史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「龍馬史」 磯田道史著 文春文庫

2013年06月22日 | 書評
著者磯田道史氏は、最近マスコミへの登場が目につく若手学者である。だいたいマスコミに受ける学者さんというと、大向うをうならせることを意識した発言ばかりで信用がならない。
という次第であまり期待せずに読み始めたが、思いのほか説得力のある主張ばかりで感服した。まさに「我が意を得たり」の連続。星五つを差し上げたい。
「龍馬自身が書いた手紙を虚心坦懐に読んで、真の龍馬像に迫る、その知的作業が、あまり行われていない」と主張する著者が行き着いた結論は、「龍馬暗殺に謎なし」である。
著者は、巷間囁かれている新選組黒幕説、紀州藩黒幕説(かくいう私も一時、紀州藩説に傾いていました)、土佐藩黒幕説、薩摩藩黒幕説を次々と否定し、「荒唐無稽」と切り捨てる。虚心坦懐に、そして公正中立に残された史料や証言を読み解けば、これら黒幕説があり得ないことは明白である。
――― 龍馬ほどの人物が殺されたのだから、その犯人はできるだけ大物であってほしい。あるいは何かとてつもない大きな陰謀が事件の裏にあって欲しい。そういう龍馬に対する敬慕の念に発した「願望」が我々の中にあるのかもしれません。
いや、全くそのとおり。薩摩藩黒幕説など本気で信じしている方がおられましたら、是非この本を一読願いたい。

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「新徴組」 佐藤賢一著 新潮文庫

2013年06月22日 | 書評
 幕末の会津藩も多士済々であるが、庄内藩も人材の多様さでは負けていない。「新徴組」は、庄内藩を舞台とした小説であるが、敢えて庄内藩の多彩な人物を登場させず、必要最低限の登場人物で抑えたところにこの作品の読み易さの秘訣がある。
 主人公は、新選組の沖田総司の義兄にして、新徴組隊士。近藤勇や土方歳三らとも交流があった沖田林太郎である。小説は沖田林太郎を軸に、庄内藩の幹部である菅実秀や松平権十郎(親懐)などを配し、庄内藩が幕末の動乱に飲み込まれていく様子を劇画的に描く。著者が沖田林太郎の目を通して本当に描きたかったのは、“鬼玄蕃”こと酒井玄蕃了恒の姿ではなかったか。
 酒井玄蕃は、二番大隊を率いて久保田藩領に攻め入り、連戦連勝。久保田城を目前にしたところで米沢藩の降伏の報が届き、泣く泣く撤退を余儀なくされた。小説で見ると少し出来過ぎのような印象もあるが、ほぼ史実そのままである。単に久保田藩が弱かっただけかもしれないが、それを割り引いても庄内藩兵は強かった。奥羽越列藩同盟の崩壊は、東北人にとって思い出したくない歴史であろうが、その中にあって庄内藩は唯一胸のすくような快進撃を続けた。
 著者佐藤賢一は、山形県鶴岡市の出身で、当然ながらこの土地への思い入れが深い。ぼんやりしているようで、何故だか戦場に出ると無敵の強さを誇った庄内人を、自分の家族のように描く。何故、庄内兵が強かったのかよく分からないながら、この本を読むと少し分かったような気がしてくる。

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下郷

2013年06月14日 | 福島県
(大内宿)


大内宿

 大内宿は、今も昔の面影を残す宿場町である。町を貫く道路も舗装されないままで昔の風情を伝え、人気の高い観光地になっている。
 大内宿は江戸初期に会津西街道の宿駅として整備された。参勤交代や旅人の通行、物資の輸送などに利用された。しかし、明治十七年(1884)、日光街道が開通すると、宿駅としての機能を失い、山間に取り残されることになった。
 個人的には当たり前の観光には興味が無く、まっしぐらに正法寺を目指した。カーナビの指示するまま進行していると、大内宿の人混みに突入してしまった。大慌てで向きを変えて撤収したが、観光中の方々には大いに迷惑をかけてしまった。それ以上にとても恥ずかしかった。結局、観光用の駐車場に車を停めて、大内宿を通って改めて正法寺へ向かうことになった。

(正法寺)


正法寺

 大内宿の突き当たり、少し小高くなったところに正法寺は位置する。墓地に笹沼金吾の墓がある。


笹沼金吾墓

 笹沼金吾は御目付役笹沼金兵衛の弟。十石三人扶持。会津藩砲兵隊頭取。慶応四年(1868)八月三十日、大内宿に迫った西軍に対し、会津兵は奇襲をかけたが、薩兵砲兵隊の反撃に遭い後退、大内峠で激戦となった。笹沼金吾は独り大内宿に残留し、水車小屋に潜みゲリラ戦を展開し、壮絶な戦死を遂げた。三十五歳。

(大内ダム)


戦死二十四人墓

 大内ダム沿いの道路を会津若松に向かって走っていると、「戦死二十四人墓」と書いた小さな案内板がある。そこを右折して細い道を数百メートル進んだ林の中に戦死二十四人墓と小出勝之助の墓が並んで置かれている。昭和六十年(1985)、大内ダム建設に伴い当地に移設されたものである。
 慶應四年(1868)九月一日から翌日未明にかけて、日光口守備隊長に任じられた山川大蔵は大内峠に拠って、佐賀藩、宇都宮藩、大田原藩から成る西軍を迎撃した。この戦闘で宇都宮藩大沢冨三郎以下二十四名が戦死した。彼らを供養するものである。


小出勝之助墓

 小出勝之助は、大内での戦闘で戦死した会津藩士。
 二日目の旅はここで日没を迎えた。山端に沈む夕日が美しかった。

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昭和

2013年06月14日 | 福島県
(大芦)


戊辰の役古戦場跡

 慶應四年(1868)八月二十三日というと、会津若松城下に西軍が雪崩れ込んだ、会津藩にとっては忘れ難い日である。その後、金沢藩を主体とした西軍は、野尻郷各村に宿陣し、警備を固めた。これに対し九月二十四日朝、会津藩軍は田島方面から奇襲をかけた。西軍は敗走し、大芦を下中津川方面に退却した。このとき既に若松城は落城していたが、会津藩士はそのことを知らずに戦い続けていた。


野村新平墓

 西軍を追って、会津藩朱雀三番寄合組隊鈴木隊長以下約二十五名がこの付近まで進撃してきたところ、軍を立て直した西軍が逆襲し激戦となった。数の上で不利であった会津藩軍は退散することになったが、この戦闘で野村新平(二十五歳)が戦死した。
 野村新平は、鈴木隊半隊頭。町奉行、二百石。何故だか、墓石は赤い毛糸の帽子を被っていた。


会津藩戦死二人之墓

 田島方面から国道400号を経由して昭和村に入る。奥会津昭和の森というキャンプ場の南端の交差点に会津藩戦死二人墓がある。一人は大芦村矢ノ原で戦死した野村新平。もう一名は角田五三郎である。角田五三郎は、朱雀士中三番小野田隊。九月二十四日、大芦で戦死。二十三歳。


佐藤音之助墓

 佐藤音之助は、朱雀寄合三番隊道案内兼斥候。明治元年(1868)九月二十四日、下中津川で戦死。


小杉半蔵墓

 小杉半蔵の墓は、大山祗神社の上の墓地にある。大山祗神社は、西軍の攻撃により全焼したという。
 小杉半蔵は、金沢藩士。今枝民部家来。明治元年(1868)九月二十四日、大芦にて戦死。四十九歳。


官軍戦死九人之墓

 前掲の会津藩二人墓に出会って、次に官軍戦死九人之墓を見つけるまで四十分以上、付近を走り回った。
 官軍(金沢藩、高崎藩)の大芦での戦死者九人を合葬した墓である。

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南会津

2013年06月14日 | 福島県
(照国寺)


照国寺

 照国寺の山門は、延享二年(1745)に再建されたもので、現存する山門では会津地方最古にして最大のものといわれる。ただし往時は茅葺だったが、現在はトタン製に改装されている。


河原田包彦追悼碑

河原田包彦(かねひこ)は、会津藩御蔵入奉行河原田治部信盛(百六十石)の長男として嘉永六年(1853)に生まれた。戊辰戦争勃発時、包彦はわずか十六歳であったが、旧領主河原田氏の子孫ということで、伊南方面の守備に任命され、父に代わって数百の士卒を率いて国境の守備についた。五月十一日、西軍千二百の大軍が押し寄せて来たがこれを迎撃して軍功があった。戦後、包彦は越後高田に謹慎したが、病魔に侵され、翌明治二年八月日死去。享年十七。墓は上越市の会津墓地にあるが、明治二十七年(1894)、照国寺に追悼碑が建てられた。

(慈恩寺)


慈恩寺


官軍戦死十九人墓

 田島周辺で戦死した東軍(大田原藩、福山藩、広島藩、宇都宮藩)十九人の墓である。墓石の側面、裏面に被葬者の名前が刻まれているが、中には姓名不詳の戦死者も含まれる。

(田島陣屋跡)


田島陣屋跡

 南山御蔵入五万五千石の地は、寛永二十年(1643)幕府領となり、会津藩の預り支配となった。会津藩では田島に陣屋を置いて統治した。陣屋の位置は、江戸時代を通じて二度ほど移動したが、慶應元年(1865)には三度目の変遷があった。

(栗生沢)
 栗生沢の墓地には、木製の墓標で官軍墓が建てられている。葬られているのは当地で戦死した芸州藩山本他人輔。慶應四年(1868)、九月九日、戦死。二十七歳。東京泉岳寺合葬墓にも名前がある。


官軍墓
山本他人輔墓

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只見

2013年06月07日 | 福島県
(河井継之助記念館)


河井継之助記念館

 この山あいの寒村が史上脚光を浴びたのは、長岡藩の河井継之助が、この地で息を引き取ったときが唯一であろう。八十里を越えて只見に至った河井継之助は、ここで四十二年間の激動の生涯を閉じた。河井継之助がここで死んだからといって、それだけでは注目を集めることにもならなかったかもしれない。何といっても司馬遼太郎先生の小説「峠」の影響が大きいのではないか。小説のラストシーンは、河井継之助の評価がどうとかいう次元を超えて、とにかく感動的である。今回の旅において、欠かせないスポットの一つであった。
 只見にはまだ残雪があり、北欧の風景と見紛うばかりである。
 河井継之助記念館は、冬期は閉館していると聞いていたが、幸いにしてこの日は営業していた。予想以上に充実した展示であった。


再現された河井継之助終焉宅(矢沢家)

 河井継之助が、只見で最期を過ごしたのは十二日間であった。継之助が息を引き取ったのは、村医矢沢宗益の家であった。河井継之助記念館には、矢沢家が移築再現されている。


河井継之助像


ガトリング砲を操作する河井継之助

 河井継之助は、当時日本に三門しかなかったというガトリング砲を自ら操作して応戦したと伝えられる。その様子を再現したものである。


司馬遼太郎の書

 司馬遼太郎先生は、「峠」の連載後、当地を訪れ、「山水相應蒼龍窟」「壺中天」という二つの揮毫を残した。壺中天とは、俗世間とは一線を画した別天地のことを指し、只見という土地を的確に表現したものである。

以下「峠」のラストシーン
――― 「いますぐ、棺の支度をせよ。焼くための薪を積みあげよ」と命じた。
 松蔵はおどろき、泣きながら希みをお持ちくだされとわめいたが、継之助はいつものこの男にもどり、するどく一喝した。
「主命である。おれがここで見ている」
 松蔵はやむなくこの矢沢家の庭さきを借り、継之助の監視のもとに棺をつくらざるをえなかった。
 松蔵は作業する足もとで、明りのための火を燃やしている。薪にしめりをふくんでいるのか、闇に重い煙がしらじらとあがり、流れず、風はなかった。
「松蔵、火をさかんにせよ」
と、継之助は一度だけ、声をもらした。そのあと目を据え、やがては自分を焼くであろう闇の中の火を見つめつづけた。
 夜半、風がおこった。
 八月十六日午後八時、死去。

(医王寺)


医王寺

 医王寺は寺ということになっているが、見た目はほとんど物置のようである。
 記念館の女性から「河井継之助の墓は、ここから歩いて数分ですけど、雪が残っているので近づけません」と教えてもらった。確かに墓の前には、雪がこんもりと積まれていた。


河井継之助墓

(叶津番所跡)


長谷部家住宅

 叶津番所を務めた名主長谷部家に、八十里を越えて当地に至った河井継之助一行が宿泊している。
 長谷部家住宅は、県の重要文化財に指定されている寄棟造り、茅葺住宅である。

(新福寺)


新福寺

 新福寺に金沢藩森川余所之助の墓がある。


加賀藩卒森川余所之助墓
行年二十一歳

 金沢藩森川余所之助は、明治元年(1868)九月二十三日、入小屋の戦い(現・南会津町東)にて負傷し、小林で死亡(自決)。二十一歳。

 実は布沢の龍泉寺に金沢藩大田治左衛門の墓があることも把握していたが、そこに至る道路が通行制限中(恐らく残雪のため)ということだったので断念した。只見を訪問するのであれば、季節を選んだ方が良さそうである。

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金山

2013年06月07日 | 福島県
(横田)


山ノ内家之墓
(山之内大学墓)

 福島県金山町。“かねやま”と読む。山形県の金山町と同じ読みである。
 金山町の横田にはJR只見線が走る。山之内家の墓がある墓所には、踏切はないが只見線の線路を越えなくてはいけない。積雪が線路を覆うように残っており、容易に墓地に近づけない。どうやら只見線はこの季節不通になっているようである。滑ったり、転んだりしながら、ようやく墓地にたどり着いた。墓石も半ば雪に埋もれていた。


小沼安士之墓
横田善通之墓
中丸俊成之墓

 山之内家家来である小沼源蔵安士、横田大佐善通、中丸三郎右衛門俊成という三人の連名墓である。

 小沼源蔵は、慶應四年(1868)九月一日、会津一ノ堰にて傷。十月三日、蔵入玉梨にて死。二十六歳。
 横田大佐は、山内大学の弟。十石三人扶持。明治元年(1868)九月十五日、一ノ堰にて傷。玉梨にて自害。三十五歳。
 中丸三郎右衛門は、四石二人扶持、長柄者。明治元年(1868)九月二十二日、会津南山で傷。十月二日玉梨にて死。三十七歳。


山内家屋敷跡

 横田小学校の敷地辺りが、四百年にわたって横田を治めていた山ノ内家の屋敷跡に相当する。三方の土塁と後方の深田堀で囲まれていたといい、今もその名残を見ることができる。幕末の当主、山ノ内大学知通は、家臣を集めて山ノ内隊を結成して各地を転戦した。維新後は会津藩執政、斗南藩少参事を務めた。

(小沼家墓地)


小沼雄八墓

 小沼雄八は山ノ内大学家来。慶應四年(1868)閏四月十八日、越後小出島にて傷。五月十四日、宮下で死。二十七歳。

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柳津

2013年06月07日 | 福島県
(円蔵寺)


円蔵寺

 円蔵寺は、茨城県東海村の村松虚空地蔵尊、宮城県登米市の柳津虚空地蔵尊とともに日本三大虚空地蔵尊と称され、別名福満虚空地蔵とも呼ばれる(別に三重県伊勢市の金剛證寺とする説もある)。
 只見川に臨む断崖に堂宇が建てられている。本堂の川に面した壁面には、戊辰戦争時と推定される弾痕が残る。


弾痕


頼三樹三郎詩碑

弘化三年(1846)、越後に向かう途中、当地を訪れた頼三樹三郎は風景の美しさに感銘を受け漢詩を残した。

宿柳津 鴨厓頼醇 北州名勝是禅関
寺在巉巌萬畳湾 夜枕夢清連岸水
暮鐘聲落半空山

只見川側を見下ろす場所は、舞台状になっている。そこに立つと眼前に絶景が広がる。


只見川

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西会津

2013年06月07日 | 福島県
(常楽寺)


常楽寺

 常楽寺には、会津藩士山本栄三郎、長岡藩士岡村半四郎、中田良平、薩摩藩士吉田与藤次の墓がある。


山本栄三郎墓

 山本栄三郎は、田中大海家来。朱雀寄合二番西郷隊附属。慶應四年(1868)、七月二十九日、新潟にて戦死。


岡村半四郎・中田良平墓

 岡村半四郎、中田良平とも長岡藩士で中間杖突。岡村半四郎は、明治元年行方不明。中田良平は、慶應四年(1868)、八月下旬(墓碑によれば八月二十八日)、会津領大山祇辺りで戦死?


薩藩 官軍先鋒 吉田譽藤二清次墓

 吉田与藤次は、加世田郷士。外城第二隊。慶應四年(1868)九月一日、下野御蔵入村で戦死。二十五歳。新潟常盤岡に墓。

(龍泉寺)


龍泉寺


安藤元四郎墓

 天気予報によれば、GWは好天だということであったが、この辺りを走っているうちに雲行きが怪しくなってきて、龍泉寺に着いたときには本降りとなった。
 いつもは傘を携行しているのだが、今回に限って持っていなかった。こういうときに限って雨に祟られる。「降らないって言ってたじゃないの」と気象庁に文句をいいたくなった。
 龍泉寺では、雨に濡れながら墓地を歩くことになった。
 墓地の一番奥に安藤元四郎の墓がある。安藤元四郎は、朱雀士中四番町野隊。慶應四年(1868)九月二日、会津真ヶ沢にて戦死。二十七歳。墓の表面はほとんど剥離しており、辛うじて「安」と「墓」という文字が読みとれるのみである。

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会津坂下 Ⅱ

2013年06月02日 | 福島県
(光照寺)


光照寺


戦死六人之墓

 光照寺本堂前の戦死六人之墓には、会津周辺で戦死した高田藩士および福井藩士六人(新村美代吉、松井勝之助、高橋源四郎、大西孝左衛門、増永磯之助、渡辺源四郎)が合葬されている。

(光明寺)


光明寺


小倉藩二名墓

 生田孫八郎、岩竹国太郎という二人の小倉藩士の墓である。
 生田孫八郎は、明治元年(1868)九月、若松にて戦死。陣没とも。二十歳。
岩竹国太郎も明治元年(1868)九月、会津で戦死。陣没か。十六歳。


茂原岩之助墓

 茂原岩之助は、玄武士中伊与田隊。明治元年(1868)九月十七日、会津一ノ堰にて戦死。五十八歳。

(束原墓地)


市川権次墓

 三名の名前が列記される墓である。うち左に刻まれるのが市川権次の戒名(水心本無信士)で、「戊辰戦死 二十三歳」とある。


城取家(やい)之墓

 城取やいは、明治元年(1868)九月十三日(十四日とも)、若松城内にて戦死。四十三歳。

(勝方寺)


勝方寺

 勝方寺門前には、「町野家・南摩家 家族殉難(自刃)の地」という目立つ看板が掲げられている。


町野家・南摩家殉難の地碑

 南摩弥三右衛門の母カツと嫁のフサは、幼い子供二人を連れて城西へ逃れ、古寺や空家を転々とするうちにカツの姉町野キトと遭遇した。勝方村に至ってようやく寺院に泊まることができたが、慶應四年(1868)九月六日、落城との報に接し一同は自害を決意し、カツは嫁のフサを城内にある弥三右衛門のもとへ向かわせた末、山中に入って全員自刃した。当地で命を絶ったのは九人。中には三歳から八歳の幼児四名が含まれる。凄惨というほかない。

(徳正寺)


徳正寺

 徳正寺に佐瀬嘉左衛門の墓がある。


光林院諦譽明散浄清居士
(佐瀬嘉左衛門墓)

 佐瀬嘉左衛門は、二十二石四人扶持。玄武寄合組。慶應四年(1868)九月五日、会津福原にて戦死。五十六歳。「幕末維新全殉難者名鑑」には「八月自宅とも」と記載されているが、墓碑側面には「慶應四戊辰年 九月五日」と刻まれている。

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