(綿弓塚)

竹内街道
葛城市の竹内街道沿いに「綿弓塚」と称される句碑が建っている。この句は、松尾芭蕉が、門人千里の案内でこの地に至り、数日間、当地に滞在したときのもので「綿弓や 琵琶に慰む 竹の奥」というものである。これを記念して文化六年(1809)に建てられたものでる。
綿弓塚
綿弓塚の横の休憩所の街道沿いに「竹内街道」の説明が付されている。竹内街道は、推古天皇二十一年(613)に、難波と飛鳥京の間におかれた街道で、飛鳥時代には我が国最初の官道として栄えた。松尾芭蕉がここを訪れたのは貞享五年(1688)のことであった。さらに時代は下って嘉永六年(1853)、吉田松陰が竹内峠を越えて谷三山ら儒者を訪ねて大和に入っている。文久三年(1863)には、天誅組の中山忠光ら七名が志果たせぬまま、ここを逃走している。
作家司馬遼太郎先生は、幼少期を竹内街道で過ごした。

綿弓塚横の休憩所

竹内街道
葛城市の竹内街道沿いに「綿弓塚」と称される句碑が建っている。この句は、松尾芭蕉が、門人千里の案内でこの地に至り、数日間、当地に滞在したときのもので「綿弓や 琵琶に慰む 竹の奥」というものである。これを記念して文化六年(1809)に建てられたものでる。
綿弓塚
綿弓塚の横の休憩所の街道沿いに「竹内街道」の説明が付されている。竹内街道は、推古天皇二十一年(613)に、難波と飛鳥京の間におかれた街道で、飛鳥時代には我が国最初の官道として栄えた。松尾芭蕉がここを訪れたのは貞享五年(1688)のことであった。さらに時代は下って嘉永六年(1853)、吉田松陰が竹内峠を越えて谷三山ら儒者を訪ねて大和に入っている。文久三年(1863)には、天誅組の中山忠光ら七名が志果たせぬまま、ここを逃走している。
作家司馬遼太郎先生は、幼少期を竹内街道で過ごした。

綿弓塚横の休憩所










