史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

旭川

2015年12月12日 | 北海道
前日、陸別における車中泊で睡眠不足に陥ったので、この日は旭川の健康ランドで横になることにした。三千円ほど払うと、浴衣やバスタオルなどを貸してもらえる上に、リラックスルームで一晩を過ごすことができる。
リクライニング可能な椅子が並べられたリラックスルームでは、午後十時前にして早くもここで一夜を明かそうという人達が大勢集まっていたが、何とか一席を確保して、眠りにつくことができた。その時点で既に周囲を圧倒するほどの鼾を発するオッサンがいた。私の経験上、大イビキをかく人(即ち周囲に迷惑をかける人)ほど眠りにつくのが早い。
幸いにして、私の隣席は空いていたので当初は静かであった。ところが、いつの間にか隣の席に大イビキを発するオッサンが現れ、その轟音で目が覚めてしまった。一回目が覚めてしまうと再び眠るのは至難の業である。そのままリラックスルームを抜け出し、朝風呂を浴びると、まだ人影の少ない旭川の街に出た。旭川における第一目的地は永山神社である。

(永山神社)


永山神社

 旭川市の永山地区は、その地名のとおり、永山武四郎が開いた土地である。永山神社の創建は明治二十五年(1892)。祭神は天照大神と大国主神で、永山武四郎を配祀している。


永山武四郎像

 永山武四郎は、天保八年(1837)、薩摩藩士の四男に生まれた。聡明な性格で信頼を集め、明治五年(1872)、開拓使出仕となり、屯田兵制度ができると、北方の警備と開拓を進め、上川地方の重要性に着目して開拓の基礎を築いた。明治二十二年(1889)、屯田兵司令官、第二代北海道長官に就き、明治二十三年(1890)開拓の中心地に姓をとって永山村が誕生した。明治二十九年(1896)、初代第七師団長に就任して、北海道の発展に貢献した。明治三十七年(1904)、逝去。


永山屯田百年記念碑

(常盤公園)


常盤公園

 常盤公園は、旭川市で最も古い公園で、美術館や公会堂、図書館、文学資料館などの施設を備え、大きな池や広場を有している。園内には永山武四郎像(北村西望作)や岩村通俊像がある。


永山武四郎像

 永山神社の永山武四郎像は勇ましい軍服姿であるが、常盤公園のものは平服である。


岩村通俊像


岩村通俊歌碑

 常盤公園内の上川神社に岩村通俊像と歌碑が並んで建てられている。岩村通俊は、明治十八年(1885)、上川地方を視察し、近文山から国見を行い、政府に上川開拓の意見書を提出した。翌年、北海道庁が置かれるとその初代長官に就任し、上川道路の開削に着手したほか、農作試験所の設置、上川原野の殖民地選定事業など、今日の旭川の基礎をつくるのに貢献した。明治二十一年(1888)、元老院議官として転出し、その後、農商務大臣、宮中顧問官、貴族院議員、御料局長などを務めた。大正五年(1915)、東京にて没した。

 世の中に 涼しきものは 上川の
 雪の上に照る 夏の夜の月
通俊

(上川神社)


上川神社

 上川神社には、北海道開拓に功労のあった鍋島直正(初代開拓使長官)、黒田清隆(第三代開拓長官)、永山武四郎(屯田兵本部長、第二代北海道庁長官)、岩村通俊(初代北海道庁長官)がともに配祀の神として祀られている。


上川離宮宣達書碑

 上川開発に必要な移民を受け入れるためには、本州以南の人々を上川移住に駆立てる何かがなければならないとして、初代北海道庁長官岩村通俊や二代長官永山武四郎らが設置を画策したものである。明治二十二年(1889)には内閣総理大臣より離宮設置の指示が道庁にあり、さっそく測量調査の上、現在上川神社のある神楽岡を離宮予定地に選定した。しかしながら、札幌などからの反対もあって、実現は見なかった。上川離宮宣達書碑は、内閣総理大臣山県有朋から時の道庁長官永山武四郎に宛てた達しの文面を刻んだものである。

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