植松三十里の小説は、これが初めてではない。以前読んだ「群青」も、しっかりとした時代考証、丁寧な人物描写に好感を持ったが、本書読後も同じ感想である。
万延元年(1860)の遣米使節に同行した咸臨丸の太平洋横断というと、勝海舟や福沢諭吉、ジョン万次郎といったビッグネームばかりが取り沙汰されるが、決して彼らだけの力でこの壮挙が実現したわけではない。むしろ、無名の水夫たちの命懸けの働きがあってこそ、可能になったということにもっと目を向けてよいだろう。乗船したのは凡そ百人。その半分は水夫であり、さらにその六割が塩飽諸島出身であった。
咸臨丸は暴風雨に揉まれ、劣悪な環境に置かれた水夫らのうち三名が、サンフランシスコで命を落とした。今もサンフランシスコには咸臨丸の水夫の墓が保存されている。このことは比較的知られた史実であるが、実は熱病のために帰国する咸臨丸に乗船できず、半年ほど遅れて帰国した水夫たちがいた。「咸臨丸、サンフランシスコにて」は、遠く離れたアメリカに取り残された無名の水夫たちの物語である。作者は、想像も交えながら、しかしリアルに、かつ劇的に彼らの心情を表出した。
二作目の「咸臨丸のかたりべ」は、文庫本で百ページに満たない小品であるが、主人公文倉平次郎の崇高な生き方に、ひたすら感動した。
文倉平次郎は、実在の人物である。この人について、司馬遼太郎先生は次のように評している。
――― 文倉平次郎という人物の名は、百科事典にも人名辞典にものっていない。生涯でただ一冊の本を書いたひとが、その社会的立場を表現する肩書としては古河鉱業の社員というに過ぎず、学者でも文筆家でもない。
――― これほど精緻ないわば原典に近い名著が、専門家でもなんでもないひとによって書かれたということについて、人間の情熱というものの不思議さを、書棚でこの本の背文字を見るたびに考えこまされる。(司馬遼太郎「十六の話」~「ある情熱」より)
文倉平次郎の情熱に火を点けたのは、彼がサンフランシスコにいたとき、墓地で三つ目の水夫(源蔵)の墓を見つけたことにあった。現地の図書館で咸臨丸の水夫が現地で亡くなったのは三人だったという事実を知った文倉平次郎は、もう一つの墓を探し出すために、墓所の事務所で下働きまでして、ある日、遂に土に埋まった源蔵の墓を掘り返すことができた。私もいつの日か、サンフランシスコの咸臨丸水夫の墓を詣でてみたいと思う。
墓に関しては、私も人並み以上の執念をもっているつもりであるが、最近は年齢のせいか、見つからなければ割とあっさりと諦めるようになってしまった。「どっかに移葬されたか、無縁墓として撤去されちゃったのだろう」と自らを納得させているが、文倉平次郎の執念を見て、フンドシを絞め直さないといけないと思った。
平次郎は、古河工業の社員として働く一方で、咸臨丸に関する資料を収集し、或いは乗船員の遺族から聞き取り調査をして、定年後「幕末軍艦咸臨丸」を書き上げる。実に八百頁に及ぶ大作であった。初版は五百部しか印刷されなかったという超稀覯本である。
一人の男が生涯をかけて書き上げた作品を読んでみたいと思ったが、二十年ほど前に中公文庫から再版されたものの、現在絶版となっている。「相楽総三とその同志」の書評にも書いたが ――― 売れる、売れないに関わらず ――― このような価値の高い本を継続して出版するのは出版社の責務である。何とか再刊してもらいたい(取り敢えず古本で探しましたけど…)。