史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「幕末の先覚者 赤松小三郎」 安藤優一郎著 平凡社新書

2023年02月25日 | 書評

「プロローグ」によれば、「知られざる幕末の先覚者である上田藩士赤松小三郎の生涯を通じて、歴史教科書には記述されていない幕末史を描き出す」ことが本書の主旨となっている。個人的には、京都金戒光明寺の赤松小三郎の墓や長野県上田市月窓寺の遺髪墓も掃苔したし、過去には上田高校同窓会の主催した赤松小三郎に関する講演会に参加したこともある。本書でも引用されている「日本を開国させた男、松平忠固」(関良基著)や「薩摩の密偵 桐野利秋」(桐野作人著)なども読んでいたし、比較的馴染の深い人物である。「知られざる」という謳い文句には多少ひっかかったが、赤松小三郎の生涯を丹念に追っており、あまり触れられることがない前半生も紹介されている。激動の幕末において自分の才覚を信じ、活躍を夢見ながら非業の死に倒れた一人の若者の生涯に改めて感銘を受けた。

赤松小三郎は天保二年(1831)、上田藩の下級武士芦田家の次男として生まれた。実家芦田家も養子に入った赤松家も家禄はわずか10石余に過ぎなかった。

学問で身を立てようとした小三郎は勉学に励み、やがて藩から認められて江戸で学ぶ機会を得た。当初は和算家で幕臣の内田五観の塾で数学のほか蘭学を学び、ここでオランダ語の読み書きを習得した。さらに下曽根信教(金三郎)の塾で西洋の兵学にも通じた。江戸遊学中には勝海舟の塾にも入門し、その縁で長崎海軍伝習所において員外聴講生として伝習を許された。

海軍伝習所が閉鎖され、小三郎が江戸に戻った頃、遣米使節団が派遣されることになった。小三郎はその選に漏れたが、同じく藩士身分でありながら福沢諭吉はチャンスを活かし、渡米に成功した。福沢諭吉は文久年間に欧州へも渡り見聞を広めた。

小三郎は上田藩の軍制改革に取り組み、藩士に洋式調練を指導し、最新兵器の購入などに当たった。文久三年(1863)には藩当局に対し現状を憂える意見書を提出している。

長州藩を追討するため征長軍が組織されることになり、上田藩にも動員がかかった。小三郎はその準備にあたるため開港地横浜で武器弾薬の調達に奔走したが、そこで知り合ったイギリス公使館付の武官アブリンを通じて英語や英式兵制を学んだ。福沢のように洋行経験のなかった小三郎にとって、イギリス軍人と直接話す機会を持てたことは非常に貴重な経験となった。

この頃になるとイギリスが世界の覇権を握る強国であることが知れ渡り、英式兵制を導入する藩が多くなっていた。小三郎は、師匠である下曽根信教の依頼を受けてイギリス陸軍の「歩兵操典」を翻訳し、慶応二年(1866)三月、「英国歩兵操典」(五編八冊)を刊行した。兵学者小三郎の名は一躍諸藩に知られることになる。

幕府の長州再征が敗色濃厚となったことを受け、小三郎は幕府と上田藩に破格の改正を求める建白書を提出した。彼は、富国強兵のため家格や禄高に縛られない能力に応じた人材の登用を訴えた。自分を抜擢せよ、という強烈な自負の裏返しであった。

小三郎は、京都で兵学塾を開くかたわら、他藩の依頼に応じて英式兵制に基づく調練を指導した。英式兵制で軍事力強化をはかっていた薩摩藩も小三郎に注目し、兵学塾の出講、調練の指導を依頼した。

英式兵制に通じた兵学者赤松小三郎に幕府も注目し、幕府から出仕要請があった。それは小三郎自身の希望とも合致したが、上田藩は固辞した。上田藩は帰国を求めたが小三郎は痔の治療と称して滞京を続けた。

慶應三年(1867)五月にかけて京都では薩摩藩の主導により四侯会議が開かれた。小三郎はこれを機に島津久光、松平春嶽に対し、議会制度の導入により公議・公論を国政に反映させる「公議政体案」を建白した。小三郎は自分の構想が慶喜や四侯の間で議論され、議会制度への道筋が開かれることを望んだが、目論見通りには行かなかった。

小三郎の建白は多岐にわたっている。第一条は、日本が目指すべき議会制度に関する提案。第二条は人材育成に関するもので主要都市や開港地に大小学校を創設することを提案している。第三条は課税の平等性に関するもので、農民の年貢を減らして、従来無課税であった武士や商人にも課税することを説いている。第四条は世界に通用する貨幣制度の導入。第五条は陸海軍の整備。第六条はお雇い外国人による殖産興業。第七条は畜産業の振興と肉食への移行。そして最後に改革を担保するためのものとして、世界に通用する「国律」つまり憲法の制定を求めている。

洋行の経験のない小三郎がこれだけの提案をなし得たのは、慶応二年(1866)に福沢諭吉の「西洋事情」が刊行されベストセラーとなっており、当然ながら小三郎もこれを読んでいただろう。「西洋事情」から知識を仕入れたという部分は大きいにせよ、西洋の進んだ科学技術を取り入れようというだけではなく、小三郎はその背景にある文明を支える国の仕組み、つまり西欧文明の本質を把握していた。それが議会制度であり、教育制度、課税制度、通貨制度、憲法であった。小三郎の提言というと、慶応三年(1867)の時点で二院制議会制度を提言した点に注目されがちであるが、彼の慧眼は西欧文明の本質を見抜いていたところにあるというべきである。

四侯会議が空中分解すると、慶喜と薩摩の蜜月期間も終わりを迎える。幕府と薩摩の良好な関係が続いていれば、薩摩藩にも会津藩にも要請があれば調練に出向く小三郎の姿勢は問題にならなかっただろう。

しかし、武力倒幕に舵を切った薩摩藩にとって、軍事機密を握る小三郎が幕府や会津とも接点を持つことが大きなリスクになっていた。事実、会津藩は小三郎から薩摩の内情を聞き出すことを期待していた。小三郎が藩からの命令に抗し切れずに帰国を決意すると、薩摩藩はその直前の慶應三年(1867)九月三日、攘夷の志士による天誅に偽装して小三郎を暗殺した。三十七歳という若さであった。

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「幕末の漂流者・庄蔵 二つの故郷」 岩岡中正著 弦書房

2023年02月25日 | 書評

幕末の漂流者というと土佐のジョン万次郎やジョゼフ彦が有名であるが、本書で紹介されている庄蔵(原田庄蔵)の事歴も彼らに負けないくらい劇的である。

庄蔵は、天保五年(1834)に自らが船頭を務める船で天草から長崎に向かう途中、嵐に遭遇して漂流し、ルソン島(現・フィリピン)に漂着した。ここで現地の人間に襲われたり、まさに九死に一生を得る思いをしながら天保八年(1838)マカオに移り、ここで漂流してアメリカ船に救助された音吉らと出会う。彼ら総員7名は、同年7月、帰国するためアメリカ商船モリソン号で日本に向かったが、異国船打払令によって砲撃を受ける。この時の庄蔵らの悲しみ、衝撃は想像に余りある。

続いて薩摩でも上陸を試みるが、この地でもやはり砲撃を受け、彼らは失意のうちにマカオに戻ることになった。

この時、庄蔵は「日本には再びかへらぬと定め我共其かわりに」漂流日本人について「身を粉にしても世話」することを決心したと日本に送られた手紙に書いている。想像するに帰国を諦めたのと、自分と同じような境遇の日本人の帰国支援をしようと決めたのは時間的なギャップがあったのではないだろうか。帰国しないことは母国から砲撃されるという仕打ちを受けたときに腹を固めたのだろう。

同じく手記によればモリソン号で撃退されたときのことを「我々共七人のものせつなさかなしさ誠に云ふ計りなくすでにしがひ(自害)を致す筈に相極め候へば天を念じ仏神念じ必ず必ずあやまるな」と記し、薩摩で砲撃を受けたことについても「数十挺石火矢時の声を上打出に相成誠に我々はたましいを飛し身躰もかなはぬゆへ夢如くに相成候へば」と記述している。

筆者は、「まるで軍記物を語る講談師のような緊張感のあるリズムで文章を表現する力と冷静さは驚くほど」と解説を加えているが、この人の文章力・表現力は天性の頭の良さと故郷肥後川尻で培われた教養に裏打ちされたものであろう。

本書には、故郷に宛てた手紙(これは江戸時代の漂流者の中で唯一の自筆書簡であり、しかも故郷の家族に届いた唯一の例)の全文が掲載されている。現代人が読んでも訥々として心を動かされる名文である。庄蔵と一緒に漂流しモリソン号にも乗り合わせた寿三郎は全文カタカナで書いている。内容はほぼ同じだが、それぞれ個性がにじみ出ている。

庄蔵の文章力・表現力は、米国宣教師ウィリアムズ(のちにペリーの来日に同行し日本語公式通訳を務めた人)を手伝って聖書「マタイ伝」の邦訳に活かされた。「わしチャラメラを吹いてもおまえたち踊らぬ」とか「これどの人でも刀を用いるは刀の歯糞(はぐそ)になる」「そういたさるならば天の国に汝らの褒美甚だたんとあり」「汝らは娑婆の光なり」といった平易で明快にしてどこかユーモアも含んだ表現は、庄蔵の理解力、語彙力、人間性まで映して秀逸なものである。

日本に帰国できないことを絶望し、孤独に打ちひしがれた寿三郎は阿片におぼれて亡くなり、一方庄蔵は香港に移住してアメリカからきた女性を妻として家族をもった。洗濯屋仕立て屋として成功し、ゴールドラッシュにわくアメリカ・カリフォルニアに苦力(クーリー)十人を連れて渡って金採掘に携わったこともあったという。今となっては没年や墓、子孫については不明であるが、自らの境遇を受け入れたくましく自活した一人の日本人の姿が浮かび上がる。彼の生き様は、人間が生きていく上で必要な生活力とか人間力とは何かを考えるヒントになるだろう。

庄蔵には漂流した時点で妻と三人の子がいた。当時五歳だった長女ニヲは、長じて岩岡伍三郎を養子に迎え、原田家を継いだ。筆者岩岡中正氏(熊本大学名誉教授・法学博士)はその四代の末裔である。先祖に対する尊敬と愛情、そして故郷川尻への厚い思い入れも感じられる本書は、読み応えのある快作だと思う。

 

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ホーチミン

2023年02月18日 | 海外

 

ハノイに着任して4カ月余りが経過した。年末年始の休みを利用して息子がベトナムに遊びに来るという。ハノイでは世界遺産ハロン湾やニンビンの街を日帰り旅行した。その後、鉄ちゃんの息子は、当初の計画とおりハノイからベトナム統一鉄道を使って南下した。翌週末をホーチミンで過ごすというので、私は飛行機でハノイから移動して現地で合流することにした。私にとっても初めてのホーチミン訪問となった。

岩倉使節団は欧米歴訪の帰路、シンガポールを出港した後、明治六年(1873)八月二十一日、正午頃、サイゴン河口に至り船中泊した。「米欧回覧実記」では久米邦武はサイゴン(現・ホーチミン)を「柴棍」と漢字で表記している。

翌二十二日、一行を乗せた船はサイゴン河を遡ること四十英里(マイル)、その日の午後一時頃にサイゴン市内に至った。

――― 柴棍府は、安南国のうち、真臘(チャンパ)部の都府にて、今は仏国の属地となりしより、船路の便には非れども、仏国政府より、年年八百万「フランク」の金を郵便会社に付し、往来此に立ち寄らしめて、此地の運送を便にし、植民を利し、兼ねて船客をして此地の民に散財し、其利潤を受しむ。故に仏の郵船は必ず此に立寄り、二日の程を費やすなり。

と、まずフランス領であることを強調している。

――― 柴棍河を挟みて人家を列ね、河東を本府となす。此地の炎熱は、非常にして、亜丁(アデン)に亜する処なりと云。本日は稍(やや)軽熱なりしも、八十六度に上りて、昼夜をわたれり。地は曠平にして、路を開く𤄃なれども修らす。街上に樹あり。草を生じて荒蕪す。平衍なれども車行安からず。外国人の居留地はやや修美なり。砌石を匝(めぐら)し、磚瓦を布き、屋造は三階の白堊晈然として、亜細亜風を錯えたる、欧州建築なり。

八月のサイゴンは猛暑である。暑さに閉口しながらも、街の様子の描写に余念がない。

――― 支那人種の不潔を厭わざるは、怪しむべきほどなり。曾て西洋人の長崎に来るもの、日本を目して潔癖ありと云。長崎は修潔の俗にも非ず。因て疑う。西洋も亦不潔なりと。今にして信ず。是支那人に反対せるを謂う處なることを。日本人の潔を好むは、欧州に恥ざるべし。

と、当地に住む中国人の不潔さを罵っている。中国人、そしてベトナム人の衛生観念は日本人とはかけ離れている。それは、今も変わらぬ風景である。

使節団一行はサイゴンの南のチャーレンという街に繰り出している。恐らくこのチャーレンという場所は、チョロン(Cho Lon)地区に違いない。十八世紀後半より華僑が住み初め、今でもチョロンはホーチミン随一の中華街である。

久米邦武は「其市街は陋悪にしてみるに足らず」と一刀両断している。穂城会館(天后宮)を訪問し、

――― 左に関帝を祀り、右に財帛星君を祀る。支那人の建てたるものにて、造営は精工を極む。壁は磚瓦にて造成す。其瓦は青黒色にて、甚だ堅し。欧州の磚瓦も、堅良を譲るべし。瓦を葺くこと、我邦と同じ、棟に陶製の竜をおき、檐(ひさし)は平面の磁に、絵画を染付たるを以て粧ひ、咸豊戊午、粤東沈玉造の款名あり。堂庭はみな石を甃し、屋内には瓦を甃し、瓦甚だ堅牢なり。

と珍しく中国人の製作したものを誉めている。

チョロンに行けば、今も往時のままの(久米邦武も見たであろう)穂城会館(天后宮)を目にすることができる。

 

チョロンを象徴するビンタイ市場

 

天后宮(穂城会館)

 

関帝

 

天后聖母

 

財帛星君

 

「米欧回覧実記」を著した久米邦武は、サイゴン(柴昆府)で教会を目にしているが、有名なサイゴン・ノートルダム寺院が創建されたのは1880年以降というから岩倉使節団が当地を訪れた後のことである。久米邦武はサイゴンで「羅馬教(即ち天主教)の寺もあり」と記しているが、彼らが見たのはどの教会だっただろうか。市内でも比較的有名なサイゴン大教会(聖母マリア教会)やチョロンのチャータム教会はいずれも十九世紀後半から末にかけて創建されたもので、岩倉使節団がサイゴンに上陸した時にはまだ無かったはずである。サイゴン動植物園と小児病院の周辺にいくつかある小さな教会、カットミン・サイゴン教会(Nha nguyen Thanh Giuse Dong Kin Cat Minh Sai Gon)やグエンアン教会(Nha Nguyen Co TTMV TGP Sai Gon)は、十九世紀の半ばに建てられたそうで、このうちのどれかが使節団が目にしたものなのかもしれない。

 

カットミン・サイゴン教会

 

 カットミン・サイゴン教会(Nhà nguyện Thánh Giuse Dòng Kín Cát Minh Sài Gòn)は、この地域でももっとも古い教会の一つ。もちろん現在の建物は建て替えられて新しくなっているが、教会自体の創建は1862年とされている。

 

陳興道像

 

陳興道像のあるメーリン広場(Me Linh)の向かい側がフェリー乗り場になっていて、ここからサイゴン川のクルージング船が出ている。恐らく明治六年(1973)の岩倉使節団も、この辺りからサイゴンに上陸したのだろう。「米国回覧実記」によれば彼らは「ホテルデユニワル」に宿泊したという。ホテルデユニワルは、Hotel de univers(オテル ユニヴェール)と推定される。Hotel de universは、現在、陳興道像の立っているメーリン広場周辺、Melinh Pointというビルのある辺りにあったという。

 

ハノイ郊外の墓地

 

  久米邦武の批判は、ベトナムの墓地に及んでいる。

――― 墓地を相し、田中の一区をとして此に葬る。故に、到る所に、冢墓纍纍(るいるい)たり、亦悪風なり、亦悪風俗と謂べし。

 

 久米邦武が何をもって「悪風」「悪風俗」と批判しているのかはっきりとは分からない。ベトナムでは土葬が原則である。現代においては、土葬墓地が宅地開発や工業用地整備の障害になっているのは事実であり確かに「悪風」であるが、百五十年前、そこまで「悪風」だったのだろうか。一説によれば、土葬墓地は何年か周期で掘り起こされ、白骨化したところで移し替えられるという。つまり墓地をリサイクルしているという話を聞いたことがある。とすれば、割といけている、持続可能な仕組みなのかもしれない。

 

ミトーの水上家屋

 

ミトーの水上家屋

 

 久米邦武はサイゴンの川沿いの家屋を描写している。

――― 河ニソヒテハ、水中ニ家ヲ架出シ、或ハ舟ヲ家トスルモノアリ

 

 さすがに現代のホーチミンではこのような家屋はみかけないが、メコンデルタの街、ミトーに行ってみると、久米邦武の描写そのままの風景を見ることができる。

 

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瀬田 Ⅱ

2023年02月11日 | 滋賀県

(瀬田の唐橋つづき)

 

明治天皇聖蹟

 

 瀬田の唐橋の架かる南側の中洲に明治天皇聖蹟碑がある。訪れる人も少ないせいか、周囲は雑草が生い茂り近づくことも難しい。石碑自体にも蔦がからまっている。

 明治天皇が当地に滞在したのは明治元年(1869)九月二十一日。内侍所(神鏡)を奉安して琵琶湖をご覧になった。碑の題字は、東郷平八郎。

 

(神領青江墓地)

 「ダメもと」で神領(じんりょう)青江墓地を訪ねて、無縁墓石群の中に山崎司馬之允の墓を発見した。偶然の所産ではあるが、海外赴任前のご褒美と受け止めている。背面には「明治三十年十一月一日死」と没年日が刻まれている。

 

山嵜友親墓

 

(月輪寺)

 

明治天皇御東遷御駐輦之所

 

 月輪三丁目の月輪寺の門前に明治天皇御東遷御駐輦之所碑が建つ。明治元年(1868)九月二十一日、滞在。

 

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草津 Ⅱ

2023年02月11日 | 滋賀県

(最勝寺)

草津市川原町の最勝寺は、川那辺願了所縁の寺である。願了の墓などが残されているかと期待して訪ねたが、墓地らしいものが見当たらなかった。

 

最勝寺

 

 川那辺願了は、享和元年(1801)の生まれ。最勝寺の住職で、はじめ宗学を学んだが、のち梵暦を研究。さらに算学にも通じ、近隣の子弟を教授した。また当時医術が幼稚で病気に悩む人が多かったので、京都に出て医学を修め、医療の僧としても活躍し、かねて花道にも達していた。晩年、石見の浄観とともに仏教改革の謀議に加わった罪によって幽閉された。社会の救済と教化に尽くした功績は大きい。明治七年(1874)、年七十四で没。

 

(若宮神社)

 

若宮神社

 

 草津市山田町北山田の若宮神社は、かつて村南六町の湖辺にあったが、寛永八年(1631)、現在地に移転した。

 明治三十六年(1903)五月、元大津本陣正門を買収し、神社中門として移築した。今に伝わる貴重な遺構である。

 

若宮神社中門

 

(鞭崎神社)

 鞭先(むちさき)神社の表門は、昭和五十二年(1977)の屋根の葺替工事によって、元は膳所城の南大手門であったことが明らかになった。

 門の右手には潜戸を設け、控柱は外八双に開くようになっている。屋根には本柱通りに切妻を掛け、控えにはそれより低い切妻屋根を乗せている。屋根には膳所城主本多家の家紋である立葵を飾った軒丸瓦や鬼瓦を飾るほか、柱、扉等の要所に鉄板を鋲打ちするなど重厚堅固な意匠となっている。

 

鞭崎神社

 

膳所城南大手門

 

(新宮神社)

 

新宮神社

 

 新宮神社の創建は、天平二年(730)と伝わる。本殿は棟札から大永三年(1523)に建立されたことが明らかにされているが、寛文十一年(1662)に大地震の被害を受け、この時、建物の地盤を上げて、正面に軒唐破風を新たに設けるといった改造が施され、現在の姿になったと考えられている。

 

膳所城水門

 

 境内に、平成元年(1989)、旧膳所城の水門が移築されている。

 

(願林寺)

 願林寺の山門は、膳所藩の解体時に移築されたものである。

 

願林寺

 

願林寺山門

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守山 Ⅱ

2023年02月11日 | 滋賀県

(守山宿)

 

中山道守山宿 本陣跡

 

右 中山道 幷美濃路

(高札場跡・石造道標)

 

 守山は古来、東山道の宿駅として栄えたが、江戸時代に入り、東山道から中山道に改められた。寛永十九年(1642)、守山宿は、徳川幕府より中山道の正式宿場としての制札が下され認可された。板橋から数えて六十七次で、最終宿場となる。京都三条大橋から守山までは地理余りで、ほぼ旅人の一日の行程に匹敵する。京都から中山道を通って江戸方面に向かう人たちは、東下り(あずまくだり)と呼ばれ、守山で初日を泊まるのを常とした。

 旧東海道沿いには、本陣跡(小宮山九右衛門)、井戸跡、高札場にあった道標などが残されている。

 文久元年(1861)十月二十二日には、徳川家茂に降嫁する皇女和宮が江戸に向かう旅程で、この本陣に宿泊している。

 

(東門院)

 

東門院

 

明治天皇聖蹟

 

 東門院門前に明治天皇聖蹟碑がある。明治天皇は、明治十一年(1878)十月十二日と二十一日に当地に立ち寄っている。十月十二日には、午後三時頃、当時境内にあった守山小学校に着くと小休をとった。二十一日には午前八時頃に到着し、小休の上、鏡辻町方面に出立した。

 

(大光寺)

 

大光寺

 

  幕末維新とは時代はかなり下がるが、第七十五代総理大臣宇野宗佑の墓が、守山市の大光寺にある。墓地には宇野家の墓が複数あるが、一番手前の墓域が宇野宗佑のものである。

 

西照院殿佑山宗禅大居士(宇野宗佑の墓)

 

 宇野宗佑は、リクルート事件と消費税導入により支持率が急落した竹下登のあとを受けて、首相に就任した。我が母校である神戸大学出身(ただし宇野は中退)の初めての総理大臣であったが、首相就任直後、女性スキャンダルが発覚し、わずか三か月余りで辞任に追いやられた。大学の同窓会誌に「宇野宗佑君の首相就任を祝う」という一文が掲載されたとき、既に総理大臣の椅子から去ってしていたのである。在任六十九日は、我が国政治史上四番目の短命内閣であった。

 

(南産土神社)

 

南産土神社

 

南産土(みなみうぶすな)神社辺りは、服部陣屋は、高級旗本上田家五千石の采地陣屋である。服部町は、大きくは津田集落と服部集落に分かれていて、陣屋は服部集落側にあった。この集落全体が陣屋地であったと推定され、現在も三方を水路に囲まれた平方形をとどめている。

 

(光照寺)

 

光照寺

 

伊能忠敬が泊まった寺

 

 光照寺は、文化二年閏八月十七日(1805)、伊能忠敬が測量隊とともに泊まった寺である。忠敬の測量日記に寺の名前が記録されている。

 

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近江八幡 Ⅲ

2023年02月11日 | 滋賀県

(広済寺)

 武佐の広済寺には、明治天皇関係の石碑が二基建っている。

 中山道沿いに立つ「明治天皇御聖蹟」碑は、明治神宮初代宮司一条実輝の養子一条実孝。「教育勅語」渙発四十年を記念して建てられた。門前には明治天皇武佐行在所碑がある。

 明治十一年(1878)十月十二日とに二十一日に滞在。

 

広済寺

 

明治天皇御聖蹟

 

明治天皇武佐行在所

 

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野洲

2023年02月11日 | 滋賀県

 野洲という地名を聞くと、一種の恐怖感を覚える。東京でいえば、上野原か大月くらいの印象である。今はどうか分からないが、私が若い頃、野洲往きの快速電車で酔っ払って寝過ごしてしまい、駅員さんに起こされた人の何と多かったことか。当然、大阪方面に戻る電車は既になく、駅前にも宿泊施設らしきものは見当たらず、呆然とするしかない。一変に酔いが醒めてしまうのである。当時は、同じような境遇の人をまとめてタクシーに乗せて、大阪方面に送り届けるという「アリ地獄的商法」が存在していたが、今はどうなっているのだろうか。

 

(大篠原)

 

明治天皇聖蹟碑

 

 野洲市大篠原の旧道沿いに明治天皇聖蹟碑がある。昭和十五年(1940)の建碑。題字は、総理大臣近衛文麿。明治十一年(1878)十月十二日と同月二十一日に滞在。

 

(辻町)

 辻町の森石材店の裏の民家の前に明治天皇御遺蹟碑が建てられている。明治十一年(1878)十月十二日および二十一日に滞在。

 この碑の写真を撮影しようと近づくと、その民家から男性が現れ、「ここはうちの敷地だから、勝手に入っては困る」と抗議を受けた。慌てて敷地の外に出て、石碑の写真を撮影させてもらった。

 

明治天皇御遺蹟

 

(三上山登山口)

 三上山登山口に保民祠と天保義民碑が建てられている。天保十三年(1842)、当地で勃発した天保一揆の犠牲者を顕彰し、義挙の精神を後世に伝え、義民の遺徳を偲ぶためのものである。保民祠は、明治二十六年(1893)、天保義民碑は明治二十八年(1895)に建立された。なお、保民祠は損壊が著しいため、平成四年(1992)に旧祠と同じ様式で新築されている。

 

保民祠

 

天保義民碑

 

 天保一揆は、幕府役人が五尺八寸(百奈々十六センチメートル)の間竿に六尺一分(百八十二センチメートル)の目盛りを入れて、公然と不正検地によって年貢増徴を図ろうとしたことに、野洲、甲賀、栗太四万人の農民が、三上村庄屋土川平兵衛らを指導者として立ち上がったもので、幕府役人に検地を十万日日延べする証文を書かせて、一揆勢は勝利を収めた。ただし、土川平兵衛らは首謀者として江戸に送られ、苛酷な取り調べの後、獄死した。

 

 ここにきて突然雨が強く降り始めた。写真を撮影すると、走って自動車まで戻った。近くに駐車場がないので、相当距離走るはめになってしまった。

 

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栗東 Ⅱ

2023年02月04日 | 滋賀県

(稲荷神社)

 手原駅近くに所在する稲荷神社には、明治天皇関係の石碑が二基ある。

 境内にある明治天皇聖跡碑の題字は明治神宮二代目宮司有馬良橘。明治元年(1869)九月二十一日、滞在。

 

稲荷神社

 

明治天皇御聖跡

 

明治天皇手原御小休所

 

 街道側には明治天皇手原御小休所碑がある。

 

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湖南

2023年02月04日 | 滋賀県

(石部宿)

 

石部宿驛

 

 石部宿には、幕府直轄と膳所藩直轄の二つの本陣が置かれ、全盛期には二百十六軒もの商家や六十二軒の旅籠が並び、東海道五十一番目の宿場町として栄えた。小島本陣は、膳所藩主本多俊次、康将二代に対する奉公により、慶安三年(1650)に創建され、承応元年(1653)には本陣職を許された。

 

石部本陣跡

 

明治天皇聖蹟

 

 小島本陣には明治天皇も宿泊している。

 

(常永寺)

 

常永寺

 

 岩根の常永寺表門は、三上陣屋の城門を移築したものである。

 三上陣屋は、元禄五年(1692)、郡上八幡城主遠藤常久が七歳で没したため、取り潰されたが、先祖の功績が認められ、一族の遠藤胤親を大垣新田藩主戸田氏成の養子とし、常陸・下野に一万石を与えられ存続を許された。胤負親の所領が近江(現・滋賀県野洲市)に移され、三上陣屋を構えたのが、三上藩の始まりである。その後、明治維新まで存続している。

 

三上陣屋表門

 

(三雲)

 

明治天皇聖蹟碑

 

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