(浄土ヶ浜)
浄土ヶ浜は、天和年間(1681~84)、常安寺住職七世霊鏡竜湖禅師が「さながら極楽浄土の如し」と感嘆して命名したと伝えられる。白い流紋岩と濃紺の海と松の緑、そして鮮やかな空色のコントラストが実に鮮やかである。
明治二年(1869)三月二十五日、浄土ヶ浜付近で史上有名な宮古港海戦が繰り広げられた。戦闘はわずか三十分程度の呆気ないものであったが、我が国で初めて洋式軍艦による海戦として歴史に刻まれることになった。
浄土ヶ浜
宮古港海戦記念碑
浄土ヶ浜周辺には、二つの宮古港海戦記念碑が建立されている。一つは御台場展望台の入り口にある。のちの総理大臣鈴木善幸の書。
宮古港海戦解説碑
臼木山山頂
もう一つは、臼木山山頂にある解説碑である。黒御影石製の解説碑には、土方歳三、東郷平八郎の肖像写真が入っている。
臼木山山頂には県立水産科学館に車を停めて、水産科学館の脇から登ると近い。恐らく枝の葉が落ちた冬場であれば、解説碑のある山頂から海戦が展開された宮古港を見下ろすことができるのだろうが、夏場は葉が生い茂って見通しが利かない。
宮古港海戦は、宮古港に停泊中の装甲軍艦甲鉄(ストンウォール号)を襲って捕獲しようという奇想天外な作戦であった。この奇襲作戦を発案したのは誰だったのだろうか。司馬遼太郎先生の「燃えよ剣」では主人公土方歳三が提案したことになっている。吉村昭の『幕府軍艦「回天」始末』では回天艦長甲賀源吾の起案としているが、そちらの方が自然のように思う。
旧幕軍にとって乾坤一擲、起死回生の奇襲であったが、宮古港に達する前に暴風雨に見舞われ、蟠龍は遭難、高雄も機関に損傷を受け、宮古の新政府艦隊八艦を相手に襲撃に参加したのは回天単艦になってしまった。更に接舷した回天とストンウォール号の舷側には三メートル以上も高さに差があった。しかも回天は外輪船であったために艦をうまく横付けできなかった。その結果、得意の斬り込みも思うように行かず、多くの戦死者を出して戦闘は幕を閉じた。数々の不運が重なり作戦は失敗に終わる。
(大杉神社)
大杉神社
宮古港戦績碑
大杉神社には、題字東郷平八郎、碑文小笠原長生海軍少将(小笠原長行の長男)による。東郷平八郎は、宮古港海戦時、新政府軍の軍艦春日に乗船していた。
(官軍勇士墓碑)
官軍勇士の墓
愛宕小学校の裏の道をひたすら上ると、中学校の跡地に行き着く。その正門の横の細い道を進むと、官軍勇士の墓の入り口である。ここから二百メートルほど、鬱蒼とした林の中を歩いて行く。行き当たりが墓地となっており、そこに官軍勇士の墓がある。宮古港海戦で戦死した無名戦士四名の墓である。それにしてもどうしてこのような山の中に葬ったのであろうか。
(常安寺)
常安寺
夏の史跡訪問は、日が長いのが利点であるが、寺院は墓参りで混雑するのが難点である。常安寺にもたくさんの車と墓参り客で混んでいた。明らかに目的の異なる私は、ちょっと肩身の狭い思いをしながら墓地へと急いだ。常安寺の墓地では、歴代住職の墓の周りで法要が行われており、そこにも紫色の法衣を着たお坊さんほか、多数の方が参集していた。そこを掻き分けて何とか小西周右衛門の墓にたどり着くことができた。小西周右衛門は、宮古港海戦の戦死者ではなく岡山藩の銃卒で、宮古から青森に向かう函館攻撃兵の一員だったが、宮古で病没したものである。
官軍小西周右衛門の墓
(藤原観音堂)
藤原観音堂
藤原観音堂の前に「幕軍無名戦士の墓」が建てられている。宮古港海戦における旧幕軍の戦死者は五十余名と言われているが、そのうちの一人の墓である。戦後、藤原須賀の海岸に一体の首の無い死体が流れついた。土地の人が手厚く葬り、墓を建てて供養したもので、回天士官大塚浪次郎或いは新選組隊士野村利三郎とも言われるが判然としない。小さな墓石には「忠岳義剣居士」と刻まれている。
幕軍無名戦士の墓