史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「中岡慎太郎 陸援隊始末記」「坂本龍馬 海援隊始末記」 平尾道雄著 中公文庫

2010年12月19日 | 書評
 土佐出身の歴史家平尾道雄氏の著作である。「陸援隊始末記」「海援隊始末記」ともに戦前に一旦完成し、その後幾度かの改訂を経て、昭和五十二年(1977)に刊行されたものが文庫化された。
 中岡慎太郎の精力的活動には驚かされる。たとえば慶応元年(1865)の動きは以下のとおりである。
 1月24日 五卿に従って大宰府へ
 2月 5日 下関を出発して、同月京都へ
 3月23日 離京。再び大宰府へ
 4月27日 大宰府を出て、京都へ
 5月24日 離京。閏5月6日鹿児島に至る。
 閏5月16日 鹿児島を出発。同月下関着
 閏5月29日 龍馬とともに下関を出て京へ
 7月19日 離京
 8月 再度上京
 9月3日 下関帰着
 10月16日 大宰府へ戻る
 10月25日 福岡に出張
 と、まるで席があたたまる暇がない。この年、中岡は「時勢論」を著すなど、もっとも気力、体力とも充実した年だった。中岡の活動を支えたのは、実家が庄屋を務めており、比較的裕福だったことも大きい。龍馬の家も商家であり、二人とも経済的には恵まれていたのである。
 中岡慎太郎の「剛」に対し、坂本龍馬の「柔」と対比される。この両者が、ときには手を取り合って、時には異なる道を進みながら、維新を推進したことは歴史の妙というほかはない。
 中岡慎太郎伝であれば、近江屋において両雄が凶刃に倒れるところで幕を閉じることになるが、この本は「陸援隊始末記」である。陸援隊のその後まで筆が及んでいる。頭梁を失った陸援隊は、田中顕助に率いられて高野山に挙兵する。挙兵といっても、紀伊見峠で大阪からの敗兵と小競り合いがあった程度で、大きな戦闘もなく上京を果たしている。田中顕助は、高野山挙兵により「紀州牽制という第一目的は完全に達することができた」「紀州をして指一本すらも動かすことを得せしめなかったのは、全く高野山義軍の功績」(田中光顕著「維新風雲回顧録」)と戦術的意義を強調しているが、それほどの意味があったのだろうか。いずれにせよ、あまり世間に知られていない高野山挙兵の経緯が詳述されており、それだけでもこの本は一読の価値がある。
 「海援隊始末記」の方も龍馬の死後、海援隊の解散までを紹介している。その間、事実上、隊の保護指導にあたったのは、土佐藩大監察佐々木三四郎であった。佐々木は長崎奉行所に乗り込んで談判し、平和裡に長崎の民政を引き継いだ。このとき多くの海援隊士らも大いに活躍している。あまり知られていない史実であるが、このどさくさに花山院家理を担ぎ出した浪士団が天草島に侵入するという事件が発生した。彼らは暴慢なふるまいが多く、倒幕派も手を焼いたが、海援隊士、薩摩藩士、大村藩士らが出張して説諭した結果、呆気なく解散した。一方で海援隊の一部は、塩飽諸島や小豆島などの鎮撫にも出向いており、その結果、海援隊は、長崎と讃岐諸島に分裂する形となり、統制を失った。この状況を見た山内容堂は、慶応四年(1868)閏四月、海援隊の解散を決心した。海援隊出身者の多くは、明治新政府に仕えてそれぞれ功を成した。海援隊は人材供給の面でも大きな役割を果たしたのであった。

コメント (4)
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「日本の貴人151家の運命」 中山良昭著 朝日新書

2010年12月18日 | 書評
本書は序章と第一~三章、そして付編として堂上家百三十七家の出自や家格を紹介した一編から構成されている。コンパクトな本であるが、公家という日本特有の一団の持つ不思議さを余すことなく解説している。
第一章と第二章では、「その後の貴人たち」「旧宮家の光と影」と題して、近現代を生きた公家の生き様を紹介している。彼らは武士に政権を奪われて以来、五百年余りを「天皇の藩塀」という曖昧な存在でありながら、しぶとく生き抜いた。明治維新で再び脚光を浴びるが、政治家として活躍した例はほんのわずかである。学者として名を成したものもいれば、軍人や女優、スポーツ選手として活躍したものもいる。貴種故の世間知らずが招いたというべきか、中には世間を賑わす醜聞を起こした例もある。
公家の大事な役割の一つが貴族の文化や有職故実を脈々と伝えることである。雅楽や蹴鞠を伝える人たちがいることは、時々マスコミにも取り上げられるのでよく知られている。七卿落ちの一人、四条隆謌の家は、包丁道と呼ばれる日本料理に関する作法、故実、調理法を伝える家だという。この包丁道は、四条隆謌の子、四条隆平の家系に今も引き継がれている。このことは本書で初めて知った次第である。
七卿落ちといえば、本書111Pで「明治天皇の叔父にあたる(中山)忠光は七卿落ちで長州にいたところを、長州内の親幕派の刺客に襲われて死んだ」と記述されているが、忠光は所謂七卿落ちのメンバーではない。八一八の政変が起きた時、忠光は天誅組に担がれて大和にいたのである。その後、天誅組が破陣して長州に逃れたのであって、本書のこの部分の記述はちょっと正確ではないように感じた。どうでも良いことですけど。

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城里

2010年12月18日 | 茨城県
(鹿島神社)
 今年平成二十二年(2010)は桜田門外の変から百五十年というメモリアル・イヤーである。この記念の年に桜田烈士といわれる二十人の墓を訪ねることが今年の“目標”であった。これまで常磐共有墓地などに在る彼らの墓を訪ね歩き、残るは城里町の鯉淵要人と増子金八の二人となった。
 本年も残すところ一か月を切った。年内に二人の墓を訪ねるとすれば、この日がラストチャンスであった。墓の場所は事前に十分調べきれず、阿波山の町立図書館に寄ってそこで調べることにした。城里町は、平成十七年(2005)に常北町、桂町、七会村が合併してできた町である。未だに昔の町村の壁が存在しているようで、この図書館では旧桂町のことは分かっても、それ以外の史跡は分からなかった。
 仕方なく増子金八の墓があるという石塚地区へ向かう。交番で宗清山墓地の在り処を尋ねてみたが、若いお巡りさんは聞いたことがないという。当てもなく石塚地区を歩いてみたが、そんなことで見つかるものではなかった。残念ながら、この日はこれで撤収することにして、次の目的地である鯉淵要人の墓を目指すことにした。増子金八の墓は来年以降の課題である。


鹿島神社

鯉淵要人の墓は、上古内の鹿島神社に隣り合う鯉淵家の敷地内の墓地にある。鹿島神社は建て替えられて間もないらしい。


贈正五位鯉淵要人墓

 鯉淵要人は、上古内(現城里町上古内)の諏訪神社祀官の家に生まれた。尊王攘夷の信念が強く、また剣は無念流を学んで抜群といわれた。桜田門外の大老襲撃に参加し、彦根藩の護衛何名かを斬り倒したが、自身も重傷を負った。引き上げる途中で力尽き八重洲河岸で自刃して果てた。五十一歳であった。

 辞世

 君が為 思いを張りし 梓弓
 ひきてゆるまし やまと魂

(伊藤益荒・斉宮自刃の地)
 増子金八の墓に続き、「伊藤益荒、伊藤斎宮自刃の地」が分からない。このまま帰ろうかと半ば諦め気分であったが、ダメモトで商店のおじいさんに聞いてみた。おじいさんは、メモ用紙に地図を書きながら「この前の道を真っ直ぐいくと、右手に物産センターがあるから、その前の道を百メートルくらい行けば、登り口がある…」と、そこまで説明してくれたとき、「近くにデリバリーがあるから、これから車で行くよ。付いてきなさい」ということになり、ご親切にも登り口まで案内して下さった。登り口から落ち葉の絨毯が敷き詰められた坂道を進むと、左手に鳥居が見える。その奥に高さ一メートルくらいの石碑が建っている。


伊藤両氏(天狗党)自刃の碑

 伊藤益荒は島原脱藩浪士。伊藤斎宮は高崎脱藩浪士。ともに天狗党挙兵に参加した。横浜の異人を襲撃する計画を立て、鹿島に及んだところで幕府軍および佐倉藩、麻生藩兵に要撃され、鉾田、岩間、杉崎と敗走を続けた。このとき既に残兵は十数名となっていた。二人は小勝(おがち)に落ち延び、ここで一夜を過ごしたが、翌朝、笠間藩兵に発見されてこの地で自刃した。元治元年(1864)九月九日のことであった。

(黒沢止幾生家)


黒沢止幾生家

 黒沢止幾は文化三年(1806)に当地(現城里町錫高野(すずごや))に生まれた。父は修験者黒沢将吉といい、寺子屋を営んでいたという。安政六年(1859)、安政の大獄で藩主斉昭が処分を受けると、止幾は単身、京都に出て、斉昭の雪冤を訴えようと決意した。一か月の旅の末、京都に着いた止幾は、孝明天皇に自作の長歌を献上したが、ほどなく同心に捕えられる。厳しい尋問を受け、中追放処分を受けた。維新後、止幾はひそかに錫高野に帰り住んで、明治五年(1872)、六十七歳のとき、小学校教師となった。日本初の女性教師と言われる。教師と退職したあとも私塾を開き、生涯を教育に捧げた。明治二十三年(1890)八十五歳で死去。


黒沢止幾手植えの松

 明治八年(1875)、止幾七十歳のとき、大洗の徳川斉昭公の記念碑を訪ねた折、その記念に小松を持ち帰り植えたものである。


黒沢止幾生家の内部

 黒沢止幾の生家は、今は無人である。鍵はかかっておらず、内部を自由に見学することができる。ほとんど維持保存の手が加えられておらず、家屋は荒れ放題となっている。室内も長らく清掃された気配もなく、このままでは取り壊されるのは時間の問題であろう。貴重な史跡を大事にしてもらいたいと切に望む。


贈位三十年記念碑

 昭和十一年(1936)、贈位三十年を記念して建立された記念碑である。この近くに墓もあるらしいが、とても独力で探せる様子ではなかった。

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水戸 六反田

2010年12月18日 | 茨城県
(六地蔵寺)


六地蔵寺

 六地蔵寺の地蔵堂の背後に栗田家墓地がある。一群の墓石の中央で一際目を引く石碑が、栗田寛の墓碑である。内藤耻叟の撰文、徳川慶喜の題字を刻む。


継往開来
(栗田寛墓碑)

 栗田寛は天保六年(1835)に水戸に生まれた。藤田東湖や会沢正志斎といった天下に名の知れた学者から薫陶を受けたが、とりわけ彰考館総裁豊田天功から受けた影響が大きかった。安政四年(1857)、二十四歳のとき、豊田総裁の推薦によって史館に出仕することになり、大日本史編纂事業のうち最も困難な志類表編纂の事業を委嘱された。折しも藩内は門閥派と改革派が激しく対立し、藩情は激動の時代を迎えたが、栗田は館務と著述に専念して、兵火から史料を守った。維新を迎え大日本史編纂事業も中止の風説も流れたが、事業継続を主張し、その結果、史館は偕楽園の一角に移されることになった。光圀、斉昭を祀る常磐神社の創建に奔走する一方、家塾を開いて後進の指導にも力を尽くした。明治二十五年(1892)には文科大学に招聘され、文部大臣官房図書館兼務とともに国史学科の教授に就任。修史館再興にも参画した。明治三十二年(1899)六十五歳で世を去った。


立原翠軒墓碑

 六地蔵寺の墓地には、立原家の墓所がある。立原翠軒のほか、父蘭渓、子の春沙の墓も並んでいる。


蘭渓立原先生墓

 立原翠軒は、彰考館文庫役立原蘭渓の長子として延享七年(1744)に生まれた。天明六年(1786)に彰考館総裁に就いた。その頃停滞気味であった修史編纂事業を復興し、館員に藤田幽谷、高橋広備といった藩内の秀才を抜擢して「大日本史」の編修促進に尽くした。文政六年(1823)、八十歳で逝去した。絵画、篆刻にも長じ、この才能はその子杏所、孫春沙に引き継がれた。


春沙女史立原氏墓

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水戸 元吉田

2010年12月18日 | 茨城県
(清巌寺)
 この日は、水戸の史跡を訪ねるために朝七時前に八王子を出たが、調布辺りで渋滞に遭い、水戸市内まで三時間近くかかってしまった。帰りは夕食に間に合うように史跡巡りを早めに切り上げたが、常磐自動車道で自動車四台による事故が発生し通行止めになってしまった。一旦、高速道路を下りて国道六号線を走ったが、これまた大渋滞であった。柏で再び高速道路に乗ったがそこでも渋滞。更に中央高速でも事故渋滞があって、結局帰路は六時間もかかった。事故に遭った人も災難だったとは思うが、その影響は甚大である。くれぐれも安全運転で願いたいものである。


清巌寺


結城朝道
結城一万丸 墓
結城七之助

 清巌寺の墓地には結城家の墓域があり、その一角に結城寅寿(朝道)、その子の一万丸(種徳)の合葬墓がある。「水戸の先人たち」(水戸市教育委員会)によれば、結城寅寿の墓は常陸大宮の蒼泉寺にもあるらしい。

 結城寅寿は、水戸藩門閥派の中心人物である。結城氏は南朝に仕えた結城宗廣以来という名族の出である。寅寿は、六歳で家督を継ぎ、天保十一年(1840)、二十三歳で小姓頭、翌年には参政に昇進し、更に藤田東湖とともに勝手改正掛に任じられた。この頃から門閥派の首領として改革派と対立が顕在化し始めた。弘化元年(1844)、斉昭が幕府から譴責を受け、致仕、謹慎を命じられると、門閥派が藩政の要職を門閥派が占めるようになり、寅寿も江戸詰めの表勤となって活動することになった。改革派の巻き返しにより表勤を罷免され水戸に返され、弘化四年(1847)には隠居・謹慎を命じられる。嘉永二年(1849)、斉昭が藩政に復帰。嘉永六年(1853)ペリーが来航すると政権は改革派が掌握することになったが、門閥派との対立は深刻の度合いを強め、その中心人物と目される寅寿は長倉陣屋(常陸大宮)に拘禁された。安政の大地震で藤田東湖、戸田蓬軒を失った改革派が巻き返しを図り、門閥派を次々と処刑した。結城寅寿も安政四年(1857)、斬罪に処された。四十歳。
 その子、結城種徳(一万丸)も家禄と屋敷を没収され蟄居処分を受け、寅寿と同じく拘禁された。絶食して牢死したとされる。

(蓮乗寺)


蓮乗寺

 蓮乗寺本堂裏には、天狗党の戦死者を弔う弔魂之碑が建てられている。


弔魂之碑

(常照寺)
 常照寺はかつて馬場氏の居城吉田城の跡という。


常照寺

 蓮乗寺門前の小径を五分ほど歩いて登ると、常照寺の境内に行き当たる。広い墓地の奥の方に水戸藩士にして画家、萩谷せん(“せん”は「僊」の旁)喬の小さな墓がある。せん喬は、立原杏所、林十江と並んで水戸の三画人と称される、江戸後期の水戸を代表する画家である。藩主斉昭にも愛され、しばしば公命を受けて作品を制作した。安政四年(1857)七十九歳にて死去。


せん喬萩谷君墓
(“せん”は「僊」の旁)

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梅屋敷

2010年12月12日 | 東京都
(梅屋敷)
 梅屋敷は、文政年間(1818~29)に売薬所の敷地に山本久三郎が梅の木百本をはじめ、かきつばたなどを植え、東海道の休み茶屋を開いたのがその始まりという。時の将軍徳川家慶が鷹狩りの時に休憩所としたほど広壮な屋敷であった。街道上にあって、文人、行楽客、旅人を集め、特に梅の季節は大変な賑わいであった。
文久元年(1861)十一月、高杉晋作ら長州藩の攘夷派が横浜の外国人を襲撃する計画を立てていた。この密計が土佐藩の同志から漏れ、藩主山内容堂から長州藩主毛利定広(元徳)に伝えられた。驚いた定広は使者を送って高杉らを呼び戻し、梅屋敷に集めて説諭した。計画は頓挫したが、そこへ長州藩の重臣周布政之助が泥酔して現れ、「容堂公は攘夷をちゃらかしなさる」と放言した。その場にいた土佐藩士らは憤激して周布に斬りつけようとしたが、高杉が咄嗟の機転で馬を斬りつけ、驚いた馬は周布を乗せたまま走り去ったという。


明治天皇行幸所蒲田梅屋敷

 明治天皇は梅屋敷の風情をことのほか気に入り、明治元年(1868)から明治三十年(1897)の間に九度の行幸があった。これを記念して公園の前に石碑が建てられている。


梅屋敷

 私が梅屋敷を訪問したのは晩秋のことである。往時からすれば規模が小さくなった敷地は公園として整備されている。もちろん、梅の花は咲いていなかったが、その代わりに一本の紅葉が真っ赤に色付いていた。


距日本橋三里十八丁

 公園内に建てられている里程標は往時の復元したものであるが、梅屋敷門前に建てられていたもので、木戸孝允、伊藤博文らがここで新年宴会を開いたとき二人が合作した一幅の絵にも、この里程標が描かれているという。

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大森

2010年12月12日 | 東京都
(大森駅)


日本考古学発祥の地

 JR大森駅のホームに日本考古学発祥の地なる石碑がある。明治十年(1877)、アメリカのモース博士が、横浜から新橋に向かう汽車の窓から大森貝塚を発見した逸話はあまりにも有名である。このことから百年を経て、この地に考古学発祥の地の碑が建立された。なお大森貝塚は、大森駅から徒歩数分の場所にある。

(大森寺)


大森寺


魄光大尊霊

 大森南の大森寺には、この近くに流れ着いた彰義隊士の遺体を供養した墓が建てられている。

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新宿 Ⅱ

2010年12月12日 | 東京都
(成覚寺)

(成覚寺)
成覚寺

 新宿の猥雑な街の中に成覚寺が在る。成覚寺の墓地に幕臣塚本明毅の墓碑が建つ。隣に塚本家の墓があるが、明毅の墓は昭和三十年代の境内地整理のときに整理されており、現在は墓碑のみが残っている、この墓碑は明治二十八年(1895)建立、篆額は榎本武揚、撰文は川田剛、書は田辺太一。


塚本明毅墓碑(右)

 塚本明毅は天保四年(1833)江戸下谷に生まれた。昌平黌に学んだ後、安政二年(1855)、長崎海軍伝習所一期生に選ばれた。その後も幕府海軍で重きを成した。維新後、徳川家に従って静岡に移住。沼津兵学校で一等教授を務めた。明治四年(1871)新政府に出仕して、兵学教授等を務めた。その後は、内務省地理局で地誌の編纂にあたった。明治五年(1872)には太陽暦への改暦を建言し、その遂行に尽力した。権大内史兼法制課長、一等編修館、内務省御用掛、内務省書記官を歴任。明治十八年(1885)、五十三歳で死去。

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島田

2010年12月05日 | 静岡県
(島田宿本陣跡)
 JR島田駅を降りて、北口には観光案内所があり、隣接している駐輪所で自転車を借りることもできる。観光案内所で初倉種月院の場所を聞いてみたが、観光案内所の方もよくご存知ではなかった。取り敢えず行ってみるしかない。


島田宿本陣跡

 島田宿は、東海道五十三次の二十三番目の宿場町である。東海道の難所の一つ大井川を控え、たびたび川止があったため、大変繁盛した。本陣跡には立派なモニュメントが建てられ、中本陣、下本陣跡も場所が特定されていて、それぞれ小さな石碑が建てられている。

(蓬莱橋)


蓬莱橋

 大井川には江戸防備という幕府の軍事政策上の要請から橋が掛けられなかった。当時は大井川を渡るには川越人足に頼るしかなかった。
 明治に入って徳川家に従って多くの幕臣が駿府に移住した。彼らは牧之原を開拓してお茶を作り始めた。当初は筆舌に尽くしがたい苦難の連続であったが、やがて茶栽培が軌道に乗り始めると、初倉に住む人たちが島田まで生活用品や食糧品を買いに出かけることになった。島田宿の住人も初倉に山林、原野の開墾に出かけるようになったが、その都度、大井川を小舟で渡るのは大変危険であった。そこで島田宿の総代たちが静岡県令に架橋の願いを出し、これを受けて明治十二年(1879)になって蓬莱橋が完成した。

 木造の橋は大井川の増水のたびに被害を受けたが、昭和四十年(1965)にコンクリート橋脚に変えられ、今日の姿になった。「世界一長い木造歩道橋」として英国ギネス社から認定を受けたそうである。渡橋には歩行者、自転車とも百円を払わなくてはならない。


大井川
向う側には島田大橋が見える

(中條金之助景昭像)
 中條金之助は石高三百石の旗本の家に生まれ、剣道、柔道に長じた。嘉永七年(1854)御書院番、安政三年(1856)講武所剣術世話心得、文久二年(1862)には同所剣術教授方、御小納戸役、翌年には浪士取扱、新徴組支配、御徒頭を拝命した。大政奉還の後、慶喜の護衛のために精鋭隊を組織してその隊長となった。慶喜が静岡に移ると、それに随行して移住。精鋭隊を新番組と改称した。やがて世の中が治まると、中條金之助は新番組二百数十名を率いて牧之原台地の開墾に従事することになった。明治四年(1871)、廃藩置県と同時に神奈川県令を命じられたが固辞して牧之原にとどまった。以後、官途に就くことなく、牧之原の開拓と士族の殖産に身を捧げた。明治二十九年(1896)七十歳で当地に没した。


牧之原台地

 中條金之助像の立つ高台から見下ろすと、一面茶畑が広がる。士族による開拓には想像を絶する苦労があったと想像される。今日の静岡県における製茶の隆盛を眺めて、きっと満足しているに違いない。


中條金之助景昭像


伊佐新次郎書碑

 伊佐新次郎は、文化六年(1809)に生まれ、下田奉行支配組頭、具足奉行、講武所奉行支配組頭、海軍奉行並組頭等を歴任した。維新後は牧之原に移住して中條金之助の屋敷に起居した。仏典、漢籍に通じ、短歌にも長じ、蘭学も修めた。特に書の名声は高く、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟らに書を教授したことでも知られる。牧之原に移住した新次郎は既に高齢に達していたため開墾には従事せず、私塾を開いて士族の子弟や近隣の人々に漢籍や書を教えた。明治二十四年(1891)八十二歳で死去した。
 中條金之助像の傍らにある伊佐新次郎の書碑には、「龍」という一文字が刻まれている。

(法林寺)


法林寺

 法林寺には伊佐新次郎の墓がある。
 法林寺の本堂前には、唐人お吉の石像がある。伊佐新次郎は、下田奉行支配組頭時代に米国総領事ハリスにお吉を引き合わせたと言われる。


伊佐新次郎峯満之墓

(種月院)
 種月院へは、島田大橋を渡って、ひらすらその道を直進する。新幹線を渡る高架橋の手前の十字路を左に折れて、しばらく走ると行き当たる。種月院には、中條金之助の墓がある。明治二十九年(1897)当地で没した。葬儀委員長は勝海舟であった。同じ墓域の成瀬家、遠山家はいずれも旧幕臣の家であろう。


種月院


牧ノ原開墾先駆者の記念碑

牧ノ原開墾先駆者の記念碑には、中條金之助と今井信郎の事績が刻まれている。中條金之助没後百年を記念して、平成八年(1996)に建立されたものである。


志岳中條先生墓


今井信郎之碑

 中條金之助の墓の背後に、坂本龍馬暗殺の実行犯として知られる今井信郎の碑が建てられている。今井信郎は、戊辰戦争が終わると投獄され、明治五年(1872)に至ってようやく赦され出所した。多くの幕臣と同じように、今井も静岡に移住して学校を設立した。一時新政府に仕えて八丈島に赴いたが、明治十一年(1878)、中條金之助らの勧めもあって、初倉に入植し、自由民権運動や教育、殖産などに尽力した。明治三十九年(1906)には初代初倉村長にもなっている。大正七年(1918)に七十八歳で没したが、今井信郎を慕う地元の人たちの手により、当時に碑が建立された。

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磐田

2010年12月05日 | 静岡県
(見附宿)
 磐田の駅前の観光案内所でレンタサイクルを借りる。四時間で二百円と格安である上に、電動アシスト、変速機付自転車というから有り難い。ここで地図をもらって、目的地への道のりを確認して出発である。磐田は比較的平坦な街であるが、それでも自転車で走るとアップダウンが大きい。電動アシスト自転車の威力を実感できる。


見付宿

 磐田市の中心はかつて東海道の宿場町で栄えた見付宿である。見付という地名の由来は、「京都から東国に向かう旅人がここまで来てはるかに富士山を見つけたから」という俗説がある。国道一号線に並行した旧東海道(見付宿場通り)沿いに美しい旧見付学校の洋式校舎が建っている。

(旧見付学校)


旧見付学校

 旧見付学校は、明治七年(1884)に工事着手、翌年落成した現存する日本最古の木造擬洋風小学校校舎である。当時の校舎はニ階建だったらしいが、明治十六年(1883)に三階部分が増築されて、五階建てになった。


磐田文庫

 見付学校の敷地内に磐田文庫と呼ばれる土蔵風の建物がある。隣接する淡海国玉神社の神官大久保忠尚が開いたもので、今でいう図書館である。大久保忠尚は神官職の傍ら私塾を開いて和漢の書を教えていた。塾生は、多いときには二百人を数えたという。元治元年(1864)、広く和漢の図書を集めて磐田文庫を創設した。磐田文庫は一般にも開放されていた。慶応四年(1868)戊辰戦争では遠州報国隊を結成して取締役に就いた。維新後は、駿河、遠江、三河裁判所御用掛、招魂祭祭事主宰などを命じられ、明治十三年(1880)には海軍省書記官に転じたが、同年五十五歳で没した。


淡海国玉神社

(赤松家)


赤松家門

 旧赤松家は、近代日本の造船技術の先駆者にして海軍中将・男爵赤松則良の邸宅跡である。明治二十年~三十年代に築かれたという赤レンガ製の門や塀は、県や市の文化財に指定されている。


赤松則良胸像

 赤松則良は、天保十二年(1841)幕臣の次男に江戸で生まれ、祖父の赤松家を継いだ。安政四年(1857)、十七歳のとき蕃書調所句読教授出役を命じられ、更に長崎の海軍伝習所第三期生に選ばれてオランダ語を学んだ。十九歳のとき、勝海舟らとともに咸臨丸で遣米使節団の一員として渡米した。文久二年(1862)、オランダに留学して造船技術を学んだ。幕府が瓦解して慶喜が駿府に移り住むと、則良も見付に移住して磐田原の開墾に着手した。明治元年(1868)沼津兵学校が開設され、教授として招かれた。その後、勝海舟の勧めもあり明治新政府の兵部省に仕え、明治二十年(1887)海軍中将、男爵。明治三十年(1897)、貴族院議員。明治四十五年(1912)、妻貞が亡くなると、長男範一の東京千駄ヶ谷の屋敷に移り住み、大正九年(1920)、七十八歳で亡くなった。墓は東京駒込の吉祥寺にある。


旧赤松家記念館


記念館の展示

 旧赤松家記念館には、赤松家に関する文化財や資料を常設展示している。赤松則良は、同じく旧幕臣出身の勝海舟や西周を親交が深かったのみでなく、榎本武揚とは義兄弟という関係にあった。また、長女登志子は、文豪森鴎外と結婚して於兎を生んだが離婚。のちに宮下家に再嫁した。長男範一も父のあとを継いで会社役員、貴族院議員などを務めた。さらにその子(則良の孫)である赤松照彦は初代磐田市長に就任するなど、戦後磐田の復興に尽くした。

(池主神社)


池主神社

 磐田市大原の池主神社には、幕臣松岡萬の顕彰碑がある。松岡萬は明治初年静岡藩水利路程掛に任じられ、塩田開発のため当地に移住した。松岡萬が大池の水利権を巡る問題を公平に解決した功績を称え、松岡を祭神として池主神社が建立された。池主神社は地元で「松岡様」「松岡霊舎」と呼ばれ、毎年祭礼が行われている。本堂前には松岡萬のレリーフをはめ込んだ顕彰碑が建立されている。


松岡萬顕彰碑


大池記碑

 大池記碑は、大池の水利権問題を解決した顛末を記したものである。題額は山岡鉄舟。


水神社

 万物生成の根源である水を司る神と弁天社を合祀する水神社が、隣り合っている。境内にはいくつか石碑が建てられている。


日露戦役題名之碑

 日露戦役題名之碑は赤松則良の篆額。

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