史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「長溥の悔恨」 池松美澄著 花乱社

2022年12月30日 | 書評

日本を離れる前に書店で発見したもの。小説のようで小説でもない。評論のようで評論でもない。どちらかというと中途半端な印象。

プロローグで維新後の黒田長溥の悔恨が披露される。少々長くなるが引用する。

――― あの乙丑の年の大粛清は一体、何だったのか。佐幕派の連中に焚きつけられた保守・重臣の上申とはいえ、どうしてあのような狂気に走ってしまったのか、長溥は自分でもそのことがわからない。

 佐賀の鍋島閑叟(直正)のように、妖怪と言われようが何と言われようが、のらりくらりと日和見を決め込んで、幕府に忖度などせずやり過ごしておけばよかった、と今にしては思う。月形洗蔵、加藤司書、建部武彦、衣非茂記たち有為の人材を生かしていたら、彼らは必ずや新政府の要人になっていたに違いない。

 また、兄弟のようにして育った島津斉彬や老中・阿部正弘がもっと長生きしてくれていたら、彼らと協力し合って今の政府とは違う新国家の骨格を創り、会津藩、二本松藩などに「賊軍」という言われなき汚名を着せ、この世のものとも思えない阿鼻叫喚の苦しみを与えることなど断じて許さなかったのに、と思う。

 そして、薩長を中心とした過激派「志士」によるやりたい放題の今の政府とは違う新政府を建設していたのだ。そうすれば我が藩も太政官札の贋造事件など起こすことはなかったに違いない。

 この太政官札贋造事件により、廃藩置県の前に藩はお取り潰しになった。もとの家臣や領民に顔向けなどできるはずがない。だから福岡には行きたくても行けないのだ。この寂しさ、やるせなさ、空虚感を鎮めるにはどうすればいいのだろうか。いっそ父祖の地である鹿児島に行って桜島でも見て過ごそうかとも思う。

 

等々、悔恨の思いは果てがない。

ここで述べられているように長溥の人生は苦渋に満ちたものであった。長溥の父は第八代薩摩藩主島津重豪。重豪の曽孫である斉彬とは大叔父大甥という関係にあるが、斉彬が二歳年長で、年が近い二人は兄弟のように育てられた。二人とも重豪の影響を受けて西欧の文化に強い興味を持ち、積極的開国策を主張した。本書プロローグで触れられているように、斉彬が幕末の動乱をともに生きていれば、手を携えて新国家の骨格を創ることができただろう。

しかし、斉彬が安政五年(1858)に没すると、長溥と筑前黒田藩は時代の波に翻弄されることになる。

幕末の黒田藩の混迷の窮極が慶応元年(1865)の乙丑の変であった。月形洗蔵、加藤司書、建部武彦、衣非茂記といった黒田藩を代表する勤王派を根こそぎ抹殺したこの事変は、深く禍根を残すことになった。藩内の派閥争いの無意味なことは、若い頃から薩摩藩における流血を伴う対立を目の当たりにしていた斉彬であれば、その愚を繰り返すことはしなかったであろう。長溥は薩摩藩からきた養子とはいえ、将軍家とは強い血の繋がりがあり(将軍家斉は養父斉清の伯父、また姉の広大院が家斉の正室になっていることから義兄にもあたる)、心情的には最後まで佐幕から抜け出すことができなかった。

本来であれば、時代の寵児となる資格をもっていただけにプロローグで描かれた「長溥の悔恨」は心情的に理解できるところである。本書では乙丑の変に至る経緯を分かりやすく記述しており、大いに理解が深まった。

しかし、「革命前夜」「二本松藩、会津藩の悲劇」辺りから突然長州藩や過激派志士に批判の矛先が向かい、エピローグでは「長溥の悔恨」はどこかに行ってしまい、ひたすら過激な攘夷志士や明治新政府への批判に終始している。巻末の参考・引用文献を見ると、星亮一氏や原田伊織氏、鈴木荘一氏、森田健司氏といった反薩長史観論者の著作ばかりが並んでいる。彼らの主張が著者の波長に合ったのだろうが、歴史をある一面から断罪する姿勢は疑問が残る。果ては孝明天皇毒殺説などという俗説について、「一回目の企てに失敗した者たちが、間髪入れずに二の矢を放ったもの」と、想像・推測の話が、まるで見てきたかのように書かれているのも非常に気になる。本書は論文ではなく、小説だから多少の創作は許されるということなのだろうか。

相楽総三が赤報隊を結成したのは、慶應四年(1868)一月、戊辰戦争の勃発以降のことであるが、本書では赤報隊が薩摩藩邸を拠点に江戸市中を攪乱したように記述されている。これも史実には沿っていない。著者の歴史に関する知識の浅薄さが露呈している。

 

 

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「江戸500藩全解剖」 河合敦著 朝日新書

2022年12月30日 | 書評

地方に行けば、その地方特有の文化や風習に出会うことができる。北陸トンネルを抜けると、突然福井弁の世界が待ち受けている。福井の人間にしてみれば、関西からやってきた私は「関西弁を使う変な奴」と思われたに違いない。ところが、学生時代に神戸に移って、神戸の人たちがちょっと癖のある関西弁を操ることに衝撃を受けた。一口に関西弁というが、大阪と京都と神戸ではまったく別の方言なのである。

県民性を取り上げたTV番組があとを絶たないのも、その淵源をたどっていくと江戸時代の藩にたどりつく。江戸時代、さして広くもない日本の中で(数え方によるが)最大500もの藩がかなり独立性高く併存していた。しかも、現代と違って人の流動性は低く、移動も制限されていたので、藩の独自性はまるで冷凍保存されたように長く維持された。

では、藩の歴史はそれぞれ全く独立したものだったかというと、不思議なことに申し合わせたように同時多発的に同じような歴史を刻んでいる。

江戸時代の三大改革といえば、享保・寛政・天保期を指すが、同じ時期、各藩でも改革が行われていた。結局のところ、幕府も藩もこの時期に経済的に行き詰まり、改革断行を余儀なくされたのである。

周知のとおり江戸時代は、商品経済が発達し商人の中には巨富を築いた者もいた。しかも、相も変わらず米納社会であったため藩の財政が行き詰ったのも当然のことといえる。

藩政改革といっても、倹約を徹底するとか、藩士の家禄を一律削減するとか、商人からの借金を踏み倒すといった類の対策ばかりである。現代的な発想でいえば、どうして商人に対して所得に応じて課税しないのだろうかと考えてしまうが、この時代商人に課税したという話はあまり聞かない。強いて近い例を挙げれば、商人から上納金を出させるとか、運上金、冥加金を課すというくらいのものである。

企業経営でいうと、もはやリストラが必要な状態だと思われるが、この時代は石高に応じて武力を常備する必要があり、大胆に人員削減することもできなかった。

改革の一環として藩校の設置が進んだ。もっとも古いものは寛文六年(1666)の岡山藩学といわれる。ただし、その後百年以上、他藩での藩校開設は進まず、設置率は大藩を中心に十%程度だった。

ところが寛政の改革がおこなわれた十八世紀末になると、幕府の昌平坂学問所を皮切りに各藩は競って藩校を開いた。寛政年間に続いて藩校開設のブームが到来したのが天保年間であった。

現代、文部科学省が作成した学習指導要領に則った教科書を用いて公立学校では教育が行われており、そのため全国で同質の教育を受けることができるようになっている。江戸時代は、教育に関しては各藩に一任されており、各藩では独自の教育が展開され、結果、独特の士風が形成された。子細にみれば、藩校の教育は各藩工夫を凝らし、ユニークなものであった。

ユニークな教育を実践した藩校として、水戸学の発信基地となった水戸弘道館、国学を導入した津和野藩の養老館、徂徠学を中心に据え、生徒の自主性を重んじた致道館などがある。

現代においても、秋田県の国際教養大学や大分県の立命館アジア太平洋大学などユニークな大学が生まれているが、既存の地方大学もその地方色を活かして、もっと独自性を追究したら良いかもしれない。

 

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巣鴨 Ⅷ

2022年12月24日 | 東京都

(染井霊園つづき)

 

松野勇雄墓

 

松野勇雄君碑

 

 松野勇雄(いさお)は、嘉永五年(1852)の生まれ。父は芸州藩郡奉行の属吏松野重大夫尚志。幼少より国学を父に、漢学を宇都宮竜山、岡田聿山らに受け、剣、弓、銃、砲の諸術を学んだ。元治元年(1864)、十三歳で藩の大砲方を命じられ、慶応二年(1866)、藩校明善堂授読となり、明治三年(1870)以降、矢野郷校、三原郷校、竹原皇学校、三津皇学校にて教授した。明治五年(1872)、志を立てて上京、平田銕胤の学僕となり、翌年教導職一四級試補を皮切りに、教部省少講義、同権中講義、宇佐神宮禰宜などを歴任。かたわら大教院より編輯兼務を命じられ、明治十年(1877)、皇大神宮権禰宜に任じられ、中講義に補せられた。同年本居豊頴の養子となり、その女みな子に配されたが、間もなく同家を去り、また本官を辞した。上京して神道事務局に入って漢学を講じ、かねて神原精二の共慣義塾に出講した。明治十五年(1882)、皇典講究所の創立に尽力し、のち幹事となり、また「古事類苑」の編纂に従事し、明治二十三年(1890)には国学院の創立に携わり、国学の研究普及に努め、また皇典講究所が出資した共立中学の校長を兼ねた。明治二十六年(1893)、年四十二で没。【1種イ3号15側】

 

青山直道之墓

 

 青山直道は、弘化三年(1846)の生まれ。父は苗木藩主青山景通である。平田篤胤の皇学に帰依し、維新後明治二年(1869)十月、苗木藩大参事となり、諸藩に率先して王政復古の実を示そうと、士族の禄を奉還させて帰農させた。守旧派上流士族の反対にあい、青山邸の焼討騒動へと発展した。明治三年(1870)正月、藩中の総出仕を命じ、暴挙に関与した反対派十名を捕らえ、藩政擾乱、反逆の罪名をもって八名を入牢、二名を閉門に処した。さらに藩内で廃仏毀釈を徹底的に行い、二十四ヶ寺を廃し、住僧を還俗させた。同年閏十月、大参事を辞して帰農し、明治四年(1871)、官途につき、栃木、静岡に勤務した。西南戦争鎮定後は、警視庁少警部となり九州に赴いた。明治十二年(1879)、岐阜県大野郡、池田郡の初代郡長に任じられ、明治十四年(1881)一月、しばらく富山県吏となったが、薩長の背景なくして容易に官界で驥足を伸ばすことの困難を知り、俗吏に甘んずることを望まず、職を辞して民間に下った。のち東京に出て易を学び、一家を成した。明治三十九年(1906)、年六十一で没。

 

従二位勲一等男爵辻新次之墓

 

 辻新次は天保十三年(1842)の生まれ。文久元年(1861)、江戸に出て蕃書調所で蘭学、仏学を学び、開成所教授手伝となった。慶應三年(1867)、同志とはかって「遠近新聞」を発行して新時代の啓蒙運動に参加した。維新後文部省に出仕すること二十五年。その間、学制の制定やその改正など、草創期の教育制度確立のために努力し、能吏の誉れ高かった。明治十九年(1886)、文部次官、ついで貴族院議員となった。大正四年(1915)、年七十四で没。

 

近藤瓶城の墓

 

 近藤瓶城(へいじょう)は、天保三年(1832)の生まれ。幕末岡崎藩儒員に登用され、維新前後は藩の公用人であった。勤王思想家でもあり、版籍奉還にも尽力した。また彼の編輯した「史籍集覧」は、「群書類従」の逸漏を補い、それ以後の著書を収録したものとして名高い。明治三十三年(1900)から同三十六年(1903)にかけてその子圭造により改訂されている。明治三十四年(1901)、年七十で没。

 

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西巣鴨 Ⅲ

2022年12月24日 | 東京都

(総禅寺)

 先週、宮城県東松島市赤井の大槻俊斎生誕地を訪ねたばかりである。東京にあるという墓の場所を調べたところ、巣鴨の総禅寺ということが分かったので、翌週総禅寺を訪ねた。

 総禅寺墓地には、これまで何度も進入しているのでいつものように立ち入ったところ、本堂よりお寺の方で出てきて、

「手塚治虫さんの墓でしょうか。」

と聞かれたので、正直に大槻俊斎の墓を詣でたことを告げると、線香をあげるように言われた。 お寺の方によれば、長らく宮城県の大槻家の方から人は見えていないという。

 

俊斎 大槻家累代之墓

 

 大槻俊斎は、文化三年(1806)の生まれ。十八歳のとき江戸に出て、高橋尚斎の学僕となり、ついで手塚良仙の門人となり、さらに湊長安の紹介で蘭学者足立長雋の門に入って蘭学を学び、高野長英、小関三英、渡辺崋山らと交わった。天保八年(1837)、長崎に遊学し、天保十一年(1840)、江戸で医を開業した。やがて仙台藩医にあげられた。当時種痘法が移植されると伊東玄朴、戸塚静海らの同志の洋医とともに種痘館の設立を図り、安政五年(1858)、江戸神田お玉ヶ池にて開所した。万延元年(1860)、幕府の医官となって御番医並びに種痘所頭取となった。人物闊達といわれ、幕末西洋医学界の中心人物、種痘法普及のほか、「銃創瑣言」を著わして、軍陣医学の先鞭をつけた。文久二年(1862)、年五十七で没。

 

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汐入

2022年12月24日 | 神奈川県

(汐入駅前)

 

御幸橋

 

 京急汐入駅前の御幸橋跡に四本の親柱が残されている。横須賀駅から鎮守府へ向かう際、明治天皇は馬車で水路に架かる橋を渡った。この橋は、いつしか御幸橋と呼ばれるようになった。かつては木製の橋だったが、大正四年(1915)に改装された。その当時の四本の親柱である。

 

(どぶ板通り)

 

明治天皇横須賀行在所入口

 

 京急本線汐入駅から米国海軍ベースまでの道を「どぶ板通り」と呼ぶ。鮮やかな色の英語の看板が並び、まるで異国の雰囲気である。

 国道16号線沿い、横須賀幼稚園に入る階段に至る入口に「明治天皇横須賀行在所入口」と記された石碑が建っている。

 

(横須賀幼稚園)

 

明治天皇横須賀行在所阯

 

聖蹟

 

 横須賀幼稚園前の園庭には「聖蹟」碑と「明治天皇横須賀行在所阯」碑が並んで建てられている。

 聖蹟碑は、明治天皇が横須賀行幸の際、宿泊、休憩をとった建物の跡地(横須賀(向山)行在所跡)を示すものである。

 

(諏訪公園)

 

明治天皇御駐蹕

 

 幼稚園前の園庭の先の階段を上っていくと諏訪公園と名付けられた公園があり、そこに明治天皇御駐蹕碑がある。明治天皇が当地に宿泊したのは、明治四年(1871)、六年(1873)、八年(1875)の三回。題字は、東郷平八郎。

 

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東松島

2022年12月17日 | 宮城県

(赤井)

 

大槻俊斎先生誕生の地

 

 東松島市内で県道16号線を走っていて偶然この石碑を発見した。竹さんにお願いして百メートルほど逆戻りして、石碑を写真に収めた。

 大槻俊斎は、文化元年(1804)、父武治、母おこしの次男に生まれた。医を志し、十八歳のとき江戸に出、医術を修め、さらに天保八年(1837)より三年間長崎で西洋医学を専攻した。三十七歳で江戸に戻り、町医者を開業。高野長英と親交があった。四十六歳のとき、牛痘による種痘に初めて成功した。五十三歳で仙台藩医に登用され、兄竜之進もまた仙台本藩に召出された。安政五年(1858)、世情騒然とする中で「お玉が池種痘所」を設立した。五十七歳で御番医並びに種痘所頭取に任じられ、のちに種痘所を西洋医学所と改称し(東京大学医学部の前身)、引き続き頭取となった。文久二年(1862)、四月十日、病篤く、没した。享年五十九。

 

(清厳寺)

 清厳寺の裏山には広大な霊園が広がっている。「かたかごの里公園墓地」と名付けられた一画に辺見家の墓が三つくらい並んでいる。その中に辺見鷹治の墓がある。

 

清厳寺

 

廣維院義邦雄戦居士(邊見鷹治の墓)

 

 辺見鷹治は、銃士。登米伊達筑前家来。慶應四年(1868)七月十六日、岩代浅川にて戦死。二十八歳。

 

(如月庵墓地)

 

如月庵

 

戊辰之役戦死 安久津源左衛門之墓

 

 安久津源左衛門は、明治元年(1868)九月十日、磐城鬼石にて戦死。

 

 

 この日は強い日差しに襲われたかと思えば、突然土砂降りの雨が降るといった、目まぐるしい天気であったが、如月庵墓地を訪ねた時には、爽快に晴れた。この日の史跡の旅はここまで。JR仙石線本塩釜駅まで送ってもらって、ここで竹さんご夫妻と分かれた。この次に宮城県を訪ねることができるのが何年後になるか分からないが、その日が来るのを楽しみにしておきたい。

 

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石巻 Ⅳ

2022年12月17日 | 宮城県

(龍谷院)

 

龍谷院

 

 東日本大震災は宮城県沿岸部、ことに石巻市に甚大な被害をもたらしたが、もっとも広く知られているのが大川小学校の悲劇であろう。龍谷院はその大川小学校の近くにある寺院である。この寺も津波に襲われ本堂は流失して、現在は小さな仮本堂が建てられている。また墓地入口には震災の鎮魂碑がある。その近くに羽生玄栄の顕彰碑が建つ。

 

東日本大震災鎮魂碑

 

羽生玄栄翁碑

 

 以下、竹さんの「戊辰掃苔録」より。

 羽生玄栄は、登米伊達家御次医師筆頭。桑名藩士大沢因幡の子で、十七歳の時、江戸へ出て西洋医学を学び、天保十五年(1844)に登米伊達家医師の羽生玄探の養子となり、翌年登米領主の藩医に迎えられた。文久二年(1862)、京都探索方を命じられ、八月ひそかに京に発ち、諸藩の士と交流し情報を得て、藩主慶邦に仙台藩の歩むべき道、攘夷の節を建言した。戊辰戦争では、仙台藩の会津攻めに反対で、征討に踏み切ったことに驚いたが、但木土佐には攻撃を始めることで会津に恭順を示させる意図があった。維新後は新政府の逮捕から逃れ、桃生郡十五濱村長面浜に身を隠し、文墨に独り楽しみ、また長面の青少年を指導し種々の面で指導的立場にあった。明治三十三年(1900)没。七十八歳。

 

(多福院)

 

多福院

 

真橙院徳巖栄傳居士(勝又要七の墓)

 

 勝又要七は、銃士。中村丹宮指揮。慶應四年(1868)七月十八日、岩代高宮にて戦死。

 

(慈恩院)

 

慈恩院

 

長谷平直道之墓

 

 長谷平直道は、戊辰戦争で刑死。長谷和の子で平と称した。この墓は、もと湊小学校の裏にあったが、昭和四十四年(1969)、没後百年を機に所縁の深い慈恩院の平塚家の墓域に移された。

 

(久円寺)

 

久円寺

 

武藤家累世墓(武藤利直の墓)

 

 武藤利直(通称鬼一)は、天保九年(1838)の生まれ。慶應元年(1865)、川俣陣屋支配地取締役。子弟を集めて文武を教授した。戊辰戦争では、細谷十太夫の編成した烏組に属して奮闘した。明治七年(1874)、水沢県一等出仕。翌明治八年(1875)には聴訟課属となったが致仕。のちに試験に合格して公証人となった。明治三十五年(1902)、病を得て没した。七十一歳。

 

(西光寺)

 震災の前から念願であった西光寺の真田喜平次の墓をようやく訪ねることができた。以前は納経塔の裏、竹垣との間の狭い空間に建てられていたらしいが、この寺も東日本大震災で大きな被害を受け、現在は参道に面した開けた空間に移設されている。

 

西光寺

 

西光寺

 

舊仙臺藩真田君碑

 

 真田喜平太は、文政七年(1824)の生まれ。諱は幸歓。真田幸村の後裔と伝えられる。藩主伊達斉邦、慶邦の小姓として出仕。下曽根金三郎について西洋砲術を考究し、安政三年(1856)、講武所ができると、砲術および西洋流調練の指南役となった。文久三年(1863)、藩主に滞京を説いたが容れられず、元治元年(1864)、脇番頭になり、慶応二年(1866)には近習目付となった。軍制改革にあたったが貫徹しないまま、戊辰戦争を迎え、軍目付として会津土湯口に戦った。奥羽越列藩同盟には反対の立場であったが、命によって参謀となった。戦後藩内で最も早く版籍の奉還と郡県制を主唱したが容れられず退隠した。明治二十年(1887)、年六十四で没。

 

真田幸歓妻齋藤氏墓

 

真田昌棟墓

 

 傍らには真田喜平太の妻や息の墓も置かれている。

 

(青葉神社)

 石巻市門脇青葉の青葉神社は、明治十四年(1881)の旧仙台藩士による大街道開拓の際に、藩祖への感謝と開拓の西郊を祈願して、仙台市内北山の青葉神社を分祀して開かれた。大正十一年(1922)には、青葉神社の社殿改築の時に余材をもらい受けて社殿を改築したものが現在も社殿として使われている。

 

青葉神社

 

僊臺藩牡鹿原開墾記念碑

 

 境内に建てられている仙台藩士牡鹿原開墾記念碑は大正九年(1920)の建立。碑文に開墾に従事した細谷十太夫の名前を見ることができる。

 

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石巻 Ⅲ

2022年12月17日 | 宮城県

(耕徳院)

 

耕徳院

 

 耕徳院は、明暦元年(1655)、武田左馬之介貞信の子武田五郎左衛門充信が和渕に屋敷を構えた頃、現在地に移された。その縁で、以来武田家の菩提寺となっている。武田家の祖は、武田信玄の父信虎の十男信次とされ、大阪冬の陣の頃から伊達政宗と接触を持ち、信次の子の重次が政宗に仕え、貞信の時、二代藩主忠宗より拝領した。武田家邸は、和渕入ノ沢山におかれ、その跡地は今でも「お邸(やしき)」と呼ばれている。墓所は耕徳院墓地の一番上に位置している。

 

武田安之助信昌墓

智昭院殿真學道雄大居士

 

 武田家墓所内に武田安之助の墓がある。

 武田安之助は、千八百石。桃生郡和渕住。二番座召出格。小隊長として奇功があった。慶應四年(1868)七月二十八日、磐城熊川にて戦死。三十歳。

 

大智院殿義学道英大居士(武田杢介の墓)

 

武田家墓所からの眺望

 

 眼下一面に水田が広がっている。

 

(林昌院)

 

林昌院

 

戦没勇士慰霊碑

 

 林昌院の門前に戦没勇士慰霊碑が建てられている。この石碑は戊辰戦争から大東亜戦争までの戦死者の記念碑。昭和四十五年(1970)三月に建立された、比較的新しいものである。背面に桃生郡より戊辰戦争に出征した五名の名前が刻まれている。

 

(欠山墓地)

 

岩淵家代々之奥津城(岩淵泰輔の墓)

 

 岩淵泰輔は、瀬上主膳家来。慶應四年(1868)五月一日、白河にて戦死。

 

鈴木鶴之輔藤信親墓

 

 無縁墓石の中に鈴木鶴之助の墓がある。瀬上主膳家来。慶應四年(1868)五月一日、白河にて戦死。

 

(梅木屋敷)

 瀬上主膳の墓のある統禅寺が所在する梅木屋敷に戊辰戦争の戦没者慰霊碑が建てられている。令和元年(2019)、戊辰戦争終結百五十年を記念して建てられた比較的新しいものである。

 

戊辰の役全殉難者 慰霊の碑

 

近代の夜明けに礎となった

先人たちの御霊安らかに

令和元年五月十八日

戊辰の役終結百五十年記念

慰霊碑建立奉賛者一同

 

 この立派な石碑が建っているのは、岩淵家の敷地内である。竹さんご夫妻は、ここを訪れて、岩淵家の方に声をかけられ、欠山墓地に岩淵泰輔の墓のことを教えてもらったという。

 

(高徳寺)

 

高徳寺

 

小関直之進の墓

 

 小関直之進は、慶応四年(1868)八月十一日、磐城駒ヶ峰にて戦死。

 

(千照寺墓地)

 

津田家之奥城(鹿又貫之進の墓)

 

 鹿又(しかまた)貫之進は、桃生郡大立目家中。慶應四年(1868)七月十一日、羽前金山にて戦死。

 鹿又貫之進の名前を、津田家の墓碑銘に見ることができる。津田家に生まれ、鹿又家を継いだ人らしいが、墓碑銘を確認しないと、ここに貫之進が葬られていることは分からない。竹さんの執念を感じる。墓標によれば、八月十一日、戦死。二十四歳とある。

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涌谷 Ⅱ

2022年12月17日 | 宮城県

(清浄院)

 

清浄院

 

廣雲軒大澤靈光禅居士(栗山辰三郎の墓)

 

 栗山辰三郎は、伊達安芸家来。遠田郡元涌谷の人。慶應四年(1868)、八月二十九日、羽後六郷鶴田川原にて戦死。

 

白岩家之墓(白岩杢右衛門の墓)

 

 白岩杢右衛門は、伊達安芸家来。遠田郡涌谷の人。慶應四年(1868)七月二十九日、岩代二本松にて捕らえられ斬。

 

(見龍寺)

 

見龍寺

 

 見龍寺には、涌谷伊達家の墓所「見龍廟」がある。中には伊達騒動で有名な伊達安芸宗重の墓もある。

 

栗軒十文字先生之墓

 

 十文字龍介(栗軒)は、仙台藩出入司三好監物や近習安田竹乃輔と親しく、奉行但木土佐の信任も厚く、藩内開国派の中心人物であった。維新後は北海道開拓に従事し、開拓使判官島義勇のもとで勤務した。明治二十四年(1891)、没。

 

頌徳碑

 

 涌谷伊達家家臣森亮三郎の頌徳碑である。以下、竹さんの「戊辰掃苔録」より。

 十一歳で郷学月将館に学び、さらに剣を磨いて西洋流兵術、砲術、弾薬の製作技法等を習得した。戊辰戦争では仙台藩軍本部の副監亘理善右衛門の下で作戦の中枢部員となる。涌谷勢は四月、中山口に会津藩を攻め、急旋回して白河口で西軍と交戦、七月には秋田に兵を進め、参謀長を務めた。八月十四日に六郷町を出て大曲に進んだ時、三方から秋田勢の攻撃を受け、涌谷勢は応戦したが大敗した。この時、亮三郎は止まってなおも指揮中、足に銃弾を受け倒れた。明治二年(1869)、主君亘理元太郎の侍講にあげられ仙台屋敷に伺候した。明治四年(1871)、廃藩置県とともに遠田南方二七ヶ村の郡長となり、以降宮城県一五等出仕、遠田郡小学校取締、三等郵便局事務取扱役、涌谷村戸長を歴任し、明治二十二年(1889)、初代小牛田村長に当選した。明治四十三年(1910)、年八十一にて没。

 

 ここに来てにわか雨に襲われた。傘を自動車に残していたので走って戻ったが、わずかな時間でびっしょりになってしまった。

 

(中野三墓地)

 

桜井家之墓(桜井熊蔵の墓)

 

 桜井熊蔵は、遠田郡黒岡の人。坂本雅樂之介指揮。卒。慶應四年(1868)、六月十二日、白河にて戦死。

 

(猪岡共葬墓地)

 大平与一は、遠田郡小塚の人。慶應四年(1868)、八月十四日、羽後六郷にて戦死。

 

旭容院泰参心利居士(大平與市の墓)

 

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美里 Ⅲ

2022年12月17日 | 宮城県

(二郷砂押墓地)

 この日は、竹さんご夫妻の案内で、宮城県の美里、涌谷、石巻、東松島を回った。自力では数日かかるコースを一日で回ることができた。前日は豪雨に襲われたが、この日は時々雨に遭ったものの基本的には天気に恵まれた。

 

門間家代々之墓(門間菊三郎の墓)

 

 門間菊三郎は、遠田郡南郷、門間託治の長男。慶應四年(1868)、八月十四日、羽後六郷で戦死。十九歳。

 

(東光寺)

 

東光寺

 

大〇院浄照成忠清居士(引地幸治の墓)

 

 引地幸治は、伊達安芸家来。遠田郡涌谷二郷住。病床の兄甚吉に代わって従軍。慶應四年(1868)、八月十四日、羽後六郷にて戦死。二十歳。

 

(練牛共葬墓地)

 

木村家之墓(木村五左衛門の墓)

 

 木村五左衛門は、伊達安芸家来。十文字八郎手。涌谷伊達重臣儀兵衛希尚の長男。慶應四年(1868)七月十五日、磐城七曲坂にて戦死。二十八歳。

 

(平針共葬墓地)

 

今野家之墓(今野俊治の墓)

 

 何の変哲もない墓石だが、傍らの法名碑の先頭にただ「清治」とだけ記されているのが、今野清治である。

 今野清治は、銃士。遠田郡涌谷の人。慶應四年(1868)七月十五日、白河にて戦死。

 

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