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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

明石 Ⅱ

2025年06月21日 | 兵庫県

(大久保駅前)

大久保町駅前一丁目に明治天皇大久保御小休所建物碑がある。明治十八年(1885)八月九日、明治天皇が当地に滞在したことを記念したものである。

塀越しに洋風の建物が見えるが、これが御小休所建物と関係があるのかないのか不明。

 

明治天皇大久保御小休所建物

 

明治天皇大久保御小休所建物

 

(浜光明寺つづき)

 大久保駅から明石駅に移動して、浜光明寺まで歩く。前回、浜光明寺を訪ねたのはもう二十年くらい前のことかもしれない。山門前と本堂前に二つの「明治天皇明石行在所」石碑がある。

また本堂の北側には、明治天皇が明治十八年(1885)八月九日に宿泊した書院が保存されており、当時の庭園、玉座の厚畳、調度類が残されているという。

 

明治天皇行在所書院

 

明治天皇明石行在所

 

明治天皇行在所御遺跡

 

安政南海地震供養碑

 

淡路島が防波堤になって明石やそれより西側には津波がくることはないような思い込みがあるが、実は安政の大地震(1854)ではここまで津波が達し、多くの犠牲者が出ている。

 

 

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姫路 Ⅴ

2025年06月21日 | 兵庫県

(船場本徳寺つづき)

 船場本徳寺の本堂裏には、西南役戦没者慰霊碑が建つ。この地域から九州の戦地に出兵し戦死した七百六十七名の兵士の霊を弔うために明治十二年(1879)に建立されたものである。有栖川熾仁親王の揮毫。陸軍少将三好重臣の撰文による。

 

西南役戦没者慰霊碑

 

姫路藩勤王十二士の墓

 

 ここに慰霊碑のある十二名は以下の通りである。

 

贈従四位河合総兵衛宗元君霊位

贈正五位萩原虎六政興君霊位

贈正五位河合傳十郎宗貞君霊位

贈正五位江坂元之助行厚君霊位

贈正五位伊舟城源一郎致美君霊位

贈正五位松下鉄馬綱光君霊位

贈正五位江坂栄次郎行正君霊位

贈正五位市川豊次久明君霊位

従五位永田伴正君霊位

贈正五位秋元正一郎安民君霊位

贈正五位境野求馬意英君霊位

贈正四位河合屏山君霊位

 

日没まで少し時間があったので、久々に姫路の船場本徳寺を訪ねることにした。境内には明治天皇の行在所碑や、当時行在所として使われた建物がそのまま残されている。なお山門の前にも明治天皇姫路行在所碑があるが、折悪しく補修工事中で立ち入ることができなかった。

 

行在所碑

 

真宗大谷派姫路船場別院本徳寺行在所

 

明治十八年(1885)八月八日、山陽道巡幸の際、行在所となった建物である。昭和七年(1932)十一月二日の火災で一部が焼損したが、主要部分は旧態を伝えている。

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たつの Ⅱ

2025年06月21日 | 兵庫県

(本陣井口家)

山陽本線竜野駅で下車し、電車と並行して走る旧西国街道を東へ7~8分歩くと、左手に本陣井口家が現れる。あと数十メートルも行けば揖保川に突き当る。大名行列や旅人は正條(しょうじょう)の渡しから揖保川を渡った。

明治十八年(1885)八月、明治天皇は中国巡幸の帰路、ここで休憩をとった。そのことを記念する石碑が建てられている。

 

本陣井口家

 

明治天皇正條行在所

 

明治天皇御駐輦趾

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赤穂 有年

2025年06月21日 | 兵庫県

(有年宿)

赤穂線で相生まで戻り、相生で山陽本線に乗り換えて有年(うね)駅まで移動する。昼間は赤穂線の電車が一時間に一本しかない。タイミングが悪く、私が赤穂駅に戻ったとき電車が行ったばかりであった。時間をつぶすために、観光案内所で紹介された駅前の蕎麦屋に入ったが、びっくりするくらい美味しかった。

有年駅ではレンタサイクルを調達する予定であったが、行ってみると休業日であった。あまりのことに膝から崩れ落ちた。

やむなく有年駅から東有年の有年宿まで片道2キロメートルを歩くことになった。駅から5キロメートル以上離れた西有年まで行くのは断念した。既に梅雨入りしていたが、この日は真夏の暑さで、この中を日陰のない道を歩くのは難行であった。

 

有年宿本陣跡(旧柳原邸跡)

 

有年宿本陣跡(旧柳原家宅跡)

 

明治天皇駐輦記念碑

陸軍大臣宇垣一成書

 

有年宿は西国街道に位置する宿場町である。本陣跡(旧柳原邸)に明治天皇聖跡碑が建っている。

柳原家は有年家と並び、代々庄屋を務めた家で、建物は参勤交代の大名の宿泊施設として使用された。有年宿は多くの旅籠や茶屋で賑わったが、今その面影を見ることはできない。

 

(有年八幡神社)

西国街道は有年宿を出ると右折して北西に向かう。西国街道沿いに有年八幡神社がある。鳥居横に明治天皇聖徳碑がある。陸軍大将松川敏胤書。

 

有年八幡神社

 

明治天皇聖徳碑

 

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赤穂 Ⅱ

2025年06月21日 | 兵庫県

(宮山児童遊園)

播州赤穂駅にある観光情報センターで電動自転車を借りて、赤穂市尾崎にある宮山児童遊園を目指す。赤穂市内は平坦で、自転車を使うのが効率的かつ爽快である。

ものの十分もしないうちに赤穂八幡宮に到着。ここに自転車を停める。

赤穂八幡宮は、赤穂の氏神さまとして、応永十三年(1406)年に、現在地に赤穂市の西、銭戸島から 応神天皇(八幡大神)が遷座したことが起源となっている。室町時代は播磨国守護職赤松家に庇護され、江戸時代は赤穂藩主池田家、浅野家、森家の信仰のもと維持発展した。境内には大石内蔵助が植えたとされる櫨(はぜ)の木があり、東に百メートルほど行ったところには、大石内蔵助が赤穂城の明け渡しのあと、その後京都山科に移るまでの数か月を過ごしたとされる仮寓居跡(俗称「おせど」)がある。

 

赤穂八幡宮

 

大石良雄(よしたか)御手植乃櫨(はぜ)

 

大石良雄御手植乃櫨

 

大石良雄(よしたか)假寓地

 

大石内蔵助の仮寓地跡(通称「 おせど」)

 

私の目的は赤穂八幡宮でもなく、「おせど」でもなく、宮山児童公園に立つ児島長年碑である。赤穂八幡宮から歩いて数分という場所にある。

児島長年(または児島備後)という人はほとんど無名の志士である。文政十年(1827)に赤穂尾崎村の商家に生まれた。幼名は堅蔵(かたぞう)、後に三郎。南朝の児島高徳を先祖と仰ぎ、同じく南朝の名和長年の忠誠を慕って、自ら児島長年と名乗った。十七歳で大阪に上り、前川虚舟に学んで篆刻の技を身に付け、その資金で遊学した。二十五歳にて閑谷学校や日田の広瀬青頓に学んだ後、尊王攘夷を唱え、各地を巡歴した。文久三年(1863)、長州で奇兵隊に参加し、その後は九州で勤王志士として倒幕活動に加わった。慶應元年(1865)、太宰府に赴き、三条実美に謁して時勢を陳じた。慶應二年(1866)、大阪で家塾を開く傍ら、大洲鉄然らの志士と交わった。慶応三年(1867)、花山院家理の義挙に参加しようとして投獄され、翌年憂憤絶食の末獄中で亡くなった。四十二歳であった。

宮山児童遊園に建つ顕彰碑は、明治二十一年(1888)に村人らによって建立されたものである。

 

児島君之碑

 

(正福寺)

赤穂八幡宮からさらに自転車で十数分。御崎地区の正福寺に至る。海が近く潮の香が漂う。

浅野家の菩提寺である花岳寺の開山秀巌龍田大和尚の隠居寺として、正保三年(1646)に建てられた曹洞宗の寺院で、はじめは、城下の加里屋にあったが、後に現在地に移された。

当寺三世住職良雪和尚は大石内蔵助に「君辱臣死」という言葉を与え、討ち入りを決意させた。大石内蔵助と良雪和尚とは共に囲碁を愛した。この寺は「二良の対局」の寺としても知られる。正福寺には、対局の碁盤や、赤穂義士の書状などが伝わる「赤穂義士所縁の寺」である。

文久の赤穂事件で襲撃に加わった山下惠助、山下鋭三郎、八木源左衛門、田川運六、西川邦治、山本隆也、吉田宗平、松村茂平ら八士は、赤穂を離れ長州に潜伏していたが、長州藩の使者である渡邊謙蔵とともに海路赤穂に戻り、慶応四年閏四月一日、赤穂新浜に到着した。渡邊は赤穂藩の役人と接触し、五日に山下らが待つ新浜に戻った。八名は、赤穂藩の郡奉行に引き渡され、渡邊は長州に帰国した。八名は正福寺に監禁された。ここで彼らは趣意書をしたため、山下惠助が総代として郡奉行に提出した。趣意書には、王政復古を受けて赤穂藩にも「勤王の思し召しが立った」ことを喜んでいること、合わせて謹んで御決裁を待っていることが記載されていた。

八士は罪を許されて、しばらくすれば自由に城下を歩けるようになると期待していたようだが、同月二十五日になって八士を備前岡山藩に預けるという命が下った。その二日後、彼らは備前岡山藩に送られ(病気となっていた松村茂平のみそのまま赤穂にとどまった。同年七月、病没。享年四十六)、濱野の妙法寺に監禁された。その後、彼らは妙法寺で二年半を過ごすことになる。明治三年(1870)九月、ようやく赤穂に戻されたが、二度ほど取り調べを受けた山下惠助は同年九月二十七日、親族宅で自決した。結局この時点で文久赤穂事件の実行犯は、六名になっていた。

 

正福寺

 

(大蓮寺)

再び市内中心部に戻る。加里屋の大蓮寺には、西川升吉の墓があるというので、墓地を歩いた。古い墓域は歩けないほど雑草が繁っており、探墓には困難を極めた。

結局、新しい墓域(ここは雑草もなく、問題なく歩くことができる)に一つだけ西川家の墓があり、その傍らに西川升吉のものらしき墓石を発見した。

「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)によれば、西川升吉が惨殺されたのは、元治二年(1865)二月二十八日とされているが、墓石にある没年月日は二月廿七日と読める。「仇討ちはいかに禁止されたか?」(濱田浩一郎著 星海社新書)によれば、西川升吉が疋田元治、幸田豊平と口論の末、斬りあったのは元治二年(1865)二月二十七日の夜のこととなっている。重傷を負った升吉はその場で死亡が確認されたというので、やはり没月日は二月二十七日というのが正確かもしれない。

 

大蓮寺

 

法名釋實叡(西川升吉の墓)

 

(雄鷹台山)

播州赤穂駅の北側に、雄鷹台山(おたかだいやま)という名の小さな山(標高253メートル)がある。登山道が整備され、初心者でもハイキング気分で昇ることができるという山である。

その麓に三基の墓がひっそりとたたずんでいる(赤穂市山手町5-14から道をはさんだ山の麓)。文久事件で国家老森主税や用人村上真輔の襲撃に加わった青木彦四郎、松本善治、濱田豊吉の墓である。彼らは事件後罪に復したが、藩論が変わらないことを嘆いて自害した。

 

文久事件関係者の墓

 

松本善治秀實墓

 

濱田豊吉高信墓

 

青木彦四良義方墓

 

 青木彦四郎は、天保八年(1837)の生まれ。安政頃より京摂の間に往来して西川升吉を中心に赤穂藩勤王派を構成し、文久二年(1862)十二月、藩政の不振を嘆じて西川ら同志十二人と執政森主税、参政村上真輔を暗殺、京都妙心寺の土佐藩本陣に逃れた。文久三年(1863)、赤穂に帰り揚屋入りを命じられたが、藩論の豹変無きを憤り切腹して果てた。年二十七。

 

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丹波

2019年12月14日 | 兵庫県

(進修小学校)

 

                       

進修小学校

 

 

學田之碑

 

 丹波市春日の進修小学校は、その前身が明治六年(1873)に設立され、明治二十年(1888)に進修小学校と改名された。どの子も学校に行けるようにと百人を超える村人が田畑や金を寄付して授業料を無料にした。そのことを記念して明治二十九年(1896)に學田之碑が建立された。撰文は重野安繹(漢学者・歴史家)、篆額は西園寺公望。

 

(西光寺)

 手元の「史跡リスト」によれば、丹波市氷上町の西光寺には生野の変に参加した片山九市(変名・木村愛之助)の墓があるとなっている。しかし、自分でこのリストを作成しておきながら、この情報の出元が分からず真偽を確かめることができない。半信半疑のまま西光寺を訪ねた。西光寺は一見したところ寺院というより公民館のような雰囲気で、近くに墓も見当たらない。少し離れた山裾に墓地を発見したが、「足立家」と「安田家」ばかりで、片山家の墓は一つも見つけられなかった。完全に空振りでした。

 

 

西光寺

 

 

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篠山 Ⅱ

2019年12月14日 | 兵庫県

(上板井)

 

                       

伊能忠敬笹山領測量の道④

 

 文化十一年(1814)二月五日、伊能忠敬測量隊は早朝より百三十一人の労役村民を従えて北野新村から京都街道を測量して宮田村に入り、国料村へ通じる分岐点に杭を打ち込んだ。ここから北上して、丹後の成相寺に向かう巡礼道の街道筋にあたる板井村、左に川内多々奴比神社、小坂村まで測量し、二月朔日、国料村で杭を打ち込んで佐仲峠につなげた。京都街道に戻って笹山城下に向かった。

 

(追入)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑤

 

 篠山市の誓願寺門前で加賀尾会長と落ち合い、最初に向かったのが追入(おいれ)の石碑である。

 道すがら十二もの石碑を建てたご苦労を伺った。石碑を一つ建てるだけでも大変なことだが、まず古い絵図から場所を特定し、土地の持ち主と交渉する手間まで、気の遠くなるような作業である。土地には国有地、市有地、私有地があって、国有地に建てるのは絶望的に難しいらしい。私有地の場合は、土地の持ち主が快諾してくれれば比較的話は早い。追入の石碑も私有地であったが、隣接する土地の持ち主が了解してくれたためこの場所に建てることができたという。追入は丹波から峠を越えて笹山に入ったときに最初に出会う宿場である。

 伊能忠敬測量隊が栢原から金ヶ坂峠まで測量して追入村に入ったのは、文化十一年(1814)二月三日。昼食後、ここから二月朔日、国領村で杭を打ち込んだ追入峠まで測量。同村にて止宿して夜は展開観測。

 翌日は早朝百三十一人の労役村民を従えて出発。神田神社、北野新村に入り、大阪・京都街道の分岐点に杭を打ち込んだ。引き続き大阪街道を南下して測量。止宿は北野新村。夜は天体観測。

 

(大沢)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑥

 

 大沢一丁目のガソリン・スタンドの北側の空き地の一画にこの石碑が建てられている。

 伊能忠敬測量隊が大沢に至ったのは、文化十一年(1814)二月四日のこと。百三十一人の労役村民を従えて、北野新村から大阪街道を南下し、一ノ瀬川に架けられた仮橋二十一間を渡り、古佐村に入った。

 一ノ瀬川の向こうに丹波少将屋敷跡を認めた。味間村の皆川を渡り、新村の立場、大沢村に入り、大阪・笹山街道の分岐点に杭を打ち込み、その日の測量を終えた。同所で昼食後、測量することなく北野新村まで引き帰り止宿した。夜は天体観測。

 

(今田)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑦

 

 今田(こんだ)小学校の正門西側に石碑がある。文化八年(1811)三月八日、伊能忠敬測量隊は上鴨川から笹山領に入り、青山下野守木津村、立杭村を測量して昼食をとった。

 文化十一年(1814)二月七日、早朝より百三十一人の労役村民を従えて、古市の清水寺街道の杭から測量を開始し、不来坂峠、小野原村、市原村枝今田、木津川の土橋六間を渡り、市原村の宿舎まで測量した。それより播州との国境を越えて清水寺まで測量した。その夜は天体観測。

 

(草野)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑧

 

 武庫川にかかる草野大橋西詰北側に石碑がある。加賀尾会長によると、この石碑の位置は実際に伊能忠敬一行が通った場所からかなり離れているらしいが、あまりに往来から離れているため、JR草野駅に近いこの場所に石碑を建てることになったそうである。

 笹山城下から大沢村を測量した伊能忠敬測量隊十名が犬飼村に入ったのは文化十一年(1804)二月六日。昼食後、大阪街道を測量し南下、右に二村神社、古市の街道分岐点に杭を打ち込んで止宿。翌七日は杭の地点から清水寺街道を播州との境まで測量した。八日は同じ杭から大阪街道を測量し、日出坂峠を越え藍本に止宿した。

 

(宇土)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑨

 

 この石碑は宇土観音に向かう途中に建てられている。

 伊能忠敬測量隊十名が宇土村に入ったのは文化十一年(1814)二月六日。笹山城下から百三十一名の労役村民を従え、渡瀬をわたり、東吹村、城山の西裾を通過した。槇ヶ峰の北裾に沿って杉村を測り、前々日に北野新村から測量して打ち込んだ大沢村の大阪・笹山街道の分岐点の杭につなげた。測量は毎日百三十一人がその役に当たり、岩崎組では六日は五十一人、七日は三十人が出役している。

 

(糯ヶ坪)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑩

 

 糯ヶ坪(もちがつぼ)の八上小学校の向かい側、高城会館の前に石碑が建てられている。文化十一年(1814)二月十一日、伊能忠敬測量隊一行は、大芋川の京橋二十間を渡り、京都街道に沿って池上村、八上下村、八上内村立場、八上上村、右に高城山古城跡、波多野右衛門太夫秀治の居城を経て、八上新村に向かった。当日の測量には、八上組から五十一人が協力し、うち二十一人が梵天持ち、小多田組からは四十人が出役した。

 

(日置)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑪

 

 文化十一年(1814)二月十一日、伊能忠敬測量隊十名は、早朝より百三十一人の労役村民を従えて笹山城下二階町から京都街道を八上新村まで測量。大庄屋波部六兵衛宅で昼食をとった。五十宮八幡宮、磯宮寺まで測量し参拝。境内では足利尊氏立願による名樹の裸框を見聞。ここから街道筋を六本柳、波々伯部八ヶ村鎮守の祇園社・祇園寺と京都街道を測量し、飛曾山坂を越えた。

 

(福住)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑫

 

 篠山に入って最初に訪ねたのが福住である。福住は昔の街道上の街で、今も伝統的建造物保存地区に指定されており、風情ある昔の建物が軒を並べている。

 伊能忠敬が福住を訪れたのは文化十一年(1814)二月十一日のこと。測量隊十名は、早朝より百三十一人もの労役村民従えて城下二階町を出発、京都街道を測量した。飛曾山坂を越え、小野奥谷村、安田村、福住村駅場測定所前に杭を打ち止め、八つ時頃同村に到着し、本陣庄屋山田嘉右衛門宅に宿泊した。翌日も同じく百三十一人を従えて出発し、川原村、亀山領安口村、西野々村、岩坂峠郡界を測量して上天引村へ向かった。

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篠山 Ⅰ

2019年12月14日 | 兵庫県

(篠山城)

 

                       

史跡 篠山城跡

 

 篠山はもの凄い観光客で賑わっていた。篠山と聞いてもデカンショ祭りと黒枝豆くらいしか思いつかないが、聞けば最近はテレビ等で取り上げられ、人気の観光スポットになっているらしい。

 三連休初日のこの日は、市内の駐車場は満杯で、辛うじて篠山城三の丸跡に設けられた駐車場に自動車を停めることができた。

 

 

篠山城外堀

 

 篠山城は慶長十四年(1609)に徳川家康が豊臣方の拠点である大阪城を包囲するとともに、豊臣家ゆかりの西日本の諸大名を牽制するために山陰道の要衝であったこの地に築いた城である。城の縄張りは築城の名手といわれた藤堂高虎が行った。当時「笹山」と呼ばれた丘陵を利用し、堀を二重に巡らし、外堀の三方に出入口として馬出しを設け、防御に徹した城構えとなっている。天守閣は築かれず、二の丸には大書院などの御殿が建てられた。江戸時代を通じて譜代大名の四家が藩主として次々と移ってきた。

 

 

御殿跡

 

 復元再建された大書院の裏手では御殿跡の部屋の配置が分かるように整備されている。

 

 

大書院

 

(王地山公園)

 

 

王地山公園

 

 

孤松臺

 

 王地山は高台で眺めがよく、松の木が一本生えていたことから、「弧松台」と呼ばれた。西園寺公望が山陰道鎮撫の際に篠山に滞陣したことから篠山町長が西園寺に揮毫を依頼してこの石碑が建立された。

 

(北新町)

 今回の篠山の旅の眼玉は、市内十二か所に建てられた伊能忠敬の足跡を記念する石碑を踏破することにあった。場所を知るために「伊能忠敬篠山領探索の会」の作成した「伊能忠敬笹山領測量の道めぐり」と題したパンフレットを入手しなくてはならない。そこで探索の会会長加賀尾啓一様(81歳)のお宅に電話して、パンフレットを取り寄せた。加賀尾会長はメールを持っておられないので、まずFAXでご自宅にこちらの住所等をご連絡しなくてはならない。当方は自宅にFAXがないので、駅前のコンビニから送ることになった。すると直ぐにパンフレットを郵送していただいた。これで概ね石碑の場所は分かったが、ご親切にも加賀尾会長が当日現地をご案内いただけるとのこと。せっかくなのでお言葉に甘えることにした。

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道①

 

 会長との約束は午後であったが、思いのほか亀岡の史跡探訪が順調にいき、篠山に入ったのは午前十時半くらいであった。あまりに早過ぎたので、約束の時間まで自力で石碑を回ることにした。京都側から篠山に入ると、⑫番目の福住から昇順に回ることになる。

 伊能忠敬は全国を測量して歩いたので、その足跡に石碑を建てようとすれば、無数にその候補地がある。しかし、実際にその場所に石碑が建てられているのはそれほど多くはない。私の知っている限り、篠山市の十二か所が最高で、次いで広島県神石高原町の四か所といったところであろう。

 

 石碑①は丹波篠山市立青山歴史村の駐車場の前に建てられている。文化十一年(1814)二月五日、伊能忠敬測量隊十名は、百三十一人の労役村民を従えて、笹山市中の西町、西町口木戸番所、魚屋町、二階町、右大手門、青山下野守居城まで測量。同町内測所前に杭を打ち込んで止宿。翌六日は早朝より東岡屋村に向けて出発、十日午後、笹山城下二階町に到着。止宿。夜は晴れたため天体観測。十一日は早朝より、五日に打ち込んだ杭より始め、呉服町、立町、河原町、京口門番所、大芋川の京橋二十間を渡った。

 

(西岡屋)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道②

 

 西岡屋の石碑は、権現山の南側に建てられている。この場所から南側に昔の街道が伸びていたらしいが、今となっては自動車一台も通れないほどの細い道で、これが街道とは思えない。加賀尾会長以下伊能忠敬笹山領探索の会の皆さんは、伊能忠敬が残した絵図をもとに、彼らが測量を行いながら歩いた道を特定し、中にはその作業の過程で明らかになった昔の街道もあったそうである。加賀尾会長によれば、測量隊の足跡をたどって歩くこと二回、その作業を通じて正確な位置を特定したのである。皆さんの努力にまったく頭が下がる。

 文化十一年(1814)二月五日、伊能忠敬測量隊は百三十一人の労役村民を従えて宮田村の分岐点の杭から京都街道を測量し、有居、西岡屋、東岡屋村に入り、清水寺街道の分岐点に杭を打ち込んだ。翌六日、測量隊は早朝より百三十一人を従えて笹山を出発、前日東岡屋村に打ち込んだ分岐点の杭から清水寺街道の測量を始めた。渡瀬河原広く、その川幅約三十間を渡り、東吹村に入った。

 

(西谷)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道③

 

 八幡神社の西、美しい溜池の前に石碑がある。

 文化十一年(1814)二月五日、伊能忠敬測量隊は早朝より百三十一人の労役村民を従えて、北野新村から京都街道の測量を始め、木之部村字西木之部、字東木之部、宮田村に入った。国料村へ通じる分岐点に杭を打ち込んだ。ここから北上し、佐仲峠まで測量して、その後宮田村まで測量することなく戻った。大庄屋久下弥太夫宅で昼食後、分岐点の杭から京都街道に入り、西谷村、大野村、坂本村、川北村を測量し、笹山城下に向かった。

 

 

溜池

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佐用

2019年05月25日 | 兵庫県
(常光寺)


常光寺


伊能忠敬宿泊之地

 伊能忠敬測量隊がこの地を訪ねたのは、文化十年(1817)十二月二十三日のことであった。伊能忠敬は幕府の命を受け、1800年からの十六年間、全国の沿岸部を測量し、「大日本沿海輿地全図」の作成にあたった。

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山崎 Ⅱ

2019年05月25日 | 兵庫県
(光泉寺)


光泉寺

 光泉寺本堂前には、「伊能忠敬日本地図製図の地」と記された碑が建てられている。「天文方御巡回覚日記」によれば、伊能忠敬測量隊が山崎を訪れたのは、文化十年(1813)のこと。一行は山崎近傍を測量し光泉寺本堂で製図を行い、地元の役人、人夫も測量に協力したと伝わる。


伊能忠敬日本地図製図の地

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