史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「疑惑」 松本清張著 文春文庫

2015年10月30日 | 書評
先月、北海道月形町の篠津囚人墓地で熊坂長庵の墓に対面して以来、この人物と「藤田組贋札事件」のことが気になっている。長庵の出身地である神奈川県愛川町中津には、あれから三回も足を運んでいる(といっても、自宅から四十分程度のドライブに過ぎないが)。確かに、「不運な名前」で伊田元校長が力説しているように、熊坂長庵は教育家として地元では名士として知られる存在であったようである。書道の師、関戸芳孟の筆塚の揮毫なども頼まれている。
この文庫に収められている小説二篇のうち、「不運な名前」という作品が「藤田組贋札事件」と熊坂長庵に題材を取ったものである。タイトルにある「不運な名前」とは、熊坂長庵が芝居に登場する大盗賊熊坂長範と似た名前を持っていたばかりに、贋札造りの犯人に仕立て上げられたということに拠っている。
さすが松本清張の作品だけあって、ぐいぐいと引き込まれる。わずか一日の通退勤時間で読破してしまった。綿密に資料を調査した安田という主人公と、盲目的に長庵の無実を信じる元校長の伊田、それに正体不明の神岡と名乗る若い女性という三名の登場人物の掛け合いによって物語は進行する。恐らく安田の主張が松本清張自身の考えとも重なっているのであろう。安田の言い分は説得力があり、読者は誰もが長庵の冤罪、藤田組贋札事件の背景にある薩長の藩閥争い、その蔭に井上馨の存在を信じるであろう。ところが三人が分かれた一か月後に神岡から分厚い手紙が安田の手元に届く。その手紙を掲載してこの小説は終わる。神岡の手紙は、言わば清張自身の仮説に対する反論とでも呼ぶべきものである。この中で神岡に「井上馨に贋札注文の疑いをかけられた経緯のご類推は、同公爵の伝記からヒントを取られて、感歎のほかはございませんが、残念ながらわたくしにはにわかにご同意しかねるところでございます」といわせているが、清張自身も井上馨が贋札の製造を命じたという確実な証拠がないことは気になっていたのであろう。確かに、薩長閥の争いだとか、川路大警視の急死や金銭に汚い井上馨の暗躍を加えると、俄かにこの事件が劇場的になってくるが、現実はさほど事件性が高いものではなく、真贋を見極める練習用に作成した贋札が混在してしまった程度のものかもしれない。そう考えれば、膨大な手間をかけて贋札を印刷したにもかかわらず、割が合わないほどその枚数が少ないという矛盾にも納得がいく。いずれにせよ、熊坂長庵は、無実を訴えたにもかかわらず、十分な裁判が行われることもなく、遠く樺戸集治監に送られ二年間の獄中生活を送った。厳しい自然環境と過酷な労働に耐えきれず病死。明治政府としては「藤田組贋札事件」に終止符を打つために必要に駆られての措置だったのかもしれないが、人権も何もあったものではない。長庵がこの事件における最大の被害者であるということは間違いなさそうである。
この文庫の表題にもなっている、もう一篇「疑惑」は、読んでいるうちに昔テレビで見たことがあると気づいた。インターネットで調べてみると、この小説は映画やテレビで何度も映像化されている。私が見たのもそのうちの一つだったということになる。しかし、テレビで見たのとは違う結末に軽い衝撃を受けた。
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「人間臨終図巻」 山田風太郎著 角川文庫

2015年10月30日 | 書評
古今東西、老若男女を問わず、職業も政治家、芸術家、作家から俳優、スポーツ選手、犯罪者に至るまで、様々な人間を対象として、臨終つまりどのように死を迎えたかを紹介した「天下の奇書」である。紹介されているのは約九百人におよび、その人の経歴や事績などの紹介よりも、徹底的に死の間際を描き出す。その姿勢はもはや偏執的といってもよいくらいである。作家、山田風太郎の「死」への執着を感じさせる一冊(正確には上中下三巻)となっている。
本書は十代で死んだ人を筆頭に、死亡した年齢順に臨終を紹介する。これを見ると、現在では有名な芸術家であっても、生前は作品が正当に評価されずに不遇のうちに亡くなった人が実に多いことに気付く。たとえば三十一歳で亡くなったシューベルト。短い生涯であったが、九百曲以上の作品を残した。この人の作品 ― 歌曲にしろ、ピアノ曲にしろ、管弦楽曲にしろ ― を聴けば聴くほど、天才としか形容のしようがない。歌曲集「冬の旅」の底知れぬ寂寥感。とても三十歳代の若者の作品とは思えない。最後のピアノ・ソナタ第21番。ドラマティックではない淡々とした曲でありながら、静かな感動を呼ぶ。合唱曲では「水の上の聖霊の歌」水の流れを視覚化して見事である。どうして同時代の人は、シューベルトの楽曲を聴いてその天才性を見抜けなかったのだろうか。

山田風太郎はいう。
――― もし自分の死ぬ年齢を知っていたら、大半の人間の生きようは一変するだろう。従って、社会の様相も一変するだろう。そして歴史そのものが一変するだろう。

幕末の頃、日本人の平均寿命は三十代半ばくらいであったと言われる。今でこそ日本は世界に冠たる長寿国となったが、平均寿命が五十歳に達したのは第二次世界大戦の前後のことだそうだ。動乱に身を投じた活動家たちだけでなく、一般庶民にとっても死は身近なものであった。この時代、人は実によく死んだのである。
だからこの時代の人たちは、常に死を意識しながら生きることになった。死を考えることは即ち如何に生きるかを考えることである。幕末の若者たちが輝きを放っているのは、生に対する執着の無さ、言い換えれば何かのためにあっさりと自分の命を投げ出す潔さを持っているからである。翻って現代の我々を顧みると、ほとんど日常において死を意識することが少ない。本当は道を歩いていていきなり自動車が突っ込んでくることだってあるかも知れないし、乗っている飛行機が墜落してしまう恐れだってある。現代人とはいえ死と隣合わせであるはずなのだが、敢えて考えたくないことは遠ざけて、我々は死を意識することがほとんどない。「如何に美しく生きるか」などと考えることもないのである。その結果、日本人は、世界的にみても情けないほど意地汚い人種に堕してしまった。オレオレ詐欺やマルチ商法、カード詐欺など、確かにあれはあれで(高度ではないにしろ)知能犯なのかも知れないが、全く崇高さが感じられない。これは平均寿命が伸びてしまったがための弊害ではないのか(そりゃ、幕末でも程度の低い犯罪者は存在したと思うが…)。日本人は幕末人の生き様を見て、もっと死を意識して生きるべきであると、最近つくづく思うのである。
約九百人に及ぶ死にざまを見ると、ほとんどの人は自分の死期を意外な形で迎え、「やり残したことがある」と悔しい想いをしながら死の床に就いている。お世話になった人や愛する家族に御礼と別れを告げ、苦しむことなく静かに死を迎えるのが理想であるが、現実はそう甘いものではない。やはりほとんどの人が病魔と戦い七転八倒しながら、ようやく終焉を迎える。今、生きている我々もピンピンコロリという理想的な死に方ができるとは思わない方が良かろう。
上・中・下の三巻にわたる分厚い書であるが、人の死を見て己の生を考えるにはこれ以上ない本である。

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「「幕末大名」失敗の研究」 瀧澤中著 PHP文庫

2015年10月30日 | 書評
巻末の著者紹介によれば、著者の瀧澤中(たきざわあたる)氏は、作家・政治史研究家とある。本書は瀧澤氏による幕末の失敗事例の解析である。我々は歴史の結果を知っている。結果を知った者が、結果を知らずに行動を起こした者を批判するのは簡単だし、ある意味では卑怯である。言わば野球解説者が、打たれたのを見た上で「ここでカーブを投げてはいけません」という類の評論と同じである。ただし野球評論家は大抵の場合、野球経験者であり、そこに多少説得力があるというべきである。ところが政治評論家については、必ずしも政治経験者とは限らない。実際に経験したことのない者がいくら偉そうなことを言って、批評したところで、そういう発言を私は信じない。「ならば、貴方がやってみたら」と言い返すのみである。
以上を踏まえて、本書を読み通してみたが、さすがに古今東西の政治を知った著者だけあって、指摘は的確だし、分析の切れ味もするどい。
たとえば、老中阿部正弘の失敗を次のとおり解析する。
その一。オランダ商館から事前にアメリカ艦隊の来航などの情報がもたらされていたにもかかわらず、対応を怠ったこと。
その二。一に関連して、軍備増強に関わる予算を確保しなかったこと。
その三。外様大名や陪臣、市井の者にまで意見を求めたこと。
三つ目の失敗、広く意見を聞いたということは、今の民主主義の世から見れば「良いこと」のように思えるが、このことで①意見を求められた大名らに戸惑いと不安をもたらした。②幕府に多様な意見を活用できるだけの人材やシステムが存在していなかった。③武士階級はもとより意識の高い一般人にまで、藩を越えて日本という国全体の将来を考えるきっかけを与えた。④幕府内保守派に猛反発を生じた。
このことが結果的に幕府崩壊の端緒となったというである。もちろん、これは結果を知っているから言えることであって、広く意見を求めた結果、皆が満足する方向に政策を持っていければ、効果は絶大であったに違いない。
「与党外交は、現実に政権を担当している者が行っているから、現実を無視した外交は行えない。」
「政権を担っていないからこと理想論がいえるし、あるいは過激なことが言える。」
など、現実の政治を見て来た筆者だからこそ言える発言である。それが証拠に、攘夷一辺倒だった長州藩も、維新後政権を担うと、攘夷を忘れて当たり前のように開国に転じたのである。
第四章では、西郷と久光を論じる。筆者は「頑迷さを持っていながら、現実に政治を動かすために優先順位をつけることのできるリアリスト」「藩内での改革、あるいは上京して国政改革を行うために藩内に出兵反対があっても断行した久光の決断力」と久光に対して一定の評価を与えている。しかし、岸信介を引き合いに出しながら、久光には「親しみと威厳」が欠如していたと指摘する。
この本に書かれていることは、いちいち納得ゆくものであるが、それでもやはり「ここでカーブを投げてはいけません」式の評論のような気がしてならない。改めてその場に立って判断をすることの難しさを痛感した。

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四日市

2015年10月23日 | 三重県
(光明寺)


光明寺

 光明寺は近鉄霞ヶ浦駅から歩いて十分足らず。鳥羽伏見から帰還した田中新右衛門ら桑名藩兵十三名が幽閉された寺院である。このとき光明寺の隣の空き地には、獄門台が用意されたため、一同は斬首を覚悟したという。守衛の鳥取藩士に確認したところ、桑名で捕縛された偽勅使を処分するためのものであることが分かり、一同は一安心であった。その後、彼らの身柄は鳥取藩から尾張藩に引き渡され、慶応四年(1868)二月には桑名城下の浄土寺に入り、翌三月には捕縛も解かれ両刀も返還された。
 帰還兵の一人である瀧澤平右衛門という者が、斬首刑を恐れて脱走を図った。東海道府の記録によれば、瀧澤は焼身自殺したことになっている。実は、鳥取藩では瀧澤を捕えられず、代わりに犬の死骸を焼いて、その臓腑を瀧澤のものとして晒したとされる。(「「朝敵」から見た戊辰戦争」 水谷憲二著 洋泉社)。

(法泉寺)


法泉寺

 近鉄川原町駅から徒歩五~六分ほどで法泉寺に至る。桑名藩の嫡子松平万之助(当時十二歳。定敬の義弟)と重臣二人(三輪権右衛門、吉村又右衛門)が幽閉された寺院である。このとき伊勢亀山藩が守衛に当たった。万之助らの謹慎は、同年閏四月まで続いた。閏四月二十九日に帰国が許され、桑名本統寺に移ることになった。同時に謹慎していた桑名藩士の大半も寺院を出て、自宅での謹慎に切り替えられた。

(建福寺)


建福寺

 水戸浪士綿引富蔵が偽官軍として処刑され、最初に埋葬されたのが建福寺である。綿引富蔵の死体は、ひそかに建福寺墓地にはこばれ、小さいながら石碑を建て供養を怠らなかったと伝えられる。現在、建福寺には、綿引富蔵のもののみならず、一切の墓石は見当たらず、全て泊山霊園に集約されたものと思われる。
 境内には、安政元年(1854)の震災の被災者の慰霊塔が建立されている。


安政元年震災惨死者之碑

(信光寺)
 桑名城攻略の命令を受けた東海道鎮撫総督府は、慶応四年(1868)一月二十二日に四日市に到達し、本営を置いた。総督府が本営を置いたのが信光寺であったという。同年一月二十三日、重臣に付き添われた松平万之助は、上方からの帰還兵十三名とともに総督府本営に入った。これを迎えたのは、総督府の橋本実梁、柳原前光、参謀海江田信義であった。


信光寺

(泊山霊園)
 近鉄四日市市駅から四日市あすなろう鉄道というローカル線に乗り換える。あすなろう鉄道は、単線で路線バスのような作りの車両であるが、沿線の市民の足として機能しているようで、往きも帰りもほぼ満席であった。一時間に二本程度しか走っていないので、利用する場合は時刻表を予め調べておくことをお勧めする。
 泊という駅で降りて、西に向かって二十分ほどひらすら歩く。泊山バス停を左折すると、広大な泊山霊園が眼前に開ける。


四日市あすなろう鉄道

 名古屋市内の寺院の墓地が平和霊園に集約されたのと同様に、四日市市内の寺院の墓地はここに集められたのであろう。平和霊園ほどの規模ではないが、ここも、とてつもなく広い霊園である。当てもなく水戸浪士の墓を探すのは、最初から眩暈を催すほどの難作業であった。半時間ほど歩き回って、ようやく出会うことができた。


水戸藩士綿引富蔵墓(左)
水戸藩士小室左門墓


 参考までに記録しておくと、水戸浪士の墓は、信光寺墓地の中ほど大きな木の麓にある。信光墓地がどの辺りにあるか正確に記述するのは難しいが、霊園の一番奥の第二駐車場の手前になる。
 綿引富蔵、小室左門両名とも赤報隊士である。以下、長谷川伸「相楽総三とその同志」による。
 赤報隊の最初の犠牲者は、次の八人とされる。
 山本太宰(曼珠院宮家人)
 綿引富蔵徳隣
 小林雪遊斎(安藤岩見介)
 赤木小太郎(赤城小平太とも)
 川喜多真彦(川北真一郎 号は櫪園。国学者)
 佐々木可竹
 玉川熊彦
 小笠原大和

 彼らは滋野井公寿と綾小路俊実を擁して近江から伊勢に入り、慶応四年(1868)一月二十八日には桑名城下の晴雲寺に宿泊した。既に「赤報隊は偽官軍」との一報を受けていた亀山藩では晴雲寺を包囲し、滋野井侍従以下十数名を生け捕り四日市に引き立てた。このとき激しく抵抗したのは赤木小太郎のみであったという。八人のうち、川喜多真彦、赤木小太郎、綿引富蔵の三名は、三滝川(御嶽川)河原で首を刎ねられた。その他は晴雲寺を逃げ出したところを、近所界隈の者が棒や竹槍で追い回してなぶり殺した。
 泊山霊園にある墓の主、水戸藩士小室左門が、この八人の誰かのことか、或はこの八人とは別人かも不明である。

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熊谷 Ⅴ

2015年10月23日 | 埼玉県
(熊谷宿)


本陣跡

 熊谷宿は中山道の江戸から数えて八番目の宿場町である。熊谷宿は、二つの本陣を有していたが、そのうちの一つ、竹井本陣がこの場所にあったが、明治期の火災と第二次大戦の空襲によりほとんど焼失してしまった。
 文久元年(1861)十一月十二日、皇女和宮も熊谷宿に宿泊している。

(八木橋百貨店)


旧中山道跡

 八木橋百貨店の東西の入口に、それぞれ旧中山道の石碑がある。つまりデパートの中を旧中山道が通じているということかな?

(星渓園)
 八木橋百貨店から上熊谷駅に向かう途中に、星渓園(せいけいえん)という庭園がある。本陣竹井家の別邸跡である。十四代当主竹井澹如(たんじょ)は、中央政界の大隈重信、板垣退助、陸奥宗光らとも親交があった人物である。澹如は慶応年間にこの地に別邸を築き、池亭や回遊式庭園を設けた。明治に入って、昭憲皇太后、大隈重信、徳富蘇峰らがここを訪れている。


星渓園

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川越 Ⅲ

2015年10月23日 | 埼玉県
(川越城跡)


川越城本丸御殿(武徳殿)

 五年振りに川越城本丸御殿を訪問した。前回は補修工事中で拝観を断念せざるを得なかった。
 川越城は、扇谷上杉氏の命により、長禄元年(1457)、太田道真、道灌父子により築城された城である。その後、後北条氏により攻め落とされ、後北条氏の北武蔵における拠点となった。天正十八年(1590)、豊臣秀吉の関東攻略に際し、前田利家らに攻められて降伏した。徳川家康が江戸城に入ると、以後、江戸に近い川越城には有力な大名が配置されるようになった。寛永十六年(1639)、松平信綱が川越城の拡張整備を行った。往時は総面積九万九千坪余りの巨大な城郭を誇った。


江戸湾警備について相談する家臣

 家老詰所では、江戸湾警備について相談する家臣の様子が再現されている。川越藩では相模の三浦半島沿岸に領地を持っていたため、幕府は沿岸の警備を命じた。これを受けて、川越藩では天保十四年(1843)九月から嘉永六年(1853)十二月まで大津陣屋を拠点として警備に当たった。ペリー来航後、川越藩は新たに築造された品川台場(第一・二・五台場)へ警備変更を命じられた。


川越城本丸門跡

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新富町 Ⅲ

2015年10月23日 | 東京都
(蛇の目鮨本店)


蛇の目鮨本店

 有名な勝海舟と西郷隆盛による江戸城無血開城の折、蛇の目鮨が寿司を届けたという逸話が伝わる(中央区新富1‐7‐9)。「江戸東京幕末維新グルメ」の著者三澤敏博氏は、このときの寿司は巻き寿司ではないかと推測している。

(割烹 躍金楼)


割烹 躍金楼

 蛇の目寿司から歩いて数分の場所に割烹躍金楼がある(中央区新富1‐10‐4)。明治の初め、この辺りには新島原遊郭と呼ばれる花街があった。しかし、なかなか客足は伸びず、明治四年(1871)には閉鎖されてしまった。その後、芝居小屋新富座が開かれ、付近は再び活気を取り戻した。躍金楼は、その当時から営業を続ける老舗(創業は明治六年)で、命名はこの店を贔屓にしていた山岡鉄舟という。

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月島

2015年10月17日 | 東京都
(石川島公園)


日本初の民営洋式造船所発祥の地

 地下鉄月島駅を地上に出て、相生橋方面に向かう。相生橋のたもとから中央橋に至る隅田川沿いに公園になっており、その一角に「日本初の民営洋式造船所発祥の地」と書かれたモニュメントが置かれている。この辺りは石川島造船所(現・株式会社IHI)があった場所で、洋式帆走軍艦「旭日丸」や日本人によって設計・建造された最初の蒸気軍艦「千代田形」等多数の洋式軍艦が次々を建造された由緒ある場所である(中央区佃2‐2)。モニュメントには軍艦千代田形の写真が掲載されている。
 維新後の明治九年(1876)、平野富二によって我が国初の民営洋式造船所として再スタートし、明治二十二年(1889)には渋沢栄一らの後押しもあって会社組織となって、有限会社石川島造船所、株式会社東京石川島造船所の名のもとに多くの軍艦・商船を世に送り出した。昭和十四年(1939)、この地における造船事業は、東京深川区豊洲への移転により幕を閉じた。その後もこの地では重機械類の製造が続けられたが、昭和五十四年(1979)の移転によりその歴史を終えた。
 本当をいうと、この後石川島資料館を見て行こうと考えていたのだが、日曜日と水曜日は休館日であった。休館日は事前に調べておきましょう。

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亀戸 Ⅳ

2015年10月17日 | 東京都
(船橋屋)
 暑い日であった。午前中、野球の練習で汗を流した後、亀戸天神近くの船橋屋(江東区亀戸3‐2‐14)に向かった。船橋屋は元祖くず餅が売りの甘味処である。暑い夏の日にはぴったりの店である。
 店まで行ってみると、店の前には行列ができており、これを見ただけですっかりくず餅への意欲は失せてしまった。幸い錦糸町の駅で船橋屋が店を出していたので、そこで白玉あんみつを購入できた。


白玉あんみつ


船橋屋

 船橋屋は文化二年(1805)の創業。西郷隆盛も船橋屋のくず餅を好み、足を運んだという。

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銀座 Ⅲ

2015年10月17日 | 東京都
(銀座八丁目)
 明治時代、日本には丸の内と銀座の二か所しか煉瓦街がなかった。明治五年(1872)から十年(1877)にかけて、当時の国家予算の四%弱を費やし、銀座に煉瓦街が築かれた。この石碑に使われている煉瓦は、銀座八丁目で発掘されたものである(中央区銀座8‐7‐11)。


煉瓦遺構の碑

(東京銀座平野園)
 この日も三澤敏博著「江戸東京幕末維新グルメ」を片手に、銀座を歩いた。少し見ぬまに銀座は中国人観光客だらけの街になってしまった。次々と大型観光バスが横付けされ、吐き出されるように中国人が銀座の街に繰り出す。彼らはそろって大きなスーツケースを転がして、銀座でも今や中国人の代名詞となった“爆買い”を平然とやってのける。何だか中国人に銀座を乗っ取られたようで、決して気持ちの良い光景ではない。
 この一か月で二回も上海に出張することになったが、最初の中国出張時には一元が13円~14円程度だった為替が、今や20円を超えている。非常に割高な感じを受けるが、今、日本を訪れている中国人は、その反対の割安感を謳歌しているのに違いない。


東京銀座 平野園

 平野園(中央区銀座7‐15‐11)の創業は明治十六年(1883)。銀座最古の茶屋である。明治四十五年(1912)の夏、明治天皇の病状が悪化すると、アイスクリームが献上されたという。そのとき平野園は抹茶のアイスクリームを用意した。今でも平野園では、皇室に献上された「御園の白」と名付けられた濃茶や、抹茶アイスクリームを楽しむことができる。ただし、予約が必要。

(資生堂パーラー)


資生堂パーラー

 資生堂といえば、化粧品のイメージが強いが、その起源は西洋の医薬品を取り扱う調剤薬局であった。創業者は福原有信。福原は嘉永元年(1848)、漢学者の家に生まれ、漢方医の祖父・有斎の影響を受けて、若い頃から薬剤に関心を示した。慶応元年(1865)、幕府医学所頭取の松本良順に認められて、医学所に出仕。明治二年(1869)、再び東京に出た福原は医学所を引き継いだ大学東校に学び、その二年後には海軍病院薬局長に任命された。さらにその翌年、矢野義徹、前田清則とともに西洋薬舗会社「三精社」を設立し、続いて銀座に民間薬局を開業した。これが資生堂の前身である。明治三十五年(1902)には、福原は資生堂薬局内にソーダファウンテンを開設。日本初のソーダ水のほか、アイスクリームなどが提供された。後には本格的フランス料理やデザートを提供する資生堂パーラー(中央区銀座8‐8‐3)へと発展していった。(以上、三澤敏博「江戸東京幕末維新グルメ」より)

(カフェ・パウリスタ)
 カフェ・パウリスタは土佐藩士水野龍が創業した老舗カフェである(中央区銀座8‐9)。


カフェ・パウリスタ

 水野龍は、九歳で戊辰戦争に参加後、維新後は教師となったが、同郷の板垣退助らが中心となった自由民権運動に参加し、後藤象二郎を頼って上京を果たした。明治三十八年(1905)、ブラジル移民政策に同調し、この実現に尽力した。この功績により、ブラジル政府から年間一千俵の珈琲豆の無償供与と東洋での宣伝販売権が与えられ、日本におけるブラジル珈琲の普及事業を委託されることになった。しかし、珈琲の輸入がなかなか認められず、開業まで時間を要したが、明治四十四年(1911)に至って、ようやくカフェ・パウリスタが開業されたのである。

(竹葉亭)


竹葉亭

 竹葉亭(中央区銀座8‐14‐7)は、かつて京橋の浅蜊河岸にあり、桃井春蔵の士学館の刀預かり所として創業された留守居茶屋であった。恐らく当時は、中岡慎太郎や武市瑞山ら、土佐勤王党の連中が出入したことであろう。しかし、竹葉亭は早々に刀預かり業から鰻屋に転じ、慶応二年(1866)には現在の屋号を定めている。維新後には山岡鉄舟も常連客の一人だったという。日曜日は定休日で評判の鰻を食べることはできなかったが、次回には是非試してみたい。

(空也)


空也

 「空也もなか」で有名な和菓子店空也は、明治十七年(1878)の創業。当時は上野池ノ端にあったが、昭和二十四年(1935)に銀座に移転してきた(中央区銀座6‐7‐19)。福地源一郎らとともに演劇改良運動に尽力した市川團十郎が、空也もなかの誕生に一役買っているという。
 人気の空也もなかは、毎日売り切れるほどで、予約を入れないと購入は困難。そう言われると、一度食べないわけにはいかない(後日、再度訪れたが、やはり正午前に売り切れていた)。

(狩野画塾跡)


狩野画塾跡

 銀座東五丁目交差点の東辺りが、狩野画塾跡である(中央区銀座5‐13‐11)。
 江戸幕府の奥絵師であった狩野四家は、いずれも狩野探幽、尚信、安信の三兄弟を祖とした。木挽町狩野家の祖、狩野尚信は寛永七年(1630)に江戸に召し出され、竹川町(現・銀座七丁目)に屋敷を拝領して奥絵師となった。のち、六代典信の時に、老中田沼意次の知遇を得て、木挽町の田沼邸の西南角にあたるこの地に移り、画塾を開いた。狩野奥絵師四家の中でもっとも繁栄したといわれる。
 この狩野画塾からは、明治の近代日本画壇に大きな貢献をした狩野芳崖や橋本雅邦らを輩出している。

(佐久間象山塾跡)


佐久間象山塾跡

 嘉永六年(1853)の古地図によれば、狩野勝川の画塾に向い合う場所に佐久間象山の名が見られる(中央区銀座6‐15)。
 象山は初め儒学を修め、天保十年(1839)、神田お玉が池付近に塾を開き、のちに海防の問題に専心して西洋砲術や蘭学を学び、嘉永四年(1851)この地に塾を開いた。象山は、兵学および砲術を教授し、海防方策の講義を行った。二十坪ほどの塾に、常時三十~四十人が学んでいたという。
 門下には、勝海舟、吉田松陰、橋本左内、河井継之助など多くの有能な人材が集まった。土佐の坂本龍馬も嘉永六年(1853)に最初の剣術修行に出て、その年の十二月一日に入門している。
 この塾には、諸藩から砲術稽古の門下生が集まったが、嘉永七年(1854)門人の一人吉田松陰がアメリカ密航に失敗した事件に連坐して、象山も国許での蟄居を命じられ、塾も閉鎖された。

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