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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

江古田

2025年04月12日 | 東京都

(山﨑記念中野区立歴史民俗資料館)

 江古田四丁目に山﨑記念中野区立歴史民俗資料館がある。「山﨑記念」とあるのは、名誉都民山﨑喜作氏より寄贈された土地に建設されたため。今も山﨑氏の庭園や茶室が保存されており、年に一回公開されている。

 今回、中野区立歴史民俗資料館を訪ねたのは、山﨑氏の寄贈した庭園にある椎の巨木を見るためであった。山﨑氏は代々この地で醬油屋や質屋を営んでいた。「醤油屋の椎の木」と称されるこの巨木は遠くからも見える目印となっていた。上野戦争の折、彰義隊の敗残兵が逃げ込んできたため当時の山﨑氏当主が匿って介抱したところ、礼として徳川斉昭の書を置いて行ったという言い伝えが残っている。

 

醤油屋の椎の木

 

 彰義隊の敗残兵が斉昭の書を持っていたというのはやや不自然で、天狗党の間違いではないだろうか。

 

山﨑記念中野区立歴史民俗資料館

 

常設展示

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水道橋 Ⅳ

2025年04月12日 | 東京都

(伝通院つづき)

 クロサカ様より大原重実の墓が伝通院にあるとの情報を頂戴し、一時帰国休暇で東京に戻った機会に伝通院を再訪した。

 

故外務少書記官正四位大原重實墓

 

 大原重実(しげみ)は、天保四年(1833)の生まれ。父は大原重徳。明治十年(1877)九月、自邸において強盗のため殺害された。年四十五。

 

従三位樋口静康之墓

 

 大原重実の向かいに樋口静康の墓がある。樋口静康は、天保六年(1835)の生まれ。父は樋口保康。慶應二年(1866)正月、従三位に叙任。明治七年(1874)、没。

 

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五日市 Ⅲ

2024年06月08日 | 東京都

(東町太子堂)

三泊四日の東京出張であったが、ハノイに戻る最終日の朝、嫁さんがまだ寝ているうちに五日市まで往復して東町太子堂を訪ねてきた(あきる野市五日市178)。自宅から片道二十分のドライブである。

 

東町太子堂

(勧能学校跡)

 

東町太子堂は、即ち勧能学校跡である。勧能学校というのは、明治五年(1872)の学制発布に伴い、五日市村に作られた学校で、現・五日市小学校の前身である。明治六年(1873)、勧能学舎の名称で発足し、明治八年(1875)、勧能学校と改称された。この地にあった太子堂がそのまま学舎として利用された。

自由民権運動が盛んになった明治十年(1877)代には各地から民権家がここに集まり、活動の拠点の一つとなった。五日市憲法草案の起草で知られる千葉卓三郎も、同校初代校長永沼織之丞のもとで助教となり、第二代校長も務めている。

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東向島

2024年03月09日 | 東京都

(蓮花寺)

 向島百花園の近くにある蓮花寺(墨田区東向島3‐23‐17)に、東條琴台の墓を見に行った。二年前に根津の天眼寺で琴台の墓を探したが見つからず、そのことをブログに報告したところ、蓮花寺に琴台の墓があるという情報を、クロサカさんより頂戴した。以来二年間、機会があればと思っていたが、今回日本に帰国した時に少し時間を取れたので、東向島まで行ってきた。

 

蓮花寺

 

東條氏累世之墓(東條琴台の墓)

 

東條琴台は、寛政七年(1795)の生まれ。幼にして学を好み、伊東藍田、尾藤二洲、山本北山、亀田鵬斎らに学んだ。一時岩村藩の平尾信従の養子となったが、学派の違いから離縁して旧姓に復した。文政年間、高田藩主榊原政令に聘せられ、嘉永三年(1850)に著書「伊豆七島図考」が幕府の忌諱に触れ、藩邸に幽せられた。以後高田に住すること十八年、維新後東京に戻ってからは宣教師出仕を命じられ、また亀戸社祠官、権中講義に補された。明治七年(1874)、教部省に勤めたが、翌年眼病により辞し、ついに失明した。平尾家に残した子信享の娘歌子は下田氏に嫁し、女子教育家として名を成した。年八十四にて没。

墓石横には事績を刻んだ墓誌が建てられている。

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青山霊園 補遺 Ⅸ

2024年01月20日 | 東京都

(青山霊園)

薄井龍之

 

小蓮薄井龍之

室 貞子 墓

1種イ2号8側

 

一時帰国中の貴重な一日、嫁さんが草加市(埼玉県)に用事があるというので、そこまで自動車で送っていった後、迷わず訪ねたのが青山霊園である。何度訪ねても新たな発見がある。

この日はひたすら霊園内を歩いて、薄井龍之の墓を探し当てることができた。

薄井龍之(たつゆき)は、文政十二年(1829)、信濃国飯田の富商の生まれ。家運が傾いたため、江戸へ出て昌平黌の学僕となり、かたわらで頼三樹三郎に師事。三樹三郎が幕吏に捕らえられたとき、途上で奪回しようとして捕らえられ入獄した。脱獄して水戸の天狗党に加わり、元治元年(1864)、筑波挙兵に参加して上京の途中、小諸藩士に捕らえられたが、またしても脱走。上京して岩倉具視の知遇を得、維新後、裁判官となった。高橋お伝の裁判官としても知られる。大正五年(1916)、年八十八にて没。

 

藤井九成(きゅうせい)

 

藤井九成墓

室 八重子之墓

1種ロ15号8側

 

藤井九成は天保八年(1837)、京都の生まれ。曾祖父は明和事件に連座した藤井右門である。父が病んで家系が豊かではなかったため、三条家の小姓となった。十四歳のとき、同家儒臣富田織部に従って数年間西国を歴遊し、のち明経博士伏原家の孔彰堂に通学した。安政三年(1857)、家を弟に譲り、変名して国事に奔走した。このこと伏原家より九成の号を与えられ、通称とした。岩倉具視と親交があり、その幽居中も訪れ、ついで大業に参画した。その邸宅が薩摩屋敷とも藪続きであったため、西郷・大久保らの密議の結果を三条・岩倉に送る使者を務めた。慶應四年(1867)、戊辰戦争に東山道鎮撫使岩倉友定の軍監として征討軍に参加した。のち岩倉家家令、ついで諸職を経て宮内省陵墓守長となった。明治四十三年(1910)、年七十四歳で没。

なお藤井邸は烏丸通り拡張の折、山科稲荷山に移築されている。

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巣鴨 Ⅷ

2022年12月24日 | 東京都

(染井霊園つづき)

 

松野勇雄墓

 

松野勇雄君碑

 

 松野勇雄(いさお)は、嘉永五年(1852)の生まれ。父は芸州藩郡奉行の属吏松野重大夫尚志。幼少より国学を父に、漢学を宇都宮竜山、岡田聿山らに受け、剣、弓、銃、砲の諸術を学んだ。元治元年(1864)、十三歳で藩の大砲方を命じられ、慶応二年(1866)、藩校明善堂授読となり、明治三年(1870)以降、矢野郷校、三原郷校、竹原皇学校、三津皇学校にて教授した。明治五年(1872)、志を立てて上京、平田銕胤の学僕となり、翌年教導職一四級試補を皮切りに、教部省少講義、同権中講義、宇佐神宮禰宜などを歴任。かたわら大教院より編輯兼務を命じられ、明治十年(1877)、皇大神宮権禰宜に任じられ、中講義に補せられた。同年本居豊頴の養子となり、その女みな子に配されたが、間もなく同家を去り、また本官を辞した。上京して神道事務局に入って漢学を講じ、かねて神原精二の共慣義塾に出講した。明治十五年(1882)、皇典講究所の創立に尽力し、のち幹事となり、また「古事類苑」の編纂に従事し、明治二十三年(1890)には国学院の創立に携わり、国学の研究普及に努め、また皇典講究所が出資した共立中学の校長を兼ねた。明治二十六年(1893)、年四十二で没。【1種イ3号15側】

 

青山直道之墓

 

 青山直道は、弘化三年(1846)の生まれ。父は苗木藩主青山景通である。平田篤胤の皇学に帰依し、維新後明治二年(1869)十月、苗木藩大参事となり、諸藩に率先して王政復古の実を示そうと、士族の禄を奉還させて帰農させた。守旧派上流士族の反対にあい、青山邸の焼討騒動へと発展した。明治三年(1870)正月、藩中の総出仕を命じ、暴挙に関与した反対派十名を捕らえ、藩政擾乱、反逆の罪名をもって八名を入牢、二名を閉門に処した。さらに藩内で廃仏毀釈を徹底的に行い、二十四ヶ寺を廃し、住僧を還俗させた。同年閏十月、大参事を辞して帰農し、明治四年(1871)、官途につき、栃木、静岡に勤務した。西南戦争鎮定後は、警視庁少警部となり九州に赴いた。明治十二年(1879)、岐阜県大野郡、池田郡の初代郡長に任じられ、明治十四年(1881)一月、しばらく富山県吏となったが、薩長の背景なくして容易に官界で驥足を伸ばすことの困難を知り、俗吏に甘んずることを望まず、職を辞して民間に下った。のち東京に出て易を学び、一家を成した。明治三十九年(1906)、年六十一で没。

 

従二位勲一等男爵辻新次之墓

 

 辻新次は天保十三年(1842)の生まれ。文久元年(1861)、江戸に出て蕃書調所で蘭学、仏学を学び、開成所教授手伝となった。慶應三年(1867)、同志とはかって「遠近新聞」を発行して新時代の啓蒙運動に参加した。維新後文部省に出仕すること二十五年。その間、学制の制定やその改正など、草創期の教育制度確立のために努力し、能吏の誉れ高かった。明治十九年(1886)、文部次官、ついで貴族院議員となった。大正四年(1915)、年七十四で没。

 

近藤瓶城の墓

 

 近藤瓶城(へいじょう)は、天保三年(1832)の生まれ。幕末岡崎藩儒員に登用され、維新前後は藩の公用人であった。勤王思想家でもあり、版籍奉還にも尽力した。また彼の編輯した「史籍集覧」は、「群書類従」の逸漏を補い、それ以後の著書を収録したものとして名高い。明治三十三年(1900)から同三十六年(1903)にかけてその子圭造により改訂されている。明治三十四年(1901)、年七十で没。

 

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西巣鴨 Ⅲ

2022年12月24日 | 東京都

(総禅寺)

 先週、宮城県東松島市赤井の大槻俊斎生誕地を訪ねたばかりである。東京にあるという墓の場所を調べたところ、巣鴨の総禅寺ということが分かったので、翌週総禅寺を訪ねた。

 総禅寺墓地には、これまで何度も進入しているのでいつものように立ち入ったところ、本堂よりお寺の方で出てきて、

「手塚治虫さんの墓でしょうか。」

と聞かれたので、正直に大槻俊斎の墓を詣でたことを告げると、線香をあげるように言われた。 お寺の方によれば、長らく宮城県の大槻家の方から人は見えていないという。

 

俊斎 大槻家累代之墓

 

 大槻俊斎は、文化三年(1806)の生まれ。十八歳のとき江戸に出て、高橋尚斎の学僕となり、ついで手塚良仙の門人となり、さらに湊長安の紹介で蘭学者足立長雋の門に入って蘭学を学び、高野長英、小関三英、渡辺崋山らと交わった。天保八年(1837)、長崎に遊学し、天保十一年(1840)、江戸で医を開業した。やがて仙台藩医にあげられた。当時種痘法が移植されると伊東玄朴、戸塚静海らの同志の洋医とともに種痘館の設立を図り、安政五年(1858)、江戸神田お玉ヶ池にて開所した。万延元年(1860)、幕府の医官となって御番医並びに種痘所頭取となった。人物闊達といわれ、幕末西洋医学界の中心人物、種痘法普及のほか、「銃創瑣言」を著わして、軍陣医学の先鞭をつけた。文久二年(1862)、年五十七で没。

 

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稲城 Ⅲ

2022年12月03日 | 東京都

(ありがた山つづき)

 

従五位五島盛徳之墓

 

「但馬の殿様」の著者吉盛智輝氏より、東京に行くのでありがた山を案内して欲しいとの電話があり、喜んでご一緒させていただくこととした。土曜日の朝、最寄駅である京王線のよみうりランド駅で待ち合わせた。これまで何度も電話ではお話しているが、実際にお会いしたのは今回が初めてであった。但馬に限らず殿様(大名家から旗本に至るまで)に関する知識があふれ出そうなほど豊富な方であった。早速ありがた山を訪れた。

前回訪問時から二年が経過したが、その時よりも宅地造成はさらに近くまで迫っており、さらに背後の山は削り取られて新しい道路が通じていた。吉盛氏は

「あらゆる時代の墓石が一同に集められた珍しい場所で、これを維持保存するのは稲城市の義務だ」

と力説されていたが、そもそも稲城市はありがた山の存在(あるいはその存在価値)に気が付いているのだろうか。

雨が降り続け、時には猛烈な勢いになった。一旦傘をとりに自動車に戻る一幕もあったが、二度三度と山頂まで往復して、墓石を調査した。

吉盛氏によれば、かなり貴重な発見もあったようだが、私としては取り敢えず五島盛徳(しげのり)の墓石を発見することができて、満足であった。

 

 五島盛徳は天保十一年(1840)の生まれ。父は五島藩主盛成。安政元年(1854)、初めて上京し、翌安政二年(1855)、元服して十二月、従五位下近江守に叙任された。安政五年(1858)正月、襲封して翌年入部した。元治元年(1864)、勅を奉じて上洛し、殖産(漁業、新田開発)・倹約により海防を厳にし、兵制を改革した。慶應三年(1867)十月、上洛を促されたが、病気を理由に家老太田秋之助を先発させた。慶應四年(1868)、勝手不如意につき江戸藩邸の引き払いを願い出て、上京して海防上冨江藩三千石の吸収を図った。明治二年(1869)六月、版籍奉還により五島藩(のちに福江藩と改称)知事となり、明治四年(1871)、廃藩によりこれを免じられた。明治八年(1875)、年三十六にて没。

 「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)によれば盛徳の墓は、文京区の吉祥寺にあることになっているが、経緯不明ながらありがた山に移送されたようである。

 

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府中 Ⅶ

2022年09月24日 | 東京都

(多磨霊園つづき)

 

光照院殿無量真實日文大居士(河鰭實文の墓)

 

 河鰭實文は弘化二年(1845)の生まれ。父は内大臣三条実万。養父は世々神楽をもって奉仕する河鰭公述。万延元年(1860)二月、河鰭公述の養子となり、従五位下に叙され、文久三年(1863)、従五位上に進んだ。慶應四年(1868)二月九日、有栖川宮熾仁親王が東征大総督に任命されると、錦旗奉行を拝命し、同十五日親王に従って京都を発し、四月江戸城に入り、ついで大総督府参謀加勢に任じられ、七月帰京。八月、錦旗奉行を免じられ、明治二年(1869)正月、侍従に任じられ、六月戊辰の戦功により賞典禄百石を永世下賜された。明治三年(1870)三月、東京府出仕を命じられ、十月東京府権少参事となった。その後、内務省御用掛、内務権少書記官、元老院議官等を歴任し、貴族院議員に互選され、明治四十三年(1910)、死去の日特旨をもって従二位に昇叙された。年六十六。【21区1種10側】

 

藤田家之墓(藤田高之の墓)

 

 藤田高之は弘化四年(1847)の生まれ。通称は次郎。藩校に学んで、文久三年(1863)、句読師になった。慶應三年(1867)、神機隊の参謀となり、慶応四年(1868)戊辰戦争では、初め備中地方の鎮撫に従い、のち江戸に出て、五月、大総督府から軍監として武蔵国埼玉郡忍に派遣され、さらに奥州各地を転戦した。明治七年(1874)、司法省に出仕して少丞に進んだ。のち立憲改進党の創立に関係した。大正十年(1921)、年七十五で没。【10区1種12側】

 

清渓山井先生之墓

 

 山井清渓は弘化三年(1846)の生まれ。父は淀藩士内田成允。山井璞輔(介堂)の養子となった。安井息軒に入門し、伊予西条藩の藩校択善堂の学頭をつとめた。維新後は東京の養正塾などで教え、明治二十九年(1896)には一高の教授となった。明治四十年(1907)、年六十二にて没。【3区1種9側】

 

介堂山井先生墓

 

 山井介堂(璞輔)は、文政五年(1822)の生まれ。松崎慊堂に朱子学を学び、足利学校にて古典籍を比較考証した。慊堂の推薦によって、長く断絶していた山井崑崙の家名を再興。伊予西条藩の藩校拓善堂の教授となった。文久二年(1862)、四十一歳にて没。【3区1種9側】

 

守田家累代之墓(守田勘弥の墓)

 

 歴代守田勘弥の墓である。十二代守田勘弥は、弘化三年(1846)の生まれ。本名は寿作、俳名は是好と称した。文久三年(1863)、守田家の養子となり、勘次郎といった。元治元年(1864)、十二代を相続し、江戸三座の一つ守田座の座元になった。明治五年(1872)、劇場を従来の猿若町から率先して新富町に移し、ガス燈、椅子席の新設、「留場」「かっぱ」の廃止など、劇場制度の一新を断行した。明治八年(1875)十一月には劇場名を新富座と改め、団菊左をはじめ当代の人気俳優と河竹黙阿弥を作者に擁して、以後の五、六年間新富座時代と称される黄金時代を現出した。一方、政府の高官、学者、文人と交わり、俳優と演劇の地位向上に努めた。晩年は新富座の経営困難と多大な負債のため、明治三十年(1897)、不遇のうちに没した。年五十二。【1区1種6側】

 

専光院殿妙感久利大居士(仙石久利の墓)

 

 ありがた山を調査した後、吉盛氏の要望に応えて多磨霊園に移動して、仙石久利・政固の墓を訪ねた。以下、吉盛氏の「但馬の殿様」より抜粋。

 仙石久利は、文政三年(1820)の生まれ。父は五代出石藩主久道。文政七年(1824)、襲封。先代政美の急死で家督を継ぎ、先々代の久道が後見した。天保六年(1835)、いわゆる仙石騒動により仙石家は二万八千石を召し上げられ三万石に減封となり、久利は藩政を離れて学問に精進するように命じられた。減知後の出石藩では、依然として内紛が続き、久利は酒匂清兵衛を執政に任じ、藩士の削減を命じ、反対派は追放する強権を発動した。天保十四年(1843)、再び幕府の処分が検討されたが酒匂の切腹により回避した。以後、帰参した追放組の堀新九郎や桜井一太郎が藩政を主導し、海防負担の裏付けもあって嘉永三年(1853)、二千五百石余ではあるが旧領の一部復活に成功した。文久二年(1862)、藩政を私物化したとして堀新九郎に切腹を命じ、同年十二月、藩主直裁を宣言した。明治二年(1869)、藩知事。翌明治三年(1870)、致仕。出石鍛冶屋町の清水屋敷に居住したが、明治九年(1876)、上京。明治三十年(1897)、年七十八で没。

 同じ墓域に仙石政固も葬られている。政固は天保十四年(1843)の生まれ。慶應元年(1865)、久利の養嗣子となり、明治二年(1869)には新政府に出仕して学校権判事となり、明治三年(1870)、承継して出石藩知事、明治四年(1871)、廃藩により免官。大正六年(1917)、七十五歳にて没。

 仙石家の墓は、手入れがされていない様子で、雑草が腰の高さくらいまで伸びている。

 

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新馬場 Ⅷ

2022年06月04日 | 東京都

(東海寺大山墓地つづき)

 

本居内遠奥都伎

 

 本居内遠(うちとお)は、寛政四年(1792)、名古屋の浜田家に生まれ、植松有信、市岡孟彦らに古学を学び、文政三年(1820)、二十九歳で本居大平の門に入り、文政六年(1823)、紀州にて初めて大平に対面、天保二年(1831)、四十歳でその養嗣子となり、家学を継ぎ、和歌山藩に仕え、藩命によって「紀伊続風土紀」の編纂に当り、天保十年(1839)、これを完成した。安政元年(1854)、藩命によって江戸に下り、赤坂の藩邸内の古学館で諸生を教えたが、その翌年没した。年六十四。門弟約六百にのぼり、小中村清矩、村田思順、久米幹文、千家尊証らが著名である。子に本居豊穎がいる。

 

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