史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

佐野 Ⅲ

2018-02-11 10:07:15 | 栃木県
(曲屋公民館)


義士 龜山勇右エ門 亀田徳三郎君碑

 この日早朝から潮来、鹿嶋、鉾田、かすみがうら、小美玉、大洗、桜川と史跡を回ってきたが、あまりに順調にいき、まだ午前中であった。そこでさらに足を伸ばして栃木県佐野市田沼を訪問することにした。


雙忠烈碑

 亀山勇右衛門と亀田徳三郎の招魂碑および顕彰碑である。曲屋公民館の南にある。
 亀山勇右衛門は、天保十一年(1840)の生まれ。異母兄亀田徳三郎と同様の学問修業を積み、資性は兄に勝るといわれた。平田銕胤の門に学び、また武術を水戸藩士栗田源左衛門に修め、水戸藩士と交遊した。元治元年(1864)、水戸筑波勢が下野太平山に屯すると、その檄文に応じ兄とともに参加し、以来行動をともにした。武田耕雲斎一行の西上にも加わり、小荷太奉行として重きを成したが、敦賀で同志らとともに斬首された。年二十六。
 亀田徳三郎は、文政九年(1826)の生まれ。父亀田武左衛門賀治は、母の死後、二子を残して養家を去り、同村の亀山家の夫婦養子となったため、徳三郎は不遇な幼時を過ごし、そのため長じても粗暴な所行があったという。学問を柿沼広身、大河内清香に学び、ついで藤森弘庵に師事し、同時に平田学も学び、水戸藩士らと交遊した。水戸天狗党の挙兵に亀山勇左衛門とともに参加し、御金奉行を務めた。元治元年(1864)十二月十六日、新保駅に滞陣中、加賀藩に投降することに反対し、僧赤城とともに本体を脱したが、幕兵のために殺された。
年三十九。

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那須 Ⅲ

2017-09-08 21:19:30 | 栃木県
(グリーンピアセカンド)


浮浪徒十四人之墓

 水戸浪士(天狗党隊員)の戦死者を葬った「浮徒十四人之墓」を探して、この辺りを走り回ること四度に及んだが、どうしても見付けることができない。そこで那須町観光協会に問い合わせたところ、写真付きで詳しい地図を送っていただいた。これがあれば、迷うことなく探し当てることが可能である。
 七月のどんより曇った日、念願を果たすため、早朝に自宅を出発して一路浮徒十四人之墓を目指した。場所は県道72号を進んで黒川橋を渡って直ぐに左折。グリーンピアセカンドという別荘地に至るが、最初に出会う三叉路を左に入り、二つ目の交差点を左折し、その先の田圃の中にある。車で近くを走っていて見える場所ではなく、やはり場所を知らずに探し当てるのは簡単ではない。やっと対面できたことに感慨一入であった。小雨が降り始めたが、しばしこの墓の前にたたずんだ。
 この墓は、文字とおり水戸浪士十四人を葬ったもので、葬られているのは田中愿蔵隊に属した隊士(いずれも農民)といわれる。元治元年(1864)十月、捕えられた彼らはこの地で処刑された。明治九年(1876)、十三回忌を機に建てられたものである。

(山田資料館)
 JR東北本線の黒田原駅から徒歩数分という住宅街の中に山田資料館がある。明治二十四年(1891)、黒田原一帯の払下げを受けた山田顕義は、開拓のための農場事務所をこの地に構えた。当時は母屋、事務所、宿泊部屋、穀倉などを備えていたが、今は事務所の一部が残っているのみである。資料館では山田顕義やその子孫の写真や遺品を展示している。入場無料、要事前予約。
 例によって私がこの場所を訪れたのは朝の七時半で、開館時間の遥か前であった。


山田資料館


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栃木 Ⅳ

2017-09-08 21:15:43 | 栃木県
(近龍寺)
 定願寺と同じく、天狗党が宿所とした寺である。定願寺に本陣が置かれ、田丸稲之右衛門や藤田小四郎らが宿泊。元治元年(1864)六月一日、近龍寺には田中愿蔵隊が入った。
 田中愿蔵は定願寺の総裁田丸稲之右衛門から軍装が華美に過ぎることを咎められ、近龍寺の裏門から出立するよう命じられた。


近龍寺


近龍寺裏門

 栃木を出た天狗勢は結城に移動したが、ここから田中愿蔵隊は独自行動を取り始める。栃木に引き返した田中は、非武装・無抵抗の住民を殺害した上、街に放火した。火事は終夜収まらず、焼失家屋四百余という被害を出した。さらに消火しようとした町民が田中愿蔵隊の手によって殺害された。栃木では「愿蔵火事」と呼んだ。
 田中愿蔵は、攘夷にとどまらず倒幕思想を有していたといわれる。それにしても、無辜の住民を殺害し、街に放火するという暴虐な事件は正当化しようがない。天狗党は軍律を重んじていたが、若い田中を制御することができなかった。本来であれば、このような事件を起した時点で、田中愿蔵を処刑するか、討伐しておく必要があったであろう。しかし、田中愿蔵隊は天狗党と行動を別にしながら、時には共同して諸生党と戦った。外から見て、やはり田中愿蔵隊は天狗党の一部であり、天狗党=残虐な集団というイメージを最後まで払拭することはできなかった。田中愿蔵隊の存在があったから、諸生党に「こちらが正義」というお墨付きを与えることになったし、幕府も迷うことなく天狗党の追討を命じることになった。天狗党が悲惨な最期を迎えた伏線は、既に田中隊が暴虐事件を起こした時点で芽生えていたといって良いだろう。

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大田原 須賀川

2017-07-16 17:16:12 | 栃木県
(雲厳寺)
 雲巌寺は、弘安三年(1283)に仏国国師が開山したという古刹である。銅板葺きの山門は、かつてはこけら葺きであったという。江戸前期の建築といわれる。


雲巌寺

 元治元年(1864)十月一日、天狗党は大子から八溝山麓を西に進んで、須賀川から雲巌寺に出た。この時、諸生派は伐木を並べて発砲し進路を阻んだ。その時の弾痕が雲巌寺の山門に残っていたが、今は埋木してあって、確認することができない。

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足利 Ⅱ

2016-01-10 19:23:29 | 栃木県
(足利学校)


史跡足利学校

 日本最古の学校として知られる足利学校は、もっとも古い説によれば奈良時代の創建といわれる。歴史上、明らかなのは、上杉憲実が現在国宝に指定されている書籍を寄進し、痒主(学長)制度を設けるなどして学校を再建したことである。
 天文十八年(1549)にはフランシスコ・ザビエルにより「日本国中、最も大にして最も有名な坂東の大学」と世界に紹介され、当時学徒三千といわれるほどになったが、明治五年(1872)その幕を下した。


入徳門

 入徳の額は、天保十一年(1840)に掲げられたもので、現在の建物は裏門を移築したものという。吉田松陰が当地を訪れたとき、聖廟の右区の欄間にあったというが、もともと学校門の正門に掲げられていたものである。
 嘉永五年(1852)四月三日、吉田松陰は盟友宮部鼎蔵とともに栃木の宿を出た。富田、茂呂、犬伏、天明を経て足利に入った。松陰は足利学校の刻明な見学記を残している。


学校門

 松陰の見学記によれば、まず「学校」の扁額を掲げる正面の門をくぐり、継いで「杏壇」(講堂)の二字を掲げた「廟門」を通り、聖廟を拝した。往時門に掲げられていた「杏壇」と「学校」という扁額は、現在方丈に保存展示されている。


杏壇

 孔子廟の前には、寛文八年(1668)創建の杏壇門がある。杏壇とは、孔子が弟子たちに教えたところに杏の木が植えられていたことに由来する。こちらの額はレプリカである。


孔子廟

 松陰の見学記は続く。廟の中は三区に分れ、孔子の座像を安置し、左には学校の創始者とされる小野篁の像が置かれていた。
 松陰は、孔子像は宋代のものと聞いたというが、実際には室町末期の天文四年(1535)に作られたものである。



孔子座像


小野篁像


足利学校 方丈


市立足利学校遺蹟図書館


 松陰は、学校に附属する文庫を見学し、膨大な経史の諸書が網羅されていることに驚いた。市立足利学校遺蹟図書館に、一万二千冊の書が引き継がれている。

 松陰のみならず、多くの著名人がここを訪れている。古くは蒲生君平、亀田鵬斎、立原杏所、渡辺崋山、梁川星巌、紅蘭、広瀬旭荘、佐藤一斎、高杉晋作。維新後も、細川潤次郎、青山延寿、佐野常民、重野安繹、関口隆吉、東郷平八郎、上村彦之丞、大隈重信、渋沢栄一、井上馨、乃木希典らの名前が確認されている。

 この日の午後三時、圏央道の白岡菖蒲と桶川北本が開通した。少し遠回りになるが、足利からの帰路、東北道から圏央道を使うことにした。新たに開通した区間を通ったのは、直後の三時四十分であった。少し車の量は多かったが、これまで一時間近くかかっていた区間を、十分程度で走破できるのは快感であった。これで自宅から東北へのアクセスが格段に向上することになる。
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下野

2015-09-12 15:21:16 | 栃木県
(甲田家墓地)


河野家由緒碑

 下野市本吉田の県道44号線沿い、鬼怒川を渡る大道泉橋の手前に、河野家墓地がある。ここに河野顕三ら一族の墓がある。


贈従五位甲田(河野)顕三墓

 墓地にある河野家由緒碑によれば、河野家の本姓は甲田といい、河野顕三の墓石にも本姓である甲田顕三と刻まれている。
 甲田家が何時どういう経緯でこの地に定着したのかは詳らかではないが、本家の庄兵衛の時、彦右衛門が分家を立てて独立したのに始まる。彦右衛門は長崎に遊学して医学を修め、帰郷後、摂生亭と名乗って開業した。嗣子貞文も家業を継いで徐嘯と号して、父子ともに令名が高かった。その後、弘雄、民雄、顕雄と続く。顕雄の妻は、「下野国誌」十二巻を著した河野守弘という人の一人娘で千世といった。この二人の間に生まれたのが、顕二、顕三の兄弟で、いずれも医学を学び、父子とも勤王の志が厚かった。顕二は万延元年(1860)、松前で客死。顕三は文久元年(1861)の坂下門外の変に参加して斃れた。河野家は断絶の危機に瀕したが、顕三の妹、テルが婿を迎えて家系を継いだ。


甲田顕二釋戒忍居士墓


贈正五位河野守弘墓

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宇都宮 Ⅵ

2015-09-12 15:12:24 | 栃木県
(東刑部)


良眞禅定門
(増渕仙吉墓)


 増渕仙吉の墓である。墓地とも呼べないような藪の中にある。玉垣で囲まれており、官修墓地のようでもあるが、はっきりとは分からない。墓も半ば雑草で覆われている。
増渕仙吉は仙助とも。軍夫。慶応四年(1868)九月一日、会津火玉峠で負傷。十一月六日死亡。二十二歳(六十六歳とも)。以上、「幕末維新全殉難者名鑑」による。


増渕家之墓

 近くの墓地にある増渕家の墓の傍らにある墓標によれば、増渕仙助は明治元年十一月六日、二十一歳にて死去したと記されている。「幕末維新全殉難者名鑑」の記載と合致しているところと、異なっている部分がある。

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那須塩原 Ⅳ

2015-09-12 15:09:00 | 栃木県
(烏森公園)


烏森神社

 明治十二年(1879)、印南丈作、矢板武らの要請に応えて、伊藤博文、松方正義が烏ヶ森から那須野が原を視察し、明治十四年(1881)の明治天皇の東北・北海道巡幸の際には、名代として有栖川宮熾仁親王が訪れた。さらに明治十八年(1885)には那須疎水起工式、明治二十七年(1894)には那須開墾社成業式が開かれる等、那須野ヶ原開墾、那須疎水開削にゆかりの深い場所である。丘の上の烏森神社は、社伝によれば、その前身である烏ヶ森稲荷神社の創建は延喜二年(902)とされるが、明治二十一年(1888)に現在の社殿が完成し、以来「開拓のおやしろ」として崇敬を集めてきた。


印南丈助頌徳碑

 印南丈作の頌徳碑である。建立は明治二十九年(1896)とあるが、「那須開拓史」には明治三十一年(1898)に建てられたと記載されている。撰文は佐々木高行。書は明治三大書家の一人と称される金井之恭による。
 印南丈作は、天保二年(1831)、日光で生まれ、佐久山宿(現・大田原市)の印南家の養子となった。戸長、県の勧業課付属、産馬協同会社社長を歴任後、明治十三年(1880)、同志とともに那須開墾社を設立し、翌年社長となった。明治十八年(1885)には矢板武とともに那須疏水の開通を実現するなど、那須野ヶ原の開拓に尽力した。明治二十一年(1888)、五十七歳にて死去。


有栖川宮碑

 有栖川宮熾仁親王の撰文および書による碑で、明治十四年(1881)八月、那須野ヶ原を視察したときのことを漢文で記録したものである。建立は明治十五年(1882)。

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那須 Ⅱ

2015-09-12 15:04:06 | 栃木県
(大沢)
 前日、嫁さんから「明日は自動車を使っても良いよ」と言われたので、急遽栃木県への日帰り史跡旅行の計画を立てた。朝、五時半に出立して、第一目的地である那須町大沢に到着したのは八時半を過ぎていた。天気予報とおり、梅雨前線の影響で午前中はずっと雨であった。当たらなくてもよい予報ほどピタリと当たる。


高根沢新助墓

 高根沢新助は、大沢村出身の農。軍夫。明治元年(1868)九月五日、若松城下で負傷。十八日、死亡。三十一歳。


(小島)


平山忠蔵墓

 平山忠蔵は、小島村出身の農。夫卒。慶応四年(1868)五月一日、岩代白川郡西原堀田にて戦死。五十五歳。

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大田原 黒羽 Ⅱ

2014-10-19 10:47:44 | 栃木県
(鎮国社)


鎮国社

 黒羽城址公園の前の道を北上する。鎮国社は、その左手の林の中に鎮座しているが、そこにあるという情報がなければ、入ってみようとは思わないような場所である。道路脇の小道を登ると、静かな境内が出迎えてくれる。


大関公之碑

 本殿の前に大関公之碑がある。大関増裕の顕彰碑である。明治七年(1875)三月建立。勝海舟の撰文。
 大関増裕は、外様の小藩の藩主であり、本来であれば幕政に参画することはあり得なかったが、譜代の名門西尾氏(遠江横須賀藩)の出身であったことから、幕府に重用されて講武所奉行や陸軍・海軍奉行さらに若年寄などの要職を歴任した。




鈴木庄作正直墓

 参道脇に墓地があり、そこに鈴木庄作の墓が二つある。うち一つは官修墳墓である。鈴木正作の諱は正直または正勝。慶応四年(1868)四月十八日、斥候に出たところを幕兵に捕えられ、翌十九日、下野蓼沼村で斬。四十五歳(三十二歳とも)。

(黒羽招魂社)


黒羽招魂社

 黒羽招魂社(黒羽神社)は、明治二年(1869)十二月、戊辰戦争における黒羽藩の戦死者四十七霊を祀るため、大関増勤らにより創建された神社である。のちに日清・日露・太平洋戦争の戦死者の霊が合祀されることになった。


大関増裕像


高橋長雄戦死之碑

 高橋長雄は、通称高橋亘理、鹿之助とも呼ばれた。小隊長。明治元年(1868)九月十四日、若松城下にて戦死。三十五歳。この戦死之碑は、明治二年(1869)九月、三田称平の撰文、土浦雪江の書ならびに篆額にて建立された。


地山三田翁碑

 三田称平は、文化八年(1811)、黒羽藩士秋庭清房の子に生まれ、のちに三田政武の養子となった。号は地山。郡奉行として民政に尽くし、飛び地の益子においては益子焼を奨励した。安積艮斎に朱子学を学び、陽明学者大塩平八郎の下で学んだこともあった。藩校作新館の学頭をしていた慶應四年(1868)閏四月、情勢探索のため仙台に派遣された。時に白石で奥羽列藩会議が開催中であったことから、称平も招かれて、列藩同盟への加入を求められた。しかし、拒絶して帰国。藩論を尊王に一本化した。維新後は藩公議人を務め、私塾地山堂を開き、子弟教育に当たった。明治二十六年(1893)、八十二歳で没。


益子信明戦死之碑

 益子四郎信明の慰霊碑である。益子四郎は、小隊長。江戸で学び、洋式兵法、砲術に長じた。物頭。慶応四年(1868)八月二十三日、下野小谷村にて戦死。二十二歳。明治十三年(1881)建碑。

(前田赤台共同墓地)
 前田共同墓地を探して、走り回った末に偶然前田赤台共同墓地にたどり着いた。念のため墓地内を歩いてみると、ちょうどその真ん中辺りに官修墓地があり、黒羽藩鮎瀬文蔵の墓があった。偶然の所産である。


正棟院戦山良功居士(鮎瀬文蔵の墓)

 鮎瀬文蔵は、五郎ともいう。諡号を正棟。黒羽藩二番隊(隊長渡邊福之進隊)平士。慶応四年(1868)九月五日、会津若松にて戦死。十九歳。

(前田共同墓地)
 今回の栃木県下の史跡訪問では、竹様のHPを参考にさせていただいたが、毎度のことながら竹様の探求力というか、発見能力には感心させられる。この前田共同墓地についても、私は竹様のHPであらかたの位置が分かったから行き着けたようなものである。県道26号線から墓地に至る道は、未舗装道路である。私は一旦自動車で行こうとしたが、とても最後まで行けないと危険予知して、途中から引き返して県道に車を止め、そこから歩いて前田共同墓地まで移動した。ほぼ十分かかった。途中は田畑しかないような場所で、この先に墓地があるという確信は持てない。よく前田共同墓地を探し出したものだと、心の底から感心する。


新江新吾克己墓

 新江新吾は、新吉ともいう。名は克己。明治元年(1868)九月二十七日、下野佐良土村で南下してきた水戸市川勢と遭遇し戦死。四十六歳。


新江壽三郎正教墓

 新江壽三郎は、名を正教または克成といった。卒。慶応四年(1868)四月十八日、官軍隊長祖式金八郎と連絡に出て、幕兵に捕えられ、十九日、下野河内郡本郷村で斬。二十五歳。

(午居渕共同墓地)


小室末蔵政重墓

 小室末蔵は、明治元年(1868)九月二十七日、下野佐良土にて戦死。二十五歳。墓石は新しく建て替えられたものらしい。


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