史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「ええじゃないか」 西垣晴次著 講談社学術文庫

2021年11月27日 | 書評

幕末も押し迫った慶應三年(1867)の十一月、のちに「ええじゃないか」と呼ばれた集団的乱舞が各地で発生したことは良く知られている。本書は昭和四十八年(1973)に初版が刊行され、その八年後に再版されたものを底本として、凡そ五十年の歳月を経て再々刊されたものである。このことは、「ええじゃないか」をここまで掘り下げた研究としては、本書に肩を並べるものがこの五十年出現しなかったということを意味しているのかもしれない。

「ええじゃないか」の歴史的意義については、「民衆が体制崩壊に一定の役割を果たした」と積極的に評価するものと、「維新史上のナンセンス」と消極的にしか評価しないものと、今なお二分されている。

消極的な評価が大勢を占める中、「幕府の人民支配を一か月近く麻痺させた」(井上清)、「この運動の基底には「封建的共同体」からの解放感が強く打ち出されている」(津田秀夫)といった積極的評価も現れている。

私もこれまであまり「ええじゃないか」を意識することはなかったが、本書を読み終わっても、積極的に評価すべきなのか、消極的評価で良いのか、判断がつきかねている。

「ええじゃないか」の地理的な広がりについて本書で初めて知ることができた。「ええじゃないか」の発生は、慶応三年(1867)八月、名古屋でお札が降ったのが最初といわれている(ほかに横浜説、駿河説三河説もあり)。これがたちまち四方に伝播し、九月に大津・駿府、十月には京都・松本、十一月には大阪、西宮、東海道一帯、横浜、伊勢、淡路、阿波、讃岐、会津へと波及した。ただし、関東、奥羽、北陸、あるいは中国、九州では見られない。

慶應三年(1867)という年は、天明以来の飢饉が相つぎ、開国の影響を受けて米価を中心とした物価は高騰し、民衆の生活は極度に苦しかった。幕府や武士に対する不信感が最高潮に達した時期であった。民衆の不安や不満が「ええじゃないか」に集約されたという側面は確かにあったであろう。

政治的にはどうだろう。福地桜痴は「京都方の人々が人心を騒擾せしむるために施したる計略」と観察している。岩倉具視の伝記では「具視が挙動もこの喧騒のためにおおはれて、自然と人目に触るることを免れた」と伝えている。あるいは土佐の大江卓は自ら札を作ってそれを降らせたと証言を残している。当時陸援隊に属していた田中光顕も「この踊りにまぎれて大阪から堺に脱出することができた」と回顧している。「ええじゃないか」が討幕派の動きを幕府側の目から隠したのは事実かもしれない。しかしながら、意図的なものとは言い難いし、政治的に大きな役割を果たしたとするには無理がある。

慶應三年(1867)の「ええじゃないか」の先駆け的運動となったのが、「おかげ参り」である。江戸で伊勢への群参が見られたのは、寛永十五年(1638)を皮切りにほぼ六十年周期だったという。その記憶が消え去らないうちに次の「おかげ参り」が起こったのである。「ええじゃないか」もその延長線上に位置づけることができよう。大正四年(1915)にやや小型の「ええじゃないか」踊りが京都で発生したというのも、その流れを意識したものかもしれない。しかし、その後は「ええじゃないか」やおかげ踊りに類するような集団的狂騒・乱舞といった現象は見られなくなってしまった。

日本人は毎年開かれる地域の祭りなどで、日頃の鬱憤を晴らす術を身に付けたのかもしれない。だとしたら、コロナを理由に地域の行事を延期するのもええ加減にしないと、何時かどこかで「ええじゃないか」が復活することになるかもしれない。

 

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「河鍋暁斎戯画集」 山口静一 及川茂編 岩波文庫

2021年11月27日 | 書評

先日も埼玉県蕨市にある河鍋暁斎記念美術館を訪れたばかりである。決して我が国の画壇における評価は高いとはいえないが、個人的にはこのところ妙に気になる存在となっている。

暁斎の特徴は、何といってもその多彩な画風であろう。伝統的な日本画から水墨画、錦絵や本書で特集されている戯画まで、極めて幅広い。この特徴を裏付けているのが、暁斎の確かなスケッチ力である。

本書は、ユーモア溢れる戯画を集めたものである。この時代、まだ呼称が固まっておらず、戯画、漫画、楽画,鈍画など、暁斎自身も様々な呼び方をしているが、現代風に言い換えると風刺画が一番近いだろう。今日、新聞や雑誌でよく見る風刺画の源流に位置するものである。

我が国では風刺画を芸術作品として評価することはあまりないかもしれない。暁斎の風刺画を芸術として評価したのは、むしろ海外の美術愛好家であった。今日、暁斎の作品の多くが海外の美術館に収蔵され、第二次世界大戦の戦火も逃れることができたのも、その結果ということができる。

本書は暁斎の魅力あふれる戯画を満載した一冊であるが、惜しむらくは文庫本のページの大きさに収めるために、かなり縮小されていることである。ただでさえ暁斎の絵はかなり細密であるが、老眼の身にはよく見えない。ましてそこに添えられている文字はほとんど解読不能である。本書を手引書として、できれば現物を原寸大で鑑賞したいものである。

風刺画は、機智、諧謔味、風刺性、毒気、観察眼が命である。文明開化に狂奔する民衆の姿は、風刺画家暁斎の格好の題材であった。ひたすら文明開化に反感を抱き、旧時代を懐かしんだのが、万亭応賀(まんていおうが)であった。

万亭応賀は本名を服部孝三郎という戯作者で、狂歌、戯文を得意とした。維新後、暁斎と組んで数々の中本(ちゅうぼん)、半紙絵を残したが、反時勢的態度は日を追ってエスカレートしていった。確かに俄かに西洋人の服装を真似て、和洋折衷の奇怪なファッションは、どう見ても滑稽である。ウサギが儲かると聞けば、一斉にウサギ飼いだし街にウサギが溢れかえった。金儲けに奔走する庶民の姿は、応賀の目にはあさましく映ったに違いない。福沢諭吉が「学問のすすめ」で「天は人の上に人をつくらず」と説くと、応賀は「学問雀」を出版し、「天は人の上に人を作り、人の下に人を作るものなり」と皮肉った。

しかし、文明開化、西欧化の流れは止めようがなかった。次第に応賀の風刺は人目をひかなくなり、注文も減っていった。著作を出しても、初編のみで中断し、跡が続かなかった。晩年は失意と貧困の中、反時代的著作に精力を使い果たし、明治二十三年(1890)、下谷の裏店に没した。

何時の時代も「あの頃は良かった」と昔を懐かしみ、時代に適応できない人間はいるものである。かくいう私も、DXだの、SDGsだの、あるいはカーボンニュートラルだと叫ばれる昨今の風潮に正直ついて行けていない(今もって我が家の自動車はガソリン車である)。多少軽薄との批判を浴びようとも、時代の流れについていく努力はしないといけない。反対側にいて批判だけをしていると、時代の敗者になるだけなのである。

 

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「頭山満」 嵯峨隆著 ちくま新書

2021年11月27日 | 書評

頭山満は、安政二年(1855)に生まれ、終戦直前の昭和十九年(1944)に八十九歳の天寿をまっとうした。言わば、明治維新から敗戦までの歴史を繋いだ人物の一人である。

この人物には「右翼の巨頭」という形容がつきまとう。彼は一貫して反英米を主張し、太平洋戦争が始まると「今度こそ息の根が止まるほど手厳しくやっつけて、将来二度と斯様な事態を引き起こさぬやう、禍根を徹底的に絶滅せねばならぬ」といった好戦的な発言を発信し続けた。

頭山は国権主義者であると同時に、強烈な皇国意識の持ち主であった。「右翼の巨頭」というイメージは決して誤ってはいないが、しかしそれだけではこの人物の一面を表しているに過ぎない。

本書の副題は、「アジア主義者の実像」である。頭山のアジア主義の原点はなんと西郷隆盛にあるという。彼は、西郷没後の明治十二年(1879)に西郷の旧宅を訪ねている。そこで出迎えたのは、川口雪蓬であった。川口が来意を尋ねると「西郷先生に会いに来た」と答えた。彼がいうには「西郷先生の身体は死んでも、その精神は死なないはずだ。私はその精神に会いに来たのだ」というのである。

「征韓」を唱えた西郷隆盛とアジア主義は、結びつかないかもしれない。しかし、西郷が終生信奉した斉彬は、アジアが連携して西欧に対抗すべきという考え方を持っていたというし、西郷がその思想を受け継いでいても不思議はない。西郷は、自身の政治思想をまったく書き残していないが、「西郷南洲翁遺訓」の次の一節がそのよすがになるかもしれない。

――― 実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己れを利するは野蛮ぢゃと申せし。

頭山満がどうやって西郷のアジア主義思想を感得したのかはっきりしないが、彼のアジア主義の起点を西郷に求めることは、今日有力な説になっているという。頭山の国家像は、西郷のいうような「強国にして正義」、即ち弱小国を哀れみ、文明化を手助けするというのが理想であった。弱小国を略奪し苛斂誅求してその国を苦しめる帝国主義は最も卑しむべきことであった。

頭山のアジア主義は、極めて実践的であった。彼が支援したアジアの活動家・革命家は、朝鮮の金玉均、中国の孫文、インドのラース・ビハーリー・ボースらである。本書ではあまり触れられていないが、無位無官の頭山が、これだけ外国の革命家を支援できた背景には、圧倒的な経済力があった。彼の収入源は鉱山経営などだったという。

歴史が物語っているように、金玉均も、孫文もボースも、自国の革命の主役にはなれなかった。孫文は明治四十五年(1912)、中華民国臨時政府を樹立し、臨時大総統に就いた。しかし袁世凱にその地位を奪われ、武力で中国を追われ、日本に二度目の亡命を果たす。孫文は大正十三年(1924)、死去するが、遂に政権を奪回することはできなかった。頭山の支援した革命家が自国で政権を獲れなかったことは、彼の大きな誤算だったであろう。

 

黄君克強之碑

 

右は鶴見總持寺にある黄君克強(黄興)之碑である。克強とは黄興の字である。孫文とともに辛亥革命を主導した革命派のリーダーである。黄興は、大正五年(1916)、滞在中のアメリカから日本経由で帰国しようとしていた。この時、總持寺では革命派の陳其美の追悼会が開かれ、頭山も同席している。しかし、黄興と頭山が面談をした記録は残っていないという。

帰国した黄興は疲労が重なり吐血し、そのまま帰らぬ人となった。その二年後、頭山、犬養毅、寺尾亨らが発起人となって、犬養毅の筆によってこの石碑が建てられた。今は森の中に埋もれるように建っており、そばの小径を通っても、近くに石碑があることに気が付くことすら難しい。

 

日本同志援助中國革命追念碑

 

もう一つ、鶴見の總持寺境内にたつ碑を紹介したい。日本同志援助中國革命追念碑は汪精衛(兆銘)の書。汪は孫文の側近として辛亥革命を推進した人物である。昭和十四年(1939)、日本では中国で親日政権の樹立を画策しており、汪精衛の担ぎ出し工作が進められた。汪は昭和十五年(1940)、南京国民政府の成立を宣言した。汪は頭山を「慈父の如し」と慕っていた。昭和十六年(1941)に汪が日本を公式訪問した際には、天皇に謁見した後、頭山にも面会している。頭山は蒋介石が日本に背いたことを不快に思っていた。一方で、反蒋・親日を掲げる汪精衛には大いに期待したであろう。

蒋介石の重慶政府との和平も画策され、一時頭山を中国に派遣する計画もあったが、その計画も幻と消え、戦争終結の芽は摘まれた。歴史が物語るとおり、太平洋戦争が始まり、戦争は泥沼化するのであった。

頭山にとって英米を撃滅する戦争は、待ちに待ったものであった。「皇国日本」が英米に負けるわけがないと信じて疑わなかった。昭和十九年(1944)十月、頭山は我が国の敗戦を見ることなく、御殿場の別荘で永眠。享年八十九。

彼が終生願っていた打倒英米も果たすことができず、日中の和平も提携も夢と消えた。あの戦争から七十年以上が経過したが、日中の間には深い溝ができたままである。恐らく共産党独裁が続く限り、この溝は永遠に埋まらないのではないか。この現実を見たら頭山は怒り狂うかもしれない。

 

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狭山

2021年11月20日 | 埼玉県

(沢口上墓地)

 竹さんの「戊辰掃苔録」によれば、狭山市笹井の国道468号狭山日高IC付近にある沢口上墓地に、飯能戦争で戦死した津志常蔵の墓がある。今回、伊勢崎、深谷、熊谷を回った帰路、狭山に立ち寄ってこの墓を訪ねることにした。

 

津志常蔵年行之墓

 

 墓誌背面に「慶應三年旧六月飯能戦於テ歿」とあるが、慶応四年(1868)の誤りであろう。昭和二十八年(1953)の彼岸に建立されたと記載されている。

 

 

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熊谷 Ⅶ

2021年11月20日 | 埼玉県

(元素楼)

 

行啓記念碑(元素楼跡)

 

 深谷市玉井に行啓記念碑が建てられている。明治二年(1869)、蚕糸業の先駆者である鯨井勘衛は屋敷内に三階建ての大蚕室「元素楼」を建て、清涼育と呼ばれる養蚕技術の指導を行った。元素楼には昭憲皇后と英照皇太后が訪れた。それを記念した碑である。

 

(集福寺)

 集福寺は、もともと臨済宗寺院として創建されたが、永正年間(1504~1520)に曹洞宗寺院に改められたという。広い境内を持つ寺で、いかにも禅の道場といった風情が感じられる。

 

集福寺

 

 集福寺は江戸時代中期から地域周辺の土木事業などを進めた慈善家吉田市右衛門家の菩提寺として知られる。当院には江戸時代から明治時代にかけて、吉田家を訪問した多くの著名人が訪れた。清水卯三郎や五代友厚も吉田家及び集福寺を訪れている。

 

(愛染堂)

 

愛染堂

 

 愛染堂には、尾高惇忠が揮毫した奉納額(熊谷市指定有形民俗文化財)がある。しかし奉納額は公開されておらず、無駄足になってしまった。今年二月には大河ドラマを記念して公開されていたそうだが、残念ながら実見することはできなかった。

 

共進成業唯頼冥護

尾高惇忠書

 

(長島記念館)

 小八林の長島記念館は、旧埼玉銀行(現・りそな銀行)頭取・会長を務め、埼玉県経済の発展に尽くした長島恭助の生家を利用して平成六年(1994)に開設された美術館である。入館料は三百円。

 入って右側には土蔵を改装した美術品展示室があり、長島恭助が収集した川合玉堂や横山大観らの絵画、渋沢栄一、高山彦九郎の書簡、掛軸、日記、刀剣、美術工芸品などが展示されている。

 

長島邸母屋

 

長島邸内

 

 母屋には懐かしい昭和のおもちゃや民芸品などが並べられている。

 ほかに客はおらず、心行くまで展示を楽しむことができた。受付の御婦人はとても親切で、各種パンフレットのほか、

「自分で漬けたので」

と梅干まで頂戴してしまった。

 

長島記念館

 

「温良恭謙譲」

渋沢栄一書

 

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深谷 Ⅶ

2021年11月20日 | 埼玉県

(岡部六弥太忠澄の墓)

 岡部六弥太忠澄は、武蔵七党の一つ、猪俣党の出身で、猪俣野兵衛時範の孫、六太夫忠綱が榛沢郡岡部に土着して岡部氏と称した。

 六弥太忠澄は、忠綱の孫で、源義朝(よしとも)の家人として、保元・平治の乱に活躍した。特に待賢門の戦いでは、熊谷直実、斎藤実盛、猪俣小平六等源氏十七騎の一人として有名を馳せた。木曽義仲の追討、一の谷の合戦、奥州藤原氏征討にも参加している。

 ここには六基の五輪塔が並んでいるが、中央の最も大きいものが岡部六弥太の墓で、その右側が父行忠、左側が夫人玉の井の墓といわれている。

 六弥太の墓石の粉を煎じて飲むと、子のない女子には子ができ、乳の出ない女子は乳がでるようになるという迷信が伝わっており、五輪塔は削られて雪だるまみたいになっている。

 

岡部六弥太忠澄の墓

 

岡部六弥太の墓所を大正年間に修理した際、渋沢栄一は寄付をしている。石碑に名前が刻まれている。

 

寄進碑

 

 「一金七拾五円也 縣廰補助金 一金壱封 子爵渋澤栄一殿」と刻まれている。

 

(華蔵寺)

 華蔵(けぞう)寺には栄一お手植えの松(赤松)が植樹されている。残念ながら赤松は大雪のため倒壊してしまい、現在は初代の実から育った二代目が植えられている。

 

華蔵寺

 

子爵渋澤栄一翁御手植の松

 

 華蔵寺には美術館が併設されている。地元の渋沢栄一や尾高惇忠、金井烏洲らの書跡のほか、白隠、良寛、小林一茶、平山郁夫らの作品が展示されている。

 

(薬王寺)

 

薬王寺

 

直養院殿釋英法居士(神谷勝十郎の墓)

 

 薬王寺の本堂脇に神谷勝十郎の墓がある。この情報を吉盛智輝様(「但馬の殿様」の著者)よりいただいた。

 神谷勝十郎は幕末の旗本。神谷氏は黒田村と大谷村に二百十石余を知行する旗本であった。慶応四年(1868)三月、御用金の取立てに支配地黒田村名主宅を訪れた際に農民に竹槍で突かれて殺害された。吉盛様によれば「領内からきつく年貢や御用と称し臨時税を取立て、怨嗟の的となっており明治元年自ら出向き臨時税を取立てようとしたところ、領民からなぶり殺しに遭い口の中に石を詰められ、河原で火で炙られよってたかって切り刻まれ、その肉を領民達が食した。」というのである。何とも形容し難い陰惨な事件である。

 この墓は明治二十三年(1890)、つまり神谷が殺害されて二十年以上が経った頃、神谷家と住民の間に和解が成立し、住民の手によって建てられたものである。墓石の台座に住民の名前がぎっしりと刻まれている。

 

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伊勢崎 Ⅱ

2021年11月20日 | 群馬県

(紅厳寺跡)

 

泰量院殿大寛樂善大居士(跡部良弼の墓)

 

 伊勢崎市宮子町の紅厳寺跡墓地に跡部良弼(よしすけ)の墓がある。

 跡部良弼は、唐津藩主水野忠光の五男に生まれた。文政六年(1823)、西丸小姓組から中奥番となり、文政八年(1825)使番に進み、文政十三年(1830)三月には駿府町奉行に転じ、その後堺奉行を経て、天保七年(1836)四月、大阪の東町奉行に転じた。翌年、大塩平八郎の乱があり、奉行の出馬によって鎮圧されたが、奉行所内の狼狽振りは今に伝えられている。天保十年(1839)九月、大目付となり、その後も勘定奉行、江戸町奉行、小姓組番頭、留守居を歴任し、安政二年(1855)には講武所総裁を兼ね、同年八月、老中阿部正弘の幕政改革により留守居から大目付に再勤、海防掛を兼ね、安政三年(1856)に江戸町奉行、さらに元清水付支配、万延元年(1860)に再び留守居に転じた。文久元年(1861)八月、和宮降嫁の東下供役に命じられ、上京して供をして帰府した。文久二年(1862)、側衆を兼帯し、文久三年(1863)七月、御側御用取次となって十二月の家茂上洛に供奉した。翌元治元年(1864)免じられた。慶應四年(1868)二月、若年寄に昇進したが、辞職を願い出て許され、菊間縁頬詰となった。明治元年(1868)十二月、没。

 

(田村弥平旧宅)

 境島村地区は、江戸時代から蚕種製造が盛んな地域であった。田島弥平旧宅跡を中心に、幕末から明治にかけて建てられた大きな養蚕農家が残されている。

 

田島弥平旧宅 主屋

 

別荘と桑場

 

 田島弥平は文政五年(1822)に上州島村(現・伊勢崎市島村)に生まれた。渋沢栄一とは縁戚関係にあった。父の弥兵衛とともに蚕種の産地を訪ね、蚕種製造に適した養蚕方法を研究した。換気に気を配り、自然に近い環境で蚕を飼育する「清涼育」を開発し、安定した繭生産に成功した。文久三年(1863)、主屋を建築したが、二階の蚕室の四方に窓を配置し、屋根には櫓(やぐら)を取り付け、室内の温度や湿気を調整できる造りにした。この様式は「島村式」と呼ばれ、全国の養蚕農家に広まった。明治五年(1872)には蚕種の製造・販売を行う、島村勧業会社を設立し、明治十二年(1879)には蚕種のイタリア直輸出も手掛けた。

 現在も子孫の方が居住されており、見学できるのは外観のみとなっている。主屋の向かいに桑場、それに隣接して別荘、香月楼跡、その向かい側には新蚕室跡がある。

 

貞明皇后行啓記念碑

 

 皇居で行われている養蚕は、明治四年(1871)から始まったが、明治五年(1872)、同六年(1872)、十二年(1879)には弥平が養蚕の指導者に選ばれた。昭和二十三年(1948)には大正天皇の皇后貞明皇后が田島弥平家を訪れた。それを記念して、庭に記念碑が建てられた。

 

 田島弥平旧宅の北側に、明治二十七年(1894)に弥平の娘たみが建てた顕彰碑が建てられている。

 

田島弥平の碑

 

(田島弥平旧宅案内所)

 旧境島小学校には校舎を利用して田島弥平旧宅案内所が開かれている。旧宅や寶性寺墓地周辺には駐車スペースがないので、ここに自動車を置いて出かけるのが良いだろう。なお、島村蚕のふるさと公園にも駐車場があり、旧宅跡までの距離は変わりない。

 

田島弥平旧宅案内所

 

島村沿革碑

 

 現在利根川は島村のほぼ中央を流れているが、過去この流れは何度も変わり、その都度島村の人々の生活に大きな影響を与えてきた。その様子について、忘れることがないように明治三十年(1897)、島村の人々が三島毅に依頼して作成した碑文である。篆額は山縣有朋。書は金井之恭。

 

島村蚕種業績之地

 

 田島弥平旧宅案内所から西へ数十メートルの場所に島村蚕種業績之地碑が建てられている。

 明治初期に生糸や蚕種はわが国の重要な輸出品となり、長く日本経済を牽引したが、今やすっかりその灯は消えてしまった。しかし、往時島村の人たちは勧業会社を興し、欧州に向けて蚕種輸出を実現した。そのことを記念して、昭和六十三年(1988)に田島弥太郎博士が建てたもので、福田赳夫の書。

 

(寶性寺)

 

寶性寺

 

 田島弥平旧宅跡のすぐ隣に寶性寺がある。寶性寺は、田島家の菩提寺である。なお、田島家の墓所は、寶性寺境内から二百メートルほど南東の墓地にある。

 

金井烏洲副碑

 

 金井烏洲(うじゅう)と一族の墓の入り口に副碑が建てられている。題額は東久邇宮妃殿下。撰文並びに書は渋沢栄一。昭和四年(1925)の建立。

 金井家は新田氏の支族で、近世には近在に聞こえるほどの豪農であった。金井萬戸は酒井抱一などと交際した俳諧の名手だったといわれる。莎村、烏洲、研香という三人の兄弟を生んだ。莎村は詩文に優れた人であったが、文政七年(1824)に三十一歳の若さで夭折した。

 

華竹庵萬戸居士墓

 

金井研香の墓

 

 烏洲の末弟研香も南宋画家として知られた。明治十二年(1879)、七十四歳で没。

 

莎村金井君髪塚銘

 

杏雨金井君墓碣

 

 金井杏雨は烏洲の息。文久三年(1863)、三十九歳で逝去。

 

烏洲金井君墓碣

 

 金井烏洲は、兄の莎村から経史を学び、二十一歳のとき江戸に出て、父萬戸のもとを訪れていた春木南湖などから書画を学んだ。二十五歳のとき莎村が早世したため、帰郷して金井家を継いだ。天保三年(1832)には関西を回り頼山陽など多くの名家と交誼した。この頃から画名を謳われるようになった。江戸後期の画壇を代表する存在であったが、安政四年(1857)、六十二歳で没した。貴族院議員にして書家としても知られる金井之恭は、烏洲の四男である。

 

田島弥平之墓

 

 金井一族の墓所からさほど離れていない田島家の墓地に田島弥平の墓がある。田島弥平は明治三十一年(1898)、七十六歳で没。

 

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藤岡

2021年11月20日 | 群馬県

(高山社跡)

 

国指定史跡 高山社跡

 

 高山社は明治十七年(1884)に設立された養蚕改良高山社の創始者高山長五郎の生家で、長五郎はこの地で養蚕法の改良や普及教育などを行っていた。

 私が訪れた時、新型コロナ感染症拡大対策のため臨時休館中であった。長屋門の写真を撮ることはできたが、母屋に近づくことはできず。いずれまた訪問することにしたい。

 

高山社跡 長屋門

 

 高山社跡の手前に高山社情報館があり、そこに高山長五郎の像が建てられている。

 高山長五郎は、換気と温湿度管理をきめ細かく行う養蚕法「清温育」を確立し、その普及のため明治十七年(1884)、養蚕教育機関「養蚕改良高山社」を設立した。高山社は、日本全国のみならず、中国や朝鮮半島からも生徒を受け入れ、「養蚕の一総本山」とも呼ばれた。

 

高山長五郎翁像

 

(興禅院)

 興禅院は高山社を見下ろす小高い山の中腹にある。興禅院は無住の寺のようだが、この日は近所の住民が総出で雑草刈りをしていた。

 ここに高山長五郎の墓がある。長五郎は明治十九年(1886)、五十六歳で亡くなった。なお木村九蔵は長五郎の末弟である。

 

興禅院

 

高山長五郎之墓

 

 

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神川 Ⅲ

2021年11月13日 | 埼玉県

(金讃神社)

 神川町二ノ宮の金讃(かなさな)神社は、延喜式神名帳にも名を残す古社である。かつては武蔵国二の宮と称され、地名の二の宮はこれに由来している。鬱蒼とした森に囲まれ、清浄な空気に包まれている。

 

金讃神社

 

木村(九蔵)翁頌徳碑

 

 最初の鳥居をくぐって右手の山に木村九蔵頌徳碑と九蔵の甥、木村豊太郎の顕彰碑が建てられている。

 木村九蔵は、弘化二年(1845)上野国緑野郡高山村(現・群馬県藤岡市)に生まれ、元治元年(1864)、新宿村寄島(現・上川町大字新宿)の木村家を継いだ。少年時代から養蚕法の改良に励み、火力を利用して換気乾燥する温暖飼育法を開発し、明治五年(1872)に「一派温暖育」と名付けて発表した。明治十年(1877)、「養蚕改良競進組」を結成して、温暖育の普及に努め、明治十三年(1880)には新品種の繭「白玉新撰」を世に出した。明治十七年(1884)には「養蚕改良競進社」と改称し、木村豊太郎、浦部良太郎を副社長として組織の充実を図り、養蚕伝習所を児玉町に開設して、養蚕技術の指導にあたった。また各地に支部を設けて指導員を派遣した。これにより競進社の飼育法と白玉新撰は全国に広まった、明治二十七年(1894)には農村振興に大きく貢献したことに対し緑綬褒章を受けている。明治三十一年(1898)、五十四歳で没。

 木村翁頌徳碑は、明治三十二年(1899)の建碑。題額は伊藤博文の書。

 

木村豊太郎君之碑

 

 この石碑は、伯父木村九蔵と競進社を作り副社長となった木村豊太郎の功績をたたえ、大正七年(1918)四月に金鑚神社境内に設置された。渋沢栄一の撰文および書。

 

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坂戸 Ⅲ

2021年11月13日 | 埼玉県

(大智寺)

 坂戸市石井の大智寺は広い境内を持つ寺院である。本堂は教会のような建物である。広い墓地の一番片隅に井上淑蔭(よしかげ)の墓がある。

 雨は降ってくるし、蚊の攻撃は容赦なく、極めてストレスフルな掃苔となった。井上淑蔭の墓の写真を撮り終えたら、逃げるようにしてこの場を立ち去ったが、それでも両腕、両脚を無数に蚊に噛まれてしまった。

 

大智寺

 

智性院権中教正顕徳泰譲居士

(井上淑蔭の墓)

 

 井上淑蔭は、文化元年(1804)の生まれ。文化十三年(1816)、十三歳のとき、比企郡中山村の小松庵鈴木氏の門に入り、十七歳で江戸に出て清水浜臣に入門。林信海とも親交があった。二十四歳のとき、「隠郷談」をかき、のち清河八郎門に入って尊王攘夷論者となった。西川練造、桜国輔らと活躍した。しかし、契沖(1640~1701)の著わした「古今余材抄」を読んで、考証・考古学者に転じた。明治二年(1869)、新政府に出仕し、大学中助教、明経・文章両局兼開校御用、二年後辞官し郷里石井に閉居した。権中教正まで上がった。明治十九年(1804)、八十三歳にて没。

 

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