史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

白糠

2015年12月04日 | 北海道
(白糠公民館)


史蹟 白糠運上屋跡

 江戸時代初期、松前藩は場所請負制度を創設し、各地に商場(あきないば)を設け、のちにこれを商人(場所請負人)に請け負わせ、運上屋の設置を義務付けた。運上屋は場所の行政的・経済的施設として拠点となる位置におかれ、番屋、旅宿所、産物蔵、馬屋等が整備され、交易等を通じて現地住民の生活に寄与するところが非常に大きかった。白糠運上屋もその一つで、初めはパシュクル西方のモセウシ(現・音別町)に在ったが、波が高く船掛りの不便もあって、後にこの付近に移設された。

(厳島神社)


厳島神社

白糠も八王子千人同心が開拓した街である。幕府に蝦夷地開拓を出願して承認を得た原半左衛門(胤敦)らは、寛政十二年(1800)、勇払(現・苫小牧市)と白糠の二か所に分かれて上陸した。勇払と白糠は、いずれも太平洋側と日本海側もしくはオホーツク側とを結ぶ要所とされており、その警護と開拓を任されたのである。半左衛門は白糠へ、弟の新介は勇払に移住した。このとき勇払と白糠に移住した八王子千人同心は百三十二名。そのうち三十二名が現地で命を落とした。白糠での死者は十七名にのぼった。やはり想像を絶する厳しい自然環境と、当初目論んでいた自給自足体制が調わず食糧不足に陥ったことによる犠牲者であった。現地の開拓は困難を極め、結局八王子千人同心により蝦夷地開拓は約四年で幕を下したが、この功により半左衛門は、箱館奉行調役に任じられた。厳島神社の鳥居前には、原半左衛門ゆかりの地と記した石碑が立つ。


原半左衛門縁の地

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