日本を離れる前に書店で発見したもの。小説のようで小説でもない。評論のようで評論でもない。どちらかというと中途半端な印象。
プロローグで維新後の黒田長溥の悔恨が披露される。少々長くなるが引用する。
――― あの乙丑の年の大粛清は一体、何だったのか。佐幕派の連中に焚きつけられた保守・重臣の上申とはいえ、どうしてあのような狂気に走ってしまったのか、長溥は自分でもそのことがわからない。
佐賀の鍋島閑叟(直正)のように、妖怪と言われようが何と言われようが、のらりくらりと日和見を決め込んで、幕府に忖度などせずやり過ごしておけばよかった、と今にしては思う。月形洗蔵、加藤司書、建部武彦、衣非茂記たち有為の人材を生かしていたら、彼らは必ずや新政府の要人になっていたに違いない。
また、兄弟のようにして育った島津斉彬や老中・阿部正弘がもっと長生きしてくれていたら、彼らと協力し合って今の政府とは違う新国家の骨格を創り、会津藩、二本松藩などに「賊軍」という言われなき汚名を着せ、この世のものとも思えない阿鼻叫喚の苦しみを与えることなど断じて許さなかったのに、と思う。
そして、薩長を中心とした過激派「志士」によるやりたい放題の今の政府とは違う新政府を建設していたのだ。そうすれば我が藩も太政官札の贋造事件など起こすことはなかったに違いない。
この太政官札贋造事件により、廃藩置県の前に藩はお取り潰しになった。もとの家臣や領民に顔向けなどできるはずがない。だから福岡には行きたくても行けないのだ。この寂しさ、やるせなさ、空虚感を鎮めるにはどうすればいいのだろうか。いっそ父祖の地である鹿児島に行って桜島でも見て過ごそうかとも思う。
等々、悔恨の思いは果てがない。
ここで述べられているように長溥の人生は苦渋に満ちたものであった。長溥の父は第八代薩摩藩主島津重豪。重豪の曽孫である斉彬とは大叔父大甥という関係にあるが、斉彬が二歳年長で、年が近い二人は兄弟のように育てられた。二人とも重豪の影響を受けて西欧の文化に強い興味を持ち、積極的開国策を主張した。本書プロローグで触れられているように、斉彬が幕末の動乱をともに生きていれば、手を携えて新国家の骨格を創ることができただろう。
しかし、斉彬が安政五年(1858)に没すると、長溥と筑前黒田藩は時代の波に翻弄されることになる。
幕末の黒田藩の混迷の窮極が慶応元年(1865)の乙丑の変であった。月形洗蔵、加藤司書、建部武彦、衣非茂記といった黒田藩を代表する勤王派を根こそぎ抹殺したこの事変は、深く禍根を残すことになった。藩内の派閥争いの無意味なことは、若い頃から薩摩藩における流血を伴う対立を目の当たりにしていた斉彬であれば、その愚を繰り返すことはしなかったであろう。長溥は薩摩藩からきた養子とはいえ、将軍家とは強い血の繋がりがあり(将軍家斉は養父斉清の伯父、また姉の広大院が家斉の正室になっていることから義兄にもあたる)、心情的には最後まで佐幕から抜け出すことができなかった。
本来であれば、時代の寵児となる資格をもっていただけにプロローグで描かれた「長溥の悔恨」は心情的に理解できるところである。本書では乙丑の変に至る経緯を分かりやすく記述しており、大いに理解が深まった。
しかし、「革命前夜」「二本松藩、会津藩の悲劇」辺りから突然長州藩や過激派志士に批判の矛先が向かい、エピローグでは「長溥の悔恨」はどこかに行ってしまい、ひたすら過激な攘夷志士や明治新政府への批判に終始している。巻末の参考・引用文献を見ると、星亮一氏や原田伊織氏、鈴木荘一氏、森田健司氏といった反薩長史観論者の著作ばかりが並んでいる。彼らの主張が著者の波長に合ったのだろうが、歴史をある一面から断罪する姿勢は疑問が残る。果ては孝明天皇毒殺説などという俗説について、「一回目の企てに失敗した者たちが、間髪入れずに二の矢を放ったもの」と、想像・推測の話が、まるで見てきたかのように書かれているのも非常に気になる。本書は論文ではなく、小説だから多少の創作は許されるということなのだろうか。
相楽総三が赤報隊を結成したのは、慶應四年(1868)一月、戊辰戦争の勃発以降のことであるが、本書では赤報隊が薩摩藩邸を拠点に江戸市中を攪乱したように記述されている。これも史実には沿っていない。著者の歴史に関する知識の浅薄さが露呈している。