史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

亀戸

2011年08月20日 | 東京都
(亀戸天神)


亀戸天神

 菅原道真を祀る亀戸天神は、梅や藤の季節になると多くの人で賑わう「花の天神様」としても有名である。境内には大宰府にならって心字池や太鼓橋が造営されている。


中江兆民翁之碑

 境内にはたくさんの石碑が建てられているが、その中に中江兆民の顕彰碑がある。この碑は同郷の板垣退助らによって奉納されたものである。


国産マッチの創始者 清水誠の頌碑

 中江兆民の碑の隣に日本で初めてマッチの国産化に成功した清水誠の碑がある。清水誠は加賀藩の出身。明治三年(1870)にフランスに渡り造船学を修めるとともに、マッチの製造技法を学んで帰国した。明治九年(1876)本所柳原町(現・両国高校敷地)にマッチ工場を起こして、マッチの国産化に尽した。

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門前仲町 Ⅱ

2011年08月20日 | 東京都
(渋澤シティプレイス永代)


渋沢栄一宅跡

 澁澤倉庫の本社がある渋沢シティプレイス永代は、渋沢栄一の旧宅跡地である。
 渋沢栄一は、明治九年(1876)にこの地に屋敷を購入した。明治二十一年(1888)に兜町に移すまでここを本邸としていた。


澁澤倉庫発祥の地碑

 明治三十年(1897)、渋沢栄一は私邸に澁澤倉庫部を創設した。のちの澁澤倉庫㈱である。碑の左上に刻まれた「ちぎり・りうご」の記章は、渋沢栄一が実家で藍玉の製造・販売の商いをしていたときに使用していたもので、現在、澁澤倉庫㈱の社章に受け継がれている。

(佐久間象山砲術塾跡)


佐久間象山砲術塾跡

 渋沢シティプレイス永代をさらに西に進むと、福島橋を渡ったすぐのところに江東区が建てた佐久間象山砲術塾跡の説明板がある。
 佐久間象山がこの地に西洋砲術塾を開いたのは、嘉永三年(1850)七月のことである。勝海舟も入門したというが、同年十二月、一旦松代に帰藩し、翌年江戸に出てきた際には木挽町に塾を開いた。

(冬木弁天)
 戊辰戦争では新選組の永倉新八と靖共隊を結成し北関東を転戦した芳賀宜道は、冬木弁天で神道無念流の道場を開いていた。冬木弁天はかつて材木を扱う豪商冬木家の邸内にあった弁天堂であるが、現在敷地が縮小されてしまって、とてもこの場所に道場があったとは想像しにくい。


冬木弁天


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四ツ谷 Ⅱ

2011年08月20日 | 東京都
(法蔵寺)
 若葉一丁目の法蔵寺に幕臣中村時萬(ときかず)の墓がある。


至誠院精譽求時道萬居士
一心院制譽端覺正牧大姉
中村家先祖累代之墓
(中村時萬の墓)

 中村時萬は、安政期に外交の第一線で活躍した幕吏である。露使プチャーチンや米国総領事ハリスと折衝にあたった。安政四年(1857)、下田奉行に任じられ、万延元年(1860)に普請奉行に転じるまでその職にあった。時萬が最後の下田奉行である。元治元年(1861)には佐渡奉行となり、慶応元年(1865)までその任にあった。没年不詳。

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市原

2011年08月14日 | 千葉県
(鶴舞小学校)
 遠江の浜松藩は、譜代の井上氏が治めていたが、維新後、駿府藩が成立すると上総鶴舞に六万石を与えられ移封された。
 最後の藩主、井上正直は二度にわたって老中職にあって、各国使臣を相手にした横浜鎖港談判など、幕末の難局に力を尽くした。鳥羽伏見の戦争の後、藩論は大いに分かれたが、尾張藩からの勤王勧誘使を迎えると、いち早く勤王証書を提出した。藩主正直は東征軍の浜松通過に際して不在だったため(一説には女のところに通っていたとも)、家老が藩主になりすましたという逸話が残る。


鶴舞城本丸之跡

 鶴舞藩が成立したのは、明治元年(1868)九月である。翌年には版籍奉還により旧藩主井上正直が藩知事に任じられたが、明治四年(1871)の廃藩置県で免じられた。短期間ではあったが、藩ではこの地に城郭を築こうとしたらしく、堀や土塁の跡が残っている。当然ながら城は完成するには至らなかったが、満々と水を湛える堀を見る限り、相当大規模な城郭を築造する計画だったことが窺われる。


鶴舞藩大井戸

 現在、鶴舞小学校の場所が本丸跡である。本丸跡の碑のそばには、井戸も残されている。当時、この辺りは良質の井戸水が豊富に湧出することで有名だったそうである。井上正直が新しい藩領に着任したのは、明治二年(1868)二月のことで、約一年をかけて藩庁知事邸が完成した。


堀の跡


井上正直候(老中)

(鶴舞神社・鶴舞公民館)


鶴舞神社

 鶴舞神社の隣に鶴舞公民館があり、公民館の建物の前に幾つか興味深い石碑が建てられている。


鶴舞藩藩校克明館跡

 浜松藩では弘化二年(1845)に藩校克明館を開設したが、上総鶴舞転封とともに、藩校もこの地に移設された。学頭には国学者村尾元融が任じられ、石川倉次(日本点字の考案者)、賀古鶴所(森鴎外の親友。我が国耳鼻咽喉科学の創始者)などを輩出した。


石川倉次先生之像

 石川倉次(くらじ)は浜松の出身であったが、藩主の転封にともなって鶴舞に転居した。


伏谷如水と清水次郎長ノ碑

 伏谷如水は浜松藩の家老で、慶応四年(1868)三月、総督有栖川熾仁親王により駿府町差配役に任命された。このとき如水は、清水港周辺の警護を博徒清水次郎長こと山本長五郎に当たらせた。次郎長にとってこの抜擢登用は人生の転機となった。次郎長は、この後の人生を社会事業に捧げることになった。如水は、浜松藩の移封にともなって鶴舞に移住することになり、明治二十二年(1889)この地で没した。

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館山

2011年08月14日 | 千葉県
(城山公園館山市立博物館)
 平日の観光地は空いているのは有り難いが、「月曜日休館」には注意したい。せっかく訪れた館山市立博物館であったが、休館でがっかりした。現在、城山山頂には三層の模擬天守が築かれているが、江戸後期、稲葉氏の治世でここに城郭が築かれたことはなく、城山の南麓に陣屋があったのみである。


館山城(八犬伝博物館)


館山城跡より館山市を臨む

 館山藩は一万石という小藩であったが、幕末には稲葉正巳という逸材を生んだ。稲葉正巳は、幼くして父を失い家督を継いだ。大阪加番を皮切りに、講武所奉行や若年寄など要職を歴任した後、神戸海軍操練所創立や幕府の軍制改革などに敏腕を振るった。慶応二年(1866)には老中格に昇任し、海軍総裁となって英国伝習事務を管掌することになった。明治元年(1869)二月、公職を辞職して隠居。江隠と称した。明治十一年(1878)六十四歳で死去。
 館山藩では、戊辰戦争が起こると藩内は意見が分かれ、なかなか態度を決することができなかったが、最終的には恭順と決した。


八遺臣の墓

 館山は、戦国の武将里見氏の故郷である。城山の麓には、「南総里見八犬伝」のモデルといわれる八遺臣の墓がある。元和八年(1622)、里見氏最後の当主里見忠義が倉吉で没すると、八人の家臣が殉死した。彼らの遺骨を分骨して供養したものである。

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富津

2011年08月14日 | 千葉県
(富津公園)
 震災の影響は、梅雨の明けた真夏を迎えた今も続いている。会社では、始まって以来初のサマータイムを導入し、遠距離通勤者には過酷な夏となった。同時に土曜日を出勤として、代わりに月曜日を公休とするカレンダーが採用された。このチャンスを逃す手はない。早速、房総半島まで史跡訪問を兼ねた日帰り旅行を敢行することになった。久々に嫁さんと二人でドライブを楽しむことになった。
 房総半島へはアクアラインを利用するのが近道である。途中、「海ほたる」に立ち寄った。三浦半島から横浜、川崎、東京の街並みを遠望できる。残念ながら富士山は見えなかったが、気分爽快であった。
 第一目的地は、富津公園である。東京湾に突き出た富津岬は、幕末から重要な防衛拠点であった。台場の建造は比較的早く、松平定信の提案を受けて文化七年(1810)に着手されている。維新後、台場は要塞化されたが、今でもその遺構を見ることができる。


富津公園 中の島

 明治十四年(1881)から三年の歳月をかけて中の島には砲台が築造された。この砲台は元洲砲台と呼ばれた。


富津元洲砲台跡

富津岬の突端は、明治百年記念公園となっている。大きな展望台が築かれており、頂上からは、岬のみならず対岸の三浦半島や第一海堡などが見渡せる。


明治百年記念公園 展望台より


第一海堡跡

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「戊辰戦争は今」 読売新聞社福島支局編 歴史春秋社

2011年08月03日 | 書評
今から十数年前、ちょうど戊辰戦争から百三十年を迎えた頃に読売新聞福島支局が連載した戊辰戦争関連記事をまとめたものである。複数の書き手によるものなので、途中ダブりがあったりして、やや読みにくさを感じるものの、星亮一氏の著作のように視点が極端に偏ることはない。とはいえ、会津という一つの視点を固定して、戊辰戦役全体を描いたものである。
ピアニストの伊藤京子が、長州の猛将来島又兵衛の玄孫ということをこの本で初めて知った。伊藤京子といえば、リリシズム溢れるピアニストであるが、古武士を連想させる来島又兵衛とはどこからどう見ても結びつかない。これまた歴史の妙というべきか。その伊藤京子が、毎年山口県美祢市の来島又兵衛の墓参を欠かさないという。
この本では定番といえる白虎隊の自刃や会津落城も当然取り上げられるが、越後口や日光口での戦闘も描かれる。徐々に会津藩が追い詰められる様子が刻銘に紹介されており。興味深かった。

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「最強の人生指南書 佐藤一斎『言志四録』を読む」 齋藤孝著 祥伝社新書

2011年08月03日 | 書評
佐藤一斎の「言志四録」は講談社学術文庫(川上正光訳 全四巻)で発刊されている。少し立ち読みしてみれば分かるが、これを最後まで読み通すのは容易ではない。「声に出して読みたい日本語」でブレークした齋藤孝氏が、難解な「言志四録」を、例示を交えながら分かりやすく解説したのがこの書である。
佐藤一斎は昌平坂学問所の教授を務めた江戸後期を代表する儒学者である。その一斎が四十代から四十年以上にわたって「言志録」「言志後録」「言志晩録」「言志耋録」という四編に、人生訓や仕事術、学習術などを書き残したのが「言志四録」である。言うなれば日本版「論語」のようなものである。
佐藤一斎の門下には、佐久間象山、林鶴梁、池田草庵、大橋訥庵、安積艮斎、山田方谷、横井小楠ら、当代一流の学者が名を連ねている。西郷隆盛が、「言志四録」から気に入った言葉を抄出し、「手抄言志録」として座右の書としていたのは有名なエピソードである。「言志四録」は吉田松陰、河井継之助らにも多大な影響を与えたと言われている。

「言志四録」に掲載された数多の箴言は、現代においても輝きを失っていない。
――― 少にして学べば、即ち壮にして為すこと有り。壮にして学べば、即ち老いて衰えず。老いて学べば、即ち死して朽ちず。
これは「三学の教え」と言われ、「言志四録」でももっとも有名な言葉である。先日、小泉純一郎元首相の講演を聴く機会があったが、そこでもこの言葉が引用されていた。

この本の冒頭紹介されている言葉が、「言志録」からの箴言である。
――― 事を慮るは周詳ならんことを欲し、事を処するは易簡ならんことを欲す。
私の個人的な経験でも、大きな仕事に取り組むときはあれこれを悩むものである。悩むのは準備段階であり、実行段階に至って未だフラついているようでは、成功は覚束ない。「やる」と決まったら悩まず一気呵成に実行する。佐藤一斎の言葉は、このことを示唆しているように思う。

――― 志気は鋭からんことを欲し、操履は端しからんことを欲し、品望は高からんことを欲し、識量は豁からんことを欲し、造詣は深からんことを欲し、見解は実ならんことを欲す。
佐藤一斎の言葉は、人事労務屋の諸先輩方が良く引用されるが、一斎の発想自体が労務屋に通じるものがあると感じる。一斎の用いる漢語は、現代あまり使われることが無くなった単語が多いためやや分かりにくいが、「志気=情熱・熱意」「操履=行動力・実行力」「品望=品格・人望」「識量=度量」「造詣=知識・スキル」「見解=判断力」と置き換えると、現在我々が使用している人事考課要素と重なっていることに気付く。

「言志四録」に収録されている言葉の数は膨大である。きっとその中に自分にぴったりくる言葉が二つ三つ見つけられるだろう。人生の羅針盤を求めて彷徨っている人に、是非読んでもらいたい一冊である。

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「江戸三〇〇藩城下町をゆく」 青山誠著 双葉新書

2011年08月03日 | 書評
世に「江戸三〇〇藩」というが、この本に紹介されているのは(私の数え間違いがなければ)二百七十八藩。今でこそ四十七都道府県に集約されているが、かつてこの狭い日本は、もっと細かなモザイク状であった。しかも、各藩の独立性は現在の都道府県よりずっと高かったし、それだけに個性も際立っていた。それが今日の地域性にも受け継がれている。我が国において県民性を題材にしたテレビ番組が成立するのも、元をたどれば江戸時代のもモザイクに負うところが大きい。
譜代、親藩、外様…。佐幕もあれば討幕派もいる。明君もいればバカ殿もいる。特産品の専売で財政を立て直し藩政改革に成功した藩もあれば、借金が雪だるま式に膨らんで幕末を迎える頃には破綻寸前に至った藩もある。多様性を生んだ要因は様々で、色んな複合的要素が絡み合った結果だろう。
日本各地に地域性が無かったとしたら、どれほどつまらなかっただろう。しかし昨今、物流網が整備され、急速にネット社会が発展し、かつてないスピードで地域の壁が取り払われている。東京に居ながらにして地方の美味いものが手に入るし、強烈な方言を使う若い人を見掛けなくなった。このまま時の経過とともに国内のフラット化が進行すると、金太郎飴のような国になってしまうのではないか。我々は百年後、二百年後にも地域性を受け継いでいけるよう、意識的に努力をしていかなければならない(たとえば地方のニュースは方言で流すとか…)。

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高尾 Ⅲ

2011年08月01日 | 東京都
(拓殖大学八王子キャンパス)
 休日の大学キャンパスは、人影が疎らである。拓殖大学八王子キャンパスには、かつて文京キャンパスにあった恩賜記念講堂を模した記念館が建設され、その前に桂太郎の銅像が置かれている。


桂太郎先生銅像

 桂太郎は、弘化四年(1847)に萩城下に生まれ、幕末には幕長戦争や戊辰戦争に従軍。維新後、ベルリンに留学してプロシアの兵制を学んだ。山県有朋、大山巌の下で軍制の改革などに取り組み、陸軍大将に昇進した。第二代台湾総督、陸軍相を歴任した後、明治三十四年(1901)内閣総理大臣に就任。日露戦争の開戦から終結に至る難局の舵取りを行った。明治三十三年(1900)台湾協会会頭として台湾協会学校(現拓殖大学)の初代校長に就任した。大正二年(1913)十月急逝。享年六十七。

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