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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「弾左衛門とその時代」 塩見鮮一郎著 河出文庫

2016年10月29日 | 書評
司馬遼太郎の「胡蝶の夢」を読んで以来、弾左衛門のことが気になっていた。本屋の店頭でこの本を見つけ、迷わず購入した。
著者によれば弾左衛門は、「職名であるとともに人名」であり、弾左衛門とは制度であると喝破する。弾左衛門は、町奉行の配下にあって、江戸期十三代にわたってとか、と呼ばれる被差別民を統括する役割を負っていた。
我が国における被差別民の存在は、封建時代の所産であった。明治になって「外聞」を憚った新政府は、明治四年(1871)、解放令を発して被差別民という身分を一気に解消した。岩倉使節団が外遊にでる直前のことである。この時、弾左衛門は「醜名の除去は、一時に除去すると混乱するので、漸次に、徐々に除去すること、どのような順で除去するか」は自分にまかせてほしいとした。確かに解放令直後に農民による解放令反対一揆が起こっていることを考え合わせると、弾左衛門の懸念は当たっていたといえよう。一方で、平民化を求めつつも、被差別民の統括者としての立場を維持したいという弾左衛門の思惑もあったという。
いずれにせよ、改革を急ぐ政府は弾左衛門や大江卓の提案に反してラディカルで革命的な解放令を発布した。この結果、弾左衛門は頭の立場を失い、村が焼かれ、東京府内に浮浪人があふれ出した。我が国において、今日まで続く被差別の問題は、この時の処理が拙速に過ぎたため尾を引いているのかもしれない。
著者は「の所在を隠すのは(略)それが緊急的な避難措置であったのはよくわかるが、いつまでもそこに安住していていてはいけない。の責任ある組織でもって地名を段階的に公表して、それでも差別がおこらないのが、わたしたちの目標」という立場である。主張は良く分かるが、現時点ではまだ理想に過ぎる。そこに至るまでもう少し時間が要るのではないか。

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東京農業大学創立125周年記念シンポジウム「創設者榎本武揚を再評価する」 主催 東京農業大学 日本経済新聞社クロスメディア営業局

2016年10月29日 | 講演会所感
新聞に東京農業大学創立125周年記念「創設者榎本武揚を再評価する」シンポジウムの広告を発見し、早速申し込んだ。申し込んだ時点では受講できるかどうかは不明で、確定すればメールで受講券が送られることになっていた。特にくじ運が強い方ではないので、半ば諦めつつ期待せずに待っていたところ、一週間前になってメールが届いた。会場である日経ホール(千代田区)は八割程度の入りであった。午後一時に始まり、午後六時に終わるという長時間、しかも講演が四本とパネルディスカッションという濃密な構成で、さすがにオシマイまで聞き通すと疲れた。ただし、最後まで残っていると、東京農大特製のジャムと榎本武揚が留学先のオランダから持ち帰ったレシピをもとに復元された石鹸をお土産としてもらえるのである。これが効いたのか、途中で会場を抜けた方は少なかったように思う。
榎本武揚というと、箱館政権の総帥というイメージが強いが、その後、明治政府に仕え、逓信大臣や文部大臣、農商務大臣などを歴任している。この日、最後の講演で東京農大の高野克己学長が、榎本武揚は①武士②政治家③外交官④技術者⑤教育者⑥国際人⑦科学者という7つの顔を持ち、それぞれの分野で才能を発揮した万能人だと紹介されていたが、まさにそのとおりである。一方でシンポジウムの質疑応答で、聴衆の一人が質問されていたようにその功績の割に過小評価されている。この質問に対し、パネラーのお一人である同大学の黒瀧秀久氏(生物産業学部長)が「箱館戦争で生き残ったことが『命を惜しんだ』とされていること、加えて福沢諭吉の『痩せ我慢の説』に代表されるように二君にまみえたことが不人気の理由だろう」とコメントされていた。「敗者の精神史をもっと学ぶべき」という発言に期せずして会場から拍手が起こった。
大学の創設者を再評価しようというシンポジウムなので、登壇者は口々に榎本武揚を賞揚したが、これで本当に再評価したことになるのだろうか。高野学長のいう7つの顔のうち、少なくとも武士(軍人)としては成功しなかったのではないか。箱館戦争の敗戦の責任はそのトップである榎本が負わなければならないし、江差沖で開陽丸を沈没させてしまったことや、宮古湾海戦の失敗など、榎本武揚のリスクマネジメント不足が招いた失策である。軍人として全く無能だったと言いたいわけではない。本来であれば派手に箱館に乗り込みたいところ、鷲ノ木から上陸させ被害を最小に食い止めた判断は非常に的確だったと思う。
冒頭の基調講演は、北海道出身の作家の佐々木譲氏による「私の榎本武揚」。佐々木氏は、文庫本上下二巻に及ぶ「武揚伝」を上梓しており、さらにその後の研究成果を反映して、近年「決定版 武揚伝」を出した方で、榎本武揚への思い入れは並大抵ではない。作家がひとりの歴史上の人物を小説の主人公に選ぶとき、生半可な思いでは書けないだろう。佐々木氏が榎本武揚に惚れこんでいるのはよく分かったが、「榎本武揚の生涯を描けば幕末から明治にかけての日本の近代史を書くことができる。そのような人物は榎本武揚をおいてほかにいない」という発言には少々違和感を覚えた。榎本の前半生を描いても、幕末の複雑な政局は見えてこない。むしろ大久保利通や伊藤博文の方が「日本の近代史」への関与の度合いは高いと思うが…。
佐々木氏は、蝦夷共和国「幻説」に異論をとなえる。当時、英書記官アダムスが榎本政権のことをRepublicと表わし、米副領事ライスもEzo Republicと記述したことがその根拠となっているが、そのことをもって欧米各国が公式に榎本政権を独立した共和国とみなしたかどうかはもう少し検証が必要であろう。さらにいえば本当に我々がイメージする「共和国」であったかどうかという点についても議論がある。入れ札(選挙)によって総裁以下の役職が決められたことを以って「共和国」とされているが、榎本が自ら共和国と主張したことはないし、いずれは徳川家から盟主を迎え入れようという意思を持っていたというから、彼が決して今日的な意味でいう共和国を目指していたとは思えない。
この日、二人目の講演者は、榎本武揚の曾孫榎本隆充(たかみつ)氏である。飄々とした語り口ながら、先祖への敬意の感じられるお話しであった。隆充氏は明治八年(1875)の千島樺太交換条約の締結に際して、榎本は全権を委任されたと強調されていたが、とはいえ千島と樺太を交換するといった重大事は榎本一人が決められる案件ではなく、事前に政府との下打ち合わせがあって条約締結に結びつけたのだろう。千島樺太交換条約の締結を榎本個人の功績とするのは違和感があるが、いずれにせよ、榎本の本領は武人・軍人より、外交官や政治家としての手腕にあったのだと思う。
続く登壇者は、田坂広志氏(多摩大学大学院教授)。「天才と凡人の違いは、あと五分頑張れるかどうか」「戦争・大病・投獄を経験することは脱皮のチャンス」「人は必ず死ぬ、人生は一回しかない、人は何時死ぬか分からない」「だけど人生の密度は己で決められる」「思想・ビジョン・志・戦略・戦術・技術・人間力という七つの知性を統合するのが垂直型天才(榎本は垂直型天才の典型)」「才能とは人格である」「野心と志は違う」と面白い話が続いたが、基本的に榎本武揚について論じたというよりは、田坂氏の御高説を賜ったという印象が強い。
次に「榎本武揚の実業精神と国利民福」と題して、三名のパネリストが登壇した。榎本武揚が官営八幡製鉄所の開設に深くかかわっていたとか、東南アジアの植民地解放運動にも熱心だったという話も興味深かったが、個人的にはメキシコへのエノモト移民の存在がもっとも興味をひいた。しかし、スピーカーである山本厚子氏(フリージャーナリスト、スペイン語通訳)の句読点の無い、一体何時話が尽きるのか見えないような話し振りが惜しまれる。時間的な制約がある中、もう少しポイントを絞ってお話しをされたら、もっと聴衆も耳を傾けたであろう。
さて、お土産に頂戴した復元石鹸であるが、現代の石鹸には当たり前に使用されている香料が含まれていない(その代わりに米ぬかが使われているらしい)。だから、石鹸特有の良い香りはしない。榎本隆充氏によれば、その代り、「幕末・明治の香りがする」のだそうな。

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「菜の花の沖」 司馬遼太郎著 文春文庫

2016年10月29日 | 書評
先日、淡路島を巡り高田屋嘉兵衛ゆかりの地を歩いた。函館や神戸でも関連史跡に出会った。「菜の花の沖」を読んだのは、ざっと三十年も前のことで当時あまり鮮烈な印象が残らなかったが、改めて読んでみようという気になった。
やっぱり司馬遼太郎の小説は面白い!文庫本6巻から成る長編であるが、我を忘れて小説の世界に没入することができた。司馬先生が「日本の歴史上、二番目が思いつかないくらい偉い人」と絶賛する、思い入れたっぷりの高田屋嘉兵衛の物語である。
第1巻は、嘉兵衛が陰湿ないじめに遭って追われるように淡路島を逃げ出す始末が語られる。おもととのロマンスが唯一の救いである。
巻末の「あとがき」で司馬良太郎先生は、
――― いじめる、という隠微な排他的感覚から出たことばは、日本独自の秩序文化に根ざしたことばというべきで、たとえば日本語が古い時代に多量に借用した漢語にもなく、現代中国語にもなさそうである。英語やフランス語にもないのではないか。
と述べられているが、個人的な体験ではあるが、シンガポール勤務時代に部下の女性から
Don't bully me.
といわれたことがある。直訳すれば「私をいじめないで」ということになろう。どういう状況で言われたのかはっきりと覚えていないが、もちろん陰湿ないじめというわけではなく、「からかわないで」くらのニュアンスだったと記憶している。司馬先生のいう「隠微で排他的」なものではないにしろ、日本語の「いじめる」に相当する言葉は、ほかの言語にもあるのではなかろうか。ただ、その行為の結果、相手が自殺に追い込まれたり、故郷を出奔せざるを得ないような陰湿さは日本独自の悪習かもしれない。
第2巻では、兵庫の船宿に飛び込んだ嘉兵衛が船乗りとして成長し、名声を確立する様子を描く。樽船で江戸への一番乗りを果たし、筏船で江戸へ到達するような命がけの航海もこなした。
嘉兵衛は都志に帰って船員を募る。追い出されるようにしてあとにした故郷は、嘉兵衛を大歓迎する。まさに故郷に錦を飾るシーンで第2巻は閉じられるが、ここまででも十分小説として完結しているように思われる。しかし、嘉兵衛の波乱万丈の人生はこれからである。
やがて嘉兵衛は、念願であった持ち船を手に入れ、これを足掛かりに蝦夷との交易に乗り出す。商いで得た利益を惜しげもなく新造船につぎ込み、堺屋喜平衛から店を任されるようになる物語は、出世物語としても面白く読むことができよう。嘉兵衛の類稀なる操船術や商才が描かれるが、幕臣高橋三平(重賢)や最上徳内との交流を通じて、単なる船乗りから、彼の興味の対象が蝦夷へと移って行く様子が描かれる。
この時代、高橋三平、松平忠明、羽太正養、最上徳内、近藤重蔵、間宮林蔵ら、才気にあふれた人材が続々と蝦夷地へ集結した。江戸時代の武士階級というものは、「先祖の武功による家禄を、代々が継いで行って、大過がなければ生涯をすごせる(中略)ひたすらに過不足なく分をまもり、分の範囲で下に威張り、上にへつらい、決して無用の異を立てるべきではない。また、自分のなかから独創的要素を封殺し、さらには個人としての勇気や侠気はむしろ身の安穏をやぶる余計なものであると心得ねばならなかった。」そういう時代の空気の中、己の才気を発揮してみたいという野望を持つものが唯一その場を与えられたのが蝦夷地だったのであろう。彼らに吸い寄せられるように嘉兵衛も蝦夷地に向い、そこを活動の舞台とした。
司馬小説は余談・余話・薀蓄が随所に挿入され、なかなか物語が進展しないのが特徴でもあるが、この作品ではそれが特に際立っており、これによって好き嫌いが分かれるかもしれない。
司馬先生の筆は時に本筋から脱線し、和船の構造や灘の酒造業のこと、松前廻船、ロシアの南下政策、松前藩による蝦夷地支配、北方領土問題など多岐に及ぶ。
司馬先生は領土紛争について
――― 領土論による国家間の紛争ほど愚劣なものはない。十八、十九世紀以来、この争いが、測り知れぬほど多量に、無用の血を流させてきた。
と距離を置いて述べている。確かに領土問題は、歴史的事実とか経緯とかを越えて、国家の対面やプライドが絡み、簡単に解決できるものではない。
北方領土の問題といえば、第二次世界大戦の終戦間際、我が国がポツダム宣言の受諾を表明した後に、ロシアがまさに「火事場泥棒」さながらに北方四島を略取したと日本では語られているが、当のロシアではそのようなことを露ほども「悪い」と思っていないようであるし、話が噛みあわない一つの要素になっている。
司馬先生は、ヨーロッパ的「領土」と中国的「版図」に対する考え方の違いに言及している。日本は幕末にロシアを始めとする欧米各国と和親条約を結んだ時点でヨーロッパ流の領土・領有権に組み込まれており、その考え方に従えば、千島列島に本当に我が国の主権が及んでいたのか疑わしくなってしまう。また昨今、中国が南シナ海の島々の領有権を主張している理屈についても、ヨーロッパ流の考え方では理解不能でとても強引なものにしか受け取れないが、中国古来の考え方では特に無茶をいっている意識はないのかもしれない(ただし、その理屈を適用すれば、朝鮮も日本も琉球も全て中国の領土となってしまうが)。
第5巻に入ると、物語はますます進まなくなる。ロシアの歴史、井上靖の「おろしや国酔夢譚」で有名な大黒屋光大夫のこと、ラクスマンが日本に派遣された経緯、さらにレザノフの大航海など、ほぼ一冊を費やして解説が続く。司馬先生はのちに「ロシアについて」という本を残しているが、その原型となる情報はここに集約されている。確かにここに至る背景が分からないと、ゴローニンが捕らわれ、その反動として嘉兵衛の身に起こる事件も分からないのである。それにしても、これほど「余話」が続く小説は珍しいのではなかろうか。司馬先生だから許された奇形の小説といえる。
第6巻に入った途端、一転して嘉兵衛の物語が急展開を見せる。何としてもゴローニンを救い出したいリコルドと、頼まれもしないのに日露外交交渉を買ってでた嘉兵衛との息詰まるやりとりが始まる。単に寝食をともにして信頼関係を高めたというものではない。言葉が通じない中、時に殺し合いになりそうなほど罵声を浴びせ合い、とことん話し合いを重ね、絶対的な信頼関係を築き上げた。
ゴローニンが無事ロシアに戻ることになり、ディアナ号を見送りに来た嘉兵衛に、リコルド以下乗組員が甲板に整列し
アラァ、タイショウ
と三回叫ぶシーンはとにかく感動的。きっと司馬先生はこの美しいシーンを描くために、ここまで筆を重ねてきたのであろう。

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川端二条

2016年10月29日 | 京都府
(頂妙寺)
 文久三年(1863)六月、上京した真木和泉守は、頂妙寺の塔頭を宿舎とした。日記には「長明寺」と記されている。


頂妙寺
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新京極 Ⅲ

2016年10月29日 | 京都府
(誓願寺)


誓願寺


法眼東洋山脇先生墓

 誓願寺墓地の入口門前には、「山脇東洋解剖碑所在墓地」という石碑が建っている。墓所には、山脇東洋の墓がある。
 山脇東洋(1706~62)は、江戸中期の漢方医。宝暦四年(1754)、所司代の許可を得て、京都六角獄舎の敷地で罪人の首のない屍体を解剖させ、これを木版手彩色図として収めた「蔵志」二巻を発行した。我が国最初の解剖図譜である。


勧修寺歴代合葬墓所

 「明治維新人名辞典」によれば、誓願寺に勧修寺顕彰、勧修寺経理らの墓があるというので、誓願寺墓地を歩いたが、勧修寺歴代合葬墓所を発見しただけであった。この墓に合葬されているのだろうか。
 勧修寺顕彰は、文化十一年(1814)の生まれ。文政七年(1824)元服、昇殿を許され、天保元年(1830)、侍従となった。ついで皇后権大進を兼ね、新清和門院判官代を経て、同十三年(1842)、右少弁、同十四年(1843)蔵人となり、累進して安政四年(1857)、左中弁に任じられた。安政五年(1858)条約勅許問題が起きた際、外交措置を幕府に委任する勅許案の改訂を要請して、八十八卿列参に加わった。翌年、正四位上に叙せられた。文久元年(1861)、年四十八で没。
 勧修寺経理(つねおさ)は、文政十一年(1828)の生まれで、顕彰の実弟。天保十年(1839)叙爵。文久三年(1863)右少弁、元治元年(1864)、蔵人に任補された。これより先、安政五年(1858)、幕府が日米通商条約の勅許を奏請したとき、外交措置を幕府に委任する勅裁案の改変を求めて、八十八卿列参に加わり、ついで元治元年(1864)、征長問題が起こると、毛利家の執奏家として長州との連絡に当たったが、同年七月の禁門の変後、蟄居を命じられた。慶応四年(1868)正月、漸く赦免、同年閏四月、右中弁に任じられ、従四位下に叙された。明治四年(1871)、年四十四で没。


正二位前權大納言藤原實久卿之墓

 橋本実久の墓である。橋本実久は寛政二年(1790)、権中納言橋本実誠の子に生まれた。寛政十年(1798)、稚児として後桜町上皇の御所に出仕、享和二年(1802)元服、昇殿を許され、文化二年(1805)侍従となり、右近衛権少将、同中将を経て、天保二年(1831)、参議に進み、同十四年(1843)、正二位に叙せられ、嘉永元年(1848)、権大納言となった。この間、後桜町上皇、光格上皇の院別当を兼ね、天保十三年(1842)より安政四年(1857)まで議奏を勤仕して、朝廷の要路にあった。娘経子は仁孝天皇の後宮に入り、典侍として和宮を生み、実久はその外祖父として和宮の養育に奉仕した。安政四年(1857)、年六十八で没。
 誓願寺墓地には、橋本経子の遺髪塚があるというので、隈なく歩いて探したが、出会うことはできなかった。いずれ再挑戦したい。


前典侍正五位藤原經子遺髪塚

 誓願寺墓地二度目の挑戦である。住み込みの墓守の方に橋本経子(つねこ)の遺髪墓を探している旨と告げたが、ご存知なかった。
「この墓地には橋本家の墓がざっと三十くらいあります。」
とのことで、今回も遺髪墓を探し当てるのは難航が予想されたが、玉垣で囲われた墓を目当てに探すと、今度はあっさりと出会うことができた。

 橋本経子は、文政九年(1826)の生まれ。父は、権大納言橋本実久、母は家女中島氏。天保十年(1839)十二月、仁孝天皇の後宮に仕えて、典侍となる。弘化元年(1844)、皇子胤宮(翌年、薨去)を産み、同三年五月、皇女和宮を生んだ。同年正月、天皇の崩御により宮中を退出、薙髪して勧行院と号し、専ら和宮の養育にあたり、幕府の奏請による降嫁の議が強要された際、和宮の意向を代弁し、最も庇護に努めた。文久元年(1861)十月、和宮の入輿に随って江戸に下向。引き続き側近に仕えた。慶応元年(1865)八月、病篤きに及び、皇女養育の功をもって正五位下に叙された。年四十にて没。

(西導寺)


西導寺

 西導寺に土佐藩士安岡官馬の墓を訪ねたが、人気がなく、そのまま進入するのは憚られたので、出直すことにした。

 西導寺も再訪。近くに土佐藩邸があった関係で、墓地には土佐藩士の墓が多い。無縁墓地にも土佐藩士の墓が山積されている。


土州 安岡官馬墓

 安岡勘馬(官馬)は、天保十四年(1843)の生まれ。剛毅の人で武芸に優れた。文久三年(1863)、足軽となり、上京して河原町の藩邸にいたが、八一八の政変、七卿落ちに痛憤し、郷里の両親に遺書を残し、藩邸を脱出して三田尻に至った。中国・四国を往来して諸国の志士と交わり、各藩の動静を同志に報じていた。元治元年(1864)三月、京都に帰り、大仏の辺りに潜伏したが、幕吏の厳戒と時勢に痛憤して、十日の夜、松原通り加茂河原で自刃した。年二十二。たまたま父助市が上京して六波羅にあり、勘右は密かに訪れようとしたが、嫌疑が父に及ぶことを恐れ、自刃の前日、微行して父の宿所の窓下にたたずみ、暇乞いして立ち去ったという。助市はこれを憐れみ、遺骸を西導寺に葬った。


無縁墓石

 無縁墓地に積み上げられている墓石は、ほとんどが土佐藩士のものである。


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河原町二条

2016年10月29日 | 京都府
(法雲寺)
 河原町二条の法雲寺は、文久二年(1862)七月、中老格長井雅樂殺害に失敗した久坂玄瑞らが、家老浦靱負に自首し、同年八月、謹慎のため入った寺である。ともに謹慎したのは、寺島忠三郎、野村和作(靖)、堀真五郎、福原乙之進であった。浦の家臣である秋良敦之助やその子息雄太郎、赤根武人、世良修蔵、松島剛蔵らが慰問のためここを訪れている。
 また、同年七月十七日、万延元年(1860)以来亡命生活を送っていた吉田栄太郎(稔麿)が伏見街道にて世子毛利定広に自首し、そのまま法雲寺にて謹慎した。


法雲寺

 当寺は、元治元年(1864)の禁門の変の戦火を免れた。明治元年(1868)十一月の伽藍は、中心部に本堂、それに接続して東側に書院、台所が南北に位置していた。現在も残る本堂、書院、台所は当時のままの建物である。
 稔麿は、同文久二年(1862)閏八月、久坂玄瑞も同年九月に謹慎を解かれ、法雲寺を離れた。


久坂玄瑞 吉田稔麿等寓居跡
 此南西 吉田稔麿所縁塩屋兵助宅跡伝承地

 法雲寺門前には、歴史地理史学者中村武生氏によって建てられた右の石碑が新しく建てられている。
 吉田稔麿が懇意にしていた塩屋兵助方もここから至近の二条寺町東入ルにあったとされる。塩屋は「正義之者」で、池田屋事件で稔麿が亡くなった時、その詳細を叔父里村文左衛門に伝えて、預かった用心金三十両も送り返している。

(日本銀行)


明治天皇行幸所織工場阯

 明治十年(1877)、明治天皇の関西行幸の折、明治天皇は一月二十八日から二月六日、さらに二月十六日から七月二十八日にわたって京都に滞在した。西南戦争のため、天皇の京都滞在は長期化したが、その間、中学校、女学校、女紅場、織工場等を視察した。織工場では、織機、綴れ織、機械縫い、西洋仕立等を見学したといわれる。


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木屋町 Ⅵ

2016年10月29日 | 京都府
(島津製作所創業記念資料館)


島津製作所創業記念資料館


創業記念碑「源遠流長」
初代島津源蔵寿像

 島津製作所は、島津源蔵(天保十年~明治二十七年)が創業した精密機器メーカーである。万延元年(1860)、源蔵はこの地に移り住み、家業である仏具の鋳物業を営んでいた。明治の初め、東京遷都により衰退した京都の復興を目指し、京都府はこの一隊に欧米の最新技術を導入する舎密局・織工場などを設立し、強力な産業振興策を展開した。源蔵は、舎密局で指導にあたっていたワグネル博士の薫陶を受け、化学立国の志のもと、明治八年(1875)に教育用理化学機器を扱う島津製作所を創業した。その遺志を継いだ二代目源蔵は、国産初の蓄電池の開発など、日本独自の産業技術の発展に尽くした。現存する建物は、南棟が明治二十一年(1888)、北棟は明治二十七年(1894)に増築され、大正八年(1919)までの四十四年間、本店兼住居とした創業期ゆかりのものである。創業百周年を機に資料館として公開され、平成十一年(1999)には国の登録有形文化財に登録された。
 創業記念碑に刻された「源遠く流れ長し」には、今や創業から遠くなったが、これからもその歴史が川の流れのごとく長く続くようにという願いが込められている。

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堀川中立売

2016年10月29日 | 京都府

(NTT西日本京都支店西陣分館)


因州鳥取藩京都藩邸跡

 実家の前の中立売通りを東へ行くと、堀川通りを越えた右手にNTT西日本があり、その前に京都市の建てた「因州鳥取藩京都藩邸跡」の駒札がある。
 鳥取藩の京都藩邸は、古くは油小路下立売にあったが、参勤交代で藩主が立ち寄るのは伏見藩邸であり、京都藩邸の位置付けは高いものではなかった。鳥取藩の最期の藩主池田慶徳は、徳川慶喜の異母兄で、文久二~三年(1862~1863)頃、たびたび上洛して幕府と朝廷間を周旋している。こうして京都の政治的な重要性が増したため、元治元年(1864)二月、鳥取藩では御所の西側のこの場所において、新たな京都藩邸の工事に着手し、同年四月に上棟している。藩邸の西側は東堀川通り、北側は中立売通り、南側は上長者町通りに面し、正門は東側の油小路通りに位置していた。当時の絵図面によれば、敷地は三千九百三十二坪であった。

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御所 Ⅵ

2016年10月23日 | 京都府
(内裏)


建礼門

 母の手術の日となった。私も長男として立ち会うことにした。朝九時半に母が手術室に運ばれたのを見届けると、二時間ほど外を歩いた。
 府立医大病院から御所は歩いて数分。私の記憶によれば、内裏と呼ばれる旧皇居は自由に見学出来たように思うが、いつしか春秋の限られた時期のみ見学が許されるようになった。今年(平成二十八年)の夏から通年公開されることになったとの情報を入手したので、この機会に参観することにした。
 平日ということもあってか、訪問者は外国人が多かったが、幕末の政局の舞台となったこの場所は、日本人こそ見ておかなければならない。


清所門

 内裏への入場は、西側の清所門から入る。ここで荷物検査を受け、入門証を受け取る。右手に宜秋門を見ながら南下すると、諸大夫の間に出会う。諸大夫の間は、参内した者の控えの間で、格の高い順に「虎の間」「鶴の間」「桜の間」と襖絵に因んで呼ばれた。虎の間、鶴の間を使用する者は御車寄から参入したが、桜の間を使用する者は、左手の沓脱石から入った。


諸大夫の間

 紫宸殿を取り囲むように朱色の回廊で仕切られている。紫宸殿の両側に月華門、日華門が向い合い、正面には承明門(じょめいもん)が建てられている。


承明門

 紫宸殿は、京都御所において最も格式の高い正殿であり、即位礼などの重要な儀式もここで行われた。現存する建物は、安政二年(1855)の造営であるが、平安時代の復古様式で建てられている。慶応四年(1868)の「五箇条のご誓文」の舞台になったのもこの建物で、明治、大正、昭和の三代の天皇の即位礼もここで行われた。


紫宸殿


清涼殿

 清涼殿は、平安時代中期以降、天皇の日常のお住まいとして定着した御殿であり、政事・神事などの重要な儀式もここで行われた。天正従八年(1590)に御常御殿にお住まいが移ってからは、主に儀式の際に使用された。伝統的な儀式を行うために、平安中期の建築空間や調度が古制に則って伝えられている。


小御所

 慶応三年(1867)の小御所会議が開かれた小御所である。現在の建物は昭和二十九年(1954)に焼失し、昭和三十三年(1958)に復元されたものである。


御池庭

 小御所の前にある美しい日本庭園は御池庭である。小御所の北には、御学問所がある。


御学問所

 御学問所は、慶長十八年(1613)に清涼殿から独立した御殿で、御読書始めや和歌の会などの学芸のほか、対面にも用いられた。慶応三年(1867)、ここで明治天皇が親王・諸臣を引見し、勅諭を下して王政復古の大号令を発した。
 御学問所から北に進むと、御常御殿がある。その前には御内庭が続く。


御内庭


御三間

 御三間(おみま)は宝永六年(1709)に御常御殿の一部が独立したもので、七夕などの内向きの行事に使用された。万延元年(1860)、祐宮(のちの明治天皇)が八歳のとき、成長を願う儀式「深曽木(ふかそぎ)」がここで行われた。
 内裏の見学はここまで。風がなく、暑い日であった。汗びっしょりであった。

(縣井)


縣井

 昔この井戸のそばに縣宮(あがたのみや)という社があり、地方官吏として出世を願う者は、井戸の水で身を清めて祈願し、宮中にのぼったといわれる。この付近は、江戸時代まで五摂家の一つ一條家の敷地内となっており、この井戸水を明治天皇の皇后となった一條美子の産湯にも使われたという。

(冷泉家)
 御所の北、同志社大学の敷地内に冷泉家が残されている。冷泉家は、鎌倉時代から続く家で、代々近衛中将に任官された羽林家の一つ。歌道を家業としている。藤原俊成、定家以来の国宝・重文総点五万点の典籍・古文書を今に伝え、唯一の公家住宅遺構である家屋と合わせて財団法人冷泉時雨亭文庫として保存されている。住宅は、普段は非公開であるが、たまに公開される。
 幕末の当主は、冷泉為理(ためただ)。文政七年(1824)に為全の子に生まれ、弘化二年(1845)、左近衛少将に任じられ、嘉永二年(1849)中将、同年従三位に昇り、安政三年(1856)、参議となった。同五年(1857)、日米通商条約の勅許問題が起こると朝議がわきかえり、現任の大・中納言、参議の一員として外交処置につき勅問に与った。同六年(1859)、権中納言に進み、慶応元年(1865)、正二位に叙された。明治元年(1868)の即位の大礼に際して宣命使の大役を負い、新儀によって高声に即位の詔を宣読した。これは大政復古の真義を天下に周知する趣旨のものであった。その後、多病のため明治八年(1875)、家督を二男為紀に譲った。為紀は明治十七年(1884)、伯爵を授けられた。明治十八年(1885)、年六十二で没。


冷泉家

(同志社女子中学校・高等学校)


二條家邸跡

 二条家は五摂家の一つ。現在の同志社女子大学大学院、大学、高等学校、中学校の敷地内に屋敷があった。平成二十六年(2014)、新校舎建設に伴う発掘調査で井戸と地下通路が発見された。


二條家検出の井戸

 幕末の当主二条斉敬は、孝明天皇のもとで関白、明治天皇のときには摂政となって、朝廷の舵取りを担った。幕末には会津藩主松平容保を始め、将軍、諸大名が足繁くこの屋敷に通った。

(有栖館)
 有栖川宮家は、寛永二年(1625)に創設され、その後約三百年続いた。大正二年(1913)、十代威仁(たけひと)親王の薨去の後、同年創設された高松宮家に継承された。
 有栖川宮邸(上京区烏丸下立売西入)は、明治六年(1873)より一時京都裁判所の仮庁舎として使用された後、明治二十四年(1891)三月、現在地に移築され、平成十九年(2007)まで京都地方裁判所所長官舎として使用された。平成二十年(2008)、平安女学院が取得して現在に至っている。普段は非公開であるが、今回帰省中の期間に公開していたため、立ち寄ってみた。


有栖館


有栖館の庭

因みに平安女学院は私の母の母校である。大正九年(1920)、我が国で初めてセーラー服を採用した学校として知られる。有栖川館内にセーラー服が展示されていたが、これを見ても母がセーラー服を着ていた姿は想像できない。


平安女学院のセーラー服
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西大路

2016年10月23日 | 京都府
(安阿弥寺)


安阿弥寺


先祖代々之墓(竹岡たつの墓)

 下京区西七条北西野町53の安阿弥寺墓地に竹岡たつの墓がある。竹岡家の墓が複数並ぶが、一番奥の「先祖代々之墓」にたつが葬られているそうである。
 竹岡たつは、弘化三年(1846)生まれ。島原桔梗屋の芸子となり、辰路と名乗った。文久三年(1863)、久坂玄瑞に呼ばれて馴染みを重ねた。久坂家を継いだ久坂秀次郎は、竹岡たつとの間の子といわれる。明治三年(1870)、芸子を廃業、井筒太助次女として葛野郡大内村の豪農竹岡甚之助に嫁ぎ、明治四十三年(1910)、六十五歳にて亡くなった。

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