史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

遊佐

2012年06月16日 | 山形県
(戊辰無名戦士の墓)


秋田藩 豊間源之進墓

三崎公園は、秋田と山形の県境に位置している。「明治百年記念 戊辰之戦没者顕彰碑」も県境を示す標識より山形県寄りにあるので、本来、山形県の史跡として取り扱うのが正確のように思うが、三崎公園の入口は秋田県側にあるので、一応、秋田県の史跡として扱った。
三崎公園から更に国道を山形県側に下ると、途中、戊辰戦争無名戦士の墓がある。海岸側の絶景に見とれていると見逃してしまうので、気をつけよう。

この地に葬られている無名戦士は、秋田藩士豊間源之進である。豊間は雷風義塾に学び、勤王を唱えた。仙台藩の使者、志茂又左衛門殺害に加わった。秋田藩有志隊参謀として庄内口に出陣したが、慶應四年(1868)七月十六日、三崎にて戦死した。三十四歳。

(JR吹浦駅)


JR吹浦駅


佐藤政養先生像

 JR羽越本線吹浦駅前に一つの銅像が建っている。銅像の主は、当地出身の佐藤政養(まさやす)である。
 佐藤政養は、維新前は与之助と称した。文政四年(1821)に遊佐郡升川町に生まれ、江戸に遊学して勝海舟の門下で蘭学を学んだ。以来、勝海舟の右腕として長崎、大阪で勤仕した。当時寒村であった横浜を開港場とするよう強く主張したと言われる。維新後は、新政府に出仕して鉄道助に任じられ、新橋-横浜間、神戸-大阪間の鉄道開通に尽力した。明治十年(1877)東京に没したが、激務が寿命を縮めたともいわれる。

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にかほ

2012年06月10日 | 秋田県
(鳥海山)


鳥海山

にかほを走っていると、常に鳥海山(標高二千二百三十六㍍)の姿を目にすることになる。関東で日常的に富士山に接していると「世界中にこれほど美しい山はない」とすりこまれるように信じているが、こうして日本を旅すると富士山にも勝るとも劣らない美貌を持つ山が存在していることに気付かされる。
秋田市の長浜下浜でお世話になったオジサンは、「山形県側から見る鳥海山の方が綺麗だっていうよ」と教えてくれたが、確かにそうだった。

戊辰戦争では、庄内藩軍は鳥海山を越えて矢島を急襲した。無警戒だった矢島藩は呆気なく蹴散らされた。

(高昌寺)


高昌寺


松江藩北川又太郎墓

高昌寺には、明治元年(1868)九月二十五日、芹田川の戦いで戦死した松江藩主北川又太郎の墓がある。行年五十四。

(熊野神社)


熊野神社


秋田藩荒川決死隊戦勝祈願所

秋田藩荒川久太郎秀種を隊長とする遊撃隊は、三崎峠に向かう途中、熊野神社前で髻(もとどり)を切って戦勝を祈願した。秋田藩軍は、鎧冑で身を固め、まるで戦国時代さながらの装備だったという。陣笠などはキラキラと光を反射し、格好の標的になったという。慶應四年(1868)閏四月の緒戦は、秋田藩にとっては散々な敗戦となった。

(三崎公園)
秋田県と山形県の県境は、現在では国道7号線が開通し、何の苦労もなく往来が可能であるが、当時は鳥海山の山裾が海岸線まで迫る交通の難所であった。現在も三崎公園内に旧街道が残っているが、街道というイメージとは程遠く、登山道のような風景である。


三崎公園

この日、早朝に横手市内を出発し、にかほ市経由で三崎公園に到着したのは午前八時半であった。連休中の行楽地はどこも大変な人出であるが、この時間の三崎公園はほとんど人影もなく、絶景を一人占めという贅沢であった。


明治百年記念戊辰之戦没者顕彰碑

国道7号線沿い、県境の標識から山形県寄りに数百㍍行った場所に、明治百年を記念して建てられた戊辰之役戦没者顕彰碑がある。実際に山形県側に存在しているものであるし、書も山形県知事のものであるので、本来山形県の史跡として紹介すべきものかもしれないが、三崎公園の入口は秋田県側にあるので、秋田県の史跡として紹介しておく。


戊辰役戦没者供養塔

遊歩道の途中、三崎神社(大師堂)の右上に戊辰戦争供養塔がある。この供養塔は、明治百年を記念して昭和四十三年(1968)に建立されたものである。


旧三崎街道



史跡 一里塚の跡

街道沿いに一里ごとに築かれた一里塚が、旧三崎街道にも残されている。植えられているのが榎というのが珍しい。

今回の五泊六日(うち二日は車中泊)の史跡旅行では、走行距離約二千四百㎞、撮影した画像は七百三十枚に及んだ。これから写真の整理に取り掛からなければならないが、かなり時間がかかりそうだ。振り返ると、早朝から日没まで史跡を訪ねては、自動車を運転する連続で、秋田美人に出会わなかったのは残念であった。

今回、秋田の史跡訪問に関しては、またも竹さんのホーム・ページ『戊辰掃苔録』を大いに参考にさせていただいた。竹さんからは、「五日は必要」とアドバイスを頂戴したが、結果的に秋田を三日半で走破することになった。もちろん、探しても見当たらなかった墓や時間の関係で見送らざるを得なかった史跡もある。いずれ再チャレンジをという気持ちもあるが、今は「しばらく秋田は腹一杯」という気分である。

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由利本荘 矢島

2012年06月10日 | 秋田県
(矢島小学校)


矢島小学校

現在、矢島小学校のある土地に矢嶋藩陣屋があった。小学校前には、八森城址という石碑が建つが、正確には城ではなくて陣屋であろう。
矢島藩は生駒氏八千石の領地である。江戸初期に御家騒動により分知されて誕生した藩である。
矢島藩は秋田藩が新政府に従うことを決定すると、いち早く同調した。しかし、庄内藩新徴組の鳥海山越えの奇襲を受けて城を自焼して、仙北方面へ敗走することになった。


明治戊辰勤王 生駒公居城
八森城址


史跡 藩学 日新堂跡

矢島小学校の正門の前に日新堂を現す石碑がある。安政元年(1854)の創設。

(矢島神社)


矢島神社


土田衝平顕彰碑

矢島小学校に隣接する矢島神社の境内に土田衝平の顕彰碑がある。
幕末の秋田といっても、ほとんど人物を連想しない。その中にあって土田衝平は恐らく秋田出身の唯一の「志士」であろう。今回、矢島を訪ねて、この顕彰碑にはどうしても対面しておきたかった。この碑は、昭和四十一年(1966)、土田衝平殉難百年を記念して、矢島町の有志によって建立されたものである。
土田衝平は、最初久米蔵と称した。矢島藩士土田又右衛門の子に生まれ、同藩士新田勘七に就いて文学を学び、因幡の人島源蔵について拳法を修めた。安政の末に江戸藩邸に務め、ここで尊攘論に接した。この頃、姓名を赤坂貞助と変じ、浪人して常陸に入った。元治元年(1864)の天狗党の挙兵に、田中愿蔵の謀師として参加した。恐らく天狗党において明確に「討幕」を意識していたのは、土田衝平のほかにはいなかったかもしれない。こと破れて田中愿蔵は縛につき斬刑に処されたが、土田衝平は重囲を脱して奥州へ走った。相馬藩で同志を説いて、再挙を画しているところを幕吏に捕えられ、直ちに斬首された。元治元年(1864)十一月のことである。享年二十九。

(龍源寺)


龍源寺

龍源寺は、全国的には無名の寺であるが、本堂は昔ながらの茅葺の屋根で覆われ、ずしりとした歴史を感じることができる。こうした寺院は少なくなった。それに、墓地に点在している戊辰戦争戦死者の墓が訪問者にも分かるように、それぞれ標柱が建てられているのが有り難い。


官軍 矢嶋藩 金子廣治墓


官軍 矢島藩 片倉良吉


佐藤信次藤原政和


景道院英岳智勇居士(菅原勇作の墓)

いずれも矢島藩の戦死者である。うち金子、佐藤、高柳は、矢島での戦闘で戦死。


高柳丈右衛門墓

(祥雲寺)


祥雲寺

龍源寺に隣接する祥雲寺には、矢島で戦死した庄内藩士二名の墓がある。


庄内藩士浦西東一郎 中村精之助墓

(寿慶寺)


寿慶寺

鳥海山を越えて矢島を急襲した庄内藩浪士隊新徴組三小隊は、寿慶寺の裏山から出現した。寿慶寺の境内では白兵戦が展開されたが、寺も町も焼かれることになり、藩主生駒親敬(ちかゆき)らは秋田へ落ちることになった。


寿慶寺 古戦場跡

(木境神社)


木境神社

矢島攻略を目指す庄内藩軍は、主力を鳥海山の東、百宅(ももやけ=現鳥海町)へ向かわせた。これに対応して秋田藩、矢島藩両軍も主力を百宅に投じたため、矢島にはほとんど兵が残っていなかった。庄内藩では、浪士組新徴組三小隊を、密かに鳥海山を越えて矢島に向かわせた。新潮組は、山頂の大物忌神社で七月二十八日の夜を明かし、木境神社前を通る登山道を下って矢島に突入した。

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由利本荘

2012年06月10日 | 秋田県
(本荘公園)


鶴舞城址

鶴舞城址は現在本荘公園となっている。もともと天守や石垣を持たない城郭であったが、土塁と堀、再建された御門くらいでほとんど城であったことを連想できるものは見当たらない。


本庄藩戊辰役勤皇碑

矢島を攻略した庄内軍は、同時に三崎口も突破して、八月五日には仁賀保まで進出した。一方、秋田藩側は、肥前、筑前、弘前からの援軍も合流し、反攻の体制が整いつつあった。しかし、総督府から派遣されていた長州藩山本登雲助(とものすけ)が退却を強硬に主張した。ときの本荘藩主六郷政鑑(まさあきら)は、庄内藩軍を迎え討つことを主張したが、結局、議論は退却と決まり、八月六日、全軍が秋田へ退いた。このとき鶴舞城(本荘城)は征討軍が自ら放った火により全焼している。


招魂社

招魂社の境内には、二つの注目すべき石碑がある。


戊辰勤王碑


本荘藩重臣 贈従四位服部平右衛門彰功碑

服部平右衛門は、本荘藩の重臣である。戊辰戦争では本荘軍を率いて庄内藩軍と戦った。明治後は、大参事として領内の復旧と領民の救済に尽した。明治三年(1870)十月、逝去。五十歳。

(山田合戦之碑)


山田合戦之跡

慶應四年(1868)七月二十八日、庄内藩軍が鳥海山を越えて突如矢島に攻め込んできた。虚をつかれた矢島藩は呆気なく落城した。この報に驚いた秋田藩は、津軽から応援にきていた成田求馬隊に秋田槍隊をつけて矢島に派遣した。津軽成田隊と庄内藩とは各所で激突したが、もっとも戦闘の激しかったのが山田村油畑周辺であった。秋田藩六名、津軽藩は隊長成田求馬以下六名の戦死者を出した(庄内藩は不明)。遺体は当地に埋葬されたが、その後、秋田全良寺の官軍墓地に改葬された。


津軽藩贈従五位成田求馬忠魂碑


官軍 矢嶋口戦死

津軽、秋田両藩の戦死者の名前が刻まれている。

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由利本荘 岩城

2012年06月10日 | 秋田県
(天鷺城)


天鷺城

由利本荘市北郊の街、岩城町はかつて亀田藩の城下であった。
亀田藩は、藩主岩城隆邦が四月に上洛して天皇に拝謁したほど勤王意識の強い藩であったが、それがあっさりと降伏し同盟軍に加わったのは、総督府監軍の長州藩士山本登雲助の傲慢な態度に我慢がならなかったからという。
「戊辰戦争と秋田」(無明舎出版)で加藤貞仁氏は、以下のとおり言及している。
――― 薩摩にしても、長州にしても、幕末に京都で起きたさまざまな事件や、新潟県、福島県に広がった戦争で、優秀な人たちが次々に死にました。(中略)天皇の使者である「奥羽鎮撫総督」は大事な役目ですが、総督府に随行させる人材が不足していたのです。

確かにそういう側面はあったかもしれない。東山道総督府でも、長州藩士祖式金八郎という軍監が再々戦術を誤り、軍規を犯して強奪を繰り返した例がある。山本登雲助という人の事歴はよく分からない。手元の明治維新人名事典にも名前は発見できないし、その後新政府で活躍したという記録も見たことが無い。生まれたての新政府軍の幹部の中に適性を欠く人物が混じっていたことは否定できないように思う。

岩城氏の居城天鷺城は、庄内藩が撤退した九月二十日、秋田藩の手により焼かれた。現在、岩城町史料館の隣に再建されている天鷺城は観光施設として復元されたもので、実際の城跡はその隣の亀田小学校辺りという。


図書館 長善館

亀田藩校長善館は、第七代藩主岩城隆恕の時代に開設された藩校で、明治五年(1872)に閉校されるまで、亀田の人材育成に大きな役割を果たした。現在、岩城町史料館に隣接する図書館にその名を引き継いでいる。長善館もちょうどその場所にあったもので、町の建てた案内柱が建てられている。


藩校 長善館跡

(亀田城)


亀田城

再建された天鷺城からあまり離れていない場所にもう一つ城が再建されている。これほど大きくない町に二つも城が再建されているというのは全国的にも例を見ないのではないだろうか。こちらの亀田城は、本荘市出身の佐藤八十八氏が三代にわたって収集した美術品、工芸品などを展示する美術館である。

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湯沢 院内

2012年06月10日 | 秋田県
(信翁院)


信翁院




信翁院に到着すると、いきなりちっちゃな犬に吠えかかられた。私が墓地を探索している間、ずっと吠えていた。余程、悪者に見えたに違いない。


官軍 小倉藩 上田篤兵衛墓


官軍 小倉藩 森田平右衛門墓


官軍 鍋島藩 古川善太郎墓


秋田藩 木村角右衛門墓

 信翁院に葬られている戦死者は、いずれも慶應四年(1868)、岩崎、雄勝峠、及位での犠牲者である。

(JR院内駅)


JR院内駅

院内銀山は、慶長十一年(1606)に村山宗平衛らによって発見され、以来三百五十年にわたって操業された我が国有数の銀鉱山であった。操業当初から技術者や資本家、労働者が集まり、最盛期の町の人口は一万人を数えた。明治にはいって工部省の直営となり、近代化が進められた。
JR院内駅の駅舎は、工部省の招きによって来日した外国人が居住した洋式の建物(異人館)を再利用したものである。

(院内関所跡)


史蹟 院内関趾

院内銀山は、久保田藩佐竹氏にとって重要な財源であった。佐竹氏は秋田に移封されて早々に、羽州街道を開削し、浪人の取締と銀山の警備のため関所を置いた。


院内関所趾


仙台藩士 青山六之丞之碑

戊辰戦争の際、院内所預りの大山氏により仙台藩探索人青山六之丞がこの場所で処刑された。

実はこの後、院内銀山まで足を伸ばそうとしたが、山深くなるにつれ残雪が多くなり、院内銀山に通じる道は閉鎖されていた。

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湯沢 岩崎

2012年06月10日 | 秋田県
(千年公園)


戊辰役忠魂碑


岩崎城跡

湯沢市岩崎は秋田藩の支藩であり、現在千年公園のある場所に藩庁が置かれていた。戊辰戦争では秋田藩と行動をともにし、各地で庄内藩軍と戦闘を交わした。
千年公園の駐車場に、「戊辰役忠魂碑」が建っている。右側面に八月八日の岩崎での戦闘における戦死者の名前を刻む。内訳は、秋田藩三名、小倉藩一名、佐賀藩二名となっている。左側面には岩崎藩の戦死者五名の名前。長浜、道川、松が崎での戦死者である。

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湯沢

2012年06月10日 | 秋田県
(安乗寺)


安乗寺


岡田兵槌昌茂墓

湯沢市内の安乗寺には長州藩の岡田兵槌の墓がある。岡田兵槌は、七月十三日、舟形での戦闘中に負傷し、その二日後に湯沢で死亡した。わずかに十六歳であった。

(清涼寺)


清涼寺


中野惣吉重宗墓

秋田藩中野惣吉は、七月二十五日、塩根峠にて戦死。

今回の秋田の旅では、あまり昨年の大震災の影響を感じることはなかったが、清涼寺の佐竹南家塋域にある墓は、倒壊やひび割れがひどく、現在補修中であった。


本諦院殿衝山成立大居士
佐竹珍傳(早川輔四郎)墓

佐竹珍傳(早川輔四郎)は、湯沢鎮将佐竹三郎陣代として横手参謀局にいたが、九月十九日六郷において命令に背いて横手に進軍した罪により、総督府より切腹を申しつけられ、翌二十日切腹した。


戊辰戦役五十周年記念 忠魂碑

本堂裏手の忠魂碑は、戊辰戦争から五十周年を記念して建てられたもの。湯沢における戦死者七名を慰霊する。

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「明治めちゃくちゃ物語 勝海舟の腹芸」 野口武彦著 新潮新書

2012年06月03日 | 書評
同じ新潮新書でシリーズ化された「幕末ロワイヤル」シリーズの続編。いよいよ舞台は明治に移り、戊辰戦争に突入である。
野口武彦氏は、戊辰戦争前後の混乱を「めちゃくちゃ」というキーワードで表現している。「攘夷」を旗印としていた薩長が政権を奪取した途端に、神戸事件を契機に何食わぬ顔で新政府は外国との和親に舵をきった。これも「めちゃくちゃ」。
戊辰戦争では、捕虜が存在しなかったという。官軍も同盟軍も捕えた敵兵は、残虐行為の末に嬲り殺した。これも捕虜には危害を加えないという国際的常識からすれば「めちゃくちゃ」。
恭順を表明する徳川慶喜は助命されながら、同じように藩主容保が御薬園に穏退して恭順の態度を示しているにもかかわらず、新政府は会津に対しては追討令の手を緩めなかった。これも「めちゃくちゃ」であれば、援軍のない中で一方的に攻撃を受けながら籠城を続けた会津藩も「めちゃくちゃ」。
戊辰戦争は経済的な利得を計算すれば、全く採算が合わない事業であった。野口氏は、「何のためにこれほど夥しいエネルギーを費やしてまで、維新の大事業は成し遂げられたのであろう」と疑問を呈する。単に「恨みを晴らす」という目的だけだったのか。戊辰戦争自体が「めちゃくちゃ」な内戦だったという含みを残して、本書は続編に引き継がれる。

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「幕末維新全殉難者名鑑」 明田鉄男編 新人物往来社

2012年06月03日 | 書評
神保町の古書店で「幕末維新全殉難者名鑑」全四冊を見つけた。定価は一冊一万円もする本であるが、四冊で一万五千円は、かなりお買い得ではないか。人知れず満足感に浸った。こういうことがあると、しばらく古書店通いを止められそうもない。
本書は、反幕勤王を唱えて斬首された藤井右門(明和四年(1767)死)に始まって、明治十一年(1888)に暗殺された大久保利通に至るまで、国事に殉じた一万八千六百八十六人を収録する。第二巻の途中以降、戊辰戦争での戦死者が続き、幕末国事で命を落とした人のほとんどが戊辰戦争における戦死であるという事実に改めて気付かされる。
著者「あとがき」に「全殉難者の全の字にこだわっている」と記載されているように、この本ができあがったのは、できる限り対象者を網羅しようという著者の執念の所産であろう。
しかし、仔細に見れば漏れがある。著者によれば、この本は「たたき台」であって「今後の勉強によって次々と増補改訂がなされなければならない」としているが、その後どれほど見直しされているのだろうか(因みに本書の発刊は、昭和六十一年(1986)である)。せっかくの労作を我々日本人の手で繋いでいく必要があると思う。
私もこれまで数多の幕末殉難者の墓を巡ってきたが、この本を前にすると、まだまだ緒についたばかりであることを思い知らされる。先は長い。

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