史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「八王子千人同心」 吉岡孝著 同成社

2013-11-23 23:09:23 | 書評
夏休みに道南を旅行して以来、郷土の八王子千人同心のことが気になって、近所の史跡を回っている。そんなときに古本屋でこの本を見つけたので、思わず購入した。本書では八王子千人同心の歴史を解き明かし、時代とともに変質していく様子を克明に解説している。地元の図書館でも色々調べたが、現時点で八王子千人同心に関して、ここまで詳述している書籍は本書おいてないのではないか。
八王子千人同心は箱館周辺のみならず、苫小牧勇払に入植している。その縁で、現在八王子市と苫小牧市は姉妹都市提携を結ぶことになった。勇払にはこの地で亡くなった八王子千人同心の墓や顕彰碑も建立されているという。寛政十二年(1800)幕府の命を受け、八王子千人同心は蝦夷地に渡った。厳しい寒さと飢えのため、このとき移住した百三十二名中、三十二名が落命するといった傷ましい犠牲を伴った。この中には塩野適斎の実兄二人も含まれている。
やや意外に感じるが、八王子千人同心が居住していたのは、八王子市域にとどまらず、現・埼玉県の所沢辺りから神奈川県厚木周辺にまで広がっていたらしい。塩野適斎の「桑都日記」では小仏峠の守備のために置かれたとされているが、もともとは甲州街道や八王子代官陣屋の武力警備が目的だったようである。その後、その必要性が薄まるとともに日光火の番が主な任務となった。
八王子千人同心は、半士半農という特殊な身分であったが、公式には帯刀も苗字を名乗ることも許されない農民身分であった。寛政年間にもなると、彼らの綱紀は緩み、八王子千人同心という身分も株として売買されるようになる(大相撲の親方株と似ている)。本書によれば、この株の売買は明治維新後も続いたという。塩野適斎のように代々組頭を務めるような由緒ある家柄の者の目には、嘆かわしい状態に映ったようである。適斎にとって、実兄二名が蝦夷開拓の犠牲になったが、幕府のために命を捧げたことは八王子千人同心として誇らしいことでもあったに違いない。
八王子千人同心は、剣術や学問にも精を出し、武士志向を強める。その中から蝦夷に渡った原敦胤や、学者として活躍した塩野適斎、植田孟縉といった個性的な人材を生んでいる。よく知られたところでは、幕末に新選組に参加した井上源三郎(厳密には八王子千人同心松五郎の弟)や中島登も八王子千人同心の出身である。
幕末、八王子千人同心は、将軍家茂の上洛に随行したほか、開港された横浜の警備、水戸天狗党の乱に際には甲州警備、さらには長州征伐にも出陣している。第二次長州征伐では三十人以上が死亡しているが、死亡者に目立つのは高齢者の病死である。五十三歳、六十八歳、中には七十歳で病死した者もいた。どう考えても戦闘に耐えられないような高齢者が従軍していたのである。高齢者の比率がどれくらいだったのかは不明であるが、そもそも農業を営む千人同心の家で、重要な働き手を長期に兵隊にとられることは不可能であった。天保年間に韮山代官江川太郎左衛門は、海防強化のため、八王子千人同心を奥伊豆に移住させることを建言している。幕末の動乱を迎えて、八王子千人同心の軍事力が期待されたていたのである。しかし、実態としてはとてもそれに応えられるものではなかった。
寛政年間以降、飽くまでも彼らを農民身分に置いておきたい幕府と、武士志向を強める彼らとの間に様々な確執が生じる。幕末に至る頃には、八王子千人同心=武士身分という社会的認識ができあがっていた。その一方で、武士と称するには少なくとも軍事的には実力を伴わないものであったようである。

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「落日の宴 勘定奉行川路聖謨」 吉村昭著 講談社文庫

2013-11-23 23:07:41 | 書評
先日、佐藤雅美の「官僚川路聖謨の生涯」を読み終えたばかりであるが、吉村昭の描く川路聖謨も読んでみたくなり、ネットの古本サイトで「落日の宴」を入手した。
佐藤雅美の作品は、川路の生涯を大河的に描いたものであるが、吉村昭の小説は、日露外交の場面が中心となっている。両者の構成は異なるものの、読後感は変わらない。やはり川路聖謨という人物の凄味に圧倒される。
川路はこの時代を代表する外交官であり、抜群に優秀な官僚であった。己の才幹と能力のみで、勘定奉行という望みうる最高の高官に就いた。とはいえ決して将軍や老中といった頂点に立ったわけではない(いくら優秀でも、この時代ではそんなことはあり得ない)。この人が頂点にあれば(つまり自分の判断で可否を決められる立場にあれば)、外交交渉の場面もまた違ったものになっただろう。しかし、川路は大きな裁量権を与えられていたとはいえ、一介の官僚に過ぎない。その裁量の範囲で、常にベストの判断、交渉を重ねていく。
ようやくプチャーチンとの交渉も目途がつき、川路は江戸に戻って交渉の経過を報告する。そこでロシアが領事を置くことについて強い反対を受ける。既に米国には認めていることでもあり、一旦は両国の代表が合意したものを覆すというのは両国間の信頼を損なうものであるし、どう考えてもプチャーチンも激怒するだろう。非常に気が重い任務である。私が同じ立場にあれば、「私にはできません。ご老中自ら交渉願います」とケツをまくっていたと思う。しかし、川路は理不尽な交渉にも最善を尽くす。最終的にプチャーチンも譲歩した背景には、もはや川路とプチャーチンとの関係は盟友と呼んでよいところまで達していたのであろう。ほかならぬ川路のいうことだから聞いてやろうという心情もあったのではないか。想えば、川路しかできない交渉であったし、彼だから成しえた日露修好通商条約であったと思う。
本書では都筑峯重が京都で条約勅許交渉の最中に、絶望して自殺したという説を採用している。都筑の急死は謎に包まれているが、本書で読むと自殺説も説得力がある。
大地震と津波の描写は、先日の東日本大震災の映像とオーバーラップして非常に生々しい。嘉永七年(1854)十二月に発生したこの地震で伊豆半島や駿河湾沿いの街は壊滅的被害を受けた。もちろん、現在の下田や三島には津波の痕跡は残っていないし、海岸線までぎっしりと住居が立ち並んでいるが、何時、この地域が大きな津波に襲われても不思議はない。悲劇が繰り返されないことを願うばかりである。

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「冬の派閥」 城山三郎著 新潮文庫

2013-11-23 23:06:06 | 書評
城山三郎といえば、経済小説の大家であるが、「雄気堂々」「男子の本懐」「落日燃ゆ」など、近代を題材にした伝記小説も手掛けている。「冬の派閥」は、城山三郎としては珍しく幕末を舞台にした小説である。といっても薩摩や長州ではなく、尾張藩の物語である。実は城山三郎は名古屋市の生まれであり、当然ながら尾張藩との因縁は深い。
幕末の尾張藩は独特の立ち位置であった。御三家の一角でありながら、思想的には勤王色が強く、悪く言えば宙ぶらりんな存在であった。藩主徳川慶勝は、徳川慶喜とは従兄弟関係にあり、会津藩主松平容保や桑名藩主定敬とは実の兄弟という、複雑な血縁関係の中にあり、否が応でも政争に巻き込まれることになった。
最近になって、漫画家の黒金ヒロシ氏が慶勝のことを持ち上げるものだから、名君として称える向きもあるが、慶勝の評価は微妙である。幕末の尾張藩が血を流すことなくいられたのも、慶勝が絶妙なバランス感覚の持ち主であったからと言えなくもない。一方で尾張藩がさほどの存在感を発揮することもなく、また明治新政府にほとんど人材を送り込むこともなく、結果から見れば新政府にうまく利用されただけに終わったのも、慶勝に政治力が無かったからと言えるかもしれない。
幕末の尾張に衝撃が走ったのが、慶応四年(1868)一月の青松葉事件と呼ばれる佐幕派の大量処刑事件である。幕末においては、どの藩でも藩内抗争があった。長州藩でも正義派・俗論派の激しい主導権争いがあったし、御三家の一つ水戸藩では尊攘派(天狗党)と諸生党の間で血で血を洗う内訌が続いた。尾張藩にも金鉄党と呼ばれる勤王派とふいご党という佐幕派が存在した。両者はことあるごとに対立したものの、辛うじて暗殺や戦争に発展することはなかった。しかし、鳥羽伏見で幕府と新政府が衝突すると、風雲は尾張にも及ぶことになった。
突然「朝命により」という一片の通知とともに、藩内のふいご党の幹部十四名の斬首と二十名の永蟄居が執行された。青松葉事件については今に至るまで謎が多く、真実は歴史の闇に覆われている。背後には薩摩藩や長州藩の陰謀が存在しているとも言われるが、交通の要衝にある尾張藩の帰趨は新政府軍の命運を左右する問題であった。尾張藩に対する「踏み絵」として、ふいご党の幹部抹殺が命じられたと理解するのが自然だろうか。これ以降、尾張藩は東海道・中山道沿道の諸藩に働きかけ勤王の請書を提出させるなど、新政府のために積極的に動いた。
尾張藩と慶勝は、青松葉事件の後遺症に長く悩まされることになる。藩内にくすぶる金鉄党とふいご党の対立を緩和しようという思いもあって、慶勝は金鉄党から人選して、北海道八雲の開拓に送り込む。本書の第四章と終章では、延々と八雲開拓の物語が続く。「これでもか」とばかり襲ってくる悲劇は、頁をめくるもの躊躇われるほど暗くて重い物語である。青松葉事件で介錯の刀を振るった男たちに、次々と不慮の死が襲う。人々は「青松葉のたたり」とささやき合った。その頃、明治の世は文明開化を謳歌し、名古屋にも鉄道が開通し、ビジネスで成功する者も出ていたが、八雲は見捨てられたような存在であった。
私はこの夏に道南を旅行し、八雲を訪ねたばかりである。当日は好天に恵まれ、この地にこれほど沈鬱な物語が存在していることは想像できなかった。できればこの小説を読んでから、八雲の地を訪ねることをお勧めしたい。今も吉田知行以下、八雲開拓に身命を賭した旧尾張藩士は常丹墓地(現・大新墓地)に眠っている。

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「佐賀の幕末維新 八賢伝」 福岡博著 出門堂

2013-11-23 23:03:41 | 書評
著者は、佐賀県立図書館に四十年勤務の後、佐野常民記念館の名誉館長、佐賀県高齢者大学非常勤講師などを兼ねる、佐賀藩の熱心なサポーターである。この本も佐賀藩に対する愛情にあふれている。
本書は、小学校高学年から高校生を対象としており、漢字には全てフリガナが付けられている。したがって内容は平易であるが、幕末から明治にかけての佐賀人(特に八賢人)の活躍を遍く描いている。幕末の佐賀藩の動向を学ぶ入門書としても十分な内容である。
幕末の佐賀を語るとき、藩主鍋島閑叟(直正)の存在を抜きに語ることはできない。カリスマ性という意味では、あるいは薩摩の島津斉彬や水戸の斉昭の方が上かもしれないが、維新まで生き抜いて藩を引っ張ったという意味では閑叟に軍配が上がる。熱心に洋学を振興したという点では宇和島の伊達宗城も負けていない。しかし、人材の育成という観点でいえば、佐賀の弘道館の歴史は長い。佐賀藩では、閑叟が藩主を継ぐ五十年近く前に藩校を開設している。人材の育成には長い年月が必要である。幕末に至って佐賀の人材が花開いた底流には、長年にわたる教育熱が存在していた。
佐賀にも、土佐勤王党のような一つ間違うと討幕勢力となりうるグループがあった。枝吉神陽が主催した義祭同盟がそれである。だが、佐賀藩が土佐と異なったのは、藩主が強烈に藩士を統御しながらも、政治的には無色であったことであろう。一時期、江藤新平が脱藩して政治活動に走ったことがあったが、基本的には藩士はよく統制されていた。
幕末の政局に佐賀藩はほとんど登場しなかった。つまり、薩長土三藩とは比べものにならないくらい血を流すことは少なかった。それでも明治新政府には有能な人材を送り込んで、存在感を示した。それが「七賢人」と呼ばれる人たちである。七賢人とは、鍋島閑叟、島義勇、江藤新平、大木喬任、佐野常民、副島種臣、大隈重信のことをいう(これに枝吉神陽を加えて、八賢人と呼ぶ)。
新政府の要職を独占した薩長両藩も、佐賀人の持つ(特に西欧に関する)卓越した知識、実務能力、構想力に頼らざるを得なかったのであろう。全国三百藩の全てが佐賀藩のようであれば、維新は成らなかっただろうが、佐賀藩のような存在があったから、維新が成ったのもこれまた事実である。

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森 砂原

2013-11-16 23:37:45 | 北海道
(砂原陣屋跡)


史跡 砂原南部藩屯所跡


砂原陣屋跡

 砂原陣屋には盛岡藩が五十人を駐屯させていたが、奥羽、北越での戦争が激しさを増すと、建物を破壊して早々に引き揚げた。土方隊がこの地を通過したとき、土塁しか残っていない状態であった。
 砂原は、明治二年(1868)四月、箱館戦争を通じて旧幕軍にとって唯一の援軍となった仙台藩見国隊(隊長二関源治)三百五十が上陸した地でもある。

 函館からの帰路は、寝台特急「北斗星」である。夕方に函館を出れば、その日のうちに自宅に帰り着くことは可能であるし、四国出張時に何度も寝台特急を利用した経験のある私としては特に「北斗星」にこだわる理由はなかったが、鉄研の息子としては必須であった。「北斗星」は、午後九時四十八分に函館を出発する。「北斗星」がホームに入ってくると、鉄ちゃんが群がり一斉に写真撮影が始まる。鉄ちゃんをかきわけるようにして「北斗星」に乗り込む。
ときどきガタンと大きく揺れるので、決して寝心地の良い乗り物とは言えない。十分睡眠が取れないまま、朝を迎えた。大宮到着は、朝九時十分であるが、五分くらい遅延した。
 帰宅した翌日、何気なくテレビのニュースを見ていると、貨物列車の脱線事故のため函館本線が不通となっていた。出発前日の記録的大雨といい、結果からみれば絶妙のタイミングで北海道まで往復できたといえる。今回の旅行におけるレンタカーの走行距離は千キロメートルを越え、撮影した画像も千枚を越えた。まさに史跡三昧であった。
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森 鷲ノ木

2013-11-16 23:30:31 | 北海道
(鷲ノ木史跡公園)


鷲ノ木浜から駒ヶ岳を望む

 明治元年(1868)榎本艦隊が上陸したのが、現・森町鷲ノ木である。遠く駒が岳を望むことができる。まさに箱館戦争はここから始まったのである。


旧幕軍榎本武揚土方歳三之上陸地碑

 明治元年(1868)十月二十日(新暦では十二月初旬に相当する)、榎本武揚率いる艦隊が、鷲ノ木浜に上陸した。箱館戦争の幕開けである。この日、北西の風が強く、海は荒れ、波は高く、積雪は三十センチになった。上陸時に海に転落したり、舟に挟まり事故死したのは十六名にも上る。
 榎本艦隊は、回天、開陽、蟠龍、長鯨、神速、鳳凰、回春、大江の八艦。榎本武揚、松平太郎、大鳥圭介、土方歳三、古屋佐久左衛門ら二千人以上を運んできた。土地勘のある榎本が鷲ノ木浜を上陸地に選んだのは、何の防備もなく無血上陸が可能だという確信があったからである。鷲ノ木には小さいながら集落が形成されており(当時の戸数八十戸)、二千人以上もの兵を冬の北海道に露営させずに済むという計算もあったであろう。


史跡 箱館戦争榎本軍鷲ノ木上陸地碑

(霊鷲院)
 霊鷲院は現在国道で分断されている。山本泰次郎や戦没者之碑は、本堂とは反対側の海側に置かれている。


霊鷲院


山本泰次郎墓

 明治元年(1868)十月二十三日の峠下での戦いで、榎本軍最初の戦死者となったのが、山本泰次郎である。山本泰次郎は伝習隊士。この戦いで重傷を負い、鷲ノ木に後送されたが、十一月九日に死去。十九歳という。


箱館戦争鷲ノ木戦没者之碑

 上陸時に事故死した十六人を葬った慰霊碑である。



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八雲

2013-11-16 23:21:53 | 北海道
(箱館戦争陣地跡)


箱館戦争陣地跡

 八雲町入沢地区に残る旧幕軍の構築した土塁の跡である。この地が旧幕軍の守備範囲の北限であった。明治二年(1869)五月四日、新政府軍の一隊がここに出現したとき、既に旧幕軍の守備兵は退却した後であった。

(箱館戦争戦没者之墓)


箱館戦争戦没者之墓

戦病死した新政府軍の槇孝次郎、藤原与右衛門の名が刻まれている。
この墓を探し当てるのには、ちょっと苦労した。位置は、先に紹介した陣地跡からさらに北に四キロメートルほど行ったところ。特に標識や案内板があるわけではなく、ひたすらそれらしい場所を走り回るしかない。結果からいうと、近くにこれといった目印になるようなものはなく、強いて言えば泉沢橋という橋くらいのものである。この橋から周囲を見渡すと少し離れた木立の中に見つけることができる。

(八雲町役場)


八雲開拓記念碑

 尾張徳川家では、士族授産のため北海道開拓に乗り出すことになった。明治十年(1877)七月、徳川慶勝は旧藩士族の吉田知行、角田弘業、片桐助作を北海道に派遣し、移住・開墾地として最適地を探索させた。一行の報告を受けて、慶勝は開拓使長官黒田清隆に対し遊落部(ユーラップ)の無償払い下げを願い出た。明治十一年(1878)には第一回の移住が開始された。このときの移住者は家族十五戸、単身者十名であった。その後、第三回移住まで含めると人口四十七戸、二百六十余名まで増加した。
 明治十四年(1881)、遊落部が分離独立したことを機に「八雲村」と名付けられた。この名前は、尾張とゆかりの深い熱田神宮に祀られている素盞鳴尊(スサノオノミコト)が詠んだといわれる「八雲たつ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」から引用されたものである。


八雲たつ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

(開拓移住者上陸記念碑)


開拓移住者上陸記念碑

旧尾張藩主徳川慶勝は、北海道の開拓と旧藩士の授産のために、開拓使に輸送船の派遣を要請したところ、時の開拓使長官黒田清隆はこれを喜び、汽船玄武丸を派遣してこれを援助することとした。移住者は、尾張を出て、途中東京で下船して徳川家に挨拶を済ませ、函館港で開拓使汽船ケプロン丸に乗り換えて、明治十一年(1878)十月十二日、当地より上陸した。その後も数次に渡って移住者がこの場所から上陸した。まさに八雲開拓の起点となった場所である。


(八雲神社)


八雲神社

 徳川慶勝が死去したのは、明治十六年(1883)八月一日である。明治十九年(1886)に八雲神社が創建されると、全国で唯一の熱田神宮の分社となった。明治二十六年(1893)には慶勝を守護神として祀ることが願い出された。現在も、慶勝の命日の八月一日には祭祀が行われている。


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長万部

2013-11-16 23:12:14 | 北海道
(飯生神社)


飯生神社


史跡ヲシャマンベ陣屋跡

 幕府は、箱館開港にともない箱館奉行所を設置し、安政二年(1855)には、松前藩一藩では無理との判断から蝦夷地直轄を決めた。
幕府は、東北五藩に分担で蝦夷の警備を命じた。南部藩は、箱館から幌別までの海岸一帯の警備を命ぜられた。
現地調査にあたった上山半右衛門、新渡戸十次郎(新渡戸稲造の父)は、仮想敵国ロシアは港から侵攻すると想定して陣を敷いた。津軽海峡を守る箱根元陣屋に主力を置き、室蘭市に出張陣屋、長万部に屯所を、砂原には分屯所を設けた。
ヲシャマンベ陣屋は室蘭の陣屋と同じく安政三年(1856)に構築されたが、安政四年(1857)月長万部沿岸が砂原遠浅で、外国船が容易に近づけないことが分かり、南部藩は自藩に引き上げた。
現在、陣屋跡地には飯生(いいなり)神社があるが、近くを散策してみると、当時の土塁らしきものが残されている。


土塁跡

 長万部が今回の旅の最北限であった。陣屋跡を見て、来た道を引き返した。


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七飯

2013-11-16 23:06:48 | 北海道
(峠下)


箱館戦争戦死者墓碑群

この地に葬られているのは、明治元年(1868)十月二十三日の峠下における戦闘で戦死した新政府軍弘前藩金寅太郎ら五名である。
墓に向かい合うように「峠下戊辰役勃発之地」と記された小さな石碑がある。


峠下戦跡戊辰役勃発之地碑

 先遣部隊である人見隊は雪中を行軍して峠下で宿営した。峠下は江差方面への分岐点であり、宿場町であった。一方、箱館府でも松前藩、弘前藩兵三百余を派遣し、峠下に向かった。彼らが遭遇したのは、十月二十二日の深夜であった。この地で箱館戦争における最初の砲声が響いた。
 人見隊は巧みに移動しながら側面攻撃を加え、そこに大鳥隊も到着したため、夜を徹した銃撃戦は旧幕軍の勝利に終わった。装備の差に加え、旧幕軍は関東、奥羽、会津と転戦してきた歴戦の兵士であり、箱館府兵の敵う相手ではなかった。


庚申塚


一行院跡


平山(金十郎)先生之墓

 峠下の戦死者を葬ったのが、一行院という寺であるが、今は廃寺となっている。
 平山先生というのは、この地で私塾を開いていた平山金十郎という人物である。慶応四年(1868)七月、清水谷公考知事を誘拐して箱館府の転覆を企んだが、計画は事前に露見して逃亡した。明治七年(1874)峠下に戻って、塾を再開した。

(宝琳寺)


宝琳寺


官修墓

 備後福山藩赤松岩太郎ら七人を葬った官修墳墓である。


石地蔵

 宝琳寺には、八王子同心ゆかりの史跡や墓がある。遠く北海道まで来て、地元八王子出身者の墓に出会うとは、感に堪えない。

 この石地蔵は、八王子同心飯田甚兵衛が寄進したものである。ガラスケースに保管されており、写真にはクリアに写らなかった。


八王子同心秋山幸太郎の墓

 秋山幸太郎は、新政府軍の大砲方伍長として出陣し、明治元年(1868)十月二十四日の戦闘で戦死した。


荒井信五郎の墓

 荒井信五郎は、鷲ノ木に駐在していた箱館府の兵士である。榎本艦隊が鷲ノ木沖に出現したという情報を箱館府に急報したのが荒井信五郎であった。

(一本栗地主神社)


一本栗地主神社


一本栗

 樹齢六百年とも言われる大きな栗の木が御神木という神社である。この栗の木の下には箱館戦争における戦死者が埋葬されたといわれる。

(男爵芋発祥の地碑)


男爵芋発祥の地碑

 明治三十九年(1906)、函館ドック取締役として函館に赴任した川田隆吉男爵が、趣味の園芸研究のために当地に清香園農場を開いた。さすがに男爵ともなると、趣味といってもスケールが違う。明治四十一年(1908)には外国商会を通じて数十種類の種苗を輸入し、試作実験を行った結果、優良品種「男爵イモ」が誕生した。「男爵イモ」の命名は七飯村農会によるものという。

(七重小学校)
 明治三年(1870)、明治政府は当地に七飯開墾場を開き、いち早く畜力農業機械や西洋種作物、家畜を取り入れ、様式農法による近代農法の導入基地として、北海道の開拓に重要な役割を果たした。七飯小学校前に残る約二百二十メートルにわたる石垣は七飯開墾場の名残である。この場所が七飯開墾場の中心地に当たり、主要施設が置かれていた。


七飯開墾場事務所跡


七飯官園事務所跡石垣


明治九年御駐蹕之地碑


赤松街道

 この辺りの赤松並木は見事である。函館の松は、幕末に箱館奉行組頭栗本瀬兵衛(鋤雲)が、佐渡から赤松の種子を取り寄せ苗木にしたものを五稜郭周辺に植樹したのが始まりで、明治初年の明治天皇巡幸に際して移植されたものという。

(ガルトネルのブナ林)


ガルトネルのブナ林

 ガルトネルは、プロシアの貿易商である。七飯の三百万坪という広大な土地を開墾地として九十九年間租借するという契約を榎本政権と結んだ。ガルトネルは祖国から苗木を輸入し、西洋農法の導入を試みた。箱館戦争後、この契約が問題となり、明治新政府はこの解決に追われた。結局、明治新政府はガルトネルに多額の賠償金を支払って、開墾地を取り戻すことになった。
 ガルトネルの開墾地租借の背景には、英仏に遅れをとったプロシアの対日進出政策があったとも言われる。一方、ガルトネルが七飯で試験した西洋農法は、今日の北海道における農業の礎になったと再評価する向きもある。
七飯町に残るブナ林は、ガルトネルが故郷を懐かしんで植樹したもので、樹齢百年を超える人工植栽によるブナ林は全国的にも珍しいそうである。

(蓴菜沼)
 蓴菜沼は、明治五年(1872)、開拓次官黒田清隆が当地を訪れた際に命名したものである。


蓴菜沼


明治天皇蓴菜沼御小休所

 蓴菜沼も八王子同心ゆかりの場所である。
 明治五年(1872)、蓴菜沼湖畔を通る街道が開通すると、七飯村に入植していた八王子同心出身の宮崎重兵衛はここに旅館を建てた。因みに宮崎重兵衛は、箱館府兵として箱館戦争にも参加した人物である。やがて蓴菜沼は名勝地として知られることになり、旅館も大繁盛した。明治十四年(1881)九月、明治天皇の北海道巡幸の際、宮崎旅館は小休所に指定され、重兵衛はコイや蓴菜を天覧に供したという。明治三十六年(1903)鉄道の開通とともに観光客は大沼に移り、蓴菜沼の旅館群も消滅してしまった。


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北斗 大野 Ⅱ

2013-11-16 22:38:43 | 北海道
(市渡小学校)


市渡小学校

 市渡小学校には、大きな栗の木が二本ある。この栗の木は、箱館戦争で市渡稲荷神社が旧幕軍の作戦本部に充てられたとき、榎本武揚の命で地元の鈴木駒蔵が植樹したものといわれる。


栗の木

(野戦病院跡)


野戦病院跡

 旧吉田文三宅は、箱館戦争当時、旧幕軍が野戦病院を置いた場所である。例によって「大野 文保研」が標識を立てている。半ば雑草に覆われており、なかなか夏場にこれを発見するのは骨が折れる。
 場所は、国道227号線と道道756号線の交差点(南西角にガソリンスタンドがある)を二百メートルほど大野市街地側に行ったところである。

(意富比神社)


意富比神社

「意富比」と書いて「おおひ」と読む。
 明治元年(1868)十月二十四日、風雪の中、峠下から箱館に向かう大鳥圭介率いる旧幕軍本体と、それを阻もうとする新政府軍が市渡で遭遇し、意富比神社境内で白兵戦となった。戦闘に慣れた旧幕軍は新政府軍を圧倒し、約一時間の戦闘で決着した。このとき旧幕軍の放った砲弾が付近の住宅に当たって燃え上がり、折からの強風にあおられて十数軒が焼失した。


弾痕のあるイチイ

(光明寺)


光明寺


新政府軍の墓

 新政府軍の墓は、福山藩、越前大野藩、松前藩のものである。


永井蠖伸斎墓「蠖伸斎永穏誠忠居士」

 衝鋒隊の永井蠖伸斎の墓である。額兵隊の網代清四郎と合葬されている。両名とも明治二年(1868)四月二十九日の戦死。

(焔硝倉跡地)
 やはり箱館戦争当時の焔硝倉跡地である。国道227号線沿いにある。近くを走行していて、偶然文保研作成の看板を発見した。


焔硝倉跡地

(箱館戦争と無縁墓地)


箱館戦争と無縁墓地

 明治元年(1868)十月二十四日、大野における福山藩の戦死者二名(千賀猪三郎と松本喜多治)の墓である。福山藩は老中阿部正弘を出した幕府寄りの藩であり、新政府に帰順したものの、命じられるままに奥羽から道南に藩兵を派遣せざるを得なかった。

(北海道水田発祥之地)
 碑文によれば、元禄五年に作右衛門なる農民がこの地(文月)を開拓して米十俵を収穫した。しかし、作右衛門の水田は数年で廃止され、その後も失敗と成功を繰り返した。嘉永三年(1850)大野村の高田松五郎、万次郎の父子が苦心の末、米の収穫に成功すると、これ以降ようやく米作りは安定した。ここを起点に道内に米作が広がったため、当地が北海道水田発祥の地とされた。


北海道水田発祥之地

 この日は、木古内を出て、上ノ国、江差、乙部、熊石、厚沢部を経て大野に至る計画で、今回の旅程中もっともタフな一日になることが予想された。もちろん昼食など食べている時間もなく、ひたすら走り回った結果、日没までにほぼ予定の史跡を見て回ることができた。


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