史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「姫君たちの明治維新」 岩尾光代著 文春新書

2018年11月30日 | 書評
これまでも似たような「お題」の本を何冊か読んでいたので、あまり期待せずに手にとったが、期待以上の内容であった。何が期待以上かというと、まずもってよく調べていることである。
天璋院や和宮の項は、ありきたりの物語で新鮮味はなかったが、その後続々と登場するお姫様の物語はいずれも興味深いものばかりであった。
たとえば、松前崇広の正室維子(ふさこ=中村藩主相馬益胤四女)と松前徳広の正室光子(岩村田藩主内藤正縄二女)の物語。私も落城後の松前家の悲劇を追って、北海道の館城や熊石、青森県の平館などを巡ってきたが、その裏に二人の未亡人がいたことは本書で初めて知った。維子も光子もそれぞれ慶応三年(1867)二月と明治二年(1869)二月に亡くなったと公表されている。しかし、筆者の執念深い調査の結果、維子は染井霊園に葬られており、その墓石に、没年月日は明治三十一年(1898)十一月二十八日と刻まれているという。光子の墓も松前家の菩提寺松前の法幢寺にもないことから、維子と同じように、世をはばかりながら明治を生きていた可能性がある。
もう一つ感心したのは、筆者の文章力である。一分一文が簡潔明瞭である。短い文を煉瓦のように積み上げながら、お姫様の人生を描く。筆者は極力感情を排除しているが、一章に一つ筆者のコメントを加えて文を閉じる。たとえば、鍋島直大夫人胤子の章は、次の一文である。
――― あまりに早い死が、胤子の存在を記録の彼方に埋もれさせてしまった。もっと長生きすれば、蕾のまま持ち帰った西洋文明の花を開かせることもできただろうと、惜しまれる。

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「日本史上最高の英雄 大久保利通」 倉山満著 徳間書房

2018年11月30日 | 書評
大河ドラマ「西郷どん」の余慶で、今年に入って続々と西郷隆盛関連書籍が発刊されている。西郷と比べれば盟友大久保利通を取り上げた書籍は圧倒的に少ない。本書は、久々に大久保を正面から取り上げた一冊である。
しかし、著者倉山満氏は巻末に「憲政史研究家」と紹介されており、幕末明治は得意分野ではないのかもしれない。鳥羽伏見で「薩摩の指揮は西郷が執り、長州は大村益次郎が率いていた」(P.157)とするが、大村益次郎が長州藩軍の指揮をとったのは同年二月以降のことであり、鳥羽伏見の戦闘が行われていた時分にはまだ国元にいたはずである。明治六年(1873)十月の閣議で「西郷の派遣に賛成は西郷・板垣・江藤・副島種臣・後藤新平」(P.200)とあるが、さすがにこの時期後藤新平がこの席にいるはずはない。明らかに後藤象二郎の誤りである。いずれも本筋には大きな関わりはないが、こうした初歩的なミスがあると、興醒めしてしまうことは否定できない。
本書の特徴は、大久保の「引き立て役」として一橋慶喜、原市之進、板倉勝静、山田方谷を登場させている点にある。一橋慶喜はいうまでもなく、薩摩藩に立ちはだかった強烈な怪物政治家。原市之進はその側近である。
板倉勝静は、幕府の最終末期、老中筆頭を務めた人物。慶喜の言わば「官房長官」的存在である。従来あまり注目されることはなかったが、本書では「能吏」「決して弱い政治家ではない」として、有能な政治家として描く。山田方谷はそのブレーンであった。方谷を登用して藩政改革に成功した板倉は、中央政界に進出してからは、あまり方谷のいうことを聞かなかった。徳川家を守る姿勢を貫いた板倉と藩を大事にする方谷の立場の違いがその背景にあるのかもしれない。
「四人の敵」を相手に奮闘する大久保の姿が描かれる。実際は大久保が一人で敵を向うに戦っていたわけではなく、島津久光や西郷隆盛、小松帯刀、岩倉具視といった盟友・同朋がいたからこそ対抗できたのである。大久保を「日本史上最高の英雄」と持ち上げるが、一人で討幕維新が実現できたわけではない。それは大久保自身が一番よく分かっているだろうが。

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「英国留学生の道標」 古賀節子著 中央公論事業出版

2018年11月30日 | 書評
これまで二回のロンドン出張の機会があり、その都度睡眠時間を削って市内の史跡を訪ねた。本書でも紹介されているUniversity of London Collegde(UCL)構内の日本人留学生の碑は、個人的には見逃せないスポットである。
本書の主題となっているのはロンドン郊外ブルックウッド墓地にある日本人留学生四名の墓である。本書を手に取るまでこの墓の存在は知らなかった。機会があれば、是非訪ねてみたい。ただし、ブルックウッド墓地はロンドン市内から南西に約四十キロメートル、自動車で約一時間のウォーキングという街にあり、そう簡単に行ける場所ではなさそうである。
この墓地に眠る日本人は、長州藩山崎小三郎、徳山藩有福次郎、土佐藩福岡守人、佐賀藩袋久平の四人。いずれも幕末から明治初年に欧米に留学し、現地で病に侵され、心ならずも帰国を果たせなかった若者たちである。同じ時期に英国に留学した長州ファイブや薩摩藩士と比べると、彼ら四名は名前を知られた存在ではないが、欧米の知識を吸収して帰国していれば、間違いなく明治日本にとって有用な人材になっていただろう。それだけに彼らの無念を思うと胸が痛む。
この中の一人佐賀藩多久町出身の袋久平は、著者古賀節子氏の祖父古賀静脩の弟(つまり大叔父)という血縁関係にある。残された数少ない史料から彼の足跡を掘り起こした。
袋久平は古賀幸左右衛門の次男に生まれ、袋家に養子に入り、久平と名を改めた。その後の経歴を見れば、相当な秀才だったことが分かる。慶応元年(1865)、佐賀藩が長崎に米国人フルベッキを招き、英学伝習所を開くと、十七歳の久平は選抜されて藩費で遊学。同郷の鶴田雄(幼名揆一)も席を並べて勉学に励んだ。明治二年(1869)、フルベッキが明治新政府の招きを受けて上京すると、久平と鶴田雄もそろって上京して東京開成学校に入学した。明治四年(1871)、鶴田雄とともに藩費留学生に選ばれ、同年十月横浜を出立。米国経由でイギリスに渡ったが、その後ドイツへの転学命令が下り、一人ドイツに渡った。ここで二年ほどかけてドイツ語を習得したと思われる。ようやく大学に入学しようという矢先(筆者は、法学を学ぼうとしたのではないかと推定している)、病に侵されベルリンで療養したが回復を見ず、帰国の決心をしてイギリスに渡ったところで力尽き、明治六年(1873)十一月十二日、二十四年の短い生涯を終えた。
本書では彼ら四名の留学生がブルックウッド墓地に手厚く葬られた経緯や、長らく放置されていた墓が発見され記念碑が建てられたこと、記念式典の様子などが紹介されている。没後百四十年余りを経て、漸く彼らの存在も日の目を見ることになった。百五十ページに満たない本であるが、最高の鎮魂であろう。

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「薩摩の密偵桐野利秋 「人斬り半次郎」の真実」 桐野作人著 NHK出版新書

2018年11月30日 | 書評
鹿児島出身の作家、桐野作人氏の手による、同姓桐野利秋伝である。当然、並々ならぬ思い入れがあるに違いない。「おわりに」で「個人的な事柄」と断った上で、「歴史の著述を生業にするようになったのも、利秋がかかわっていた」と告白している。
しかしながら、本書の記述は努めて中立的であり、過度の肩入れは見られない。広く知られるように西南戦争は、「丁丑の戦(西南戦争)は桐野どんの戦」「桐野は十年の乱の張本人」といわれる。西南戦争の開戦から敗戦まで、全て桐野利秋の責任のように語られてきた。
著者は西南戦争の端緒となった私学校党による火薬庫襲撃事件や西郷暗殺計画を丁寧に検証した上で、西郷従道や市来四郎の証言を紹介している。
――― 別府晋介、淵辺群平(高照)、辺見十郎太の三人が、叛乱の本当の首謀者であり、兄(隆盛)暗殺の陰謀の話を広めたのは、かれらである。吉之助、篠原、桐野、村田新八、それに大山(綱良)は、この三人にだまされて、陰謀の話を信じ込んだのである(西郷従道)
――― 辺見や淵辺高照は篠原と密議して、県令の大山に謀り、中原尚雄など刺客の云々を大義名分にして大挙すれば、全国の不平士族が呼応し、政府の奸を除き、政府の改革を一挙に断行すべきだとして、西郷・桐野・池上四郎などを説いた。これにより一大変状が起きて遂に挙兵に決した(市来四郎)
筆者によれば、桐野利秋は弾薬庫襲撃を犯罪と断じ、襲撃者は自首して罪を待つべきといっていたとしている。にもかかわらず、私学校中堅幹部の主戦派により西郷暗殺計画が捏造されたため、開戦にひきずられたという説明は、非常に納得感のあるものである。
維新前、桐野利秋は中村半次郎と称した。「人斬り半次郎」という呼び名が独り歩きしている感が強いが、その実像はあまり知られていない。筆者によれば、中村半次郎は優秀な密偵だったという。「長州や土佐の過激な攘夷派に親近感を示しながら近づき」「言葉巧みに探索対象の懐に飛び込んで貴重な情報を得てくる」のである。「桐野の密偵としての有能さは、探索対象に同化してしまうほど、紙一重のところで活動していることにあった」という。時には過激な攘夷派以上に過激な攘夷論を吐いていたのであろう。
桐野は元治元年(1864)に挙兵した水戸天狗党にも接触している。場所は濃越国境辺りというが、ここで桐野は武田耕雲斎や藤田小四郎ら天狗党幹部に大垣城を夜襲するように勧めている。筆者は桐野を派遣したのは小松帯刀だとしている。
本書では「人斬り」の異名の由来となったと思われる、赤松小三郎暗殺にも触れている。桐野自身が日記に残しているので、赤松暗殺に関わったことは間違いない。逆に赤松小三郎以外、桐野が「人斬り」に手を染めた事実は確認できない。桐野は何故赤松小三郎を暗殺したのか。その背景が解き明かされるが、それにしても赤松小三郎は慶應三年(1867)五月の時点で二院制議会の開設を構想していた優れた思想家であった。薩摩藩や桐野には、赤松を生かしておけない理由があったのだろうが、日本のためには惜しまれる人材だったと思う。
剣客桐野利秋はさまざまな伝説に彩られているが、もっとも有名なのは「軒先の雨だれが地面に落ちるまでに三度の抜き打ちができた」というもの。筆者は「さすがの桐野でも時間的に無理」と否定する。ま、そうでしょうね。桐野の最期についても伝説が残る。前額の急所に弾丸を受けたにかかわらず、自ら短刀で喉を突き、大地に伏せて死んだというのである。急所を撃たれてまだ自刃する余力があるのか甚だ疑問であるが、これまた豪傑らしい伝説といえるかもしれない。
筆者は桐野利秋にまつわるさまざまな俗説を否定するが、それでも桐野という人物の魅力は衰えない。

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「墓が語る江戸の真実」 岡崎守恭著 新潮新書

2018年11月30日 | 書評
先日「墓石が語る江戸時代」(吉川弘文館)を読んだところであるが、似たようなタイトルの本が新潮新書から発刊された。「墓石が語る江戸時代」は大学の先生によるアカデミックな本であったが、こちらは元新聞記者による、肩の凝らない読み物となっている。
第一話「死んでもお前は隣」はお由羅と島津斉興の墓石の話。お由羅は側室にもかかわらず、島津家歴代の墓所福昌寺(廃仏棄釈により廃寺となったため、厳密には福昌寺跡となる)では堂々と斉興の隣に墓が置かれている。正室の弥姫は少し離れた位置に、夭折した斉彬の子供たち(すなわち孫たち)と一緒に眠る。弥姫は鳥取藩池田家の出身で、本書によれば「賢夫人の代名詞のような女性」だったという。文政七年(1824)に三十二歳という若さで亡くなっており、それ以降はお由羅が藩主斉興の格別の寵愛を受けた。墓石の配置が、斉興の愛情の深さ ――― これがお由羅騒動の原因ともなっているのだが ――― を物語っているのである。
第八話「死んでも見捨てられず」では、榊原政岑に愛された高尾太夫を取り上げている。姫路藩主榊原政岑は家督を継いだ途端遊興にふけり、その挙句、吉原の頂点にいた高尾太夫を身受けしてしまった。将軍吉宗の怒りを買った政岑は越後高田に転封されてしまう。本来、榊原家にとって高尾太夫は御家を凋落させた「傾国の女性」であり、政岑が死んだら家中の恨みを受けて追放されてもおかしくない。ところが、実際には長い余生の世話を受け、榊原家菩提寺(池袋本立寺)に手厚く葬られている。
何故、このような特別扱いを受けたのか。そのヒントになる逸話が榊原家に伝わっている。政岑が吉原に通い詰めていた頃、尾張藩の宗春と意気投合し、将軍の交代などの密談を交わしているとの噂がたった。幕閣も放っておけず、ある日、二人の登楼を確認して吉原三浦屋を襲った。その時、政岑は高尾太夫の身支度部屋の長持ちの中に匿われ、高尾太夫は追手の前に立ちふさがったのである。この機転により間一発政岑は危機を逃れた。姫路藩は取り潰しを免れ、尾張藩にも累を及ぼすことがなかった。
この逸話は、公式文書には一切記録がない。榊原家に口伝として残るのみである。しかし、本立寺の小さいながら立派な墓石、巨大な榊原家墓碑に刻まれた戒名を見ると、この逸話の信憑性を裏付けているようにも思える。まさに墓石が真実を語っているのである。
筆者岡崎守恭氏の本職は日本経済新聞社の政治記者。「自民党秘史―――過ぎ去りし政治家の面影」(講談社現代新書)などの著作がある。いわば歴史は余技ということだが、「仕事で各地に出かけた際、業務の始まる前の早朝や、仕事を終えた翌日が休日ならば残って歴史のある墓域をひとり訪ねた」という歴史好きである。まさに私と同じ趣向、行動パターン。同類の匂いがプンプンとする。

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奈義

2018年11月23日 | 岡山県
(日本原)


安達清風先生墓

 津山から国道53号線を東へ進み、奈義町上町川に入ると、右手にファミリーマート、その隣に中華レストランちゅーが見えてくる。次の交差点を右へ折れて南進すると葬儀場らしき建物が現れ、その南側に広がる共同墓地の南端に安達清風の墓がある。
 安達清風は、天保六年(1835)の生まれ。鳥取藩士。少年時代から京阪各地に遊学。安政元年(1854)四月、江戸昌平黌入学。翌年水戸に赴き、神発流砲術を学び、鳥取に水戸学を伝えた。文久二年(1862)十二月、京都留守居役となり、文久三年(1863)の本圀寺事件の暗殺を支持した。慶応元年(1865)閏五月、周旋方頭取用向当分請持を免じられた後も、しばしば上申して藩政の改革を願ったが用いられなかった。維新後、藩主池田慶徳の隠退を勧め、あるいは藩庁と衝突して志を得られず、明治八年(1875)からは岡山県に官仕。県北部の日本原の開拓に治績を挙げた。明治十七年(1884)、年五十にて没。

 帰宅してから調べて分かったことだが、安達清風の屋敷跡および頌徳碑がファミリーマートの向い側付近にあるらしい。もう一度奈義町を訪ねなくてはならない。

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津山 Ⅱ

2018年11月23日 | 岡山県
(上之町二丁目町内会館)


植原六左衛門旧宅跡

 上之町二丁目町内会館のある場所が、植原六左衛門の旧宅跡に当たる。
 植原六左衛門は津山藩士で、海防家、水連家として名を成した。古式泳法神伝流の第十世宗師。嘉永元年(1848)、津山藩の水連師役となり、嘉永六年(1853)には幕命によって出府。同藩士はもとより多くの他藩士にも教授した。その頃から水戸藩尊攘派と交友を深め、安政四年(1857)、勤王儒者藤森弘庵は植原六左衛門に合うために津山まで来ている。文久三年(1863)、幕府より六左衛門に大砲製造の命が下り、以後もそのことにあたった。これによって藩における立場を失い、明治元年(1868)十一月、自邸にて自決した。享年五十三。

(本源寺)


本源寺

 本源寺は、臨済宗妙心派の寺院で、津山藩主森家の菩提寺である。本堂は、慶長十二年(1607)に上棟された方丈形式の建物で、屋根は入母屋造、桟瓦葺きである。森家墓所は門が閉じられており、中を伺うことはできない。墓地に鞍懸寅二郎の墓がある。


森家墓所


秋汀鞍懸君之墓(鞍懸寅二郎の墓)

 鞍懸寅二郎は天保五年(1834)、播磨国赤穂の生まれ。十五歳で赤穂藩の勘定方となり、のちに江戸に出て塩谷后陰に師事した。安政五年(1858)、故あって浪人となり、美作西北条郡香々美村に寓し、子弟に句読を授けた。ついで「富籤論」を著して津山藩の富籤を痛撃したが、これを機に同藩の儒員に抜擢され、藩政改革に努めた。文久二年(1862)、国事周旋掛となり、上京して縉紳(高位の人)に画策した。元治元年(1864)、征長に際して、藩主松平慶倫に長州藩の高義を説得した。明治二年(1869)、津山藩権大参事。明治四年(1871)、民部省出仕。同年八月、津山で暴漢に短銃で狙撃され死亡した。年三十八。

(妙法寺)


妙法寺


翼龍植原先生之墓(植原六左衛門の墓)

 妙法寺の広い墓地の中に植原六左衛門の墓がある。墓地を三分の二週してようやく発見することができた。

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高梁 Ⅲ

2018年11月23日 | 岡山県
(頼久寺)


頼久寺

 頼久寺は、足利尊氏が南北朝騒乱期に諸国に命じて作らせた安国寺の一つで、戦国期に松山城主上野頼久が荒廃していた当寺の復興に尽くしたことから、彼の死後寺号に頼久の二字が付け加えられ、安国頼久禅寺と称されることになった。小堀遠州の作とされる庭園が有名であるが、私の目当ては墓地入口近くにある乙部剛之進の墓である。まっしぐらに墓地を目指した。


乙部剛之進(武部銀次郎)吉明墓

 乙部剛之進は、備中松山藩士。別名を武部銀次郎といった。明治元年(1868)九月中旬、仙台で新選組に入隊。明治二年(1869)五月十一日、弁天台場にて戦死した。

(道源寺)
 道源寺には、原田亀太郎と熊田恰という、二人の備中松山藩士の墓がある。


道源寺


原田龜太郎墳

 門前に原田亀太郎の墓と顕彰碑がある。


原田亀太郎顕彰碑

 原田亀太郎は別名原田一作。森田節斎の門下で学んだ。文久三年(1863)の天誅組の挙兵に伍長として参加。捕えられて元治元年(1864)七月二十日、禁門の変の戦火が迫る中、六角獄舎で刑死した。二十七歳。


熊田恰矩芳墓

 熊田恰は、文政八年(1825)の生まれ。備中松山藩家老。慶応四年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いの時、藩兵百五十を率いて大阪の警備に当たった。藩主板倉勝静は老中として将軍徳川慶喜とともに大阪城中にあったが、慶喜は大阪城を脱出して江戸に逃げ帰った。この時、勝静も同行することになったため、熊田には藩兵を率いて国元に帰るように命じた。松山藩には朝敵のレッテルが貼られ、留守家老大石隼雄は主君の動静に関係なく勤王を誓い、岡山藩の追討軍千五百が松山城を囲んでいた。熊田恰は玉島港に上陸したものの、帰るに帰れない藩兵百五十名のために切腹し、街を戦火から救っただけでなく、藩兵の命を救った。年四十四。

(山田方谷寓居跡)
 この碑は頼久寺の車庫の南側、駐車場のそばの民家の前にある。藩政の激務に追われる方谷は、この地にあった屋敷で詩などを作って、疲れを癒したといわれる。


山田方谷先生寓居跡

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吉備中央

2018年11月23日 | 岡山県
(片山邸)


片山邸


片山重範宛ての友人書簡

 片山邸は「百畳屋敷」と呼ばれる広大な敷地を持つ旧家であるが、道路の拡張工事などにより現在は母屋のみを残している。この母屋は明治十四年(1881)の建築である。
 広い土間を利用して、「茶房かたやま邸」が営業されている。三年振りの同窓会はここでの昼食を最後に解散となった。

 片山邸の二階はこの家に伝わる数々のお宝が展示されている。森田節斎の同門、元老院議官などを務めた柴原和や島田泰夫(大分県出身、内務省衛生局次長)らの書簡が掛け軸に貼られている。
 幕末の当主は片山重範といって、天保九年(1838)の生まれ。長じて倉敷で森田節斎に学び、明治に入って生まれ故郷である下加茂村にて私塾を開いた。明治三年(1870)三十二歳で岡山藩士となり、上京して民部省に出仕した。明治十年(1877)には地租改正で実績を上げ、大久保利通から四百円を賞賜されたという。明治十二年(1879)、兼任内務権少書記官正七位に叙され、翌年には栃木県大書記官に就いた。明治二十三年(1890)、官を辞して東京に戻り、「藩山年譜」「片山家家愚譜」などの発行に尽くした。明治二十八年(1895)、帰郷したが、ほどなく没した。五十七歳。

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足守 Ⅱ

2018年11月22日 | 岡山県


備中あしもり 緒方洪庵生誕の里

(田上寺)
 今回、岡山県の史跡を訪ねるに当たって、「戊辰掃苔録」の竹様より、岡山市在住のE様をご紹介いただいた。E様は、足守藩士の末裔で、熱心に先祖の足跡を調査されている方である。事前にコンタクトすると、ご先祖である禰屋庸夫のほか、新選組安富才助らの墓までご案内いただけるという。


田上寺

 最初にご案内いただいたのが田上寺である。ここにE様の四代前の先祖に当たる禰屋庸夫の墓がある。
 E様よりいただいたメモによれば、禰屋庸夫は、天保八年(1837)九月七日の生まれ。父は、足守藩士禰屋儀左衛門光忠。慶應四年(1868)、足守藩隊長として新潟方面に出征した。明治二年(1869)、足守藩少参事。明治四年(1871)には足守県少参事から小田県少属。明治十二年(1879)、第一回岡山県議会議員当選。明治十三年(1880)、永禄社(のちの足守銀行)副社長就任。同年岡山県議会議員に当選すると議長に就任して明治十五年(1882)までその職にあった。明治二十三年(1892)、足守銀行頭取に就任した。明治三十七年(1904)十月三十日、死去。


威徳院義翁光正居士(禰屋庸夫の墓)

 安富才助の墓は、禰屋家の墓域の一段下、墓地の奥にある。


無量院善求宗壽居士(安富才助の墓)

 安富才助は、天保十年(1839)、足守の生まれ。元治元年(1864)、江戸の募集に応じて新選組に入隊した。慶応四年(1868)一月の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還。甲州勝沼の戦い、会津戦争にも参加して、蝦夷に渡った。土方歳三が戦死すると明治二年(1869)五月十二日「早き瀬に力足らぬや下り鮎」という追悼句を添えて、日野の土方家に向かう立川主税に託した。五月十五日、弁天台場にて降伏。長らく江戸で殺害されたとされていたが、近年、足守でこの墓が発見され、明治六年(1873)当地で亡くなっていたことが確認された。享年三十五。安富才助がどのような最期を迎えたのかは不明であるが、この墓は夫人の戒名が併記されている夫婦墓である。
 鳥羽伏見以降、土方歳三の側近として支え続けた。かなり有能な人物だったと思われる。

(東光寺)


東光寺

 竹下鹿之助(「幕末維新全殉難者名鑑」では竹下鹿十郎)は、慶応四年(1868)八月二十六日、羽越国境高畑越えにて負傷。十二月五日、柏崎病院にて死亡。二十四歳。


深光院義隆居士(竹下鹿之助の墓)

(乗典寺)


乗典寺

 乗典寺には緒方洪庵の両親が眠る「洪庵ゆかりの寺」である。洪庵自身の位牌も安置されている。

(旧足守商家藤田千年治邸)


旧足守商家藤田千年治邸

 藤田千年治邸は、足守で代々醤油製造業を営む商家である。この建物は江戸時代末期の建築とされ、明治以降に本瓦葺き入母屋二階造り漆喰塗りという、現在見られる豪華な建物となった。内部には昔の醤油工場の様子が復元されている。

 E様には「洪庵茶屋」でお昼を御馳走になってしまった。E様によれば、第二奇兵隊の立石(大橋)孫一郎も遠縁に当たるのだという。血縁を遡って歴史に触れるというのも、歴史の楽しみ方の一つかもしれない。
 食事をしながら、岡山の歴史に話が及んだ。新見市では山田方谷の師丸川松隠の銅像が立ち、この人物によって町おこしが始まっているという。改めて岡山の史跡を調べてみると、まだまだ史跡の山があることが分かった。今回はほとんど時間が取れなかったが、次の機会には是非訪ねて見たい、と思う。

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