史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「松下村塾」 古川薫著 講談社学術文庫

2016年11月26日 | 書評
本書は平成七年(1995)に刊行されたもので、恐らく昨年の大河ドラマに合わせて再刊されたものであろう。松陰が松下村塾を運営したのは、わずかに一年余の期間である。その間に多くの若者を感化し、幕末の風雲に命を散らした者、明治の新しい世に能力を発揮した者を陸続と輩出した。冒頭、著者は我が国における私塾において、双璧といわれる咸宜園と適塾の例をひいて松下村塾を比較する。咸宜園、適塾ともに世代をまたがって受け継がれ、それぞれ数千人という在籍者が確認されているが、両塾と比較すると松下村塾は(こと松陰が関わった期間だけを取ると)ごく短期間であり、塾生も九十人前後、主な塾生に限ると三十人に満たない。塾生の中から歴史に名を残した数の比率でいえば、咸宜園や適塾をはるかにしのぐ。我が国においてこのような教育機関はほかにない。誰もが「松下村塾の謎」を知りたいと思う。
この本に書かれていることは、これまで読んできた松陰関連本でも紹介されていることで取り立てて目新しさはなかったが、面白かったのは周布政之助が結成した嚶鳴社という結社との対立である。周布政之助は、当初は松陰の良き理解者であったが、過激な幕政批判を繰り返す松陰と現実路線をとる嚶鳴社とは激しく対立した。松陰の親友来原良蔵や協力者であった中村道太郎、土屋簫海らも嚶鳴社側についてしまい、次第に松陰と松下村塾は孤立を深める。松陰は海防僧として知られる月性に助けを求め、月性の仲介で嚶鳴社と和睦する。このときは松下村塾も辛うじて閉塾を免れた。
しかし、これ以降、松陰の言動はさらに過激化し、老中の間部詮勝の暗殺を叫ぶようになる。一度は間部老中暗殺計画に塾生十七名が血盟したが、やがてこの計画が破綻すると、松陰の知友の多くが絶交を宣言し、塾生の多くも心が離れてしまった。はっきりとこれ以上ついていけないと意思表示したものもいる。たとえば吉田栄太郎(稔麿)、岡部富太郎や松浦亀太郎(松洞)らもこのとき松陰から離れている。松下村塾は閉鎖され、松陰は投獄。安政の大獄で処刑される。もし松陰が処刑されずに萩に戻って来たら、塾生たちは彼のもとに再び結集しただろうか。松陰はもともと海外密航を企てた国事犯であり、そのことを承知で松下村塾に通っていた彼らではあるが、非現実的な過激論を吐く松陰にどこまでついていったかは分からない。もっとも吉田稔麿も松浦松洞も、動乱に身を投じ、維新を見る前に落命している。そのような塾生は数多い。松陰に感化されて、多くの若者が国事に奔走することになったのは間違いないが、多くの若者を死地に走らせた最大の理由は、松陰自身が幕府に処刑されたことにあったと思えてしかたない。

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「福岡 地名の謎と歴史を訪ねて」 一坂太郎著 ベスト新書

2016年11月26日 | 書評
山口県在住の一坂太郎氏の史跡散歩福岡県版である。福岡県は卑弥呼の時代から幕末、近現代に至るまで興味深い歴史を刻んで来た。一坂太郎氏の「専門」は幕末だろうが、この本では弥生時代から昭和に至るまで筆が及ぶ。
この本が発刊されたのが今年の四月。その時点で手に入れられれば、五月の連休の福岡史跡旅行に大いに役に立ったはずだが、間抜けなことにこの本の存在を知ったのは、つい最近のことであった。十分下調べをした上で行ったつもりであったが、やはりこの本でいくつか逃してしまった史跡を知ることになった。

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「サムライたちの幕末・明治」 歴史REAL編集部編 洋泉社新書

2016年11月26日 | 書評
幕末活躍した人物が明治をどう生きたかを紹介した本は数多あるが、本書はまず取り上げた人物がいずれも佐幕派・旧幕臣や幕末の幕府で要職を占めた大名などに限定したところがユニークである。また、人物その人だけでなく、その子や末裔に至るまで詳細に追っているところが、これまた特徴的である。末裔となると、政治家や軍人、実業家、学者、芸術家、俳優など様々である。先祖がどんな偉人であれ、彼らがどういう職業を選択しようが関係のない話ではあるが、どこかに「先祖の顔に泥を塗るわけにいかない」という想いがあるのかもしれない。その道で名を成した人が多いことが目立つ。
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千葉

2016年11月25日 | 千葉県
(千葉縣護國神社)
 既に四十七都道府県を踏破した私であるが、実は県庁所在地でいうと、千葉市の史跡だけが未訪問となっていた。現在の千葉市の市域の大半は、佐倉藩の領地であったが、特に藩政時代の遺跡が残っているわけでなく、積極的にここを訪ねる理由がなかったのである。もちろん、何度も通過はしているのだが…。


千葉県護国神社

 この日は東金を訪問した帰りに千葉市内の護国神社に立ち寄ることにした。この神社は、明治十一年(1878)、初代県令柴原和が発起となり、千葉県庁公園内に千葉県招魂社として創建されたのに始まり、昭和四十二年(1967)現在地に遷移したものである。戊辰戦争、西南戦争から大東亜戦争に至る戦乱に命を捧げたみたまが祀られている。戊辰戦争で戦死した佐倉藩の安達直次郎(慶応四年閏四月羽前村山にて戦死。二十九歳)以下が当神社の祭神となっている。

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東金 Ⅱ

2016年11月25日 | 千葉県
(本漸寺)


本漸寺

 一か月以上前に野球の練習で発症した腰痛がなかなか引かない。意を決して休みをとって、病院に行った。腰にブロック注射を打ってもらったところ、ウソのように痛みは消えた。
 せっかくの休みなので、そのまま電車に乗って千葉方面に向かった。平日の昼間は本数が少なく、千葉から大網経由で東金まで意外と時間を要する。東金駅を降りた時には午後二時半を過ぎていた。
 駅から徒歩十分足らずのところに八鶴湖(はっかくこ)がある。桜の名所で春には花見客で賑わうらしい。湖畔に本漸寺がある。


大野家之墓

 本漸寺は、もとは市内の田間という場所にあったが、大永元年(1521)酒井定隆が城を東金に移した際、一緒に引っ越し現在地に建てられた。墓地に大檀那酒井氏一類の墓がある。徳川家康が鷹狩に来た際には、ここに宿泊したといわれ、境内に「お手植えみかん」が残されている。
 私の目当ては、当寺にあるという豪商大野伝兵衛の墓である。八代目大野伝兵衛は、天保元年(1830)、東金の生まれ。文久初年、所有する山林二十余町歩を開発し、茶の栽培団地を造った。宇治の製茶技術を移入し、職工数十人を使って企業化に成功した。さらに明治に入ると、ウォルシーボー商会を通じ、本邦で初めて米国への輸出の道を開いた。今では関東のお茶というと、狭山茶が有名であるが、当時は東金茶が最大のブランドであった。伝兵衛は、地方の窮民に養蚕業を指導し、家伝の妙薬をコレラ患者に無償で供給した。明治九年(1876)、四十七歳にて没。
 佐藤尚中(舜海)の二男哲次郎がのちに大野家を継ぎ、明治三十三年(1900)には東金で大野銀行を設立したが、大正末年破産・廃業となった。
 伝兵衛の墓を探して墓地を歩き回った。大野家の墓は複数見つかったが、大野伝兵衛家のものと特定できなかった。一応、一番大きな墓の写真を参考として掲載しておく。

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鴻巣 Ⅱ

2016年11月20日 | 埼玉県
(法要寺)
 法要寺の岡安喜平次の墓の傍らに箱館戦争の関係者の慰霊墓があるという情報を竹さんよりいただいたので、改めて法要寺を訪ねた。情報のとおり、岡安喜平次の墓の横に「函館戦死菩提」と刻まれた墓碑がある。側面に名前が確認できたのは、中島三郎助、伊庭八郎、菅沼弥兵衛の三名。正面にも法名らしきものが確認できるが、個人名の特定はできない。


函館戦死菩提碑

(鴻巣宿)
 鴻巣は、中山道の宿場町であった。旅籠が五十八軒もあったというから、比較的大きな宿場であった。現在は往時の建物などは残っていないが、駅前に旧街道が通じ、その両側に商店街が続く。往時の賑わいを感じることができる。


鴻巣本陣跡

 和宮東下の際には、文久元年(1861)十一月十二日、鴻巣にて昼食をとっている。

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下仁田 Ⅲ

2016年11月20日 | 群馬県
(青岩河原)


青岩河原

 下仁田の青岩では、その名のとおり、青みがかった岩が見られる。青い岩の正体は、緑色結晶片岩である。
 元治元年(1864)の下仁田戦争では、天狗党の捕虜となった高崎藩士七名が青岩河原にて切腹させられた(実態としては処刑である)。

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南牧

2016年11月20日 | 群馬県
(慈眼寺)
 下仁田から南下すると、南牧村に至る。さらにこの道を南に進むと、あの日航機が御巣鷹山に墜落したことで全国に知られることになった上野村がある。
 南牧村は川沿いにわずかに集落が形成されている寒村である。幕末はもっと人口密度は低かったであろう。彰義隊副隊長天野八郎は、甘楽郡磐戸村(現・南牧村)の出身である。慈眼寺に天野八郎の墓を訪ねた。


慈眼寺


天野八郎忠告之墓

 天野八郎の墓は、慈眼寺本堂の左手の大井田家の墓域にある。天野八郎は幼名を林太郎といい、天保二年(1831)、大井田吉五郎忠恕の二男に生まれた。長じて天野家を継ぎ、天野八郎と名乗った。江戸に出て多くの志士を交わったが、次第に佐幕的傾向を強め、慶応三年(1867)、大政奉還により徳川慶喜が将軍を辞すと、彰義隊を組織し、一橋家の重臣渋沢成一郎を隊長に、八郎は副隊長となって東叡山上野に立て籠もった。官軍との戦闘の末、戦況利なく、奉じていた輪王寺宮を微行させるとともに、残隊は潜行した。慶応四年(1868)七月十三日、八郎は本所鉄砲師炭屋文次郎宅にて食事中に官軍に襲われ額に銃弾を受けた。同年十一月八日、獄中死。享年三十八。
 当時、小塚原の叢中に葬られたが、後に同志が小石川円通寺に改葬し、「顕彰院誼道」の法名が送られた。大正六年(1917)、五十回忌に当り、郷里の菩提寺に分骨墓碑が建立された。側面の墓碑三百字に及ぶ長文で、彰義隊の生き残り本多晋による。花立てには、八郎自筆の「壮膽如斗」が刻まれている。


「壮膽如斗」


天野八郎辞世碑

 碑に刻まれた辞世句。

枯尾花 倒れたそよぎ 止むにけり

(天野八郎生家)
 慈眼寺を出て、磐戸の集落の中(ちょうど磐戸神社の向い側辺り)に天野八郎の生家跡がある。当時の建物は残っていない。


天野八郎生家跡
コメント (3)
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伊香保

2016年11月20日 | 群馬県
(伊香保神社)
司馬遼太郎の「北斗の人」は、千葉周作が始めた北辰一刀流が伊香保神社に額を奉納しようとし、それを阻止せんとする馬庭念流との間で激しい抗争となる。いわゆる「伊香保神社掲額事件」が最後を飾るクライマックスとなっている。この事件は司馬先生の創作ではなく、実際に文政五年(1822)に起きた事件である。結局、北辰一刀流側は掲額を断念する。従って今伊香保神社を訪ねても、当然ながらそこに北辰一刀流の額はない。


縣社伊香保神社


伊香保神社

 伊香保神社本殿に奉納額を発見。しかし、文字が一切読み取れず、残念ながら誰が奉納したものか分からない。


高山彦九郎の腰掛石

 高山彦九郎は、数えで二十九歳のとき、伊香保を訪ねている。「安永二年(1773)十一月十七日、米野から八崎へ出て、渋川手川を目指した。旅の目的は、手川の大島郷右衛門と、伊香保大屋十二軒の一つである大島甚左衛門を訪ね、大島氏の系譜を調べるためであった。」(赤城行)
 この時、伊香保神社に参拝し、この石に腰掛け、日記をつけたといわれる。

(伊香保温泉)


伊香保温泉

 伊香保温泉に入ると、温泉特有の硫黄の臭いが鼻を突く。伊香保温泉は、伊香保神社までの参道が石段となっており、高低差六十八メートル、その数三百六十五段である。三百六十五段というと、さほど大変な階段ではなく、わずか十分足らずで終着点伊香保神社に達する。因みに香川の金毘羅さんの石段は、千三百六十八段。さすがに千段を越えるとタフである。


伊香保関所跡

 階段の途中に伊香保関所が再現されている。伊香保は、高崎から越後に至る街道上に位置し、交通の要所であった。寛永八年(1631)、幕府の命によりこの地に伊香保村口留番書(関所)が設けられ、明治二年(1869)に廃止される二百三十八年にわたりその役割を果たし続けた。


松根東洋城句碑

 関所跡のすぐ下の公園に俳人松根東洋城の句碑がある。松根東洋城は、明治十一年(1878)の生まれで、正岡子規の知遇を受けた俳人であるが、直接「幕末維新」とは関係はない。ただし、東洋城の父は、宇和島藩家老松根図書なもので、ここで紹介した次第である。石碑に刻まれた俳句は、東洋城揮毫のものである。

 秋風や いかな動かぬ 山の大

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赤城山

2016年11月20日 | 群馬県
(赤城山)


粕川
紅葉していれば絵葉書的写真である

 三連休の最終日、久しぶりに「晴れ」の天気予報だったので、赤城山をアタックすることにした。早朝五時に八王子を出発して、七時前に前不動駐車場に到着した。さすがにこの時間、登山客の姿はない。
 赤城山は国定忠治の「赤城の山も今宵限り…」という名台詞で有名であるが、実は黒檜山、駒ケ岳など複数の火山体の総称である。群馬県のほぼ中央に位置し、県下の多方面からその姿を見ることができる。妙義山や榛名山とともに上毛を代表する山の一つである。
 登山ルートも多数あるが、私の選んだのは忠治のみはり岩やかくれ岩屋など、国定忠治ゆかりの史跡の残る不動大滝コースである。


忠治のみはり岩

 最初に出会うのが「忠治のみはり岩」である。忠治があの名台詞を吐くのは講談の世界のことであるが、捕吏に追われて赤城山に身を隠したのは史実のようである。この岩陰で見張りをしていたかどうかは不確かであるが。


滝沢不動尊

 スタートから二十分ほどで滝沢不動尊を通過する。この不動尊は今からおよそ六百年前に創始されたという長い歴史を持つ。
 ここから道は眼下を流れる清流(粕川)に向かって急降下する。不動大滝や忠治の岩屋に行き着くには、この川を渡らなければならない。橋のような気のきいたものがあるわけではなく、野猿のように岩を伝って渡河するのである。というと、いかにも軽快に聞こえるが、実は一か月前に傷めた腰が完治しておらず、我ながら情けない格好であった。
 気合を入れて上流を目指したが、忠治の岩屋と不動大滝は、あろうことか土砂崩れと林道工事のため通行止めであった。通告によれば、来年の三月末までこの状態だそうで、また出直すしかない。
 瀧見の所という場所で、遠くに不動大滝を拝むことができた。今回はこれで良しとしよう。

(忠治温泉)
 前不動駐車場までの途中に忠治温泉「忠治館」がある。この施設は、江戸時代の旅籠風の建物であるが、国定忠治とどういう関係があるのか不明。


忠治温泉 忠治館
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