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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「英語と明治維新」 江利川春雄著 ちくま新書

2025年07月26日 | 書評

受験科目でいえば、英語と化学が苦手科目であった。特に化学がキライという後ろ向きの理由から金属メーカーに就職したのだが、気が付いたらサラリーマン人生の最後に流れ着いた先は、皮肉にも海外の化学プラントであった。海外勤務の経験がない人と比べれば、英語に対するアレルギーは小さい方だと思うが、それでもNative Speakerの流麗な英語を前にすると、意味が理解できるのは精々半分程度である。「英語教育史」を専門とする筆者は

――― 近年では文部科学省の「コミュニケーション重視」策によって、英語はおおまかな意味がわかればよいとする風潮が強いが、言語はそれほど甘くない。

――― 日常生活で英語を必要としない日本社会では、英語がしゃべれたらカッコいいという憧れで学び始めても、やがて血の滲むような努力なしには上達しないことを知り、大半が挫折する。

と、大半の日本人には耳の痛い指摘をする。

開国から百五十年以上が経過し、英語は日本人にとってかなり身近な存在となったが、それでも今でも外国語は高いハードルになっている。まだ英語を話せる通訳すらいない安政年間、日米和親条約交渉は想像以上に大変であった。このときは英語—オランダ語—日本語の二重通訳を介して交渉が行われたとされている。

日米和親条約が締結された後、日本語版と英語版に重大な食い違い(つまり「誤訳」)があることが発覚した。第十一条の領事の任命条件について、英語版では「二つの政府のどちらか一方が必要と認めた場合には領事を任命できる」とあるが、日本語版では「両国政府に於て拠(よんどころ)無き儀これ有り候模様により」とあり、両国が合意しない限り領事は駐在できない定めとなっていた。加えて、第十二条の英語版では批准は「十八カ月以内」となっているが、日本語版では「今より後一八カ月を過ぎ」と書かれている。

筆者は、これは単なる誤訳ではなく「開国」に見せかけて祖法である「鎖国」政策を継続するという「高度な外交戦術」だとしている。しかし、意図して英語版と日本語版を異なる条文にしたところで、その矛盾が露見するのは時間の問題である。もし意識的に日英の条文が異なる状況を作り出したとすれば、それは「高度な外交戦術」というより、領事の駐在を拒否できるように見せかけた「一時的な言い逃れ」でしかないのではないだろうか。

本書では英語教育者としての筆者の主張が随所にみられる。

――― 日本のアジア侵略と植民地化のイデオロギー的なルーツは万国公法にまでさかのぼるといえよう。白人へのコンプレックスも、アジアやアフリカの人々への上から目線も、起源はここにある。刷り込まれた思想を解毒するのは今なお容易ではない。

としている。

ここで筆者が引用しているのが、福沢諭吉の「脱亜論」である。「脱亜論」は明治十八年(1885)に「時事新報」に掲載された社説である。無署名の社説だったこともあり、これが福沢諭吉の筆によるものか諸説あるものであるが、少なくともここで「入欧」とセットで主張されたものではない。福沢がこの時「脱亜」を主張したのは、前年の十二月、朝鮮におけるクーデターが失敗に終わり、親清派による政権が樹立したことがある(甲申事変)。これに失望した福沢が、アジア(つまり清と朝鮮)に見切りをつけた宣言が「脱亜論」である。筆者が「アジア蔑視の「脱亜入欧」という考え方」の根拠として福沢の「脱亜論」を挙げていることにやや違和感がある。福沢諭吉はアジアを蔑視していないし、アジア侵略主義者でもない。

ほかにも本書では、日本が「英語一辺倒主義」になってしまった経緯であるとか、明治期の言文一致の背景には翻訳小説の流入があったといった解説があって、とても面白い読み物になっている。

なお、本書一七〇ページに「明治維新の舞台に立つ役者たちを語学と西洋体験によって分け」その第一グループ「英語を学び、かつ欧米留学・視察を体験した指導者」として、伊藤博文や井上馨、榎本武揚、金子堅太郎らと並んで、高杉晋作の名前があるが、これは間違いではないか。高杉晋作は長崎でフルベッキら欧米人と接触した記録があり、上海に密航した経験はあるものの、英語が使えたかどうかは甚だ心もとなく、また欧米留学、視察を体験していないことは明らかである。上海で欧米人に酷使される中国人の姿を見て尊攘活動に目覚め、革命の志士へと変貌したのは間違いないが、ここでいう四つの類型に当てはめるのは無理があるように思う。

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「山県有朋」 小林道彦著 中公新書

2025年06月28日 | 書評

山県有朋は、萩の足軽以下の身分(蔵元付中間)に生まれ、そこから脱皮を重ねて晩年には明治国家において圧倒的な政治権力をふるった。

若き日の山県は槍術で身をたてることを志し、二十三歳頃には宝蔵院流槍術の使い手としてその名を知られるようになった。

高杉晋作が奇兵隊を組織すると、その軍監に就任した。奇兵隊はアウトローの集団であり、しばしば藩の正規軍とトラブルを起こした。藩では奇兵隊を厄介者扱いしたが、山県は奇兵隊のもつエネルギーを巧みにコントロールし、そのエネルギーを戦場で爆発させ、武勲を政治的パワーに変換した。奇兵隊の統帥はいつしか山県が握り、長州藩の藩内抗争や対外戦争を繰り返すその混乱の中で、山県の存在感は急速に拡大した。山県が「権力」の存在を意識するようになったのは、ここでの経験が契機となったであろう。

維新後の山県の権力基盤は陸軍であった。維新後、間もなくヨーロッパに留学した山県は、帰国すると兵部少輔に就き、その後も短期間に兵部大輔、陸軍大輔、陸軍中将、近衛都督、陸軍卿と昇進を続けた。この時期、山県が重用された背景には、近代軍建設の必要性が高まる中、ヨーロッパで最新の知識を身に着けた「開化派」的人材が求められたことに加え、陸軍の実権を握っていた山県の存在を無視できなくなっていた。明治五年(1872)、所謂山城屋事件が突発した。本来であれば、このスキャンダルに関わっていた可能性が高い山県にとって政治生命にも関わる事件であったが、西郷隆盛は山県に代わって近衛都督に就任して、山県自身は陸軍大輔の職にとどまった。山県が失脚を免れたのは、徴兵制を導入しようとする明治政府にとって、彼の存在はもはや不可欠な存在になっていたことがあるだろう。

西南戦争が終結すると、日本の政治地図は大きく塗り替えられた。高知県士族は武力討伐を免れたことでその勢力を温存し、彼らのエネルギーは自由民権運動へと流れていった。長州では木戸孝允が病没し、大久保利通も1878年(明治十一年)五月に不平士族の凶刃に斃れた。こうして伊藤博文と山県、大隈重信が政治の第一線に立つことになった。

明治十四年の政変を経て大隈が政権を追われると、山県は参議兼参謀本部長さらに参事院議長を兼任した(その後、参謀本部長を解かれて参謀本部御用掛に就いている)。もはや山県は「一介の武弁」から「有司」へと変貌を遂げていた。彼は参事院議長として、さまざまな法令・規則の制定・審査や府県会の紛争裁定にも関与するようになっていた。

明治二十二年(1889)十二月、山県は首相(兼内相)に就任する。翌年には陸軍大将に昇進している、第一次山県内閣は約一年半で終焉を告げたが、その後も第二次伊藤内閣での司法大臣、枢密院議長などの地位を得て、着々と権力基盤を固めていった。明治三十一年(1898)には二度目の総理大臣に就くが、山県にとってこれも通過点に過ぎなかった。

依然として彼の権力基盤は軍にあったが、同時に「山県系官僚閥」と呼ばれる強力な権力装置を備えていた。本書によれば、山県系官僚閥の勢力は中央省庁にとどまらず、貴族院や枢密院、さらには司法機関にまで広がっていた。「藩閥勢力は山県中心に再編され、長州閥という地縁的集団は山県系官僚閥へと純化・成長を遂げていった」という。

山県の下に人材が集まったのは、彼の政治的な個性と権力ポジションによるところが大きい。彼は外国語が苦手だったこともあり、自分の周囲に洋行帰りのエリートを集め、彼らから最新の専門知識を吸収することに努めた。明治初期においては、西周や桂太郎が代表的なブレーンである。

山県の守備範囲が、軍事から地方自治や治安問題、さらには外交へと広がっていくにつれ、山県のブレーン集団も、徐々に厚みと広がりを増していった。平田東助や清浦圭吾をはじめとする法制官僚、青木周蔵ら外務官僚、大浦兼武のような警察官僚らがその典型例である。山県は聞き上手であり、彼らの意見によく耳を傾けた。時には自らの影響力を駆使して部下の貢献に見合うだけの地位と名誉を与えた。山県の判断基準には縁故主義とは無縁の、純然たる実力主義が存在していたため、出身藩に関わらず人材が集まった。評価された部下は感銘を受け、彼に近侍した人々の忠誠心を堅固なものにした。こうして山県閥が形成されたが、これは山県のライバルと目される伊藤博文にはない権力基盤であった。現代でこそ政党内における派閥というのは当たり前となっているが、山県閥はその走りといっても良いだろう。

山県系官僚閥の権力中枢は、三人の陸軍軍人、桂太郎、児玉源太郎、寺内正毅によって占められるようになった。彼らはおもに陸軍省を中心に軍事行政部門に勢力を伸ばし、その実績を背景に内務省や外務省、文部省などの大臣職に進出していった。三人のうち、急逝した児玉を除き、二人はのちに首相に就任している。

明治三十四年(1901)、第一次桂内閣が成立すると、「小山県内閣」などと揶揄されたが、実は桂太郎は次第に山県から距離を置くようになる。本書によれば、組閣人事にも山県から距離を置こうという桂太郎の意図がうかがえるという。気が付けば桂による権力簒奪の脅威にさらされることになっていた。

大正元年(1912)十二月、第三次桂内閣が成立すると、翌年桂は自らを党首とする新政党(のちの立憲同志会)の結成を明らかにした。政党嫌いの山県に対するあからさまな叛旗であり、両者の決別は明確になった。

しかし、第三次桂内閣は組閣後わずか二か月で総辞職に追い込まれてしまう。この時山県は桂の末路を評して「雪隠で首を括ったようなものだ」と冷評したと伝えられる。桂との確執はここに終止符を打つことになったが、山県の官僚閥に対する統制力は明らかに低下していた。大正期に入って山県の政治権力は明らかにピークを越えていた。明治天皇の篤い新任を得ていた山県であったが、大正天皇との関係は微妙であった。政党勢力の台頭も押し止めようがなかった。本来であれば、ここらが潮時だっただろうが、なおも山県は権力に固執した。大正十年(1921)、のちに宮中某重大事件と呼ばれる事件が起こる。裕仁親王(のちの昭和天皇)と久邇宮良子(ながこ)女王との婚約を辞退させようとした山県は、民間右翼や国粋主義団体から強い反発を招き、山県個人へのテロル(天誅)へと発展しかねない状況に陥った。山県の政治的没落は避けられなかった。

大正十一年(1922)二月一日、山県は静かに息を引き取った。従来、山県の国葬は参列者も少なく、寂しいものだったといわれてきたが、本書によれば、「それはやや整理されすぎた嫌いがある」という。日比谷公園沿いの街路には数万の群衆が押し寄せ、「海嘯(つなみ)のような混雑」が起きていたとの報道を紹介している。最後の元勲に対する大衆の感傷もあったのかもしれない。

本書を一読すれば、山県有朋がどうやって権力を手に入れ、それを駆使し、強化していったかが理解できる。山県のために惜しまれるのは、彼が最期まで権力にしがみつこうしたように見えることである。子飼いの部下であった桂太郎や寺内正毅からも疎まれ、離反を招いたのも山県自身に理由がないとはいえない。老兵は自ら引き際を知らなくてはならない、と強く思った次第。

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「明治の大獄」 長野浩典著 弦書房

2025年05月31日 | 書評

「花山院「偽官軍」事件」に続く長野浩典氏の著書。明治初年の明治政府による一連の攘夷派弾圧事件を解明し、奇兵隊脱退騒動から久留米藩難事件(大楽源太郎暗殺)に至る様々な事件――― 日田県騒動や二卿事件、廣澤参議暗殺、雲井事件、初岡事件等々 ―――を見事に線で繋いで見せた傑作である。

「あとがき」によれば一連の攘夷派弾圧事件に関する研究の進化が見られず、言わば黙殺されている状況のようである。本書では、山口藩の脱退騒動から、大楽源太郎らの脱徒を九州諸藩(主に二豊両筑)が匿い、それを明治政府が厳しく追及し、最後は久留米藩難事件に至る経緯を明らかにした。廣澤参議暗殺事件を契機に明治政府は、反政府攘夷派の検挙に本腰を入れ、その結果、――― ほぼ廣澤参議暗殺とは無関係な人物まで含めて ―――三百人を超える反政府分子が捕らえられ、その多くが斬罪や長期の禁固刑に処された。その規模は、安政の大獄を遥かに凌ぐ。廃藩置県という革命が、ほとんど抵抗らしいものがなく成し遂げられた背景に、薩長土の兵力を東京に集約し、その武力を背景に実行されたことが従来指摘されてきた。その前に「不良徒」を根こそぎ一網打尽にした「明治の大獄」による地ならしがあったという主張は非常に説得力がある。

特に本書でページを割いて解説しているのが鶴崎(現・大分県大分市、熊本藩の領地)にあった有終館の存在である。現在、大分市の有終館跡には小さな石碑が建っているのみであるが、ここが反政府攘夷派の軍事拠点になっていたという事実は本書で初めて知った。有終館を反政府の拠点にしたのは、高田源兵(こうだげんべい)こと河上彦斎、それと鶴崎出身の儒学者毛利空桑である。

 

熊本藩 有終館跡

 

河上彦斎といえば、元治元年(1864)に佐久間象山を京都木屋町で斬殺し、「人斬り彦斎」の異名をとった人物である。ただし、記録に残る限り、彦斎が手を下した暗殺は象山のみである。「人斬り」と称された連中の多くが殺人マシーンと化していたのとは一線を画し、攘夷思想家として、或いはその実践家として存在感を高めていった。

本書では高田源兵と名乗った彼の人物像も紹介している。身の丈は「五尺(150センチほど)を超すか超さないかという短躯で、色は白くやせ型で、人と語るときは女のようなやわらかい声をだしていた」との証言もある。その一方で、突然激音で一喝し、部下や周囲の人間に恐怖感を抱かせることもあったようで、つまり硬軟併せ持った人物だったようである。山口藩の諜者と疑われた沢田衛守を斬るように命じられた中村六蔵(熊本藩士)が逡巡していると、「ヤッテシマエ」と怒鳴られ、中村は恐怖に駆られて衛守を斬殺した。この辺りの手法は、カルト教団の教祖に近いものがある。

高田源兵(河上彦斎)は、「大事業を成すには、長州奇兵隊や草莽・不良の徒の集合体では成功は覚束ない。本藩(熊本藩)の力を借り、熊本領内の郷士のうち、いわゆる鞠躬(きっきゅう=慎み深い様)の者を抜擢し、この者たちと協同して尽力しなければ、成功はしない」というのが持論で、軽々に挙兵しようとはしなかった。また幕末に薩摩の西郷隆盛と会談したことがあったが、その時「幕吏を除かねばならない」というところで意見は一致したものの、いざ実行という段になって西郷が尻込みしたことから、以来西郷および薩摩藩を信用していなかった。周囲が薩摩藩との連携を勧めても、それに関しては一切耳を貸さなかったという。頑固な一面もあったようである。高田源兵に限った話ではないが、結果的に九州各藩は最後まで藩の枠組みを超えることができなかった。

明治三年(1870)十一月から翌年初めにかけて東北と九州地方において農民一揆・騒動が多発した。当時政府の直轄地であった日田県でも、日田県騒動(もしくは日田県一揆、日田竹槍騒動)と呼ばれる騒動が発生した。この騒動と前後して、日田県では九州の攘夷派や草莽、浮浪、僧侶らによる「日田騒擾」が勃発する可能性も高まっている。参議木戸孝允は、攘夷派の目的は反政府攘夷派らが、農民一揆を扇動していると見て、直ちに攘夷派の弾圧に踏み切った。しかし、結果的には日田に潜入していた攘夷派側の間諜が日田県官に捕らえられ、それを契機に次々と関係者が捕縛され、日田騒擾は未遂のまま終わった。日田県一揆をおこした農民たちと攘夷派の接点はなく、計画は杜撰なものであった。ここでも農民らと攘夷派が「反政府」で結束し、組織的な動きができれば政府をもっと震撼させる事件に発展する可能性もあったが、彼らにそこまでの組織だった活動は見られなかった。

高田源兵が主催した有終館は解散させられ(明治三年(1870)七月)、彼が挙兵の謀議を行った形跡はあるものの具体的な反政府行動に出たわけではないし、大楽源太郎を匿ったのはごく短期間で武器供与も未遂に終わっているし、もちろん廣澤参議暗殺事件に関わりはない。高田源兵が反政府攘夷派の巨魁というだけで捕らえられ、彼を明確に処分する罪名はなかったにも関わらず、明治四年(1872)十二月、判決が下されると即日斬罪に処された。

本書では、高田源兵のほかにも毛利空桑、大楽源太郎、矢田宏、山本與一(村尾敬助)、小河一敏、小串為八郎、廣田彦麿、初岡敬冶、中村六蔵(平井譲之助、澤俊造)、木村弦雄、古荘嘉門、直江精一郎、古松簡ニといった歴史に埋もれた人物を丹念に拾って紹介している。「明治の大獄」で処分された不良の徒は三百人に及ぶというから、掘り起こせば興味深い人物がまだまだ出てくるだろう。今後この方面の研究がさらに進むことを期待したい。

 

 

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「ベトナム戦記」 開高健著 秋元啓一写真 朝日文庫

2025年04月19日 | 書評

今年はベトナム戦争終結50年の節目の年である。昨年はフランス軍を撃退したディエンビエンフーの戦いから70年ということで、そのことを祝うイベントや看板がハノイの街にあふれたが、今のところベトナム戦争終結記念日(サイゴンが陥落した四月三十日)に向けた機運はさほど高まっていない(最近になって、統一公園の北側に大きなステージが設営されているのを確認した。恐らくサイゴン解放記念日に向けたものだろう)。

ベトナム赴任を機にベトナム戦争のことを知っておきたいと思って、赴任直前に購入したのがこの一冊である。着任して三年が経とうという今ようやく読了した。

開高健が1964年から1965年にかけて約百日間にわたって最前線を取材した迫真のルポルタージュである。1964年8月のトンキン湾事件をきっかけに米軍が増強され、アメリカによる全面的な軍事介入が始まった時期と重なる。開高健特有のとっ散らかしたような文体と多彩な修辞が、この戦争の混沌とした空気感をよく伝えている。同行した秋元カメラマンの写真が随所に挿入されていて、戦争の実態を視覚的にもリアルに伝えている。フエ(Hue)で撮影されたベトコンの戦士の死体を無表情に見つめる子供たちの姿は、戦争が日常と化した戦場の一場面を見事に切り取っている。

ベトナム戦争といえば、南ベトナムを支援する米軍とホーチミンの率いる北ベトナムの戦争というイメージが強いが、実態はもっと複雑である。開高健は「この国には四つの政府がある」としている。「内閣と、将軍たちと、仏教徒と、ベトコン」である。内閣と将軍は南ベトナム政府だが、一方仏教徒とベトコンは、反政府勢力である。反政府という意味では共通の敵を持っているが、彼らが連携することはなく、むしろ互いに警戒しあっている。

開高健は、ベトナム語で「私ハ日本人ノ記者デス」「ドウゾ助ケテ頂戴」と書かれた日の丸の旗をポケットに入れて、これを身分証代わりに戦線の奥深くまで潜入した。仏教徒のリーダーに接触し、時に「従軍僧を通じて全軍の兵士に直ちに武器を捨てろと号令してはどうですか」とか、「仏教徒と解放戦線(ベトコン)のあいだに平和共存または協力体制が生まれる可能性はないだろうか」などと、かなり立ち入った話をしている。もはや一従軍記者の分際を越えた介入であり、一つ間違うと命を狙われかねない行為である。

悪評高い枯葉剤も登場する。この時期枯葉剤による健康被害や奇形児出生率の上昇は問題になっておらず、ベトコンが身を隠す森林を荒野化するために広範囲にわたって使用された。ベトコンのゲリラ活動に手を焼いたアメリカ軍が考案した枯葉作戦である。枯葉剤の被害はベトナムの次世代にまで及び、今なおベトナム社会に影を落とす。アメリカも罪深い置き土産を残したものである。

本書の後半、開高健は秋元氏を伴いベンキャット(Ben Cat)にあった米軍基地に潜り込み、作戦に従って戦場を経験している。ベトコンに包囲され、銃弾から身を隠すため「倒木のかげに頭をつっこみ、顔で土を掘った」という場面は本書でも頂点を成す。このとき生き残ったのはわずか十七名。その中に開高健と秋元氏が含まれていたのは奇跡的であった。秋元氏はベンキャットに赴いたときの思いを「卒業論文」と表現している。このような危険な地域で取材をしようというジャーナリストの方々には毎度頭が下がる。小心者の私にはマネのできない行為である。「卒業論文」という言葉の奥には、使命感やら功名心やら好奇心などが入り混じっているのだろう。

開高健は、キャンプで出会った米軍兵士と酒を酌み交わしながら、彼らの本音を引き出している。ある米国兵士は「おれもベトコンのことはよく知らぬ。しかし彼らは何か百姓に訴えるものを持っているらしい。だからこんなに広がったんだ。おそらくこの戦争は結局のところベトコンの勝ちで、インドシナ半島はコミュニストの手におちるだろうと思う。おれはいいことだとは思わぬが、どうしようもない」と語っている。

さすがにこの米国兵士もその後十年もこの戦争が続くとは予想し得なかっただろうが、歴史が物語るように、その後の経緯はほぼこの兵士の予言通りに推移した。インドシナ半島には、ベトナム、ラオス―――さらにいえばクメール・ルージュが猛威をふるったカンボジア―――と次々と社会主義国家が誕生した。ただしアメリカが恐れるほどの脅威にはならなかったが…。

開高健は、ベトコンは「コミュニストのほかに民族主義者や自由主義者左派など、さまざまなグループ」から構成されていて、「農民のほかに学生、知識人、ある場合には仏僧も入っている様子」であり、彼の聞いたところではコミュニストは一パーセントか二パーセント、最高でも三〇パーセントだったという。

コミュニスト以外のベトナム人をベトコンに走らせたのは、アメリカの傀儡であった南ベトナム政府の中世的な独裁政治と、アジアを理解できないワシントンと、それをつきあげる将軍連中の作戦計画だと喝破する。米軍が空から叩きこむ砲弾にたまりかねてベトナム人は反米・民族主義に傾いた。つまりアメリカ自身が負けることを嫌って戦争に深入りすればするほど敵が増えていくという構図である。戦争に負けたことがなく、異民族に踏みにじられた経験もなく、戦争があるたびに豊かになったアメリカには遂にその仕組みが理解できなかった。せめて1965年に発表された「ベトナム戦記」をかの国の指導者が読むことがあれば、その後泥沼化したこの戦争の経緯も多少変わったかもしれない。

紛争地に取材に赴いたジャーナリストが国費を使って救助されるたびに「自己責任論」が叫ばれる。私も半分は自己責任論に同意である。一方で、現場において取材しないと分からない情報があるし、その実態の中に紛争を早期に解決したり、次の紛争を回避するヒントが潜んでいる可能性もある。

ベトナム戦争におけるベトナム側の犠牲者は民間人を合わせて三百万人にも及ぶ。対するアメリカの戦死者は五~六万人といわれる。ベトナムは戦争に勝利したが、犠牲者の数だけを見ればどちらが勝者か分からない。これだけ多くの犠牲を払って、ベトナムは独立と南北統一と社会主義国家体制を手に入れたが、果たして犠牲に見合うものだったのか。二十世紀はイデオロギーで国家が対立した時代でもあった。今となっては社会主義国家と資本主義国家にさほどの違いなど見当たらないではないか。ベトナムは社会主義国家としてスタートしたが、戦後十年余りを経た1986年にドイモイ(刷新)政策を発表して資本主義経済を導入した。今もベトナムは共産党一党独裁体制ではあるが、中国のように強力な政府ではなく、言論や思想の統制や監視によって人々が束縛されていることもない。当地で生活していても社会主義国家特有の息苦しさを感じることはない。一方、民主主義国家であっても昨今は独裁者のようにふるまう大統領が生まれている。ここに至ってイデオロギーのために血を流すことなど愚だと世界中の人たちも思い知っただろう。ベトナム人によってベトナムの若者(本書によれば「やせた、首の長い、ほんの子供」)が処刑される様子を目撃した開高健は吐き気を催した末に「人間は何か《自然》のいたずらで地上に出現した、大脳の退化した二足獣」だと罵倒している。宗教や民族、歴史観・国家観の違いから戦争することは愚行だと「大脳の退化した二足獣」が理解できる日が来るのだろうか。

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「お城の値打ち」 香原斗志著 新潮新書

2025年03月22日 | 書評

私はこれまで史跡を訪ねる中で240を超える城(城跡を含む)を踏破してきた。お城には人並み以上に関心をもっていたつもりだが、どちらかというと城を訪ねたことに満足してしまい、正直にいってあまり往時の姿とか、周囲の環境まで気にしていなかった。筆者は、歴史評論家、音楽評論家という肩書を持ち、日本古代史、近世史を中心に多くの著書があり、城について一方ならぬコダワリを持っている。

筆者がいうように、ヨーロッパでは城郭だけでなく、周辺の市街地に至るまで美観を伴って保存されている。翻って日本の城のほとんどは、その周辺環境まで含めてかなり破壊が進んでいる。明治維新を迎えた時点で、全国に七十数棟の天守が存在していたとされるが、現存しているのはわずかに十二棟である。

明治維新から太平洋戦争までの間に実に五十棟以上が破壊されている。理由を大別すると、概ね以下のとおりである。①維持するのが困難となり旧藩主が城の取り壊しを申し出たケース(小田原城、中津城など)②明治六年(1873)の廃城令を受けて廃城となったケース(萩城、津山城など)③存城と決定されながらも軍事的理由から破却されたケース、あるいは老朽化のため取り壊されたケース(高松城、福岡城など)④太平洋戦争の空襲で焼失したもの(水戸城、名古屋城、和歌山城など)

筆者は「日本固有の文化や歴史的景観を守るという発想が明治政府に皆無だった」「欧米との格差を埋めることに躍起になるあまり、欧米を真似ながら、彼らが大切にしているアイデンティティの維持という姿勢には目を向けることができなかった」「文化的素養に欠ける薩長の下級武士たちの限界を思わざるを得ない」と厳しく明治政府を指弾する。敢えて明治政府を擁護すれば、彼らは前政権の象徴である城郭をできるだけ消したかったのだろう。

第三章では「天守再建ブームの光と影」と題して、戦後復興のシンボルとして次々と再建された天守の実態を描いている。昭和三十年代から「築城ブーム」に乗って再建された天守には甚だしい「史実軽視」が横行している。

本書では、広島城、大垣城、名古屋城、岡山城、福山城、小田原城、小倉城などを紹介している。小田原城は昭和三十五年(1960)に再建されているが、古写真や絵図面などの決定的な史料が欠けていた事情もあり、外観の再現には推定に頼らざるを得ない面もあった。しかし、小田原市より「観光のためにどうしても天守が欲しい」と要請があり、文部省から「好ましくない」と指摘されながらも、存在しなかった天守最上階に高欄付き廻縁が巡らされることになった。そのため小田原城は「外観復元天守」ではなく「復興天守」なのである。

昭和三十四年(1959)に竣工した岡崎城や小倉城も地元の観光協会などからのリクエストに応じて、もともと古写真などにはない廻縁や高欄、派手な破風が付けられた。筆者にいわせれば「観光のための愚行」であり、「史実に裏付けられた独自の魅力を、他者と同じであろうとするためにあえて否定することほど愚かなことはない」と激しく非難している。

富山城に至っては、もともと天守台すらなかったにもかかわらず、「復興のシンボル」という名目で、「史実とは全方位的に無関係」にコンクリート製の天守が建てられた。平成十六年(2004)には、その天守が国の有形文化財に登録された。筆者は「歴史を無視した景観にお墨付きがあたえられたのは、私には悪い冗談としか思えない」と嘆息している。平戸城や中津城、横手城、川之江城などはいずれも史実にない「模擬天守」である。

最悪の例として木下藤吉郎の一夜城で有名な墨俣城が紹介されている。墨俣の一夜城については、後世の創作とする見解もあるというほど、史実に照らすとあやふやなものである。いずれにせよここにあったのは本格的な城郭ではなく、土塁や空堀で構成された簡易な城塞であった。ところが、そこに平成三年(1991)、白亜の天守が建てられた。この奇怪なお城は、新幹線の車窓からも見ることができる。筆者は「多くの人に歴史を誤解させることを考えれば、正負の価値は相殺され、(純金の)こけしやカツオと変わらないようにもおもえる」としている。

観光のための「復興天守」への反省から平成以降に再建された城郭建築は、可能な限り史料にあたり、調査を重ね、伝統工法の継承も意図しながら、木造で復元される例が増えている。

松山城や白河小峰城、掛川城、大洲城などは木造で伝統的工法にこだわった復元である。あんまりそのようなことを意識せずに見てきたが、改めてそういう目で見ると昔の人も見た同じ風景を我々も目にしているという感激を味わうことができる。難しいことは分からないが、観光目的で造られたありもしない模擬天守より、復元天守の方が遥かに心を動かされるのは間違いない。今後も「復元天守」が増えることを期待したい。

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「雪の花」 吉村昭著 新潮文庫

2025年02月22日 | 書評

先日「日本医家伝」を読んで、同じ作者の「雪の花」を読みたいと思い立ち、テト休暇で帰国した際に書店で入手した。ハノイへ戻る便の中で読み終えてしまった。文庫で180ページという薄っぺらいものだが、読後感は重い。

基本的な筋立ては、「日本医家伝」と変わらないが、描写がよりリアルで細かくなっている分だけ、感動も大きい。

やや釈然としないのは、どうして笠原良策が、積雪の険しい時期を選んで牛痘を施した幼児とその家族を連れて山越えをしたかということである。結果的には成功したので美談として語られているが、恐れをなして家族が幼児を連れて引き返したり、遭難するリスクは極めて高かった。失敗したら美談では済まない話である。どうして雪解けを待てなかったのか。本書では明確な答えは読み取れないが、背景には笠原良策の焦りがあったのではないか。

本書後半は、笠原良策と福井藩の役人との闘いが描かれる。封建社会の役人は、まさに「事なかれ主義」の典型であり、種痘のような新技術を展開しようとすれば、彼らの「事なかれ主義」と相容れないのは間違いない。他藩では種痘が受け入れられようとしているのに、特に福井藩の役人の対応はひどかったと言える。

ところで、先週帰国した際に、免許証の再発行手続きで府中の運転免許センターまで出向き、年金事務所に提出する戸籍謄本の申請手続きのために八王子市役所に行き、さらに年金申請手続きのため年金事務所まで往復してきた。市役所と免許センターで遭遇したのが、いわゆるクレーマーと呼ばれる人種であった。市役所で出会ったクレーマーは

「あんたと話していたのでは埒が明かない。もうあんたとは話したくない、上の人を呼べ」

と大声で怒鳴っていた。こんな人種と毎日のように向き合わなくてはいけないとすれば、役人とはなかなか大変な商売である。

一方で、年金の申請手続きを解説した文書は難解極まりない。年齢や配偶者のあるなし、子供や障がいのある家族のあるなし等によって添付書類が変わってくるので、ケースごとに事細かく解説が加えられている。これで正確に自分が何を提出すれば良いか理解できたとすれば相当読解力の高い人である。私は途中まで読んでギブアップしてしまいました。

現代の役人も決して楽な商売ではないのと同様、江戸時代の役人もきっと我々が想像もつかないような苦労があったのだろうと思った次第。

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「江戸が東京になった日 明治二年の東京遷都」 佐々木克著 吉川弘文館

2025年02月22日 | 書評

平成二十八年(2016)に逝去された佐々木克先生の遺した名著。本書は平成十三年(2001)に刊行され、昨年復刊されたものだが、四半期を経た今なお輝きを失っていない。

本書の肝は、「東京遷都令」と呼べるようなものが出されなかったことから、従来なしくずし的に実行されたとされていた東京遷都について、明治二年(1869)二月四日に太政官が東京移転を布告し、同年三月二十八日に東京城を「皇城」とする布告がだされた。この布告をもって実質的な「遷都宣言」と位置付けている。

明治元年(1868)、まだ鳥羽伏見の砲煙が消え去らぬときに早くも大阪遷都論が議論されていた。もっとも有名なものが大久保利通の大阪遷都論であるが、その背景にあったのが新国家の新たな政治を新しい土地で新鮮な気持ちで行う、即ち政治の一新である。第二には数百年にわたる「因循な腐臭」に凝り固まった朝廷を改革すること。そのような朝廷から若い天皇を引き離すことにあった。佐々木先生は、「大久保が遷都を決断したもう一つの大きな理由は、京都からの脱出ということにあったのではないか」と推定している。長く京都の行政に携わった槙村正直は「頑固、隘陋、柔奸、狐疑…」と口を極めて京都の風土と人情を罵っている。佐々木先生は長く京都大学で教鞭をとられ、京都とは縁浅からぬ人だが、ここで個人的な京都体験を紹介している。祇園祭りの最中に選挙の宣伝カーが四条通りをスピーカを鳴らして通るのを止めさせて欲しいという要望が出されたときのことである。

――― 祇園祭には一千年の伝統があり、我々の先祖が受け継いでやってきた。選挙などたかだか百年にも満たない実績しかないではないか。祭りの邪魔になる。だから遠慮すべきである。

佐々木先生はいう。「これが京都人の意識なのである。行政はこうした意識や主張に配慮しなければ、たちまち立ち往生してしまう。」

京都人の端くれとして思わず苦笑してしまった。冗談でこの手のことを口にすることはあっても、公けに言ってしまうとその瞬間「京都の人間はこれだから…」と呆れられてしまうのがオチである。

興味深かったのが、明治新政府の要人が腫物に触るように京都に気を遣っていることである。彼らは明白に帝都を東京へ遷すことを考えていたが、彼らの日記や書簡、意見書や彼らが残した記録を見ても、「東京遷都」という表現が一切見られない。彼らは遷都という言葉を発することに関して極めて慎重であった。これは京都の人心を深く配慮してのことであった。佐々木先生は「この時期の彼らは,再幸という言葉を、遷都の意味をこめて、遷都とほぼ同じ意味で使っていたのではないか」と推測している。

明治二年(1869)三月の東京再幸は、実質的な東京遷都であったが、「太政官を東京に移し、京都に留守官を置く」と布告された。この布告は明らかに京都の市民を強く意識して作られたものであった。当時、再幸は東京への遷都に違いないとする声が、京都の人びとの間でささやかれ、市民の不安をかきたてていた。

結果的に遷都の発令は最後まで出されなかった。長州藩出身の広沢真臣は「政府の基本(基礎・基盤)をしっかりさせることが先決で、遷都の発令を急ぐことはない、民心が安定してからでよい」と述べていたが、これが政府の総意であろう。

この問題に関して、三条実美と岩倉具視のスタンスは対照的であった。三条の方が公家としての家格が高く、京都への思い入れが強くても不思議はないが、彼は京都の人心に多少の動揺があっても仕方がないと割り切っている。より先進的に見える岩倉の方が京都人に気を遣っている。三条と岩倉のこの違いは、幕末七卿落ちで長く都を離れていた三条と、常に京都に居て策動していた岩倉の「京都観」の違いが如実に現れたものかもしれない。

明治十六年(1883)、岩倉は京都を保存し、かつ古都に新しい性格を与えて、世界にアピールしようと主張している。

一、三大礼(即位、大嘗祭、立后)を京都でおこなう。

二、賀茂祭り、石清水祭などの旧儀を再興する。

三、御苑中に洋館を建造する(迎賓館にあてる)。

四、宝庫を築造して拝観をゆるす。

五、御所・御苑の公開。

六、二条城の管理と公開。

岩倉の意見は上記三を除いて、時期をずらしながらもほとんどが実現している。京都市民はもっと岩倉に感謝しなければいけない。

第一章「江戸か京か―幕末の首都はどこか」では首都が江戸から京都に移った経緯が記述されており、開国から王政復古に至る幕末政治史がまとめられている。佐々木氏の史観が随所に光る一節となっている。

「薩長密約は、以前は討幕のための密約であるといわれてきたが、そうした評価は間違いである」と明確に指摘している。薩長同盟は討幕のための軍事同盟ではなく、主眼は長州藩の政治的復権に薩摩が協力するというところにあるという主張が今や定説となっているが、今から四半世紀近くも前にそのことを明確に主張していることに改めて佐々木先生の慧眼を再確認することができる。

佐々木先生は「京都は首都・帝都の位置を東京に譲ったが、歴史的遺産や景観を大切にして、世界にも広く知られた、心のなごむ美しい都市となった。一方、東京は江戸を破壊し尽くして近代化を突っ走り、世界有数の巨大都市となった。しかし今、東京は世界でも有数の人の住みにくい都市となってしまった」と評する。

京都が美しい街で、東京が住みにくい街かどうかは議論があるところかもしれない。少なくとも、総務省が先日発表した人口移動報告を見ると、東京への転入超過は7.9万人に及び、首都圏については13万人を越える転入超過となっている。東京の一極集中と地方の過疎化は明白である。本当に東京が住みにくい街であれば、かくも人々は東京を目指さないだろう。

東京に首都機能が集中し、大手企業の本社が東京に所在し続ける限り、東京の一極集中は今後も続くだろう。首都機能の移転を議論するなら今をおいてないと思うが、真剣にそのことが政府内で議論されている様子は見られない(政治とカネの問題よりもこっちのほうが余程緊急性と重要性の高い案件だと思うのだが…)。日本の将来に禍根を残さないことを願うばかりである。

 

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西郷従道―維新革命を追求した最強の「弟」 小川原正道著 中公新書

2025年01月19日 | 書評

本書は「大西郷の弟」というだけで、これまであまり注目されることのなかった西郷従道に脚光を当てたもの。隆盛と兄弟とはいえ十五歳も離れており、この年齢差もあって維新前は目立った活動はなかった。精々、文久二年(1862)の寺田屋事件の前夜、その他大勢の一人として寺田屋に集結していたことと、薩英戦争時には西瓜売りに変装して敵艦に乗り込んだこと、いとこの大山巌とともに西郷や大久保の用心棒を務めていた程度である。

従道が明治政府において重きを成すようになったのは、明治二年(1869)から翌年にかけて山県有朋とともに渡欧したことが大きかった。その辺りの事情について、本書には「洋行から新知識を携えて帰った信吾(従道)への信頼と期待が、急速に高まっていった。事実、それまで西欧に関する知識をもとに兵制改革を主導してきた大村益次郎や山田顕義などには、洋行して軍事情勢を学んだ経験はなく、信吾は廃藩置県などの大改革にも参与していくことになる」と記述されている。

明治六年(1873)の政変では、従道は兄隆盛と袂を分かって明治政府にとどまっている。筆者は「兄弟の間でどのようなやりとりがあったのか、正確なところは分からない」としながらも、「元帥西郷従道伝」から妻の清子とのやりとりを引用している。

――― 政変後に従道が「われわれも鹿児島に帰ることになるだろうから、いつでも出発できるように準備をしておきなさい」と語ったため、帰郷の覚悟を決めていた。だが、従道が隆盛を会って「兄さんが東京に残れと申されたよ」と東京に留まることになった。さらに、「世間でお祖父様がヨーロッパの先進諸国を見てきたから兄弟の意見が分かれたと言うていることとは違うんですよ」と孫の従宏に証言している。

少なくともこの時点では兄弟の信頼関係は確固たるものがあった、続く台湾出兵についても「従道の出兵の背後には、なお、隆盛の存在があった」としている。台湾から戻った従道は、鹿児島に帰省して隆盛と面会し、隆盛下野後の政治情勢について詳細に報告して了解を求めている。まだこの時点でも、隆盛と従道の間に「信頼と合意」が成立していたのである。

実兄西郷隆盛が鹿児島で決起し賊軍の将となると、従道は「この戦争は隆盛の意志によるものではなく、隆盛は周囲に騙されているに過ぎないという理解と、天皇に対する忠誠心、そして、この戦争そのものが持つ、軍事上の意義」を心の支えとして、徹頭徹尾政府のために尽くした。従道は、西南戦争下で陸軍卿代理に任じられ、主に銃器や弾薬の確保に努め、全国の不平士族が鹿児島と連動して挙兵しないよう警戒した。この戦争を通じて、従道は完全に兄と離別して自立を果たしたといえる。

西南戦争後、従道は薩閥を代表する顔として重用された。明治十一年(1878)五月には参議兼文部卿に任じられ、明治十四年(1881)には農商務卿に就いている。当時、郵船汽船三菱会社と共同運輸会社が激しい競争を展開していたが、従道は両社の役員を招いて協約を締結させて、敵対的競争をやめさせた。しかし、直後に協約は破綻し、再び競争が激化する様相を呈すると、今度は両社を合併させ、日本郵船会社が設立されるに至っている。

明治十八年(1885)、第一伊藤内閣が発足すると、海軍大臣に就任。明治二十三年(1890)には内相に就き、明治二十六年(1893)に再び海軍大臣に就き、明治三十一年(1898)十一月まで、日清戦争中も含めて実に五年に渡って在任している。

歴代の内閣で従道が重用された背景には、もちろんこの時点で既に彼が薩閥を代表する存在になっていたこともあるが、伊藤博文や山県有朋、井上馨といった長州閥とも良好な関係を維持し、一方で山本権兵衛や白根専一、品川弥二郎らを発掘・育成・重用し良き「幇助者」となった。さらには大隈重信や板垣退助らとも関係良好で、「自然に妥協性・調和性」を発揮していたという。ひと言でいえば、坐りが良い存在だったのだろう。

明治二十九年(1896)八月、第二次伊藤内閣を率いた伊藤博文が辞表を提出すると、後継首班の候補として従道の名が上がった。松方邸で元老会議が開かれ、黒田や井上が代わるがわる従道を説得したが、「例のぐずぐず」にて終わった。

明治三十一年(1898)、大隈内閣が倒れると、再び首相候補として従道が取り沙汰された。新聞では連日従道の動きが伝えられ、時には「西郷内閣」の構成まで報じられた。周りの期待をよそに従道は固辞し続け、遂に首相の座につくことはなかった。

おそらく本人が「了」といえば、首相になることは可能であっただろう。しかし、彼の脳裏には常に「賊将の弟」といううしろめたさがあった。明治二十二年(1889)、憲法発布の大典に合わせて大赦を受け、隆盛は正三位の官位を回復し、名誉を回復していた。従道自身はそれを上回る正二位に叙されており、そのことも従道の本意ではなかった。死を前に従道は盛んに位階や爵位の返上を漏らすようになる。

そのことを知った田中光顕(当時、宮内相)は、大山巌と相談し、隆盛の嫡男寅太郎を侯爵とすることで対応した。この授爵によりようやく兄という存在を肩から下すことができたと筆者は従道の心中を察している。

明治三十五年(1902)七月十八日、この日の午前六時、従道は目黒の本邸で死去した。胃がんと言われる。五十九歳であった。彼の死去に合わせて様々な追悼記事が出されたが、総括すると「国家的大局観を持ちながら、あえて首相にはならずに、首相を支え、実務を有能な部下に任せて、その責任を負い、自分を殺して調整に努めた人物」と評する記事が多かった。

従道が明確なビジョンを示さず、周囲を笑わせながら調整し、常に安定と安寧を追求した原点には、兄・隆盛の存在があった。隆盛は倒幕維新を実現したカリスマ的リーダーであったが、そのカリスマ性ゆえに政府を去り、私学校党に擁されることになってしまった。そのことを従道は誰よりも理解していた。従道にとって隆盛は反面教師でもあったのである。彼は兄の名を借りてカリスマ的リーダーになることも可能であったが、慎重にそうならない道を選んで歩んだのかもしれない。

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「幕末の大砲、海を渡る ― 長州砲探訪記 ―」 郡司健著 鳥影社

2024年12月27日 | 書評

文久三年(1863)に長州藩が起こした攘夷戦争(下関戦争=広義ではその後の四か国連合艦隊との戦闘まで含むが、ここでは文久三年の攘夷戦争のことを指す。)の報復として、その翌年元治元年(1864)六月、英・仏・蘭・米の四か国連合艦隊が下関に来襲し、三日間に渡って戦闘が交わされた。連合艦隊は長州藩の砲台を破壊し、さらに上陸して大砲の火門に釘を打ったり、砲架に火を点けたりして使用不能にした。このとき下関の各砲台に設置されていた大砲のうち54門が、連合艦隊に戦利品として接収され、四か国に分配された。その一部が今もオランダ、ブランス、イギリス、アメリカに残されている。本書は筆者がその四か国に残る大砲を訪ねた記録であるが、単なる旅行記ではなく、大砲の詳細な調査研究成果の論文にもなっており、非常に読み応えがある。

山口県在住の直木賞作家古川薫氏(故人)がフランスのアンバリッド廃兵院で長州砲を発見し、その返還運動に尽くされたことは私も知っていた。そこで昨年のパリ訪問時には、アンバリッド廃兵院で長州砲を探してみたが、見つけることができなかった。本書第三章「パリの大砲」によれば、アンバリッドには三門が保管されていた。荻野流一貫目玉青銅砲(和式砲)は、回廊の内側に置かれていたというが、昭和五十九年(1984)、フランス大統領の好意により、長州藩主の甲冑と相互貸与の形で返還され、現在は長府博物館に展示されている。

残る二門は西洋式カノン砲である。一門は北門を入ってすぐのところ、向かって右側(西側)の大砲群の中にあったという。本稿が書かれたのが令和十六年(2004)のことで、私が訪れたのとは二十年の時差がある。この二十年で保管場所が二転三転している。第六章「欧州の長州砲のその後」によれば、その後「アンバリッドの北門前庭に置かれていた十八ポンド砲は砲架に乗せられ、さらに西の端(エッフェル塔寄り)に移された」という。さらに令和二十六年(2014)には北門前庭東側に移されたとされている。そこは見たはずなんだけど、なぜ見つけられなかったのだろう???

なお、残る一門(二十四ポンドカノン砲)は行方不明となっていたが、これもアンバリッドの中庭に置かれていることが判明した。中庭も一周したんだけど。いやあ、気が付かなかったな。

第二章は「オランダの下関砲」。古川薫氏の著作によれば、一門はアムステルダム国立博物館(おそらくアムステルダム国立美術館のことだろう)、一門は所在不明とされていた。筆者はデン・ヘルダー(アムステルダムから電車で約一時間半)の海軍博物館を訪ね、そこで一門の青銅砲と対面している。その砲耳に刻まれた「26」という数字が、イギリスの海軍が鹵獲・分配した際に作成した記録(ヘイズ・リスト)の識別番号26であることを突き止めた。この辺りの記述は、一片のミステリー小説のようである。

筆者はイギリスとアメリカの長州砲も丹念に追跡している。イギリスの長州砲は、ウリッジ(Woolwich)の王立大砲博物館敷地内にあるロタンダ展示館に二門が展示されているとされている。ところが、ウリッジの王立大砲博物館(Fire Power Royalartillery. Museum)を調べてみると、2018年に閉鎖されてしまったようで、その後、長州砲がどこに保存されているのか行方が分からない。また、かつてイギリスのポーツマスには三門の長州砲が存在していたことが確認されているが、これも行方知れずとなっている。ロタンダ展示館にあった長州砲が同じ運命をたどらないよう祈るばかりである。

アメリカの長州砲は、ワシントンDCのネイヴィーヤード内ダールグレン通りの西側に保存されている。ヘイズ・リストによれば、アメリカに分配された長州砲は一門しかなく、それがこのボンベカノン砲である。具体的な計画があるわけではないが、いつかワシントンDCにあるこの長州砲も見てみたいと思う。

一般的には、四か国連合艦隊の近代兵器の前に、長州藩は旧式の兵器によって対抗したため、あっけなく敗北したとされている。筆者は「連合艦隊側ないし英国側の防長制圧からさらに大阪等への進撃・制覇の意図を結果的に阻止できたことを考えれば、欧米連合艦隊に対して良く頑張ったというべきであろう」としている。「連合艦隊側ないし英国側の防長制圧からさらに大阪等への進撃・制覇の意図」というのは、本書で初めて知ったのだが、新しい解釈を提示するのであれば、その根拠(できればイギリス側の資料)を開示してもらいたいものである。筆者は参考文献として「拙著前掲」書を挙げているが、「大阪学院大学通信」という大学の発行している論文集のようで、残念ながら一般的には入手が難しそうである。

筆者が指摘するように、長州藩が旧式で戦ったという従来の見方は改める必要があるだろう。長州藩では天保十二年(1841)、高島秋帆が行った徳丸原での西洋流銃陣演習にも人を送り、それを契機に和流から西洋流への転換を図っている。「旧式とはいえ、当時欧州でも前年までは通常実戦に使用されていたレベルの大砲を、鉄製と銅製の違いはあるが」使っていたという指摘は正確である。技術の差といえば、数年の間に生じたイノベーションまで取り入れることはできなかった。その程度の差であったが、この時代、戦争の続いた欧米での兵器の革新が目覚ましかったのも事実である。

長州藩の戦国期の砲術家郡司讃岐は「当初、防府三田尻に住み、朝廷から認められた参内鋳物師の塚本家を継ぎ洪鐘・仏具等の鋳造に携わるとともに、岳父中村若狭守隆安(隆康)から隆安流(隆安函三流・隆康流、・高安流ともいう)砲術を伝授され、仏郎機、石火矢とも呼ばれる大銃の鋳造にも携わっていた。(中略)彼は砲術と鋳砲の技により毛利家に召し抱えられ、防府から萩へ移住した。」とされる。

その後、郡司讃岐は、松本(松下村塾のあった松本村)と椿青海に鋳造所を開いた。その二つの鋳造所は幕末まで存続した。彼の子孫は、砲術家五家と鋳造家二家に分れ、代々大砲の運用(砲術)と大砲あるいは洪鐘等の鋳造に関わってきた。筆者は、青海鋳造所を継ぐ郡司家(幕末期の当主は郡司富蔵信成)の末裔である。本書奥がきによれば、連結会計について著書もある公認会計士が本職のようだが、本書は歴史家顔負けの仕上がりとなっている。執筆動機には先祖の製造した大砲の行く末を知りたいという熱意があるだろうが、それにしても凄まじい執念を感じる一冊である。

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「日本医家伝」 吉村昭著 中公文庫

2024年11月25日 | 書評

山脇東洋、前野良沢、伊藤玄朴、土生玄碩、楠本いね、中川五郎治、笠原良策、松本良順、相良知安、荻野ぎん、高木兼寛、秦佐八郎といった、江戸時代後期から近代にかけて登場した医師12名を取り上げる。吉村昭は、この後、「日本医家伝」で取り上げた12人のうちの6人を題材にして「めっちゃ医者伝」(笠原良作)、「冬の鷹」(前野良沢)、「北天の星」(中川五郎治)、「ふぉん・しーほるとの娘」(楠本いね)、「白い航跡」(高木兼寛)、「暁の旅人」(松本良順)に長編化している。

これまでも「ふぉん・しーほるとの娘」、「白い航跡」、「暁の旅人」を読んでいたので、でっきり吉村昭の得意分野だと思っていたが、本書の「旧版文庫版あとがき」によれば、当初「クレアタ」という季刊雑誌の編集長をしていた岩本常雄氏から依頼があった際、「私には未知の分野で、調査もどのようにすべきかわからず、満足のゆける作品を書くことは不可能に思えた」と告白している。つまり「日本医家伝」を手掛ける前の吉村昭氏は、近代医史については得意分野ではなかったのだろう。それがこの作家における一つの大きな作品群の潮流の一つになったことを思い合わせると、「日本医家伝」の重みが理解できる。

個人的に興味深かったのが、前野良沢であった。歴史の授業で「ターヘル・アナトミア」「解体新書」「杉田玄白」「前野良沢」と呪文のように記憶したが、本書によれば、翻訳事業を進めるにつれ、杉田玄白と良沢の間にはずれが生じ、次第に溝が深まり、両者は距離を置くようになったというのである。その理由は野心家の杉田玄白が刊行を急いだことにあったらしい。一方の良沢は、「解体新書」は甚だ不完全な訳書であり、さらに年月をかけて完全なものにしてから刊行したいと考えていた。良沢は学者としての良心から自分の名を公けにすることを辞退し、その結果、「解体新書」の訳業をリードした前野良沢の名前は剥除された、というのである。良沢は、「解体新書」の刊行後も、オランダ語研究に没頭し、多くの訳書を残したが、それを刊行することすらしなかった。杉田玄白と前野良沢、その名前は常に並び称されるが、筆者吉村昭がどちらに好感を抱いているかは明らかであろう。

本書でもっとも感銘を受けたのが、笠原良策(白翁)である。福井の医家に生まれ、若くして名声を得ていた良策であるが、ある日西洋医学の優れていることを聴き、西洋医学に強く引き付けられた。三十一歳のとき、京都に上って蘭医日野鼎斎の門に入り、研鑽に励んだ。いったん福井に戻って西洋医学を広めたが、それに飽き足らず再び京都に上って蘭医学の修得に努めたとされる。

その頃、西洋には「種痘」により天然痘を予防する治療法が確立していて、既に中国でも種痘法が伝わっていた。当時、日本では毎年のように天然痘が流行して多数の人が死亡していた。幸い命は助かっても顔に見にくいあばた(痘痕)が残り、人々を終生嘆き悲しませていた。

良策は痘苗輸入が急務であることを説いて、幕府の輸入許可を求める嘆願書を提出したが、何度も役人の手で握りつぶされたしまった。福井藩主松平春嶽へ建言するという最終手段により、ようやく幕府から牛痘輸入許可がおりた。嘉永2年(1849)、長崎に痘苗を入手しに行く途中、京都で痘苗を入手することに成功し、まず京都で苦心の末に種痘に成功し京都での普及を果たした。当時の種痘は、人から人へ種継ぎをしていくしか確実な方法が無く、種痘を施した幼児を連れて雪深い藩境の峠を越えるという決死行によって福井城下に痘苗を運んだ。金とか名誉ではなく、とにかく民を救いたいという一心でここまでやる彼の情熱に心を動かされるものがある。

吉村昭は、この短編を端緒として「めっちゃ医者伝」(のちに改題・補填して「雪の花」)を発表している。「雪の花」を原作として、来年には映画化されるらしい。笠原良策(白翁)は、一般にはほとんど知られていない人物であるが、「福井にこんなにエライ人がいたんだ」という感動で熱くなる。「雪の花」も読んでみたいし、映画も見てみたいと思う。

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