台湾の人がほかに類を見ないくらい親日的であることは広く知られている。90年代(つまり今から三十年も前に)高雄市に駐在した経験のある私も、台湾の熱烈な親日を身をもって体験した一人である。
現代まで続く台湾人の親日熱の源流を遡ると、戦前の日本統治時代に行き着く。日清戦争に勝利した日本は、清から台湾の割譲を受け、以来五十年に渡って台湾を統治した。初代の台湾総督は樺山資紀(薩摩)。その後、長州の桂太郎、乃木希典、児玉源太郎と続く。歴代の台湾総督に当代一流の人物を送ったのは、台湾総督に絶大な権限が与えられているからにほかならない。台湾は本土の憲法やさまざまな法律の及ぶところではなく、帝国議会からも多分に独立した存在であった。当初「内地延長主義」と呼ばれるように本土と同様の制度を台湾にも適用すべきという議論もあったが、「六三法」(台湾に施行すべき法律)によって本土とは別の法域となった。つまり台湾は総督の発する律令と呼ばれる独自の法律が支配する地域だったのである。絶大な権限を有する台湾総督におかしな人物を充てるわけにはいかなかったであろう。
同時期、欧米列強は圧倒的武力を背景にアジア各地を植民地化した。彼らも、日本が台湾で行ったように、植民地に鉄道を敷設し、港湾を整備し、道路網を広げた。日本が台湾で行ったこともその延長線上にあるといってよい。しかし、本書を読めばわかるように「日本による台湾統治は、経済社会の文明化の観点からみて、欧米列強の支配下におかれていた往時のほかの植民地に比べて圧倒的な成功例」であった。「日本の台湾統治は列強の植民地支配のような搾取や収奪を目的としたものではない。日本の文明化のモデルの台湾への移植であり、これをもって帝国日本のありようを世界に顕示しようという精神に貫かれていた」という指摘は核心をついている。
私が今勤務しているベトナムも、かつては長くフランスの統治下にあった。今もハノイ市内を散策すれば、フランス統治時代に建設された建造物を見ることができる。ベトナムを縦断する鉄道も仏領インドシナ時代の遺産だし、我々の製品が船積みされて輸出されるハイフォン港もフランス統治時代に整備されたものである。ハノイ市内に目を向ければ、旧市街の端にハンダウ給水塔と呼ばれる上水道施設がある。これは1894年に造られたものである。当時のベトナムでは生活用水として井戸水、雨水、川や湖の水が利用されており、衛生状態が劣悪で、疫病が蔓延していた。1886年にはトンキン・アンナン理事長官ポール・ベルが赤痢によって亡くなった。これを受けて、在住フランス人の間で水道システムの整備を求める声が高まった。以後、この給水塔からハノイ城周辺やフランス政府関係者、軍関係者の居住地域、旧市街へ水を供給したのである。
つまりフランスが植民地に対して整備したのは、自分たちの生活・生命を守るためのインフラにとどまっていたのに対し、日本が台湾で手掛けたインフラは、本書で紹介されているように烏山頭(うさんとう)にダムを築き、貯水した水を十五万ヘクタールに及ぶ嘉南平原に流す。なお不足する貯水量を得るために烏山嶺に全長三千メートルを超える隧道を掘削。ダムから放たれた水が地球を半周するほどの総延長となる用水路に流され、荒涼たる平野が広大な緑の絨毯と変じるという壮大なものであった。この水利灌漑施設の整備を構想し、実現に向けて粉骨砕身の働きをみせたのが八田與一である。今でも烏山頭ダムの一隅に八田與一の銅像と八田夫妻の墓が建てられている。台湾の人々は八田與一を恩人として感謝し続けており、毎年八田の命日には墓前祭が開かれている。
しかし、言うまでもなく烏山頭ダムと嘉南平野の水利事業は八田一人の尽力によって実現したのではなく、特に資金面では日本政府の後押しなく実行できるものではなかった。当時の八田の直接の上司である山形要助(総督府土木局長)、民政長官下村宏、当時の総督明石元二郎らの許諾を受けた上で、初めて実現に向けて動き出せたのである。
当時の日本が台湾におけるこの大プロジェクトを決断した背景には、日露戦争を眼前に控え、内地の米不足が深刻化しており、明治二十三年(1890)には全国各地で米騒動と呼ばれる暴動が頻発している状況があった。日本国内の米生産だけでは一方的に増大する需要を賄うことは不可能であり、台湾からの米供給が不可欠の命題だったのである。即ち台湾における水利灌漑事業は国家的命題でもあった。決して日本が慈善事業として大プロジェクトを遂行したわけではない。そのことを良く注意して本書を読み進める必要があるだろう。
日本が台湾で推進したのは、内地種「蓬莱米」の育成であった。蓬莱米の開発や「緑の革命」と呼ばれる台湾農業の単収の飛躍的増加にも、磯永吉ら日本人技術者の血のにじむような物語があった。
本書でもっとも印象に残ったのは、第四代総督児玉源太郎のもとで辣腕をふるった後藤新平である。後藤はもともと医師であり、その経験を通じて「生物学の原理」を心奉していた。後藤によれば、ある地域で育った生物を他の地域に移植しようとしても、それは生物学的に無理があるという。台湾に古くから存在している慣行(旧慣)を考究して、それを尊重して旧慣に合った政策を採用することが後藤のとった方策であった。それまで台湾において土匪と呼ばれる抗日勢力がゲリラ活動を展開し、歴代総督はその掃討に手を焼いていたが、後藤は旧来より台湾にある自治機構をもって土匪招降策を推進した。ほかにも「生蕃」即ち高砂族対策を、「保甲」と呼ばれる自治的近隣組織を再編して進めたり、社会問題となっていた阿片常習者の撲滅にも漸進策をもって効果を上げた。
後藤新平の「生物学の原理」というのは「人間はその生理的円満をもって人生の目的とする存在」と定義する。人間は精神主義とか善悪正邪といった倫理で動いているのではなく、生理的円満のみを求めて人生を紡ぐ存在とみなすのである。これは今でも海外において仕事をする上でも通じる考え方ではないだろうか。
海外で仕事をしていると、「どうして(日本では当たり前に行われているのに)このような簡単なことができないのか」と苛だつことも多いし、有無を言わさず日本流・本社流を押し付けてしまいがちであるが、ここは一呼吸おいて「どうしてここではこのようにやられているのか」を観察し、多少時間がかかっても現地の人の考え方に沿ったやり方を導入することが肝要なのかもしれない。