史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

陸別

2015年12月04日 | 北海道
(オーロラタウン93りくべつ)
今回の北海道史跡旅行の最大の目的は、関寛斎終焉の地である陸別を訪問することにあった。
野球大会の翌日は、壮瞥、伊達、室蘭、白老、鵡川を走破し、日没を迎えて道東道をひたすら東に向った。この高速道路は街灯が少なく、自動車のヘッドライトだけが頼みという「暗い」道である。
陸別に到着したのは夜の八時半過ぎであった。この日は道の駅「オーロラタウン93りくべつ」の駐車場で夜を明かす。このためにわざわざ寝袋と携帯用の枕を東京から持参し、レンタカーも荷台の広いものを調達したのである。
結論からいうと、ほとんど一睡もできなかった。理由の第一は自動車の荷台は結構堅いことである。寝袋があるとはいえ、痛くて目が覚めてしまう。さらに陸別は日本一寒い場所として知られる。九月中旬でも朝は十度前後まで冷え込み、これも寝袋では凌ぎ切れない寒さであった。夜が明けて車外を見渡すと、朝靄がたちこめていた。


関寛斎資料館

 例によって、日没後に到着して、早朝行動を開始したため、道の駅に併設されている「関寛斎資料館」は拝観することはできなかった。


関寛斎翁像

 道の駅の前に公園があって、そこに関寛斎の像が置かれている。身をよじって苦悶しているようにも見えるし、老人がエネルギーを振り絞って前に進もうとしているようにも見える。不思議な像である。

 関寛斎像の傍らに、平成二十四年(2012)、寛斎の没後百年を記念して建てられた司馬遼太郎の石碑がある。司馬遼太郎先生の直筆が刻まれている。

――― 陸別は、すばらしい都邑(まち)と田園です。寛斎の志の存するところ、ひとびとが不退の心で拓いたところ、一木一草に、聖書的な伝説の滲みついたところです。
 森に、川に、畑に、それらのすべてが息づいています。
司馬遼太郎


司馬遼太郎文学碑

 関寛斎像の周りには、寛斎が生前詠んだ詩などが石に刻まれたものが建てられている。陸別の街には至るところに寛斎ゆかりの史跡が残されており、今も寛斎が陸別の人から敬愛を集めていることが伝わってくる。


花さく郷碑

 関寛斎は、文政十三年(1830)、上総東中(現・千葉県東金市)の農家に生まれた。養父は儒家の関俊輔(号は素壽)。このとき養父から受けた薫陶が、寛斎の人格形成に大きな影響を与えたといわれる。長じて佐倉順天堂に入り、佐藤泰然に蘭医学を学んだ。二十六歳の時、銚子で開業したが、豪商濱口梧陵の支援により長崎に遊学し、オランダ人医師ポンペに医学を学んだ。その後、徳島藩の典医となる。戊辰戦争では官軍の奥羽出張病院長として出征した。戦後、徳島に戻って、町医者として貴賤の別なく治療に当たり、「関大明神」と慕われた。明治三十五年(1902)、七十二歳のとき、突然陸別の開拓に乗り出し、広大な関牧場を開いた。大正元年(1912)、服毒自殺。


関寛斎詩碑

(正見寺)


正見寺


関寛翁之碑

 正見寺本殿前の関寛翁之碑の側面には、関寛斎の辞世が刻まれる。

 諸ともに 契りし事も半ばにて
 斗満の里に 消ゆるこの身は

(青龍山)


関神社跡

青龍山はユクエピラチャシと呼ばれるアイヌの遺蹟であるが、関寛斎の遺徳を偲んでここに関神社が開かれた。現在は神社跡しかないが、関寛翁碑や招魂碑、関寛斎入植百年碑などが点在している。
 関寛斎は、大正元年(1912)十月、八十二歳で服毒自殺する。寛斎は開拓した農地を小作人に解放する意思を持っていたが、家族に強く反対されたためといわれる。また、同じころ、長男の子(つまり孫)から財産分与の訴訟を受けたり、明治天皇の死などが重なり、心労と苦悩の末に自死を選んだものと考えられる。
それにしても凄まじき人生。東金の誕生の地から、佐倉、長崎、徳島と寛斎ゆかりの地を巡ってきたが、陸別の濃密さは格別であった。また、機会があれば訪れたいと思わせる土地である。


関寛翁碑


拓魂

 和人がこの地に入植したのは、寛斎の息又一が明治三十四年(1901)国有地三百万坪を借り受けたのが第一歩である。その翌年、寛斎が開拓への情熱をもってこの地に鍬を下した。開基六十年を記念して、この開拓記念碑が建立された。


関寛斎歌碑

 寛斎は多くの歌を残している。その中から斗満の未来を期待した自筆短歌を撰び、この詩碑を建立した。

 いざ立てよ 野は花さかり 今よりは
 実のむすぶべき 時は来にけり
八十二老白里

(関農場跡地)


関農場跡地


関寛翁 関あい姫 埋葬の地

 関農場跡を臨む小高い丘の中腹に、遺骨を埋葬されたと推定される土饅頭が見つかった。この地を関寛斎夫妻の埋葬の地として、平成十八年(2006)十月、関寛翁顕彰会により石造りのプレートが設置された。プレートには寛斎の辞世が刻まれている。

我が身をば 焼くな埋むな そのままに
 斗満の原乃草木肥せよ

 この小さな石造りのプレート以外、関寛斎の墓と呼べるものは存在していない。いかにも金銭や名誉に無頓着な寛斎らしい。

(斗満駅逓所跡)


斗満駅逓所跡

 明治三十五年(1902)六月、関寛斎の四男又一によって私設の斗満駅逓所が開設された。七十二歳の寛斎が北海道開拓を志し、斗満の地に足を踏み入れたのがこの年の八月のことで、駅逓所は寛斎の住まいにもなった。明治四十三年(1910)、網走線が開通した二日後、文豪徳富蘆花が妻とともに陸別を訪れている。蘆花はその著「みみずのたはごと」で、以下のとおり描写している。

――― 翁が今住んで居る家は、明治三十九年に出来た官設の駅逓で、四十坪程の質素な木造、立派ではないが建て離しの納屋、浴室、窖室(あなぐら)もあり、裏に鶏を飼い、水も掘井戸、山から引いたのと二通りもあって、贅沢もないが不自由もない住居だ。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「幕末テクノクラートの群像... | トップ | 阿寒 »

コメントを投稿

北海道」カテゴリの最新記事