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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

瑞浪 Ⅲ

2021年09月18日 | 岐阜県

(土岐町)

 土岐町の下街道沿いに明治天皇土岐小休所碑が建てられている。石碑の背後は雑草が生い茂り、廃屋が放置されている状態である。

 明治十三年(1880)六月二十九日、明治天皇がこの地にあった安藤茂兵衛宅で休憩したことを記念したものである。

 

明治天皇土岐御小休所

 

(釜戸町)

 

明治天皇釜戸行在所

 

 釜戸町の土岐川を臨む民家の前に明治天皇釜戸行在所碑が建てられている。明治十三年(1880)六月二十九日、明治天皇が小川兵蔵宅で昼食休憩したことを記念したものである。

 

土岐川

 

(琵琶峠)

 中山道は改修や荒廃により、江戸時代の現状を残すところが少なくなっている。瑞浪市内の釜戸町、大湫町、日吉町にまたがる約13キロメートルは、丘陵上の尾根を通っているため開発の手が届かず、往時の原形をとどめている。特に琵琶峠を中心とする約1キロメートルは、五百メートル以上にわたる石畳も確認されている。東側の上り口より琵琶峠を目指す。

 

中山道 琵琶峠東上り口

 

琵琶峠の石畳

 

 石畳は江戸時代の舗装道路である。未舗装道路は雨が降るとぬかるみ、わらじ履きの旅人を悩ませたことだろう。牛馬の通行にも大きな支障をきたした。石畳による舗装は、画期的な改善であった。

 とはいえ、前夜の雨で石の上は滑りやすく、現代人にとっては歩きにくい道である。およそ八分の徒歩で琵琶峠に行き着く。

 

中山道 琵琶峠

 

 琵琶峠には、烏丸光栄(公家・歌人)や太田南畝(狂歌師)、岡田文園(尾張藩士・国学者)らの文学碑が建てられている。小さな展望台が設けられているが、さほど見晴らしが良いとはいえない。

 

琵琶峠からの眺望

 

和宮歌碑

 

 和宮の歌碑である。

 

 住み馴れし都路出でて けふいくひ

 いそぐもつらさ 東路のたび

 

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土岐

2021年09月18日 | 岐阜県

(神明坂)

 

明治大帝駐蹕碑

 

 土岐市土岐津町土岐口神明坂に明治天皇の聖蹟碑がある。明治大帝駐蹕碑は、野村素介の書。野村素介は長州藩出身の政治家で、元老院議官などを歴任した。書家としても知られ、全国各地に書が残されている。

 

萬古不滅

 

聖徳無窮

 

 明治十三年(1880)六月二十九日、明治天皇が東山道を巡幸し、この地で鳳輦が三時間余りとどまったことを記念したものである。

 

(土岐口)

 

鈴木家

 

 土岐口の鈴木家には、中山道大湫宿本陣の一部が移築され、皇女和宮の宿泊した座敷が保存されている。一般公開されていないので、外観だけで撤収。

 

(慈徳院)

 

慈徳院

 

明治帝御供水

 

 明治十三年(1880)六月、明治天皇が下街道を通って京都に向かう際、高山の深萱邸にて慈徳院で汲み上げた聖水を用いてお茶を飲んだ。そのことを記念した御供水碑である。

 

(高山)

 

明治天皇高山御小休所

 

 高山は下街道十五里二日の行程の中間地点で、馬継場、宿場町として栄えた。下街道は、恵那槇ヶ根追分から名古屋城下を結ぶ、中山道の脇街道である。中山道よりも峠が少ないため、利便性が良く、善光寺参り、御岳参り、伊勢神宮参りの人々が往来し、信州、美濃、尾張から出荷される荷物が牛馬によって輸送された。

 明治天皇は、明治十三年(1880)、中山道を通って京都までの巡幸の際、六月二十九日の午後二時頃、深萱英次宅に到着した。天皇は建物奥の庭に面した十二畳の間に、皇族、太政大臣ほか供奉員らは隣接した四室に入って休息をとった。

 

(南宮神社)

 

南宮神社

 

明治天皇観陶聖蹟

 

 明治十三年(1880)六月二十九日、この地で明治天皇は陶芸の様子をご覧になった後、高山御小休所で休憩した。

 

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多治見

2021年09月18日 | 岐阜県

(永保寺)

 

永保寺本堂

 

 虎渓山永保寺は、鎌倉末期、夢想疎石らが、この地の深山幽谷に魅せられて庵を結んだのが始まりで、中国廬山の虎渓の風景にあやかり、虎渓山と名付けられた。暦応二年(1339)には北朝の光明天皇の勅願寺となり、室町時代には守護土岐氏の保護により、三〇余の僧坊が立ち並んで隆盛を極めた。しかし、戦国時代には再三の戦乱で荒廃し、現在まで塔頭として存続しているのは、保寿院、続芳院、徳林院の三つのみとなっている。

 和宮は上洛の途中、永保寺に滞在した。和宮は永保寺からわざわざ「一呑みの清水」(現・御嵩町)から清水を取り寄せ、点茶を楽しんだと伝えられる。

 

六角堂(霊擁殿)

 

 梵音巌上の六角堂には、千体地蔵が祀られている。滝の水は、虎渓山北西にある「しでこぶし」群生地付近の湧水を集めたものという。

 

無際橋と観音堂

 

 永保寺庭園は夢想疎石の初期の作庭。西から迫る長瀬山や、前を流れる土岐川の清流奇岩を借景としている。古来より「虎渓三十六景」と称され、多くの文人墨客に親しまれてきた。国宝に指定されている観音堂は、観音閣、水月場ともいわれる。正和三年(1314)の建立で、永保寺ではもっとも古い建物となっている。

 

(西浦庭園)

 

西浦庭園

明治天皇行在所蹟

 

 西浦庭園は、幕末から明治にかけて美濃焼や町の発展に貢献した西浦圓治の庭園で、かつて離れ座敷が建てられていた。この離れ座敷は、明治十三年(1880)六月、明治天皇下街道巡幸の際に行在所となった。この巡幸には、伏見宮、太政大臣三条実美をはじめとするお供があり、千人を超える大行列であった。その夜は、岐阜提灯を五〇張以上灯し、数千匹のホタルを放って天皇の旅情を慰めたという。明治天皇は「木曽路以来、初めて賑々しい景況である」と喜んだ。

 離れ座敷の建物は、表門とともに大正時代の初め頃、京都嵯峨の宝筐院へ移築され、今も書院として残されている。

 

明治天皇行在所旧蹟

 

 庭園内には、三基の聖蹟碑が建てられている。明治天皇行在所旧蹟碑は岸信介の書。

 

明治天皇行在所聖蹟

 

西浦庭園

 

明治天皇御駐輦地

 

 明治天皇駐輦地碑は元帥東郷平八郎の筆。

 

(御幸公園)

 

御幸公園

公園は犬の便所ではありません

 

 御幸公園は西浦庭園から少し離れた場所にある。この地には、西浦圓治(1806~1884)が、後年を過ごした別邸があり、西浦庭園と呼ばれた名園があった。

 西浦家は、江戸時代からの大きな陶器商で、西浦焼と呼ばれる陶磁器の生産に乗り出すなど、美濃焼の品質向上とその名を世に広めることに尽力した。

 西浦庭園は、江戸時代末期に作られたもので、滝を備えた池を中心に古樹が茂り、各所に奇岩が配されて、大変静かな趣があったといわれる。第二次大戦後、庭園は分割して売却され、今はわずかに石組みが往時を偲ばせるのみとなっている。

 御嵩町の愚渓寺に茶室が移築保存されているという。

 

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可児 Ⅱ

2021年09月11日 | 岐阜県

(土田宿本陣)

 

史跡 土田宿本陣址

 

史跡 土田宿本陣址

 

 土田(どた)宿は、中山道が整備される以前からの宿駅であった。慶長五年(1600)には徳川秀忠が関ヶ原合戦の際、ここに宿泊した記録が残る。また初代尾張藩主徳川義直も、本陣に宿泊し、この一館を「止善殿(しぜんでん)」と名付けた。しかし元禄七年(1694)、伏見宿が新設されると、中山道の宿場としての使命を終えている。

 

 

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下呂

2021年09月11日 | 岐阜県

(都築家)

 

都築家

 

 下呂市は下呂温泉で全国的な知名度を誇るが、実は上呂、中呂という場所もある。上呂に近い下呂市萩原町羽根に天正年間に建築されたという都築家住宅がある。

 奥座敷は明治元年(1868)の梅村騒動で梅村速水高山県知事が投宿したことでも知られる。

 

(はぎわら ふれあい通り)

 

ファンシーショップ「陣屋」

 

 ファンシーショップ「陣屋」店内には、梅村騒動で打ち壊しの群集が刀傷を付けた陣屋の柱が残っているという。例によって、私がこの場所を訪ねたのは、午前七時前だったため店内を見ることはできなかった。

 

(玉龍寺)

 

玉龍寺

 

 玉龍寺には、万延元年(1860)の遣米使節団に賄方として参加した加藤素毛(そもう)雅英の墓がある。八人の連名墓であるが、一番右に素毛の法名「霊芝庵鳳山素毛居士」が刻まれている。

 

霊芝庵鳳山素毛居士(加藤素毛の墓)

 

(下原小学校)

 現在、下原小学校のある場所に、天正年間に飛騨を平定した金森長近が中山七里の道路を改修した後、陣屋を建設した。長近は国内の各地に陣屋を築いたが、下原旅館は飛騨の玄関口として重要な役割を果たした。堀を巡らし、米蔵や武器蔵を備えた旅館の館主には山下市正氏政(道安)があたり、金森氏が京都、大阪、伏見などへの参勤の行き来の宿泊に使われていた。正門脇に下原旅館(陣屋)跡を示す標柱が建てられている。

 

下原小学校

 

下原旅館(陣屋)跡

 

 下原小学校には加藤素毛の句碑がある。素毛は早くから文雅の道に造詣が深く、ことに俳諧を好んだ。ほかにも和歌や絵画にも素養があった。

 

(加藤素毛記念館)

 

加藤素毛記念館(霊芝庵)

 

 加藤素毛の生家に記念館が開設されている。素毛の雅号に因んで霊芝庵と称されている。素毛は紫色角形の霊芝(サルスベリ科の万年茸)を珍蔵し、常に携帯していたという。

 霊芝庵は、朝十時の開館。普段は無人だが、電話をすれば開けてくれる。私がここを訪れたのは朝八時だったので拝観することはできなかったが、素毛の遺品を展示している。

 

 加藤素毛は、文政八年(1825)の生まれ。嘉永年間、高山に出て飛騨郡代小野朝右衛門の公用人となり、朝右衛門の長男鉄太郎(のちの山岡鉄舟)とも交わりを結んだ。俳諧を能くし、豪家の二男という恵まれた身の上の加え、終生妻を娶らなかった身軽さから、嘉永五年(1852)二月、郷里を立って筑紫巡りの旅に出て、安政元年(1854)正月帰郷した。筑紫旅行後、米国渡航の人選が決まる安政六年(1859)の行動は明らかではない。安政六年(1859)の日米修好通商条約の本書批准交換のために遣米使節の派遣が決まるや、素毛は外国方御用達伊勢屋平作の手代として使節の一行に加えられ、翌万延元年(1860)正月、米艦ポーハタン号に乗って品川沖を出帆して米国に渡航し、世界一周して九月帰朝した。帰国後は、各地で洋行談を試み、文久元年(1861)八月、高山から美濃の上有知を経て名古屋に至った。ここでの洋行談が水野正信(尾張藩重臣大道寺家の家臣)記した「二夜語」である。その後の行動は不明であるが、明治二年(1869)四月、実家の加藤家は高山県知事梅村速水に与するものと睨まれ、一揆暴徒の襲撃を受けた。明治五年(1872)の夏、伊勢の国学者佐々木弘綱が高山の富田礼彦の招きに応じて飛騨に来たとき、素毛はその講筵に列して深い感銘を受けたという。明治十二年(1879)、年五十五で没。

 

(下原八幡神社)

 加藤素毛は常に諸国を吟遊した。嘉永五年(1852)の関西九州一周の旅はことに有名である。素毛はこの大旅行を記念して、下原八幡神社に丸い懸額の絵馬を奉納した。

 また米国から帰朝後、持ち帰ったアメリカの国旗(星条旗)を八幡神社に奉納した。

 

下原八幡神社

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高山 Ⅱ

2021年09月11日 | 岐阜県

(飛騨護国神社)

 実に十五年振りの高山となった。前回は鉄道を使ったが、今回は自家用車での訪問となった。以前の職場に高山出身の女性がいて、彼女によれば家族で帰省する際にはいつも松本から国道158号線を使っていると聞いていたので、迷わずこのルートを採用した。松本市街地を出て二時間足らずで高山に到着した。

 高山では市内の観光駐車場で夜を明かした。その駐車場から近い場所に飛騨護国神社がある。夜明けとともに、十五年前に見落とした梅村速水遺愛碑を訪ねた。岩倉具視の篆額。

 

飛騨護国神社

 

梅村速水遺愛碑

 

(北ヶ洞墓地)

 左京町の北ヶ洞墓地は古い墓石が並ぶ墓地である。雑草が生い茂り、お世辞にも手入れが行き届いているとはいえない。そこに「無名氏之墓」と刻まれた小さな墓石がある。

 

無名氏之墓

 

 この墓は慶應四年(1868)閏四月、新町川原に薦に包まれた女児の遺体が捨てられていた。当時、飛騨は明治新政府の支配下になっており、梅村速水が県知事として着任していた。速水は悲惨な死者が出るのは政治を与る自分の責任であるとして、葬式を行い子の墓を建てた。正面には「無名氏之墓」と彫り、他の三面には建碑の由来を記した碑文を刻み、「罪人 梅村速水」と結んでいる。

 梅村速水といえば性急な改革で人々の反感を買い、梅村騒動の原因となった人であるが、この碑は速水の別の一面を物語っている。

 

(飛騨国分寺)

 飛騨国分寺の歴史は、奈良時代まで遡る。さすがに奈良時代の建物は残っていないが、境内には七重塔の心礎や、金堂の礎石などが残っている。ほかには元文四年(1739)建造の表門や推定樹齢千二百年という大イチョウなど、歴史を感じることができる。

 

飛騨国分寺

 

大イチョウ

 

白真弓肥太右衛門之墓

 

 白真弓肥太右衛門(しらまゆみひだえもん)は、飛騨国白川郷木谷の出身の幕末の力士である。二十五歳のとき、江戸相模の浦風部屋に入門した。嘉永七年(1854)、アメリカのペリー提督が二度目に横浜に来航した折に、力士たちが薪水米穀の供給運搬奉仕をしたが、白真弓は背に米四俵、胸に二俵、両手に一俵づつ、合計八俵を運び、アメリカ人を驚かせた。身長は六尺八寸六分(二〇八センチ)、体重は四十貫五百匁(一五二キロ)の堂々とした体格で、また怪力の持ち主だったといわれる。最高は西前頭筆頭。引退後は浦風部屋を継いだ。明治元年(1868)十一月、没。享年四十一。

 

押上家先祖代々之霊位(押上美喬墓)

 

 押上美喬(おしあげよしたか)は、文化十三年(1816)、飛騨高山に生まれた。明治元年(1868)正月、三郡村々の名主と協議して新見内膳逃亡後の混乱をよく防いだ。民情の嫌う郡上藩の飛騨国取締を拝し、鎮撫使竹沢寛三郎による天朝支配を請願して許された。間もなく竹沢に代わって梅村速水が高山県知事として入国し、翌二年(1869)、梅村知事の施政に反対する農民一揆が起きると、その鎮静に努める一方、京へ代表を派遣して梅村拝訴を具申し、新たに宮原積知事を迎えることに成功した。明治二年(1869)六月、年五十四で没。

 

(上岡本町)

 

節斎富田禮彦之墓

 

 富田礼彦(いやひこ)は文化八年(1811)の生まれ。天保十三年(1842)、高山代官所地役人頭取となり、時の郡代に奨めて備荒の穀倉を建て、安政五年(1858)の大地震には多くの窮民を救った。国学を田中大秀に、漢学を赤田章斎に学び、敬神尊王の志厚く、明治元年(1868)には高山建判事に任命された。翌年梅村騒動の責を負い、乱民の助命を願って割腹したが一命をとりとめた。門人も多く、飛騨郡代小野朝右衛門高福の五男、のちの山岡鉄舟も門下で学んだ。明治十年(1877)、年六十七で没。墓標は長三洲の筆。

 

(江名子)

 

田中大秀之奥城

 

 田中大秀(おおひで)は、安永六年(1777)の生まれ。兄の夭折によって家業薬種商を継ぎ、享和元年(1801)、京都に学んでいたとき大秀と改めた。寛政九年(1797)、熱田の社司栗田知周の門に入り歌道を学んだ。のち伴高蹊に師事し、本居大平を伊勢松阪に訪ね、さらに上洛して本居宣長の門に入り、親しくその教えを受け、宣長学風の真諦を会得し、彼の学風を樹立した。宣長没後は大平と親交し、松坂に三か月在留して宣長の遺著の筆写に従事した。文化十四年(1817)、隠居して荏名神社の神官となり、専ら国学の研究に従事した。多くの著書があり、敬神尊王の精神を鼓吹し、幕末飛騨国の精神的支柱として多くの子弟を育成した。彼の文庫を荏野文庫と称する。高山郷土館に保存されている。弘化四年(1847)、年七十一にて没。

 

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海津 Ⅱ

2020年09月19日 | 岐阜県

(治水神社)

 

治水神社

 

治水神社社名碑

 

 油島の治水神社は、平田靱負を祭神として昭和十三年(1938)に創建された神社である。門前の社名碑は、東郷平八郎の筆によるもの。

 

薩摩義士之像

 

内藤十左衛門顕彰碑

 

 境内には、内藤十左衛門の顕彰碑がある。宝暦治水工事の際、亡くなったのは薩摩藩士だけではない。薩摩藩の犠牲者八十四人に対し、それ以外の犠牲者は四人である。うち自害切腹が二人、病死一人、人柱一人となっている。

 内藤十左衛門は旗本で、水行奉行高木新兵衛の家来であった。宝暦四年(1754)春の工事において薩摩方でも二名の自害切腹者が出ており、わずかにその八日後に十左衛門も自刃している。工事の進捗に問題があり、それを江戸から来た役人に注意された。このことで主人高木新兵衛の立場が悪くなることを恐れて自ら責任をとったものと推定されている。薩摩藩の二名も同じような事情で自刃したのであろう。

 

(今尾神社)

 

今尾神社

 

吉田松陰先生参拝碑

 

 今尾神社の鳥居の側に吉田松陰がこの地を訪れたことを記念する石碑がある。

 松陰がこの地を訪れたのは、嘉永六年(1853)五月、伊勢参宮を終えて、桑名の同志とともに夜船で揖斐川を遡り、牧田川と大榑川の合流する当神社下に上陸した。船中夜を徹して豪談酒盃を交わし、「朝来起って蓬窓を掲げて見れば、觀は故まらん。青山三五の巓」と詠じて「陸路大垣より中山道を経て江戸に赴く」と記されている。

 

 全国の吉田松陰関係の史跡を網羅している「松陰の歩いた道」(海原徹著 ミネルヴァ書房)は、感心するほど津々浦々の松陰の歩いた道を紹介した本であるが、何故だか今尾神社は掲載されていない。

 

(今尾小学校)

 今尾小学校のある場所は、文明年間(1469~1487)以降、今尾城があった。元和五年(1619)、尾張藩付家老竹腰山城守正信の居城となり明治維新まで続いた。竹腰氏は、犬山城主成瀬氏と並ぶ尾張藩の重臣で、所領は美濃・尾張に合計三万石を与えられていた。江戸と尾張を行き来して代々の尾張藩主を補佐した。慶應四年(1868)、尾張藩の成瀬氏、水戸の中山氏、紀伊の安藤氏、水野氏とともに立藩を許されたが、三年足らずで廃藩を迎え、当地の敷地と建物の一部は今尾小学校に払い下げられた。

 

今尾小学校

 

史蹟 今尾城阯

 

(西願寺)

 

西願寺山門

 

 西願寺の山門は、今尾城の城門の一つが移されたものである。今尾城には天守閣はなく、周囲を堀や藪で囲み、その建物が堀から浮かび上がるように建っていた。御城屋敷、書院屋敷および役屋敷の三構えに別れ、内郭には濡門と外郭には辰巳門と呼ばれる門があり、藩士といえどもこの門を通るにはそれぞれ厳しい掟があった。維新後、城郭が解体され、今尾城も一般に売り出されたが、明治七年(1874)、西願寺が譲り受け、寺の山門として移築した。

 

(常栄寺)

 常栄寺は、今尾城主竹腰氏の菩提寺で、竹腰氏の墓地のほか、宝暦治水の薩摩義士の墓や、竹腰氏が関ヶ原の戦没者のために建てた慰霊塔などがある。

 

常栄寺

 

薩摩工事義没者墓

 

 常栄寺には宝暦治水工事で犠牲となった薩摩藩士黒田唯右衛門の墓がある。黒田唯右衛門は平田靱負の家人で、大巻役館において事務方手伝いをしていたと推定されている。宝暦四年(1754)七月七日、死亡。「宝暦治水」によれば、切腹とされている。この時期、同年九月から始まる工事に必要な資材(石材や丸太)を調達するための期間であったが、必要な量を予算内で調達することが困難であった。自害切腹の理由はそこにあるのではないかと推定されている。

 

華族 正五位竹腰正美公之墓

 

 幕末の今尾城主竹腰正美(正富)は、尾張藩内が佐幕と尊王に揺れた際、佐幕派を支持して一時失脚して、養子正旧に家督を譲った。慶應四年(1868)四月には新政府から蟄居を命じられた。明治二年(1869)、赦されたが、二度と藩政に参画することはなかった。明治十七年(1884)死去。

 

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養老

2020年09月19日 | 岐阜県

(天照寺)

 養老町は「宝暦治水 薩摩義士ゆかりの地」と銘打って売り出しているが、赤穂義士は知っていても薩摩義士となると全国的知名度は今一つである。養老町では、しばらく宝暦治水を巡る史跡を回ってみたい。

 

 濃尾平野は、木曽川、長良川、揖斐川という三大川が乱流していて、大雨のたびに河道を変え、自然の暴威になすすべもない状態であった。再三の請願に幕府も重い腰を上げ、宝暦三年(1753)十二月、薩摩藩に治水工事の手伝いを命じた。治水工事の規模は、江戸時代濃尾における治水普請中最大であったばかりでなく、三川の分流をも企てた画期的なものであった。

 この大工事を引き受けた薩摩藩は、宝暦四年(1754)、総奉行平田靱負以下の藩士を派遣した。工事は濃・尾・勢三国にわたり、九百四十七人という多数の藩士が慣れない治水事業に従事した。数次の出水で作業は思うように進まず、強い幕吏の督責から自刃する者が続出した。疫病に倒れた藩士も含め実に八十八人もの犠牲を伴った。

 多大な犠牲を強いられた薩摩藩であったが、その引き換えに土木工事に関する技術や知識のほか、工事の経験を通して市場経済に関する様々な仕組みやルールを習得することができた。四十万両という経済的負担を上回る大変大きな意義があった。その後の薩摩藩における近代化(市場経済の拡大、浸透)にはここで得た経験が大いに活かされたとされる。

 天照寺には、薩摩藩士八木良右衛門、山口清作、松下新七の三名が葬られている。この三人はいずれも自刃と伝えられている。(牛島正「宝暦治水」によれば、八木、山口、松下とも病死とされている)。

 本殿に隣接して薩摩義士資料館なるものが設けられているが、残念ながら私が訪問した時、シャッターが下ろされていた。

 

天照寺

 

薩摩義士の墓

 

(浄土三昧)

 この場所は、もとは火葬場で「浄土三昧」と呼ばれた。治水工事中に病死した二十四人の遺体を一つずつ甕に入れて埋めた場所である。大正二年(1913)に池辺村民の協力で、薩摩工事義没者の墓が建てられ、義士の霊を祀った。その後、昭和三十四年(1959)、集中豪雨と伊勢湾台風による二度の洪水があったため、昭和三十五年(1960)に発掘作業が行われ、この場所から七つの甕が発掘された。昭和四十六年(1971)に慰霊堂が建てられ、遺骨が納められた。なお、七体の遺骨は分骨して里帰りし、鹿児島市の大中禅寺に祀られている。現在、この慰霊堂には遺骨と聖観世音菩薩と義士二十四名の位牌が安置されている。二十四人の大半は、仲間・下人で、いずれも病死であった。病名は明らかではないが、酷暑に加えて特に農家に分宿した下人、仲間は非衛生的な居住環境、劣悪な食生活を強いられた。そのため赤痢が発生し、伝染したものと見られている。

 

薩摩工事義没者之墓

 

慰霊堂

 

(大巻薩摩工事役館跡)

 

史蹟 薩摩義士役館趾

 

 治水工事は着工から一年を経た宝暦五年(1755)三月に竣工し、同年五月の幕府検分の際にはその出来栄えに驚嘆したといわれる。総奉行を務めた平田靱負は、半周島津重年に工事の完成を報告した後、多数の犠牲者を出し、四十万両の大金を費消してしまった責任を一身に負って、同年五月二十五日の早朝、大巻の地にあった元小屋において割腹した。

 

平田靱負翁終焉地

 

 現在、大巻薩摩工事役館跡には巨大な平田靱負終焉地碑(東郷平八郎書)や平田靱負像、辞世碑などが建てられている。

 

平田靱負翁像

 

宝暦薩摩治水工事顕彰供養塔

 

平田靱負像

 

平田靱負辞世碑

 

平田翁辞世

住みなれし 里も今更 名残りにて

立ちぞわづらふ 美濃の大牧

 

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関ヶ原

2020年09月19日 | 岐阜県

(八幡神社)

 

郷社 八幡神社

 

関ヶ原本陣跡スダジイ

 

 文久元年(1861)十月二十五日、前夜柏原宿にて宿泊した和宮一行は、今須宿にて小休、関ヶ原宿にて昼食をとった。

 関ヶ原宿の本陣は、遺構らしきものは一切残っていないが、その場所にあったスダジイの木を今も八幡神社境内で見ることができる。

 

(関ヶ原宿脇本陣)

 

関ヶ原宿脇本陣跡

 

 本陣跡がほとんど何も残っていないのに比べて、脇本陣跡にはその面影を伝える門がそのまま残されている。

 

(今須宿)

 

中山道 今須宿

 

今須宿

 

 今須宿は中山道五十九番目の宿場であり、中山道美濃十六宿の最西端の宿場である。当時、難所として知られた今須峠は、今も冬になると交通の難所となるほどの急坂である。静かな佇まいの宿内には、問屋場や常夜灯などが見られる。

 

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岐阜 Ⅴ

2020年09月19日 | 岐阜県

(本願寺岐阜別院)

 

本願寺岐阜別院

 

 今年の夏は、直前まで帰省するつもりでいたのだが、一向にコロナ感染者が減る気配もなく、万が一高齢の両親にウイルスを移してもいけないので、帰省は諦めることにした。代わりに岐阜に一泊だけして岐阜から三重の史跡をレンタカーで巡ることにした。

 朝五時半にホテルをチェックアウトして目指したのは市内西野町の本願寺岐阜別院である。

 

明治天皇岐阜行在所

 

 山門の前には、明治十一年(1878)、明治天皇の東北北陸巡幸の際に行在所となったことを記念した石碑が建てられている。

 

(上加納山墓地)

 いったん岐阜駅まで引き返し、バスで移動する。金園町九丁目バス停で下車。そこから歩いて十分ほど北上すると、斎場が並ぶ一帯に至る。岐阜市斎苑の北側の金華山の山裾に上加納山墓地が広がる。

 かなり広い墓地で、ここを当てもなく歩いて、水野弥三郎の墓を探し当てるのはかなり困難である。墓地の地図くらい掲示されていれば良いのだが、それらしいものもない。因みに水野弥三郎の墓は、「弥八下」という名称の墓域内にあった。

 

釋専志信士(水野弥三郎の墓)

 

勇肝鉄心信士(殉死した生井幸治の墓)

 

 水野弥三郎は、岐阜矢島町に本拠を置く博徒で通称弥太郎ともいった。美濃から尾張一帯に勢力を張る博徒の巨魁であった。弥三郎は文化二年(1805)、医師の子に生まれたが、医業を嫌って一心流の鈴木長七郎に入門。めきめきと腕を上げたが、一方で実家からは破門された。博徒となって頭角を現し、関小左衛門、神戸政五郎と並んで美濃三人衆と称される大親分へと成長した。実家である水野家は文雅に富んだ家であった。京風の文化を好み、やがて尊王運動にも共感するようになったと言われ、新選組から離脱した伊東甲子太郎の一派と接点があったとされる。赤報隊が美濃を目指して進軍を始めると、それに呼応するように手下七十人を引き連れて竹中陣屋に乗り込んで接収にあたった。慶應四年(1868)一月十九日、赤報隊の先鋒二百が加納宿に入ったがその七割は弥三郎の手下であった。やがて相楽総三の一番隊が合流するが、その中には弥三郎と兄弟分である黒駒勝蔵もいた。加納宿はあたかも博徒に占領されたかの様相を呈した。博徒の狼藉に加え、勝手に年貢半減令を布告したことに業を煮やした東山道鎮撫総督府は、弥三郎を大垣の本陣に呼び出し、奸計をもって搦め捕った。絶望した弥三郎は、三日後に自ら首をくくって死を選んだ。墓石側面には「水野彌三郎源維光 終年六拾四歳」とある。墓の隣には殉死した子分生井幸治の墓が並べられている。

 

(切通陣屋跡之碑)

 旧中山道は岐阜駅の南を東西に走っている。旧中山道を東に一里進むと、切通陣屋跡がある。

 

切通陣屋跡之碑

 

 陸奥磐城平に移封となった安藤家が、享和三年(1803)に美濃国内で一万八千石余を加増され、美濃支配のために切通村に陣屋を設けた。平藩では、郡奉行二人、代官四人、与力五人、同心五人など二十二名を配置していた。文政八年(1825)には「長森騒動」と呼ばれる紛争も起きている。

 切通陣屋において、安藤家七代、六十七年に及ぶ支配が続いたが、明治に至り廃藩と同時に廃止され、笠松県に統合された。

 

(上宮寺)

 

上宮寺

 

新加納陣屋移築門

 

 前一色の上宮寺には新加納陣屋(現・各務原市)門が移築されている。

 

(EXEX GARDEN)

 

EXEX GARDEN

加納城二の丸移築門

 

EXEX GARDENという結婚式場に加納城の二の丸門と江戸時代後期に建てられたといわれる代官屋敷が移築されている。

 

コメント
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