史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「庄内人名辞典」 財団法人致道館博物館内庄内人名辞典刊行会

2012-08-26 20:07:34 | 書評
鶴岡の致道館博物館に行った際、そこのショップでこの本を見つけた。値段は三千五百円なので決して安くはないが、辞典として見れば、かなりお買い得である。庄内出身者のみならず、多少でも庄内と関わりのあった人物を、時代にかかわらず網羅している。庄内地方(現在の鶴岡、酒田にまたがる地域)が、長年にわたって多種多様な人物を輩出してきた証でもあろう。
鶴岡市内の寺院の墓地を回って気付くことは、儒者とその一族の墓が多いことである。藩校致道館を中心に学問が盛んであったことは間違いないが、学問を重んじる気風が長きにわたって根付いていたことを思わせる。
庄内藩は、会津藩、桑名藩と並んで有力な佐幕藩であった。庄内藩でも佐幕か勤王かで、藩を二分する騒動があったが、結局、佐幕で統一され、以後、藩論がぶれることはなかった。特に戊辰戦争では庄内藩兵は無敵の強さを誇った。常に領外で戦い、藩領まで攻め込まれたのは鼠ヶ関と関川までである。東北諸藩の中では比較的洋式化が進んでいたことはあるにせよ、庄内藩の精強さはどこから来ているのだろう。うまく説明できないが、学問を重んじる気風と兵の強さは無縁ではないように思う。

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「江戸の思想史」 田尻祐一郎著 中公新書

2012-08-26 20:03:37 | 書評
江戸時代というと、均質で画一的なイメージがあるが、殊に思想史という側面で見ると、実に多様多彩である。
現代と比べれば何かと制限が多く、為政者を批判したことが明らかになれば命の危険もあるし、信教の自由も大いに制約されている。とはいえ、いかに強大な権力であっても、人々の頭の中の思考までコントロールすることはできない。本著「江戸の思想史」はそのことを雄弁に語っている。この時代、人々は息をひそめて過ごしていたのかというと、必ずしもそうではない。
強烈に時の権力を批判したのは、江戸中期の医者・思想家安藤昌益(1703-1726)であった。安藤昌益は、夫婦が一緒になって耕作し、夜は交わって子を成す。これを「直耕」生活と呼んだ。直耕生活の集合体である「安衣安食」の社会を理想とし、それを破壊し、阻害する知識人、聖人、為政者を激しく批判した。やはりこの著作は公表されることはなかったものであるが、苛政の現実を批判的に見ていた人が存在したことを物語っている。
京都出身の堀景山(1730-1801)は、本居宣長の儒学の師である。「ひたすらに武威を張り輝やかし、下民をおどし、推しつけへしつけ帰服させる」武家を批判した。いかにも武家嫌いの京都人らしい感覚である。
江戸後期ともなると、公然と権力批判が現れる。その典型例が大塩平八郎(中斎)であった。天保八年(1837)、飢饉に苦しむ人民がいる一方で、役人の不正と、その役人と結託して暴利をほしいままにする豪商に怒り、大塩が蜂起した。大塩は「天命を奉じ、天誅を致し候」という檄文とともに起った。大塩平八郎の叛乱は一日で鎮圧されたが、幕府や知識人に与えた影響は大きかった。
幕末の志士の思想的背景には、国学の流れがあり、もう一つには水戸の国家論があった。更に蘭学や伝統的な儒学の流れが加わった。その中にあって、水戸学は最初から過激な尊王攘夷を主張したのではなく、会沢正志斎の「新論」(これも志士を興奮させたベストセラーであったが)も、民心を定め、忠孝を一致させ、国難に当たらなければならないという秩序論であった。
江戸時代の様々な思想の流れが、吉田松陰に結集された。松陰が草莽崛起論を唱えた背景には、「国の恩義」に応えようという思考がある。その末に、征夷大将軍が職務を全うしないのであれば廃されてもやむをえないという過激な倒幕論に行き着いた。松陰という強烈な個性が導き出した議論であるが、一方で二百五十年という長い江戸時代が生み出した一つの結論だったようにも思われる。

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「市川勢の軌跡」 市村眞一著 茨城新聞社

2012-08-26 20:01:50 | 書評
武田耕雲斎率いる天狗党は、西上の果てに敦賀で大量処刑という悲劇的な最期を遂げた。「天狗西上」は、色んな小説にもなっており、比較的有名な史実である。実は天狗党を藩外に追い出した諸生党にも同じような悲劇があった。この本は、市川三左衛門率いる諸生党の敗走の軌跡を追ったものである。
王政復古によって尊攘派が勝利を治めると、市川勢は水戸を追われる。このとき総勢五百という。彼らは会津、新潟と転戦して、再び水戸に戻り、城下で激戦を交わした後、南下して八日市場(現・千葉県匝瑳市)で壊滅した。このとき市川勢は八十まで減耗していた。この間、二百三十一日、彼らの行軍距離は千㎞を越えた。
敗者の歴史は語られることは少ない。この本は、茨城県民でも知っている人が少ない、市川勢の軌跡をたどるものである。
この本の後半は、茨城県、栃木県、福島県、新潟県そして千葉県に及ぶ市川勢の戦跡を写真付で紹介する。私も各県の史跡を回ってきた方であるが、それでも未踏の地が残されている。
市川勢は、八日市場で壊滅したが、首領である市川三左衛門は脱出して江戸に潜伏した。最初の潜伏先は、芝三田の宝徳寺であった。さらに青山百人町の剣道師範島上源兵衛宅に匿われた。市川三左衛門が捕縛されたのは、明治二年(1869)二月二十六日のことであった。その時の様子を天狗党出身の小又慶二郎が証言している。「市川は痛いということを知らない、打たれても叩かれても一向平気で、責めがすんでから好きなものを喰わしてやるというと、鰻飯が食いたいといい、食わせると縛られながらむしゃむしゃ食った」という。市川三左衛門という人物の生命力、執念、凄みを感じるエピソードである。
四月三日、市川は水戸に送られ、市内引きまわしの上、長岡の刑場で史上まれな逆さ磔(はりつけ)という極刑により処刑された。その寸前「勝負はこれから」と絶叫したとも伝えられる。

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高崎 Ⅱ

2012-08-18 14:29:36 | 群馬県
(城東北公民館)


猿田忠夫主従の墓

 高崎市内東(あずま)町の一角、城東北公民館の前に水戸藩猿田忠夫と従者の合葬墓がある。
 この墓に合わせて刻まれているのは、猿田忠夫のほか、郡司兵左衛門(行年三十一)、上野群馬之助(行年二十四)、岡野仙三郎(行年二十)、濵吉(行年四十六)、菊松(行年十四)の六名である。
猿田忠夫は、天狗党の先遣隊として軍資金調達のために上州に派遣されたが、高崎で捕えられ幽閉。慶応二年(1866)二月、斬首刑に処された。猿田の名前は、「幕末維新全殉難者名鑑」に見ることができるが、従者とされるほかの五名は記載されていない。


五万石義人慰霊堂

 明治の新しい世を迎えたというのに、高崎藩領では重税が課され、農民は塗炭の苦しみに喘いでいた。明治二年(1869)秋、窮状と減税を訴えるために大総代三名を選出して農民四千人が直接行動に出た。のちに五万石騒動と呼ばれる騒動の発端である。藩では総代を捕えて処刑し、ほかの幹部も次々と流罪投獄に処した。あまり知られていない事件であるが、激変の時代の暗い一面を物語っている。

(上豊岡茶屋本陣)


上豊岡の茶屋本陣

 上豊岡の茶屋本陣も、中山道に面した場所に所在している。訪ねると、一人の老婆が室内を案内してくださる。つい先年まで所有者である飯野氏が起居していたそうであるが、現在、家屋を群馬県が引き継ぎ、有り難いことに無料で公開されている。




 庭には、樹木の化石などが配されている。和宮はこの茶屋本陣に立ち寄っていないが、先払いとして送られた公卿が立ち寄った記録が残されている。


上段の間

 上段の間は、違棚や床の間など、凝った造りとなっている。

(岩鼻陣屋跡)


天満宮

 岩鼻代官所(陣屋)跡地の場所を確認するために県立歴史博物館を訪ねた。受付の女性は、わざわざ付近の地図をコピーして、行き方を教えてくれた。
 場所は、岩鼻交差点の北側一帯であるが、ここに陣屋の遺構はほとんど残っていない。天満宮が建てられている小丘は、かつて物見櫓のあった名残である。これ以外にはわずかに土塁と堀の一部が残っているのみである。
 岩鼻に代官が置かれるようになったのは、十八世紀の末である。幕府から二人の代官が派遣された。慶應元年(1865)、木村甲斐守が関東郡代として派遣され、幕府の直轄地や旗本、寺社領など武蔵国六郡を支配し、一揆等の鎮圧に当たった。

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佐久 Ⅱ

2012-08-18 14:20:13 | 長野県
(康國寺)


康國寺

 旧望月町、佐久市春日は、赤報隊の幹部の一人、桜井常五郎を生んだ土地である。桜井常五郎が処刑されたのは、慶應四年(1868)三月五日、追分宿外れの追分原という刑場であった。桜井常五郎のほか、中山仲(坂本宿出身)、小林六郎(佐久郡上塚原村)らが刑場に引き出された。中山、小林に続いて刑場に据えられた桜井は、憤りも叫びもせず、辞世を認めると従容と死についた。


桜井常五郎の墓と推定

 この日、処刑された桜井常五郎らの首は、獄門台に乗せられて晒されたが、三日目の夜、何者かが桜井常五郎の首を盗み出した。常五郎長兄と次兄がその後を追い、首を引き受けると春日村の桜井家の菩提寺である康国寺へ持ち込んだ(以上、「相楽総三とその同志」(長谷川伸・中公文庫より)。
 桜井常五郎の墓を探し求めて、はるばると康国寺を訪ねた。本堂裏手の墓地を歩き回ったが、結局、どれが桜井常五郎の墓か確信を得ることはできなかった。

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追分

2012-08-18 14:14:24 | 長野県
(追分宿郷土館)


追分宿郷土館

 碓氷峠から軽井沢の繁華な通りを抜けて追分に向かう。連休の軽井沢はいつも大渋滞である。

 軽井沢方面から入ると、ちょうど追分宿の入口に近い、浅間神社の横に追分宿郷土館という立派な施設がある。金原忠蔵の遺品や忠魂碑の拓本などが展示されており、見応え十分である。拓本の文面によれば、金原忠蔵こと竹内廉之助が金原という変名を名乗るようになったのは、相楽総三に応じて薩摩藩邸に集合するために脱牢した慶應三年(1867)以降のことのようである。

(油屋)


油屋


往時の油屋(彩色写真)

 長谷川伸「相楽総三とその同志」(中公文庫)によれば「“浅間根越しの三宿”とむかしはいった追分、沓掛、軽井沢の三つのうち、一番繁盛していたのは追分」なのだそうだ。その追分宿で第一といわれたのが油屋で、その次が大黒屋であった。油屋と大黒屋は仲が悪く、何かにつけて反発しあっていた。赤報隊が大黒屋で草鞋を脱いだのは、主人大黒屋新太郎が熱心な勤王家だったためという。一方の油屋は、勇次郎という二男が間諜を引き受けて、動静を小諸藩へ伝えていた。小諸藩と御影農兵は油屋に本陣を置いた。兵百名が大黒屋を囲んだのは、二月十八日未明。金原忠蔵以下十数名は、抜刀して重囲を脱したが、多くは銃弾の餌食となった。

(高札場)


高札場


明治天皇追分行在所跡

 油屋の近くに高札場が再現されている。

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碓氷峠

2012-08-18 14:05:20 | 群馬県
(熊野神社)
 梅雨の時期の史跡訪問の成否は、天候によって左右される。この日も軽井沢方面の天気予報が「曇り」となっていたのを確認した上で出かけたが、特に山間部の天気は変わりやすい。坂本宿から二百を越えるカーブを通過して熊野神社に到達したときには、ミストシャワーのような細かい雨が降り出した。熊野神社は、長野県と群馬県の県境に位置する古社である。本宮は県境に鎮座している。


熊野神社

 神社下の駐車場の脇に朱色で着色された小さな祠がある。赤門稲荷と呼ばれている。往時ここには社家曽根家の赤門屋敷があり、屋敷内にあった稲荷社だけがここにポツンと残されたかっこうである。ここにあった屋敷には、加賀前田藩の赤門に倣って朱塗りの屋敷門が造られていた。和宮も赤門屋敷で休憩をとったと伝えられる。


赤門稲荷

(碓氷川水源地)


明治天皇峠御膳水

 今回、早朝八王子を出立して熊野神社を訪ねたのは、「相楽総三とその同志」(長谷川伸著 中公文庫)に詳しく記載されている金原忠蔵こと竹内廉之助(あるいは廉太郎とも)の首塚や「金原藪」を訪ねることが主目的であった。神社周辺にはいくつか茶屋があるが、そのうちの一つに入って金原藪について質問した。茶屋には「碓氷峠 歴史と観光」と題された小冊子(四百円)を販売しており、そこにはわずかながら金原藪のことも記載されている。茶屋の物知りおばさんによれば、金原藪(そこに金原忠蔵の墓碑もある)は、碓氷川水源地からさらに百メートルほど行かなくてはいけないが、現在はそこに至る径は藪に覆われ、とても行き着かないという。たまに遺族の方が当地を訪れ、慰霊祭などを行っているらしいので、道が無いわけでは無さそうであるが…。
 おばさんに礼を行って、まずは水源地まで下りてみる。明治十一年(1878)九月六日、明治天皇は東山北陸御巡幸の際に、碓氷峠を越え、しばし休憩をとった。この際、この水が供されたことを記念して碑が建立されている。
 おばさんがいうように水源地から先は、道らしい道もなく、金原藪は断念せざるを得なかった。
 大木四郎、金原忠蔵(竹内廉太郎)らが率いる赤報隊の一部が碓氷峠熊野神社に到達したのは慶應四年(1868)二月十一日のことであった。その時既に安中藩、高崎藩、吉井藩等は降伏の使者を碓氷峠の陣に送っていた。ところが、赤報隊は偽官軍であるという報が流れ、小諸藩や御影の農兵などが派遣された。
 金原忠蔵は、追分宿に滞在していたが、そこを小諸藩兵らに襲撃され、銃創を負って動けなくなった。同志大木四郎の介錯で命を断ったという。
 金原忠蔵の首級は、熊野神社の曽根出羽守の門前の雪の中に同志らの手によって埋められたが、それを曽根出羽守は上州(群馬県)側の藪の中に埋め直した。以来、その場所は“金原林”あるいは“金原藪”と呼ばれるようになった。せめて墓標のある場所まで行けるように整備してもらいたいものである。このままでは、歴史の彼方に埋もれてしまいそうである。

(忠魂碑)


忠魂碑

 残念ながら金原藪には行き着くことができなかったが、旧中山道を百五十メートルほど行くと、昭和三十六年(1961)に建立された金原忠蔵の忠魂碑がある。文字はよく読み取れないが、実は追分宿郷土館にこの石碑の拓本がある。

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坂本

2012-08-18 13:58:53 | 群馬県
(坂本宿)


中山道 坂本宿

 中山道横川宿の次の宿場が坂本宿である。道の両側に古い家屋が建ち並び、屋号などを書いた看板を掲げており、宿場町の雰囲気を今にとどめている。東に碓氷関所、西に碓氷峠の難所が控えているため、旅人にとって坂本宿での宿泊は必須であった。そのため佐藤本陣と金井本陣という二軒の本陣があった。文久元年(1861)十一月九日、江戸へ下向する和宮も坂本で宿泊している。


かぎや


佐藤本陣跡

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横川

2012-08-18 13:52:20 | 群馬県
(横川茶屋本陣)


横川茶屋本陣

 横川は、今でこそJR信越線の終点となったが、以前は碓氷峠の急勾配をアブト式と呼ばれる技術で昇った。碓氷峠では、往時の鉄道遺跡を見ることができる。更にその昔は、碓氷峠の難所を越える旅人が行き交う宿場町として繁栄した。茶屋本陣というのは、宿場町の間に置かれ、大名や公家の休憩所として用いられたものである。横川の茶屋本陣は、助郷惣代武井氏の居宅が充てられた。

(碓氷関所)


碓氷関所跡

 横川茶屋本陣から車で五分ほど旧中山道を西へ行くと、碓氷関所址である。昭和三十四年(1959)に復元された関所の門が往時を偲ばせてくれる。


史蹟 碓氷関所之趾

 この地に関所が移されたのは、元和九年(1623)で、関所の勤番は安中藩が任じられた。明治二年(1869)二月、明治新政府により廃止されるまで、厳しく「入り鉄砲に出女」を取り締まった。
 官軍の先駆けとして結成された赤報隊は、碓氷峠の熊野神社を占拠し、横川の碓氷関所を奪取する機会を伺った。しかし、急遽、碓氷峠を引き上げることになったため、先遣隊として坂本宿に派遣されていた丸尾清、北村与六郎は安中藩士に追われ、処刑された。

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八王子 Ⅴ

2012-08-05 13:08:15 | 東京都
(宗格院)


鏡覚院文英胤親居士(松本斗機蔵墓)

 千人町宗格院には、松本斗機蔵、粟澤文右衛門という二人の八王子同心が眠る。

 松本斗機蔵は、寛政五年(1793)、千人同心組頭胤保(たねやす)の長男に生まれ、幼少より学問を好み、塩野適斎の門に入り、のちに湯島昌平坂学問所で天文、地理、兵制などを学び、洋学を修めた。江川太郎左衛門英龍、渡辺崋山らと交わり、海外事情に通じ、開国を主張した。天保八年(1837)には水戸藩主徳川斉昭に対し、「献斧微衷」と題した上書を献じ、海防強化を論じた。天保十二年(1841)急逝。四十九歳であった。


誠友院定静自適居士(粟沢汶右衛門墓)

 粟沢汶右衛門は、享和二年(1803)、八王子同心組頭の家に生まれ、書道、剣道を塩野所左衛門に、槍術を原新七郎に学んだ。長じて八王子千人同心組頭の一人となり、日光勤番、江戸詰常役などを勤めた。慶應元年(1865)五月には将軍家茂を供奉して上洛した。息子金平は、箱館で土方歳三の配下として戦い、負傷して五稜郭で降伏。捕えられて信州戸田藩に預けられた。
 粟沢家の先祖は、武田信玄の家臣志村又右衛門麾下以来という旧家である。妹ふくが旗本津田大太郎に嫁いだ。その娘はつは、津田仙と結婚して、津田梅子を生んでいる。
 粟沢汶右衛門は、明治十三年(1880)、七十八歳で死去した。

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