史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

石狩

2015年12月12日 | 北海道
(浜益)
 浜益区川下の荘内(庄内)藩陣屋跡である。安政六年(1859)、幕府は蝦夷地を奥州六藩に分け与え、その警備を命じた。庄内藩はハママシケを含む日本海に面する西海岸一帯(留萌・苫前・天塩など)四十里に及び地域を拝領した。万延元年(1860)家老松平舎人を総奉行として現地調査を行い、意見書を提出した。この調査をもとに、二代目総奉行酒井玄蕃が赴任し、警備・開拓の本陣をこの地に置いた。奉行所を始め、寺、神社、長屋などが建設され、集落が形成された。一行は永住計画に基づき、各種の職人や農民も集めた。資材、人員の運搬のために渡航用の弁財船も建造され、往復した。この時、黄金川からこの場所までの水路を設けたが、その費用に千両を要したため「千両堀」と称されたという。現在もその遺構が残っているそうである。慶応四年(1868)、戊辰戦争が勃発したため、庄内藩士は急遽引き上げることになり、七年に及ぶ年月と莫大な費用をかけた庄内藩の蝦夷地拝領の警備、開拓は幕を閉じた。


ハママシケ荘内藩陣屋跡

 荘内藩陣屋跡は、訪ねる人もほとんどいないためか、手入れが全くされていない状況であった。陣屋の門らしきものは復元されているが、一歩中に入ると雑草が生い茂り、とても史跡とは思えない状況であった。

(厚田神社)


厚田神社


直心館之碑

 厚田神社の鳥居前に直心館之碑が立つ。元新選組隊士の永倉新八が厚田まで来て、直心館道場で剣道を教えたという。

(厚田公園)


厚田公園

 厚田公園の向い側の海岸線沿いにはあいロード夕日の丘観光案内所がある。想像するしかないが、ここから眺める日本海に沈む夕日はとてもロマンティックであろう。


子母澤寛文学碑

 厚田公園にある子母澤寛文学碑には、子母澤寛の「厚田日記」の冒頭の一文が刻まれている。

――― 箱館戦争の敗残者
江戸の侍が
蝦夷石狩の
厚田の村に
ひっそりと暮らしていた


厚田資料館

厚田公園内の厚田資料館は、厚田出身の佐藤松太郎(漁家、実業家)、子母澤寛、戸田城聖(創価学会第二代会長)、吉葉山潤之輔(第四十三代横綱)らを顕彰する施設である。
子母澤寛の祖父、梅谷十次郎は御家人で、彰義隊に参加して、さらに箱館戦争でも敗れて捕虜となった。戦後、釈放されると札幌に移って開墾に従事したが成功せず、石狩の厚田に移り住んだという。厚田では網元として漁場を持ち、旅館と料理屋を兼ねた店を経営した。子母澤寛も厚田に生れたが、実母とは早くに死に別れ、この祖父に溺愛されて育ったといわれる。のちに新聞記者のかたわら、旧幕臣の聞き書きをまとめ、「新選組三部作」などを世に問うた。

(弁天歴史公園)


弁天歴史公園

 石狩は、石狩川の河口にできた町で、江戸時代初期には、石狩川のサケ漁などの漁場が設置され、アイヌ民族の生産場として重要な地位を占めていた。幕末には箱館奉行の出張所に当たる石狩役所が置かれ、蝦夷地開発の拠点の一つとされた。明治以降は南の札幌から北方の厚田、浜益への連絡道が町内を走り、渡し船や船宿などで栄えた。元禄七年(1694)創建という弁天社の隣に歴史公園が開かれている。ここの先人たちの碑に荒井金助の肖像が描かれている。


先人たちの碑
左は荒井金助像

(八幡神社)


八幡神社


燈籠石

 八幡神社境内には木戸孝允筆の燈籠石がある。右に「文武一徳」、左には「肇域四方」とある。「文武は元来分かつことができない。併せて四方の国境を確定しなければならない」という意。ロシアの南下政策を意識した言である。

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