(宮山児童遊園)
播州赤穂駅にある観光情報センターで電動自転車を借りて、赤穂市尾崎にある宮山児童遊園を目指す。赤穂市内は平坦で、自転車を使うのが効率的かつ爽快である。
ものの十分もしないうちに赤穂八幡宮に到着。ここに自転車を停める。
赤穂八幡宮は、赤穂の氏神さまとして、応永十三年(1406)年に、現在地に赤穂市の西、銭戸島から 応神天皇(八幡大神)が遷座したことが起源となっている。室町時代は播磨国守護職赤松家に庇護され、江戸時代は赤穂藩主池田家、浅野家、森家の信仰のもと維持発展した。境内には大石内蔵助が植えたとされる櫨(はぜ)の木があり、東に百メートルほど行ったところには、大石内蔵助が赤穂城の明け渡しのあと、その後京都山科に移るまでの数か月を過ごしたとされる仮寓居跡(俗称「おせど」)がある。

赤穂八幡宮

大石良雄(よしたか)御手植乃櫨(はぜ)

大石良雄御手植乃櫨

大石良雄(よしたか)假寓地

大石内蔵助の仮寓地跡(通称「 おせど」)
私の目的は赤穂八幡宮でもなく、「おせど」でもなく、宮山児童公園に立つ児島長年碑である。赤穂八幡宮から歩いて数分という場所にある。
児島長年(または児島備後)という人はほとんど無名の志士である。文政十年(1827)に赤穂尾崎村の商家に生まれた。幼名は堅蔵(かたぞう)、後に三郎。南朝の児島高徳を先祖と仰ぎ、同じく南朝の名和長年の忠誠を慕って、自ら児島長年と名乗った。十七歳で大阪に上り、前川虚舟に学んで篆刻の技を身に付け、その資金で遊学した。二十五歳にて閑谷学校や日田の広瀬青頓に学んだ後、尊王攘夷を唱え、各地を巡歴した。文久三年(1863)、長州で奇兵隊に参加し、その後は九州で勤王志士として倒幕活動に加わった。慶應元年(1865)、太宰府に赴き、三条実美に謁して時勢を陳じた。慶應二年(1866)、大阪で家塾を開く傍ら、大洲鉄然らの志士と交わった。慶応三年(1867)、花山院家理の義挙に参加しようとして投獄され、翌年憂憤絶食の末獄中で亡くなった。四十二歳であった。
宮山児童遊園に建つ顕彰碑は、明治二十一年(1888)に村人らによって建立されたものである。

児島君之碑
(正福寺)
赤穂八幡宮からさらに自転車で十数分。御崎地区の正福寺に至る。海が近く潮の香が漂う。
浅野家の菩提寺である花岳寺の開山秀巌龍田大和尚の隠居寺として、正保三年(1646)に建てられた曹洞宗の寺院で、はじめは、城下の加里屋にあったが、後に現在地に移された。
当寺三世住職良雪和尚は大石内蔵助に「君辱臣死」という言葉を与え、討ち入りを決意させた。大石内蔵助と良雪和尚とは共に囲碁を愛した。この寺は「二良の対局」の寺としても知られる。正福寺には、対局の碁盤や、赤穂義士の書状などが伝わる「赤穂義士所縁の寺」である。
文久の赤穂事件で襲撃に加わった山下惠助、山下鋭三郎、八木源左衛門、田川運六、西川邦治、山本隆也、吉田宗平、松村茂平ら八士は、赤穂を離れ長州に潜伏していたが、長州藩の使者である渡邊謙蔵とともに海路赤穂に戻り、慶応四年閏四月一日、赤穂新浜に到着した。渡邊は赤穂藩の役人と接触し、五日に山下らが待つ新浜に戻った。八名は、赤穂藩の郡奉行に引き渡され、渡邊は長州に帰国した。八名は正福寺に監禁された。ここで彼らは趣意書をしたため、山下惠助が総代として郡奉行に提出した。趣意書には、王政復古を受けて赤穂藩にも「勤王の思し召しが立った」ことを喜んでいること、合わせて謹んで御決裁を待っていることが記載されていた。
八士は罪を許されて、しばらくすれば自由に城下を歩けるようになると期待していたようだが、同月二十五日になって八士を備前岡山藩に預けるという命が下った。その二日後、彼らは備前岡山藩に送られ(病気となっていた松村茂平のみそのまま赤穂にとどまった。同年七月、病没。享年四十六)、濱野の妙法寺に監禁された。その後、彼らは妙法寺で二年半を過ごすことになる。明治三年(1870)九月、ようやく赤穂に戻されたが、二度ほど取り調べを受けた山下惠助は同年九月二十七日、親族宅で自決した。結局この時点で文久赤穂事件の実行犯は、六名になっていた。

正福寺
(大蓮寺)
再び市内中心部に戻る。加里屋の大蓮寺には、西川升吉の墓があるというので、墓地を歩いた。古い墓域は歩けないほど雑草が繁っており、探墓には困難を極めた。
結局、新しい墓域(ここは雑草もなく、問題なく歩くことができる)に一つだけ西川家の墓があり、その傍らに西川升吉のものらしき墓石を発見した。
「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)によれば、西川升吉が惨殺されたのは、元治二年(1865)二月二十八日とされているが、墓石にある没年月日は二月廿七日と読める。「仇討ちはいかに禁止されたか?」(濱田浩一郎著 星海社新書)によれば、西川升吉が疋田元治、幸田豊平と口論の末、斬りあったのは元治二年(1865)二月二十七日の夜のこととなっている。重傷を負った升吉はその場で死亡が確認されたというので、やはり没月日は二月二十七日というのが正確かもしれない。

大蓮寺

法名釋實叡(西川升吉の墓)
(雄鷹台山)
播州赤穂駅の北側に、雄鷹台山(おたかだいやま)という名の小さな山(標高253メートル)がある。登山道が整備され、初心者でもハイキング気分で昇ることができるという山である。
その麓に三基の墓がひっそりとたたずんでいる(赤穂市山手町5-14から道をはさんだ山の麓)。文久事件で国家老森主税や用人村上真輔の襲撃に加わった青木彦四郎、松本善治、濱田豊吉の墓である。彼らは事件後罪に復したが、藩論が変わらないことを嘆いて自害した。

文久事件関係者の墓

松本善治秀實墓

濱田豊吉高信墓

青木彦四良義方墓
青木彦四郎は、天保八年(1837)の生まれ。安政頃より京摂の間に往来して西川升吉を中心に赤穂藩勤王派を構成し、文久二年(1862)十二月、藩政の不振を嘆じて西川ら同志十二人と執政森主税、参政村上真輔を暗殺、京都妙心寺の土佐藩本陣に逃れた。文久三年(1863)、赤穂に帰り揚屋入りを命じられたが、藩論の豹変無きを憤り切腹して果てた。年二十七。