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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

日暮里 ⅢⅩⅣ

2025年07月13日 | 東京都

(谷中霊園つづき)

 

岡本家之墓(岡本兵衛美雅の墓)

 

 岡本健三郎と同じ墓域に「岡本家之墓」と刻まれた墓石がある。側面に漢文で岡本健三郎の両親兄弟の事歴が記されている。「宮地氏名寅子父丈八嫁高知縣士族岡本龜七生二男一女長健三郎官至大蔵大丞次美雅戊辰之役與賊戦下野國安塚驛奮闘被創尋死女適岡本繁次郎氏為人慈恩謹厚育子有方故ニ子皆得成名氏以文政六年十月十五日生於土佐明治九年十二月二十四日病死於東京年五十有三葬谷中天王寺明治十年十月従六位櫻井能監撰幷書」【乙11号13側】

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青山霊園 補遺 Ⅹ

2025年07月13日 | 東京都

1種イ11号7側

 

鈴藤家之墓

 

クロサカ様より、鈴藤勇次郎の墓は、青山霊園に移設されたとの情報をいただき、青山霊園を訪ねた。クロサカ様からの情報のとおり、1種イ11号7側に鈴藤家の墓があるが、ここに鈴藤勇次郎が合葬されているという確信は得られなかった。

本姓は鈴木。江川太郎左衛門のもとで砲術を学び、江川の推挙を得て幕府に仕えるようになり、万延元年(1860)の遣米使節派遣では、咸臨丸の運用方として渡米した。木村芥舟に贈った太平洋上の咸臨丸の図が今日まで伝わる。慶応四年(1868)榎本武揚が幕府艦隊を率いて箱館に向ったとの報に接したとき、鈴藤は病床にあり、参戦できないことを嘆き自殺した。四十三歳。

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麻布十番 Ⅶ

2025年07月13日 | 東京都

(賢崇寺つづき)

賢崇寺を再訪。川崎道民の墓を訪ねた。

 

鐵翁道眠居士墓

 

川崎道民は天保二年(1831)の生まれ。佐賀藩医。長崎海軍伝習所に送られ、万延元年の遣米使節団、文久の遣欧使節団に医師として同行した。海外では報道・新聞・写真等を学んだ。帰国後、鍋島閑叟(直正)の写真を撮影した。明治五年(1972)には佐賀で最初の新聞「佐賀県新聞」を創刊した。佐賀の「写真技術の元祖」の一人とされている。明治十四年(1881)没。

 

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江古田

2025年04月12日 | 東京都

(山﨑記念中野区立歴史民俗資料館)

 江古田四丁目に山﨑記念中野区立歴史民俗資料館がある。「山﨑記念」とあるのは、名誉都民山﨑喜作氏より寄贈された土地に建設されたため。今も山﨑氏の庭園や茶室が保存されており、年に一回公開されている。

 今回、中野区立歴史民俗資料館を訪ねたのは、山﨑氏の寄贈した庭園にある椎の巨木を見るためであった。山﨑氏は代々この地で醬油屋や質屋を営んでいた。「醤油屋の椎の木」と称されるこの巨木は遠くからも見える目印となっていた。上野戦争の折、彰義隊の敗残兵が逃げ込んできたため当時の山﨑氏当主が匿って介抱したところ、礼として徳川斉昭の書を置いて行ったという言い伝えが残っている。

 

醤油屋の椎の木

 

 彰義隊の敗残兵が斉昭の書を持っていたというのはやや不自然で、天狗党の間違いではないだろうか。

 

山﨑記念中野区立歴史民俗資料館

 

常設展示

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水道橋 Ⅳ

2025年04月12日 | 東京都

(伝通院つづき)

 クロサカ様より大原重実の墓が伝通院にあるとの情報を頂戴し、一時帰国休暇で東京に戻った機会に伝通院を再訪した。

 

故外務少書記官正四位大原重實墓

 

 大原重実(しげみ)は、天保四年(1833)の生まれ。父は大原重徳。明治十年(1877)九月、自邸において強盗のため殺害された。年四十五。

 

従三位樋口静康之墓

 

 大原重実の向かいに樋口静康の墓がある。樋口静康は、天保六年(1835)の生まれ。父は樋口保康。慶應二年(1866)正月、従三位に叙任。明治七年(1874)、没。

 

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五日市 Ⅲ

2024年06月08日 | 東京都

(東町太子堂)

三泊四日の東京出張であったが、ハノイに戻る最終日の朝、嫁さんがまだ寝ているうちに五日市まで往復して東町太子堂を訪ねてきた(あきる野市五日市178)。自宅から片道二十分のドライブである。

 

東町太子堂

(勧能学校跡)

 

東町太子堂は、即ち勧能学校跡である。勧能学校というのは、明治五年(1872)の学制発布に伴い、五日市村に作られた学校で、現・五日市小学校の前身である。明治六年(1873)、勧能学舎の名称で発足し、明治八年(1875)、勧能学校と改称された。この地にあった太子堂がそのまま学舎として利用された。

自由民権運動が盛んになった明治十年(1877)代には各地から民権家がここに集まり、活動の拠点の一つとなった。五日市憲法草案の起草で知られる千葉卓三郎も、同校初代校長永沼織之丞のもとで助教となり、第二代校長も務めている。

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東向島

2024年03月09日 | 東京都

(蓮花寺)

 向島百花園の近くにある蓮花寺(墨田区東向島3‐23‐17)に、東條琴台の墓を見に行った。二年前に根津の天眼寺で琴台の墓を探したが見つからず、そのことをブログに報告したところ、蓮花寺に琴台の墓があるという情報を、クロサカさんより頂戴した。以来二年間、機会があればと思っていたが、今回日本に帰国した時に少し時間を取れたので、東向島まで行ってきた。

 

蓮花寺

 

東條氏累世之墓(東條琴台の墓)

 

東條琴台は、寛政七年(1795)の生まれ。幼にして学を好み、伊東藍田、尾藤二洲、山本北山、亀田鵬斎らに学んだ。一時岩村藩の平尾信従の養子となったが、学派の違いから離縁して旧姓に復した。文政年間、高田藩主榊原政令に聘せられ、嘉永三年(1850)に著書「伊豆七島図考」が幕府の忌諱に触れ、藩邸に幽せられた。以後高田に住すること十八年、維新後東京に戻ってからは宣教師出仕を命じられ、また亀戸社祠官、権中講義に補された。明治七年(1874)、教部省に勤めたが、翌年眼病により辞し、ついに失明した。平尾家に残した子信享の娘歌子は下田氏に嫁し、女子教育家として名を成した。年八十四にて没。

墓石横には事績を刻んだ墓誌が建てられている。

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青山霊園 補遺 Ⅸ

2024年01月20日 | 東京都

(青山霊園)

薄井龍之

 

小蓮薄井龍之

室 貞子 墓

1種イ2号8側

 

一時帰国中の貴重な一日、嫁さんが草加市(埼玉県)に用事があるというので、そこまで自動車で送っていった後、迷わず訪ねたのが青山霊園である。何度訪ねても新たな発見がある。

この日はひたすら霊園内を歩いて、薄井龍之の墓を探し当てることができた。

薄井龍之(たつゆき)は、文政十二年(1829)、信濃国飯田の富商の生まれ。家運が傾いたため、江戸へ出て昌平黌の学僕となり、かたわらで頼三樹三郎に師事。三樹三郎が幕吏に捕らえられたとき、途上で奪回しようとして捕らえられ入獄した。脱獄して水戸の天狗党に加わり、元治元年(1864)、筑波挙兵に参加して上京の途中、小諸藩士に捕らえられたが、またしても脱走。上京して岩倉具視の知遇を得、維新後、裁判官となった。高橋お伝の裁判官としても知られる。大正五年(1916)、年八十八にて没。

 

藤井九成(きゅうせい)

 

藤井九成墓

室 八重子之墓

1種ロ15号8側

 

藤井九成は天保八年(1837)、京都の生まれ。曾祖父は明和事件に連座した藤井右門である。父が病んで家系が豊かではなかったため、三条家の小姓となった。十四歳のとき、同家儒臣富田織部に従って数年間西国を歴遊し、のち明経博士伏原家の孔彰堂に通学した。安政三年(1857)、家を弟に譲り、変名して国事に奔走した。このこと伏原家より九成の号を与えられ、通称とした。岩倉具視と親交があり、その幽居中も訪れ、ついで大業に参画した。その邸宅が薩摩屋敷とも藪続きであったため、西郷・大久保らの密議の結果を三条・岩倉に送る使者を務めた。慶應四年(1867)、戊辰戦争に東山道鎮撫使岩倉友定の軍監として征討軍に参加した。のち岩倉家家令、ついで諸職を経て宮内省陵墓守長となった。明治四十三年(1910)、年七十四歳で没。

なお藤井邸は烏丸通り拡張の折、山科稲荷山に移築されている。

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巣鴨 Ⅷ

2022年12月24日 | 東京都

(染井霊園つづき)

 

松野勇雄墓

 

松野勇雄君碑

 

 松野勇雄(いさお)は、嘉永五年(1852)の生まれ。父は芸州藩郡奉行の属吏松野重大夫尚志。幼少より国学を父に、漢学を宇都宮竜山、岡田聿山らに受け、剣、弓、銃、砲の諸術を学んだ。元治元年(1864)、十三歳で藩の大砲方を命じられ、慶応二年(1866)、藩校明善堂授読となり、明治三年(1870)以降、矢野郷校、三原郷校、竹原皇学校、三津皇学校にて教授した。明治五年(1872)、志を立てて上京、平田銕胤の学僕となり、翌年教導職一四級試補を皮切りに、教部省少講義、同権中講義、宇佐神宮禰宜などを歴任。かたわら大教院より編輯兼務を命じられ、明治十年(1877)、皇大神宮権禰宜に任じられ、中講義に補せられた。同年本居豊頴の養子となり、その女みな子に配されたが、間もなく同家を去り、また本官を辞した。上京して神道事務局に入って漢学を講じ、かねて神原精二の共慣義塾に出講した。明治十五年(1882)、皇典講究所の創立に尽力し、のち幹事となり、また「古事類苑」の編纂に従事し、明治二十三年(1890)には国学院の創立に携わり、国学の研究普及に努め、また皇典講究所が出資した共立中学の校長を兼ねた。明治二十六年(1893)、年四十二で没。【1種イ3号15側】

 

青山直道之墓

 

 青山直道は、弘化三年(1846)の生まれ。父は苗木藩主青山景通である。平田篤胤の皇学に帰依し、維新後明治二年(1869)十月、苗木藩大参事となり、諸藩に率先して王政復古の実を示そうと、士族の禄を奉還させて帰農させた。守旧派上流士族の反対にあい、青山邸の焼討騒動へと発展した。明治三年(1870)正月、藩中の総出仕を命じ、暴挙に関与した反対派十名を捕らえ、藩政擾乱、反逆の罪名をもって八名を入牢、二名を閉門に処した。さらに藩内で廃仏毀釈を徹底的に行い、二十四ヶ寺を廃し、住僧を還俗させた。同年閏十月、大参事を辞して帰農し、明治四年(1871)、官途につき、栃木、静岡に勤務した。西南戦争鎮定後は、警視庁少警部となり九州に赴いた。明治十二年(1879)、岐阜県大野郡、池田郡の初代郡長に任じられ、明治十四年(1881)一月、しばらく富山県吏となったが、薩長の背景なくして容易に官界で驥足を伸ばすことの困難を知り、俗吏に甘んずることを望まず、職を辞して民間に下った。のち東京に出て易を学び、一家を成した。明治三十九年(1906)、年六十一で没。

 

従二位勲一等男爵辻新次之墓

 

 辻新次は天保十三年(1842)の生まれ。文久元年(1861)、江戸に出て蕃書調所で蘭学、仏学を学び、開成所教授手伝となった。慶應三年(1867)、同志とはかって「遠近新聞」を発行して新時代の啓蒙運動に参加した。維新後文部省に出仕すること二十五年。その間、学制の制定やその改正など、草創期の教育制度確立のために努力し、能吏の誉れ高かった。明治十九年(1886)、文部次官、ついで貴族院議員となった。大正四年(1915)、年七十四で没。

 

近藤瓶城の墓

 

 近藤瓶城(へいじょう)は、天保三年(1832)の生まれ。幕末岡崎藩儒員に登用され、維新前後は藩の公用人であった。勤王思想家でもあり、版籍奉還にも尽力した。また彼の編輯した「史籍集覧」は、「群書類従」の逸漏を補い、それ以後の著書を収録したものとして名高い。明治三十三年(1900)から同三十六年(1903)にかけてその子圭造により改訂されている。明治三十四年(1901)、年七十で没。

 

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西巣鴨 Ⅲ

2022年12月24日 | 東京都

(総禅寺)

 先週、宮城県東松島市赤井の大槻俊斎生誕地を訪ねたばかりである。東京にあるという墓の場所を調べたところ、巣鴨の総禅寺ということが分かったので、翌週総禅寺を訪ねた。

 総禅寺墓地には、これまで何度も進入しているのでいつものように立ち入ったところ、本堂よりお寺の方で出てきて、

「手塚治虫さんの墓でしょうか。」

と聞かれたので、正直に大槻俊斎の墓を詣でたことを告げると、線香をあげるように言われた。 お寺の方によれば、長らく宮城県の大槻家の方から人は見えていないという。

 

俊斎 大槻家累代之墓

 

 大槻俊斎は、文化三年(1806)の生まれ。十八歳のとき江戸に出て、高橋尚斎の学僕となり、ついで手塚良仙の門人となり、さらに湊長安の紹介で蘭学者足立長雋の門に入って蘭学を学び、高野長英、小関三英、渡辺崋山らと交わった。天保八年(1837)、長崎に遊学し、天保十一年(1840)、江戸で医を開業した。やがて仙台藩医にあげられた。当時種痘法が移植されると伊東玄朴、戸塚静海らの同志の洋医とともに種痘館の設立を図り、安政五年(1858)、江戸神田お玉ヶ池にて開所した。万延元年(1860)、幕府の医官となって御番医並びに種痘所頭取となった。人物闊達といわれ、幕末西洋医学界の中心人物、種痘法普及のほか、「銃創瑣言」を著わして、軍陣医学の先鞭をつけた。文久二年(1862)、年五十七で没。

 

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