史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「台湾を築いた明治の日本人」 渡辺利夫著 産経NF文庫

2023年04月22日 | 書評

台湾の人がほかに類を見ないくらい親日的であることは広く知られている。90年代(つまり今から三十年も前に)高雄市に駐在した経験のある私も、台湾の熱烈な親日を身をもって体験した一人である。

現代まで続く台湾人の親日熱の源流を遡ると、戦前の日本統治時代に行き着く。日清戦争に勝利した日本は、清から台湾の割譲を受け、以来五十年に渡って台湾を統治した。初代の台湾総督は樺山資紀(薩摩)。その後、長州の桂太郎、乃木希典、児玉源太郎と続く。歴代の台湾総督に当代一流の人物を送ったのは、台湾総督に絶大な権限が与えられているからにほかならない。台湾は本土の憲法やさまざまな法律の及ぶところではなく、帝国議会からも多分に独立した存在であった。当初「内地延長主義」と呼ばれるように本土と同様の制度を台湾にも適用すべきという議論もあったが、「六三法」(台湾に施行すべき法律)によって本土とは別の法域となった。つまり台湾は総督の発する律令と呼ばれる独自の法律が支配する地域だったのである。絶大な権限を有する台湾総督におかしな人物を充てるわけにはいかなかったであろう。

同時期、欧米列強は圧倒的武力を背景にアジア各地を植民地化した。彼らも、日本が台湾で行ったように、植民地に鉄道を敷設し、港湾を整備し、道路網を広げた。日本が台湾で行ったこともその延長線上にあるといってよい。しかし、本書を読めばわかるように「日本による台湾統治は、経済社会の文明化の観点からみて、欧米列強の支配下におかれていた往時のほかの植民地に比べて圧倒的な成功例」であった。「日本の台湾統治は列強の植民地支配のような搾取や収奪を目的としたものではない。日本の文明化のモデルの台湾への移植であり、これをもって帝国日本のありようを世界に顕示しようという精神に貫かれていた」という指摘は核心をついている。

私が今勤務しているベトナムも、かつては長くフランスの統治下にあった。今もハノイ市内を散策すれば、フランス統治時代に建設された建造物を見ることができる。ベトナムを縦断する鉄道も仏領インドシナ時代の遺産だし、我々の製品が船積みされて輸出されるハイフォン港もフランス統治時代に整備されたものである。ハノイ市内に目を向ければ、旧市街の端にハンダウ給水塔と呼ばれる上水道施設がある。これは1894年に造られたものである。当時のベトナムでは生活用水として井戸水、雨水、川や湖の水が利用されており、衛生状態が劣悪で、疫病が蔓延していた。1886年にはトンキン・アンナン理事長官ポール・ベルが赤痢によって亡くなった。これを受けて、在住フランス人の間で水道システムの整備を求める声が高まった。以後、この給水塔からハノイ城周辺やフランス政府関係者、軍関係者の居住地域、旧市街へ水を供給したのである。

つまりフランスが植民地に対して整備したのは、自分たちの生活・生命を守るためのインフラにとどまっていたのに対し、日本が台湾で手掛けたインフラは、本書で紹介されているように烏山頭(うさんとう)にダムを築き、貯水した水を十五万ヘクタールに及ぶ嘉南平原に流す。なお不足する貯水量を得るために烏山嶺に全長三千メートルを超える隧道を掘削。ダムから放たれた水が地球を半周するほどの総延長となる用水路に流され、荒涼たる平野が広大な緑の絨毯と変じるという壮大なものであった。この水利灌漑施設の整備を構想し、実現に向けて粉骨砕身の働きをみせたのが八田與一である。今でも烏山頭ダムの一隅に八田與一の銅像と八田夫妻の墓が建てられている。台湾の人々は八田與一を恩人として感謝し続けており、毎年八田の命日には墓前祭が開かれている。

しかし、言うまでもなく烏山頭ダムと嘉南平野の水利事業は八田一人の尽力によって実現したのではなく、特に資金面では日本政府の後押しなく実行できるものではなかった。当時の八田の直接の上司である山形要助(総督府土木局長)、民政長官下村宏、当時の総督明石元二郎らの許諾を受けた上で、初めて実現に向けて動き出せたのである。

当時の日本が台湾におけるこの大プロジェクトを決断した背景には、日露戦争を眼前に控え、内地の米不足が深刻化しており、明治二十三年(1890)には全国各地で米騒動と呼ばれる暴動が頻発している状況があった。日本国内の米生産だけでは一方的に増大する需要を賄うことは不可能であり、台湾からの米供給が不可欠の命題だったのである。即ち台湾における水利灌漑事業は国家的命題でもあった。決して日本が慈善事業として大プロジェクトを遂行したわけではない。そのことを良く注意して本書を読み進める必要があるだろう。

日本が台湾で推進したのは、内地種「蓬莱米」の育成であった。蓬莱米の開発や「緑の革命」と呼ばれる台湾農業の単収の飛躍的増加にも、磯永吉ら日本人技術者の血のにじむような物語があった。

本書でもっとも印象に残ったのは、第四代総督児玉源太郎のもとで辣腕をふるった後藤新平である。後藤はもともと医師であり、その経験を通じて「生物学の原理」を心奉していた。後藤によれば、ある地域で育った生物を他の地域に移植しようとしても、それは生物学的に無理があるという。台湾に古くから存在している慣行(旧慣)を考究して、それを尊重して旧慣に合った政策を採用することが後藤のとった方策であった。それまで台湾において土匪と呼ばれる抗日勢力がゲリラ活動を展開し、歴代総督はその掃討に手を焼いていたが、後藤は旧来より台湾にある自治機構をもって土匪招降策を推進した。ほかにも「生蕃」即ち高砂族対策を、「保甲」と呼ばれる自治的近隣組織を再編して進めたり、社会問題となっていた阿片常習者の撲滅にも漸進策をもって効果を上げた。

後藤新平の「生物学の原理」というのは「人間はその生理的円満をもって人生の目的とする存在」と定義する。人間は精神主義とか善悪正邪といった倫理で動いているのではなく、生理的円満のみを求めて人生を紡ぐ存在とみなすのである。これは今でも海外において仕事をする上でも通じる考え方ではないだろうか。

海外で仕事をしていると、「どうして(日本では当たり前に行われているのに)このような簡単なことができないのか」と苛だつことも多いし、有無を言わさず日本流・本社流を押し付けてしまいがちであるが、ここは一呼吸おいて「どうしてここではこのようにやられているのか」を観察し、多少時間がかかっても現地の人の考え方に沿ったやり方を導入することが肝要なのかもしれない。

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「徳川斉昭と水戸弘道館」 大石学編著 戎光祥出版

2023年04月22日 | 書評

本書の執筆者として名を連ねる大石学先生(東京学芸大学名誉教授)、鈴木瑛一先生(茨城大学名誉教授)、関口慶久氏(水戸市教育委員会歴史文化財課課長補佐)、小圷のり子氏(茨城県水戸土木事務所偕楽園公園課弘道館事務所主任研究員)は、水戸弘道館の震災からの復旧に尽力し、さらに日本遺産認定、そして世界遺産登録を目指して、情熱をもって取り組んでおられる方々である。

水戸弘道館が平成二十三年(2011)三月十一日の東日本大震災で甚大な被害を受けたことは本書にも記載されている通りである。この時、「壁が落ちて近づけない大変な状況」で「これでもう世界遺産はダメになってしまうのではないか」という有り様だったが、その後関係者の努力で往時の姿を取り戻したのも周知のとおりである。私も震災の前と後に弘道館を訪ねたが、今では震災による深刻な被害があったことに全く気付かないほど、完璧に修復されている。改めて我が国における文化財修復技術の高さを実感することができる。

水戸市が弘道館・偕楽園の世界遺産登録を目指して動き出したのは平成十九年(2007)のことであるが、その活動の結果、平成二十七年(2015)には、「近世日本の教育遺産群」として弘道館・偕楽園のある水戸市は、足利学校のある栃木県足利市、閑谷学校のある岡山県備前市、咸宜園のある大分県日田市とともに日本遺産に認定されている。世界遺産と比べると日本遺産の知名度は落ちるが、この時十八件が同時に登録を受けている(その数は令和三年(2021)末現在で一〇四件に達している)。世界遺産のように文化財の学術的価値はそれほど求められず、むしろ対象の遺産のもつ特徴が、観光面でPR力を持つかどうか(ストーリー性)が重視されるという。

水戸市は当初単独での世界遺産登録を目指したが、平成二十年(2008)に文化庁の審査に落選し、以降足利市、備前市、日田市との連携へと舵を切った。足利学校は日本最古の学校ともいわれ、その歴史は奈良時代まで遡るともいわれる。江戸時代には教育機関としての機能は失ったものの、我が国における学問の伝統を語るときに欠かせない存在である。閑谷学校は郷学という農村の子弟のための学校の一つで、我が国で一番古い、なおかつ代表的な郷学である。咸宜園は江戸時代後期を代表する私塾で、塾生四千人もしくは五千人を数え、当時の社会に絶大な影響を及ぼした。いずれも近世日本の教育を語るには欠かせない存在である。

足利学校、閑谷学校、咸宜園に加えて、藩校を選定することにも異論はないだろう。江戸末期には二百以上の藩校があったとされるが、その藩校を代表する存在として水戸の弘道館が適切なのだろうか。もっとも古いという観点では岡山藩藩学の方が歴史はあるし、会津の日新館や長州の明倫館など現在まで建造物が維持保存されている例は他にもある。(これは藩校とは違うが)幕府の開いた昌平黌も果たした役割の大きさからすれば無視できない。本書では弘道館の教育のユニークさやスケールの大きさを強調するが、ほかの藩校でも言い分はあるに違いない。

もう一つの難点は、弘道館の玄関にかかる松延年書「尊攘」の掛け軸である。本書に掲載されているシンポジウムで大石先生が述べられているように「はたして、尊王攘夷の思想・世界観は世界遺産にふさわしいか」という観点でみると、世界遺産登録への大きな障害と思われる。水戸発信の攘夷思想が昭和まで受け継がれ、我が国が戦争に突入する精神的思想的な役割を思うと、世界遺産登録には大きな壁になると言わざるを得ない。昔はここにこの掛け軸はなかったようだが、平成十年(1998)の大河ドラマ「徳川慶喜」の撮影時にここに掛けられ、今では「尊攘の間」と呼ばれるほど定着してしまっている。

本書では、斉昭の顕彰とともに彼が目指した「尊攘」は単なる外国を打ち払うということではなく、日本が世界の国々と対等に渡り合うことが究極の目的だったことを強調しているが、水戸の弘道館、水戸学、斉昭や藤田東湖の思想と聞いて、残念ながら我々が連想する「尊攘」は狭い意味での攘夷である。狂信的でヒステリックですらあり、国を滅ぼしてでも夷狄を討つという尊攘思想は、一般に連想される水戸学、徳川斉昭のイメージと抜き差しならいほど密接になっており、今や取り外したくても外せない状況になっている。鈴木先生はシンポジウムの中で「私は外して欲しいと思っていますが、現在の場所におさまってしまっていますから難しいようで困っています」と苦しい胸のうちを吐露している。本書の執筆者の皆さんは口々に「誤解」とされているが、実は同時代の人でさえ斉昭の思想を本書で解説されているような平等思想だと理解していた者は少数だった。長州藩をまるごと無謀な攘夷戦争に駆り立てた攘夷思想も水戸が発信源であったし、天狗党が実現を目指した攘夷も、狭い意味での攘夷、つまり外国人を追い払えという極めて原始的な攘夷思想であった。

本気で「近世日本の教育遺産群」の世界遺産登録を目指すのであれば、弘道館にとらわれずに明治維新の時点で全国に二百以上存在していた藩校全体を対象にして、その一つの例として弘道館を位置づけたらどうかと考える。遺産というからには今も文化財として存続していないといけないのだろうから、鶴岡の致道館とか、萩の明倫館などと一緒に申請するわけにいかないものだろうか。本書にも記載されているように、近世日本は世界有数の文字社会であり、人々の勉学熱に応えるために多くの学校が開かれた。黒船が来航し「徳川の平和」が終わりを告げようという時期、やはり教育が求められた。ほぼ全国全藩に渡って藩校が開かれ人材を育成していたことは、我が国において維新後近代教育への切り替えが比較的スムーズに進んだ大きな原動力となった。そのような歴史的背景も含めて藩校群の遺産としての価値は高いはずである。

本音をいえば個人的にはあまり世界遺産に関する興味関心はなく、どっちでも良いと思っている。むしろ、世界遺産に登録された途端に観光客が押し寄せ、それまでの静かな空気が損なわれることに嫌悪感を覚えている。関口氏の言にある「登録されたら成功、されなかったら失敗、というのではなくプロセスを大切にした登録推薦」という姿勢には賛成である。この活動を通じて、弘道館や斉昭や水戸の学問への理解が深まることを期待してやまない。

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