goo blog サービス終了のお知らせ 

史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

葛城

2018年11月02日 | 奈良県
(綿弓塚)


竹内街道

 葛城市の竹内街道沿いに「綿弓塚」と称される句碑が建っている。この句は、松尾芭蕉が、門人千里の案内でこの地に至り、数日間、当地に滞在したときのもので「綿弓や 琵琶に慰む 竹の奥」というものである。これを記念して文化六年(1809)に建てられたものでる。


綿弓塚

 綿弓塚の横の休憩所の街道沿いに「竹内街道」の説明が付されている。竹内街道は、推古天皇二十一年(613)に、難波と飛鳥京の間におかれた街道で、飛鳥時代には我が国最初の官道として栄えた。松尾芭蕉がここを訪れたのは貞享五年(1688)のことであった。さらに時代は下って嘉永六年(1853)、吉田松陰が竹内峠を越えて谷三山ら儒者を訪ねて大和に入っている。文久三年(1863)には、天誅組の中山忠光ら七名が志果たせぬまま、ここを逃走している。
 作家司馬遼太郎先生は、幼少期を竹内街道で過ごした。


綿弓塚横の休憩所

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天川

2018年11月02日 | 奈良県
(伊波多神社)
 天川村は京阪神の都市部はいうに及ばず、奈良市からも遠く離れた僻地である。村の大半は山地であり、そこを天ノ川の清流が流れる。夏は関西の避暑地として人気がある。
 この僻遠の地に水遊びやキャンプを楽しむために大勢の観光客が押し寄せており、川合交差点を先頭に大渋滞が発生していた。
 当初、この後、川上村の伯母谷や大台ヶ原山まで足を伸ばす計画であったが、ここで渋滞にあって時間を浪費してしまったこと、それに急に天気が崩れ大雨の気配が漂ってきたことから、予定を変更して大阪方面に引き返すことにした。


伊波多神社

 村人がこの神社の裏にある川淵で底に沈んだ剣を発見し、以来その剣をご神体として祀ったといわれる。この剣は時の天皇の御用剣とされたと伝承されている。この剣は幕末の天誅組の変において、この地域でも武具が徴収され、ご神体とされていた剣も徴収されたという。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五條 Ⅴ

2018年11月02日 | 奈良県
(極楽寺つづき)


故前木鏡之進之墓

 五條市極楽寺墓地を再訪(これで三回目)。十津川郷士前木鏡之進の墓を掃苔した。
 前木鏡之進は、天保十一年(1840)風屋久保(前木家屋号)に生まれた。諱は義照、通称鏡之進と称した。幼年より武技を好み、剣を館林の藩士に学んだ。郷内屈指の剣客と謳われ好んで赤鞘の大刀を腰にしていた。文久三年(1863)八月、中山忠光を奉じた天誅組が大和五條において代官所襲撃挙兵、十津川に檄を飛ばすや、鏡之進は野崎主計・深瀬繁理・田中主馬蔵等と共に、天ノ川辻の陣営に馳せ参じた。時に鏡之進年二十四歳。やがて京都の政変の報が伝わり、十津川郷は天誅組を離脱帰郷した。既にして浪士追討令が発せられていたため、その善後策に努めた。爾来、京都にあって御所警衛の任に従う。滞京中、七卿都落ちのことがあったが、五卿帰京の際同志と共に伏見にこれを出迎え、警護して入京した。明治初年御所警衛の郷士の間に意見の衝突があった。諸種の論争の要因があったが直接には、警衛中の郷士に伏見練兵場において洋式訓練を受けるように指示があったが、これに賛成反対の二流が生じた。鏡之進は所謂従来どおりの御所警衛を主張する保守派であり、伏見練兵場に入り洋式訓練を受けることに反対であった。そのため帰郷謹慎を命じられたが、丸太町の剣客吉田数馬方に寄寓して帰郷しなかった。明治二年(1869)横井小楠要殺事件の嫌疑をかけられたが容疑晴れて放免され帰郷した。郷里にあって鏡之進は保守派を牛耳り、前木党と呼ばれ開進派に対抗した。明治二年(1869)紛擾取り鎮めのため来郷の役人に呼び出しをうけた鏡之進は、たまたま和歌山県本宮に居たが、直ちに家に帰り衣服をあらため、決死の書をしたため、これを懐中にして召喚に応じるべく出発した。  三里山を越える時、前方より巡察使の来るを聞き、籠の中で切腹し、明治二年(1869)六月十三日、西吉野村和田で絶命した。享年僅か二十九歳であった。
 鏡之進は資性豪胆、勝ち気で人に屈することが嫌いであった為、しばしば知己とも離れることがあった。しかし奉公の念は極めて強く、かつて画家をして自らの像を描かしめ、その上に「生者現天子御膝元奉仕…」と書していた。  切腹の際懐中にしていた書面には、「(大意):私のしたことは一途に皇国の御為にしたことである。ことここに至ったこと死をもって御詫びする。郷中永く勤王出来ますようよろしく。」と記されていた。
 死後、郷中紛擾責任者として厳しく処分されたが、明治二十二年(1889)許された。(以上、十津川かけはしネットより)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉野

2018年11月02日 | 奈良県
(如意輪寺)


如意輪寺

 足利氏との争いに敗れた後醍醐天皇は京都を逃れ、吉野の行宮に身を寄せた。以来四年間、京都に帰ることを夢見つつ、延元四年(1339)、病床に就き「身は仮へ南山の苔に埋まるとも魂魄(たましい)は常に北闕(京都)の天を望まん」と身もだえるように崩御した。後醍醐天皇の遺体を北向きに葬ったのが、塔尾陵(後醍醐天皇陵)である。


後醍醐天皇陵

 如意輪寺境内には天誅組関連の石碑がある。一つは藤本鉄石の招魂碑である。


鉄石先生招魂之碑(藤本鉄石招魂碑)


小楠公髷塚碑文

 もう一つが小楠公髷塚碑文。慶応元年(1865)に津田正臣(津田出の実弟)によって建立された。撰文は森田節斎。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東吉野 Ⅵ

2018年11月02日 | 奈良県
(野見谷口)
 松本奎堂より先に御殿越しを進んだ藤本鉄石は、岩本谷を下って伊勢南街道に出た。紀州藩兵が付近を警戒していた。藤本と従者福浦元吉はここで紀州藩士的場喜一郎と遭遇し、血戦となった。二人は的場を倒し鷲家へと走った。


的場喜一郎戦死の地

 的場喜一郎戦死之地の場所は極めて分かりにくい。付近を歩き回ってどうしても見付けられなかった私は、たまたま家の前で植木に水をやっていた老人を発見し、「的場喜一郎の戦死の地を探しています」と尋ねると、「そりゃうちの裏だよ」と教えていただいた。言われるまま、その家の脇の路地を進むと、そこにあった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

十津川 Ⅳ

2018年06月16日 | 奈良県
(川津)
 七年振り二回目の十津川となった。さすがに十津川村に行くには宿泊が必要である。片端から電話を入れてみたが、GW中のこと故、空きがなく、車中泊も已む無しかと諦めかけた。最後に観光協会に紹介していただいた十津川温泉の「やまとや」はあっさりと予約ができた。
 五月といえ、十津川の朝は靄が発生するほど激しく冷え込み、とてもでないが車の中では安眠できなかったであろう。
 前回の訪問で回り切れなかった史跡を精力的に訪問した。最初は、川津の野崎主計の墓である。新川津大橋を渡って右折、百五十メートルほどいった山裾の墓地に野崎家の墓がある。自然石で建てられた一際大きな墓が主計のものである。


野崎主計正盛墓

(風屋共同墓地)


竹下熊雄之墓

 風屋の集落の一段高い共同墓地に竹志田熊雄の墓がある。周辺に民家が数軒あるが全く人の気配がない。大きな体をした野猿が三匹、民家の屋根から電線を伝って移動中であった。「こいつらに襲われたら勝ち目はないな」と思いながら、墓を探した。

 竹志田熊雄は玉名郡大浜の出身。初め松村大成に学び、のち林桜園について国学を修め、尊攘思想を抱いた。文久三年(1863)、同志とともに中山忠光を奉じ、大和五條に挙兵。敗れて吉野十津川に入ったが、病のため死亡した。腸チフスだったという。年二十一。墓には「竹下」とあるが正確には「竹志田」である。

(笹の滝)
 日の出前に宿を抜け出し笹の滝を目指す。笹の滝入口に着いたのは朝の五時二十五分であった。さすがにほかに誰もいない。
 宿に引き返して朝食をいただき、精算を済ませて七時十五分には出発。龍神街道と呼ばれる国道425号線を四十キロメートル以上、ひたすら和歌山県龍神村(現・田辺市)に向かって走る。根気と体力を要するドライブであった。
 今回の奈良県史跡探訪はここまでであったが、まだ県下の天誅組関係史蹟は残っている。最低でももう一回、奈良県史跡の旅を計画したい。


笹の滝入口


伴林光平歌碑


笹の滝

 笹の滝は、日本の滝百選にも選ばれている滝である。このところ雨らしい雨は降っていないが、それでも相当な水量であった。

 文久三年(1863)、十津川を脱した伴林光平らは滝川から笹の滝を通って北山郷に達した。笹の滝の入口には、この時伴林光平が詠んだ詩が刻まれている。

 世にしらぬあはれをこめてしぐるらん
 小笹瀧のありあけの月

(十津川護国神社)


十津川護国神社

 十津川護国神社は、幕末以来の戦乱で亡くなった十津川出身者を祀る神社である。境内には名前を刻んだ戦没者の碑がある。中井庄五郎や深瀬繁里、野崎主計(この碑では正盛)ら、知った名前もあるが、幕末の騒乱に命を捧げた無名の十津川出身者の多いことに感銘を受けた。


戦没者の碑


陸軍大将 荒木貞夫終焉之地

 十津川護国神社の鳥居の横に陸軍大将荒木貞夫終焉の地と書かれた石碑が建てられている。天誅組と二・二六事件の類似性に興味をもっていた荒木大将は、昭和四十一年(1966)、十津川村を訪れて南朝や天誅組の古文書などを塾覧し講演を行った。その日の夜、宿泊していた十津川荘で心臓発作を起し急逝した。享年八十九。この石碑は、没後一年の昭和四十二年(1967)も建てられたものである。書は佐藤栄作。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

下市 Ⅱ

2018年06月16日 | 奈良県
(長谷)
 長谷集落に橋本若狭の墓がある。
 橋本若狭は、東吉野小川郷から伊勢方面に脱出し、松本謙三郎の朋友で国学者の村上忠順・忠明父子を頼って刈谷藩に潜伏した。元治元年(1864)三月、大阪に出て日本橋黒門に家を構え、大坂屋豊次郎と称して材木商をし、先妻に世話になりながら時勢を窺っていたところ、その先妻の口から天誅組のことが漏れ、同年十一月二十九日、大阪奉行所に捕縛され、慶應元年(1866)六月、処刑された。(舟久保藍著「実録 天誅組の変」より)


正五位為橋本若狭霊位追善菩提

 下市町長谷の橋本若狭の墓は、天誅組百三十年を記念して、平成五年(1993)に建てられたもの。橋本若狭愛用の丹前などが納められているという。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西吉野 Ⅲ

2018年06月16日 | 奈良県
(欣求寺)
 橋本若狭とともに下市から天誅組に参加した欣求寺(ごんぐうじ)了厳は、汗入村(五條市西吉野十日市)の性竜寺に生まれた。欣求寺に住んでいたため欣求寺了厳と呼ばれた。天誅組破陣後、京都の西本願寺(欣求寺の本山)を頼って駆け込んだが、太鼓楼に幽閉された。了厳は食を絶って、翌年四月三日、死を迎えた。


欣求寺

 了厳の慰霊碑があるというので山深い十日市欣求寺を訪問したが、発見できず。欣求寺は現在地に移転したが、了厳法師之碑は旧地にそのまま置かれているらしい。

(波宝神社)
 吉野三山の一つ、銀嶺山(別名白銀岳 標高614メートル)は、古くから神南備山(かむなびやま)として信仰されてきた。この山頂に鎮座する波宝(はほう)神社の最古の記録は「日本文徳天皇実録」の天安二年(858)三月に官社となった記事まで遡る。祭神は住吉大神と神功皇后。幕末には有栖川宮の祈願所ともされ、文久三年(1863)九月七日、天誅組は下市方面からの攻撃に備えるため、この地に本陣を置いたが、防塁はわずか一日で陥落し、当地の本陣は三日のみであった。


波宝神社

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五條 Ⅳ

2018年06月16日 | 奈良県
(小林金芝宅址)


小林金芝宅址

 本陣交差点の近く、散髪屋の隣に目立たない石碑がある。小林金芝とは、森田節斎とも交流のあった医師小林道隆のことである。

(桜井誠文堂)
 桜井誠文堂(文房具屋もしくは書店か)は、五條を訪れた吉田松陰が宿泊し、ここを拠点に森田節斎を訪ねたとされる堤孝亭の旧宅跡である。堤孝亭は節斎とも交流の深かった医者である。現在、跡地は立派なビルとなっており、往時を偲ぶものは何もない。


桜井誠文堂

 松陰が森田節斎を訪れたのは嘉永六年(1853)二月十二日、大阪を発ち、竹内街道を越えて翌十三日、五條に着いた。ところが、節斎は所用で河内方面にでかけるところであり、松陰もそれに同行して富田林、岸和田、熊取、岡田、堺などを転々とし、再び五條に戻ったのは四月六日のことであった。

(講御堂寺)
 

講御堂寺

 五條代官所が天誅組の手によって占領されると、代官所が焼き払うことが通告された。合わせて、代官所の書類は村役人の手で保管することや、武器、書類、家財道具、衣類などを持ちだすよう指示が出された。代官所から慌ただしく持ち出された武器類は桜井寺へ、書類や衣類は講御堂寺(こうみどうじ)へ納められた。

(明西寺)
 天誅組に襲撃された五條代官所は、邸内で酒宴が開かれていて十三人の役人と鈴木代官の妻、手代梅田平三郎の妻、それに按摩の嘉吉がいた。その中の一人、取次役木村祐治郎は傷を負いながらその場を脱し、大島村(五條市五條四丁目辺り)まで逃げ、同村の戸長中西三郎兵衛に助けられて明西寺の太鼓堂に匿われた。しかし、翌日、天誅組先鋒の数名が捜索にきて、中西戸長に木村祐治郎の居場所を問い詰めた。その言葉は土佐弁だったという。もはや逃れることはできないと覚悟を決めた木村は、翌日、宇智川の橋の下で割腹して果てた。


明西寺


(極楽寺)


森田文庵墓

 節斎の父森田文庵の墓である。


小林道隆墓

 小林道隆は、五条の医師。森田節斎とも交流があった。

極楽寺墓地には、十津川郷士前木鏡之進の墓もあるはずだが、目にすることはできなかった。あとで十津川村のHPで確認したところ、のちに建て替えられたらしく、墓石はかなり新しそうである。古い墓石ばかりを見ていたため、見落としてしまったらしい。次回、リベンジである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御所 Ⅱ

2018年06月16日 | 奈良県
(大乗寺)
 御所の大乗寺は、高取城を攻撃しようという天誅組が軍議を開いた場所である。無防備と思われていた高取城が、天誅組が滞陣していた重坂付近まで斥候を出していたことが判明し、意外にも十分な警戒態勢を敷いていると認識した松本奎堂と藤本鉄石の両総裁は、敵の様子を探った上で吉村虎太郎の支隊と連絡を取り、そこから城を攻撃しようと提案した。しかし、血気にはやる若い隊士から即時攻撃の声が上がり、中山忠光もそれに同調したため、進発が決まった。


大乗寺

(風の森神社)
 風の森神社には、昭和五十八年(1983)、天誅組布陣百二十年記念して建碑された石碑がある。石碑には、西口紋太郎氏の「天誅組重坂峠」の一節が刻まれている。

――― 初秋の爽やかな風が吹き抜ける時、吉村寅太郎の率いる天誅組第二隊の志士は到着し陣を布いたのである。
 そして、鎖国日本の夜明けを告げる陣太鼓の音がこの頂上より大和一国に轟き渡りホラ貝の音が高らかに鳴り響いた。
 それは文久三年(1863)八月二十五日の昼頃であった。


風の森神社


天誅組布陣百二十年記念碑

(風の森峠)


風の森峠


風の森

 風の森峠では、色っぽいお姉さん?が出迎えてくれる。
 風の森は、大和高田、御所から五條に向かう下街道、高野街道の峠である。文久三年(1863)八月十六日、決起の報せを聞いた伴林光平は、直ぐに大阪を出立し、翌日の夕方には風の森にたどり着いた。

(西尾家)
 重坂(へいさか)の西尾家は、負傷した吉村虎太郎が担ぎ込まれて治療を受けたことで知られる。数年前に火事で全焼してしまい屋敷はすっかり新しくなっているが、長屋門は往時のままである。
 この家に吉村虎太郎の肌襦袢が残され、現代まで引き継がれることになった。のちに徳富蘇峰が実物を確認し、虎太郎のものと鑑定している。


西尾家


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする