真渕という四人の国学の聖人を祀る神社で、国学の盛んな伊那谷ならではの神社である。島崎藤村の「夜明け前」にも登場する社であるが、創建は慶応三年(1867)なので、天狗党がこの地を通過した時点では、まだ神社は無かった。現在の社殿は、昭和三年(1928)に再建されたものである。


松尾多勢子歌碑

 社殿の前に松尾多勢子の歌碑がある。残念ながら、刻まれた文字を読み取るのは至難の業である。


(牛牧)
 原町にさしかかると、座光寺村の庄屋北原稲雄が待っていた。約束とおり、ここからは稲雄が間道を案内することになる。稲雄は、武田耕雲斎の指示で、野良着の上に陣羽織を着せられ、駕籠に乗って天狗勢の先頭に立った。
 間もなく牛牧の集落に差し掛かる。現在、その道端に「水戸浪士この道を通る」と刻んだ石碑が十王堂という小さなお堂の前に立っている。この碑が建立されたのは、元治元年(1864)から百二十年が経過した昭和六十年(1965)のことである。


水戸浪士この道を通る碑

 次の座光寺(現・飯田市)は、飯田藩が天狗党を迎撃するために陣地を構えようとして、近くの陣屋などの反対で断念した場所である。土曽川を渡ったところで、北原稲雄は右への道を示し、伊那道を離れて北へ逸れた。いよいよ間道へ入る。行列は、川底の浅い野底川を渡ると、現・飯田市の北、今宮辺り(現・今宮郊戸神社付近)で休息をとった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松川

2014年08月17日 | 長野県
(大島宿)
 この日は朝から雨であった。当たらなくてよい天気予報ほど的中するものである。

 天狗党の宿営地、上穂宿(うわぶ=現・駒ケ根市)に今村豊三郎と都賀孝之助が訪れた。今村豊三郎(三十五歳)は、座光寺の庄屋北原稲雄の実弟である。兄と相談して、天狗勢の真の目的を知るために浪士に会うことにしたのである。同行した都賀孝之助(二十七歳)は摂津の人で、松尾多勢子の食客であった。孝之助は国学の徒で、水戸浪士と行動をともにしたいと熱望していた人物である。当時、北原稲雄の家には、文久三年(1863)二月の足利三代木像梟首事件の首謀者の一人、角田忠行が匿われていた。藤田東湖門下の角田忠行は、天狗党が伊那に近づいたことに胸を高鳴らせた。彼は自分の身代わりとして、都賀を豊三郎に同道させることとした。
 天狗党からは、道中奉行の村島万次郎、長谷川道之助、横田藤四郎、亀山勇右衛門が応対した。今村豊三郎は、兄からの伝言として、飯田藩と天狗党との衝突を避けるために、自分たちが間道を案内することを申し出た。天狗党側に異存はなく、彼らの申し出を受け入れることになった。


大島宿

 最初の目的地は、松川インター交差点付近に所在する大島宿と片桐宿である。大島宿と片桐宿は、ともに伊那街道上の宿場町である。和田峠における戦闘を戦い抜いた水戸天狗党一行は、大島宿と片桐宿に分宿した。大島宿の酒屋宮下家には、藤田小四郎が宿泊したという。


一里塚

大島宿の北に伊那街道の一里塚がある。この地点が飯田から三里(約十二キロメートル)であることを示している。

(片桐宿)
 片桐には、天狗党の本隊が泊まった。片桐宿の庄屋大澤家には、武田耕雲斎が宿泊した。大澤家では、最近、更新工事したらしく、真新しい長屋門が目印である。
 北原稲雄と今村豊三郎の兄弟、それに飯田の宿役人山村五右衛門の三人が、大澤家を訪ねたのは、その夜の七時頃であった。その場に藤田小四郎も出て相手をしたが、そのとき小野斌雄と自己紹介したため、北原稲雄はこの青年が藤田東湖の息子だとは分からなかった。


大沢家長屋門

(瀧泉寺)
飯田市観光協会からの情報では、片桐宿の瀧泉寺には、天狗党の残した鎧(額を守るもの)があるそうである。拝見させていただこうと事前に電話をしたところ、電話口に出られた御婦人によれば、ちょうど住持さんは外出中で夕刻まで戻られないという。残念ながら、鎧の在処は住持さんのみしか御存知ないそうで、この日は見せていただくことができなかった。次回以降の課題である。


瀧泉寺


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辰野

2014年08月17日 | 長野県
(平出歴史公園)

 今年の野球大会は、信州で開催された。我がチームは、初戦大敗し二戦目も良いところなく破れてしまった。私は二戦目の初回、肉離れを起こして退場。散々な大会になった。翌日は予定通り、信州の史跡を探訪した。


平出歴史公園

 元治元年(1864)十一月二十一日、武田耕雲斎を総大将とした水戸天狗党八百名は、和田峠で諏訪・松本両藩連合軍を撃破し、平出宿に入った。平出では、家財や老幼婦女を避難させるなど、大混乱となった。水戸浪士を討つためにこの地に進出した高遠藩も戦わずして撤退したため、浪士隊も狼藉をせずにこの地で昼食を取っただけで通過した。前日の戦闘で戦死した隊士の首級を、見宗寺の裏山に埋葬したといわれる。


水戸浪士休息跡

(見宗寺)


見宗寺

 見宗寺の墓地に天狗党の戦死者の墓があるかどうか、未確認。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする