夏休みに道南を旅行して以来、郷土の八王子千人同心のことが気になって、近所の史跡を回っている。そんなときに古本屋でこの本を見つけたので、思わず購入した。本書では八王子千人同心の歴史を解き明かし、時代とともに変質していく様子を克明に解説している。地元の図書館でも色々調べたが、現時点で八王子千人同心に関して、ここまで詳述している書籍は本書おいてないのではないか。
八王子千人同心は箱館周辺のみならず、苫小牧勇払に入植している。その縁で、現在八王子市と苫小牧市は姉妹都市提携を結ぶことになった。勇払にはこの地で亡くなった八王子千人同心の墓や顕彰碑も建立されているという。寛政十二年(1800)幕府の命を受け、八王子千人同心は蝦夷地に渡った。厳しい寒さと飢えのため、このとき移住した百三十二名中、三十二名が落命するといった傷ましい犠牲を伴った。この中には塩野適斎の実兄二人も含まれている。
やや意外に感じるが、八王子千人同心が居住していたのは、八王子市域にとどまらず、現・埼玉県の所沢辺りから神奈川県厚木周辺にまで広がっていたらしい。塩野適斎の「桑都日記」では小仏峠の守備のために置かれたとされているが、もともとは甲州街道や八王子代官陣屋の武力警備が目的だったようである。その後、その必要性が薄まるとともに日光火の番が主な任務となった。
八王子千人同心は、半士半農という特殊な身分であったが、公式には帯刀も苗字を名乗ることも許されない農民身分であった。寛政年間にもなると、彼らの綱紀は緩み、八王子千人同心という身分も株として売買されるようになる(大相撲の親方株と似ている)。本書によれば、この株の売買は明治維新後も続いたという。塩野適斎のように代々組頭を務めるような由緒ある家柄の者の目には、嘆かわしい状態に映ったようである。適斎にとって、実兄二名が蝦夷開拓の犠牲になったが、幕府のために命を捧げたことは八王子千人同心として誇らしいことでもあったに違いない。
八王子千人同心は、剣術や学問にも精を出し、武士志向を強める。その中から蝦夷に渡った原敦胤や、学者として活躍した塩野適斎、植田孟縉といった個性的な人材を生んでいる。よく知られたところでは、幕末に新選組に参加した井上源三郎(厳密には八王子千人同心松五郎の弟)や中島登も八王子千人同心の出身である。
幕末、八王子千人同心は、将軍家茂の上洛に随行したほか、開港された横浜の警備、水戸天狗党の乱に際には甲州警備、さらには長州征伐にも出陣している。第二次長州征伐では三十人以上が死亡しているが、死亡者に目立つのは高齢者の病死である。五十三歳、六十八歳、中には七十歳で病死した者もいた。どう考えても戦闘に耐えられないような高齢者が従軍していたのである。高齢者の比率がどれくらいだったのかは不明であるが、そもそも農業を営む千人同心の家で、重要な働き手を長期に兵隊にとられることは不可能であった。天保年間に韮山代官江川太郎左衛門は、海防強化のため、八王子千人同心を奥伊豆に移住させることを建言している。幕末の動乱を迎えて、八王子千人同心の軍事力が期待されたていたのである。しかし、実態としてはとてもそれに応えられるものではなかった。
寛政年間以降、飽くまでも彼らを農民身分に置いておきたい幕府と、武士志向を強める彼らとの間に様々な確執が生じる。幕末に至る頃には、八王子千人同心=武士身分という社会的認識ができあがっていた。その一方で、武士と称するには少なくとも軍事的には実力を伴わないものであったようである。
八王子千人同心は箱館周辺のみならず、苫小牧勇払に入植している。その縁で、現在八王子市と苫小牧市は姉妹都市提携を結ぶことになった。勇払にはこの地で亡くなった八王子千人同心の墓や顕彰碑も建立されているという。寛政十二年(1800)幕府の命を受け、八王子千人同心は蝦夷地に渡った。厳しい寒さと飢えのため、このとき移住した百三十二名中、三十二名が落命するといった傷ましい犠牲を伴った。この中には塩野適斎の実兄二人も含まれている。
やや意外に感じるが、八王子千人同心が居住していたのは、八王子市域にとどまらず、現・埼玉県の所沢辺りから神奈川県厚木周辺にまで広がっていたらしい。塩野適斎の「桑都日記」では小仏峠の守備のために置かれたとされているが、もともとは甲州街道や八王子代官陣屋の武力警備が目的だったようである。その後、その必要性が薄まるとともに日光火の番が主な任務となった。
八王子千人同心は、半士半農という特殊な身分であったが、公式には帯刀も苗字を名乗ることも許されない農民身分であった。寛政年間にもなると、彼らの綱紀は緩み、八王子千人同心という身分も株として売買されるようになる(大相撲の親方株と似ている)。本書によれば、この株の売買は明治維新後も続いたという。塩野適斎のように代々組頭を務めるような由緒ある家柄の者の目には、嘆かわしい状態に映ったようである。適斎にとって、実兄二名が蝦夷開拓の犠牲になったが、幕府のために命を捧げたことは八王子千人同心として誇らしいことでもあったに違いない。
八王子千人同心は、剣術や学問にも精を出し、武士志向を強める。その中から蝦夷に渡った原敦胤や、学者として活躍した塩野適斎、植田孟縉といった個性的な人材を生んでいる。よく知られたところでは、幕末に新選組に参加した井上源三郎(厳密には八王子千人同心松五郎の弟)や中島登も八王子千人同心の出身である。
幕末、八王子千人同心は、将軍家茂の上洛に随行したほか、開港された横浜の警備、水戸天狗党の乱に際には甲州警備、さらには長州征伐にも出陣している。第二次長州征伐では三十人以上が死亡しているが、死亡者に目立つのは高齢者の病死である。五十三歳、六十八歳、中には七十歳で病死した者もいた。どう考えても戦闘に耐えられないような高齢者が従軍していたのである。高齢者の比率がどれくらいだったのかは不明であるが、そもそも農業を営む千人同心の家で、重要な働き手を長期に兵隊にとられることは不可能であった。天保年間に韮山代官江川太郎左衛門は、海防強化のため、八王子千人同心を奥伊豆に移住させることを建言している。幕末の動乱を迎えて、八王子千人同心の軍事力が期待されたていたのである。しかし、実態としてはとてもそれに応えられるものではなかった。
寛政年間以降、飽くまでも彼らを農民身分に置いておきたい幕府と、武士志向を強める彼らとの間に様々な確執が生じる。幕末に至る頃には、八王子千人同心=武士身分という社会的認識ができあがっていた。その一方で、武士と称するには少なくとも軍事的には実力を伴わないものであったようである。




















