受験科目でいえば、英語と化学が苦手科目であった。特に化学がキライという後ろ向きの理由から金属メーカーに就職したのだが、気が付いたらサラリーマン人生の最後に流れ着いた先は、皮肉にも海外の化学プラントであった。海外勤務の経験がない人と比べれば、英語に対するアレルギーは小さい方だと思うが、それでもNative Speakerの流麗な英語を前にすると、意味が理解できるのは精々半分程度である。「英語教育史」を専門とする筆者は
――― 近年では文部科学省の「コミュニケーション重視」策によって、英語はおおまかな意味がわかればよいとする風潮が強いが、言語はそれほど甘くない。
――― 日常生活で英語を必要としない日本社会では、英語がしゃべれたらカッコいいという憧れで学び始めても、やがて血の滲むような努力なしには上達しないことを知り、大半が挫折する。
と、大半の日本人には耳の痛い指摘をする。
開国から百五十年以上が経過し、英語は日本人にとってかなり身近な存在となったが、それでも今でも外国語は高いハードルになっている。まだ英語を話せる通訳すらいない安政年間、日米和親条約交渉は想像以上に大変であった。このときは英語—オランダ語—日本語の二重通訳を介して交渉が行われたとされている。
日米和親条約が締結された後、日本語版と英語版に重大な食い違い(つまり「誤訳」)があることが発覚した。第十一条の領事の任命条件について、英語版では「二つの政府のどちらか一方が必要と認めた場合には領事を任命できる」とあるが、日本語版では「両国政府に於て拠(よんどころ)無き儀これ有り候模様により」とあり、両国が合意しない限り領事は駐在できない定めとなっていた。加えて、第十二条の英語版では批准は「十八カ月以内」となっているが、日本語版では「今より後一八カ月を過ぎ」と書かれている。
筆者は、これは単なる誤訳ではなく「開国」に見せかけて祖法である「鎖国」政策を継続するという「高度な外交戦術」だとしている。しかし、意図して英語版と日本語版を異なる条文にしたところで、その矛盾が露見するのは時間の問題である。もし意識的に日英の条文が異なる状況を作り出したとすれば、それは「高度な外交戦術」というより、領事の駐在を拒否できるように見せかけた「一時的な言い逃れ」でしかないのではないだろうか。
本書では英語教育者としての筆者の主張が随所にみられる。
――― 日本のアジア侵略と植民地化のイデオロギー的なルーツは万国公法にまでさかのぼるといえよう。白人へのコンプレックスも、アジアやアフリカの人々への上から目線も、起源はここにある。刷り込まれた思想を解毒するのは今なお容易ではない。
としている。
ここで筆者が引用しているのが、福沢諭吉の「脱亜論」である。「脱亜論」は明治十八年(1885)に「時事新報」に掲載された社説である。無署名の社説だったこともあり、これが福沢諭吉の筆によるものか諸説あるものであるが、少なくともここで「入欧」とセットで主張されたものではない。福沢がこの時「脱亜」を主張したのは、前年の十二月、朝鮮におけるクーデターが失敗に終わり、親清派による政権が樹立したことがある(甲申事変)。これに失望した福沢が、アジア(つまり清と朝鮮)に見切りをつけた宣言が「脱亜論」である。筆者が「アジア蔑視の「脱亜入欧」という考え方」の根拠として福沢の「脱亜論」を挙げていることにやや違和感がある。福沢諭吉はアジアを蔑視していないし、アジア侵略主義者でもない。
ほかにも本書では、日本が「英語一辺倒主義」になってしまった経緯であるとか、明治期の言文一致の背景には翻訳小説の流入があったといった解説があって、とても面白い読み物になっている。
なお、本書一七〇ページに「明治維新の舞台に立つ役者たちを語学と西洋体験によって分け」その第一グループ「英語を学び、かつ欧米留学・視察を体験した指導者」として、伊藤博文や井上馨、榎本武揚、金子堅太郎らと並んで、高杉晋作の名前があるが、これは間違いではないか。高杉晋作は長崎でフルベッキら欧米人と接触した記録があり、上海に密航した経験はあるものの、英語が使えたかどうかは甚だ心もとなく、また欧米留学、視察を体験していないことは明らかである。上海で欧米人に酷使される中国人の姿を見て尊攘活動に目覚め、革命の志士へと変貌したのは間違いないが、ここでいう四つの類型に当てはめるのは無理があるように思う。







