(峠下)
箱館戦争戦死者墓碑群
この地に葬られているのは、明治元年(1868)十月二十三日の峠下における戦闘で戦死した新政府軍弘前藩金寅太郎ら五名である。
墓に向かい合うように「峠下戊辰役勃発之地」と記された小さな石碑がある。
峠下戦跡戊辰役勃発之地碑
先遣部隊である人見隊は雪中を行軍して峠下で宿営した。峠下は江差方面への分岐点であり、宿場町であった。一方、箱館府でも松前藩、弘前藩兵三百余を派遣し、峠下に向かった。彼らが遭遇したのは、十月二十二日の深夜であった。この地で箱館戦争における最初の砲声が響いた。
人見隊は巧みに移動しながら側面攻撃を加え、そこに大鳥隊も到着したため、夜を徹した銃撃戦は旧幕軍の勝利に終わった。装備の差に加え、旧幕軍は関東、奥羽、会津と転戦してきた歴戦の兵士であり、箱館府兵の敵う相手ではなかった。
庚申塚
一行院跡
平山(金十郎)先生之墓
峠下の戦死者を葬ったのが、一行院という寺であるが、今は廃寺となっている。
平山先生というのは、この地で私塾を開いていた平山金十郎という人物である。慶応四年(1868)七月、清水谷公考知事を誘拐して箱館府の転覆を企んだが、計画は事前に露見して逃亡した。明治七年(1874)峠下に戻って、塾を再開した。
(宝琳寺)
宝琳寺
官修墓
備後福山藩赤松岩太郎ら七人を葬った官修墳墓である。
石地蔵
宝琳寺には、八王子同心ゆかりの史跡や墓がある。遠く北海道まで来て、地元八王子出身者の墓に出会うとは、感に堪えない。
この石地蔵は、八王子同心飯田甚兵衛が寄進したものである。ガラスケースに保管されており、写真にはクリアに写らなかった。
八王子同心秋山幸太郎の墓
秋山幸太郎は、新政府軍の大砲方伍長として出陣し、明治元年(1868)十月二十四日の戦闘で戦死した。
荒井信五郎の墓
荒井信五郎は、鷲ノ木に駐在していた箱館府の兵士である。榎本艦隊が鷲ノ木沖に出現したという情報を箱館府に急報したのが荒井信五郎であった。
(一本栗地主神社)
一本栗地主神社
一本栗
樹齢六百年とも言われる大きな栗の木が御神木という神社である。この栗の木の下には箱館戦争における戦死者が埋葬されたといわれる。
(男爵芋発祥の地碑)
男爵芋発祥の地碑
明治三十九年(1906)、函館ドック取締役として函館に赴任した川田隆吉男爵が、趣味の園芸研究のために当地に清香園農場を開いた。さすがに男爵ともなると、趣味といってもスケールが違う。明治四十一年(1908)には外国商会を通じて数十種類の種苗を輸入し、試作実験を行った結果、優良品種「男爵イモ」が誕生した。「男爵イモ」の命名は七飯村農会によるものという。
(七重小学校)
明治三年(1870)、明治政府は当地に七飯開墾場を開き、いち早く畜力農業機械や西洋種作物、家畜を取り入れ、様式農法による近代農法の導入基地として、北海道の開拓に重要な役割を果たした。七飯小学校前に残る約二百二十メートルにわたる石垣は七飯開墾場の名残である。この場所が七飯開墾場の中心地に当たり、主要施設が置かれていた。
七飯開墾場事務所跡
七飯官園事務所跡石垣
明治九年御駐蹕之地碑
赤松街道
この辺りの赤松並木は見事である。函館の松は、幕末に箱館奉行組頭栗本瀬兵衛(鋤雲)が、佐渡から赤松の種子を取り寄せ苗木にしたものを五稜郭周辺に植樹したのが始まりで、明治初年の明治天皇巡幸に際して移植されたものという。
(ガルトネルのブナ林)
ガルトネルのブナ林
ガルトネルは、プロシアの貿易商である。七飯の三百万坪という広大な土地を開墾地として九十九年間租借するという契約を榎本政権と結んだ。ガルトネルは祖国から苗木を輸入し、西洋農法の導入を試みた。箱館戦争後、この契約が問題となり、明治新政府はこの解決に追われた。結局、明治新政府はガルトネルに多額の賠償金を支払って、開墾地を取り戻すことになった。
ガルトネルの開墾地租借の背景には、英仏に遅れをとったプロシアの対日進出政策があったとも言われる。一方、ガルトネルが七飯で試験した西洋農法は、今日の北海道における農業の礎になったと再評価する向きもある。
七飯町に残るブナ林は、ガルトネルが故郷を懐かしんで植樹したもので、樹齢百年を超える人工植栽によるブナ林は全国的にも珍しいそうである。
(蓴菜沼)
蓴菜沼は、明治五年(1872)、開拓次官黒田清隆が当地を訪れた際に命名したものである。
蓴菜沼
明治天皇蓴菜沼御小休所
蓴菜沼も八王子同心ゆかりの場所である。
明治五年(1872)、蓴菜沼湖畔を通る街道が開通すると、七飯村に入植していた八王子同心出身の宮崎重兵衛はここに旅館を建てた。因みに宮崎重兵衛は、箱館府兵として箱館戦争にも参加した人物である。やがて蓴菜沼は名勝地として知られることになり、旅館も大繁盛した。明治十四年(1881)九月、明治天皇の北海道巡幸の際、宮崎旅館は小休所に指定され、重兵衛はコイや蓴菜を天覧に供したという。明治三十六年(1903)鉄道の開通とともに観光客は大沼に移り、蓴菜沼の旅館群も消滅してしまった。
箱館戦争戦死者墓碑群
この地に葬られているのは、明治元年(1868)十月二十三日の峠下における戦闘で戦死した新政府軍弘前藩金寅太郎ら五名である。
墓に向かい合うように「峠下戊辰役勃発之地」と記された小さな石碑がある。
峠下戦跡戊辰役勃発之地碑
先遣部隊である人見隊は雪中を行軍して峠下で宿営した。峠下は江差方面への分岐点であり、宿場町であった。一方、箱館府でも松前藩、弘前藩兵三百余を派遣し、峠下に向かった。彼らが遭遇したのは、十月二十二日の深夜であった。この地で箱館戦争における最初の砲声が響いた。
人見隊は巧みに移動しながら側面攻撃を加え、そこに大鳥隊も到着したため、夜を徹した銃撃戦は旧幕軍の勝利に終わった。装備の差に加え、旧幕軍は関東、奥羽、会津と転戦してきた歴戦の兵士であり、箱館府兵の敵う相手ではなかった。
庚申塚
一行院跡
平山(金十郎)先生之墓
峠下の戦死者を葬ったのが、一行院という寺であるが、今は廃寺となっている。
平山先生というのは、この地で私塾を開いていた平山金十郎という人物である。慶応四年(1868)七月、清水谷公考知事を誘拐して箱館府の転覆を企んだが、計画は事前に露見して逃亡した。明治七年(1874)峠下に戻って、塾を再開した。
(宝琳寺)
宝琳寺
官修墓
備後福山藩赤松岩太郎ら七人を葬った官修墳墓である。
石地蔵
宝琳寺には、八王子同心ゆかりの史跡や墓がある。遠く北海道まで来て、地元八王子出身者の墓に出会うとは、感に堪えない。
この石地蔵は、八王子同心飯田甚兵衛が寄進したものである。ガラスケースに保管されており、写真にはクリアに写らなかった。
八王子同心秋山幸太郎の墓
秋山幸太郎は、新政府軍の大砲方伍長として出陣し、明治元年(1868)十月二十四日の戦闘で戦死した。
荒井信五郎の墓
荒井信五郎は、鷲ノ木に駐在していた箱館府の兵士である。榎本艦隊が鷲ノ木沖に出現したという情報を箱館府に急報したのが荒井信五郎であった。
(一本栗地主神社)
一本栗地主神社
一本栗
樹齢六百年とも言われる大きな栗の木が御神木という神社である。この栗の木の下には箱館戦争における戦死者が埋葬されたといわれる。
(男爵芋発祥の地碑)
男爵芋発祥の地碑
明治三十九年(1906)、函館ドック取締役として函館に赴任した川田隆吉男爵が、趣味の園芸研究のために当地に清香園農場を開いた。さすがに男爵ともなると、趣味といってもスケールが違う。明治四十一年(1908)には外国商会を通じて数十種類の種苗を輸入し、試作実験を行った結果、優良品種「男爵イモ」が誕生した。「男爵イモ」の命名は七飯村農会によるものという。
(七重小学校)
明治三年(1870)、明治政府は当地に七飯開墾場を開き、いち早く畜力農業機械や西洋種作物、家畜を取り入れ、様式農法による近代農法の導入基地として、北海道の開拓に重要な役割を果たした。七飯小学校前に残る約二百二十メートルにわたる石垣は七飯開墾場の名残である。この場所が七飯開墾場の中心地に当たり、主要施設が置かれていた。
七飯開墾場事務所跡
七飯官園事務所跡石垣
明治九年御駐蹕之地碑
赤松街道
この辺りの赤松並木は見事である。函館の松は、幕末に箱館奉行組頭栗本瀬兵衛(鋤雲)が、佐渡から赤松の種子を取り寄せ苗木にしたものを五稜郭周辺に植樹したのが始まりで、明治初年の明治天皇巡幸に際して移植されたものという。
(ガルトネルのブナ林)
ガルトネルのブナ林
ガルトネルは、プロシアの貿易商である。七飯の三百万坪という広大な土地を開墾地として九十九年間租借するという契約を榎本政権と結んだ。ガルトネルは祖国から苗木を輸入し、西洋農法の導入を試みた。箱館戦争後、この契約が問題となり、明治新政府はこの解決に追われた。結局、明治新政府はガルトネルに多額の賠償金を支払って、開墾地を取り戻すことになった。
ガルトネルの開墾地租借の背景には、英仏に遅れをとったプロシアの対日進出政策があったとも言われる。一方、ガルトネルが七飯で試験した西洋農法は、今日の北海道における農業の礎になったと再評価する向きもある。
七飯町に残るブナ林は、ガルトネルが故郷を懐かしんで植樹したもので、樹齢百年を超える人工植栽によるブナ林は全国的にも珍しいそうである。
(蓴菜沼)
蓴菜沼は、明治五年(1872)、開拓次官黒田清隆が当地を訪れた際に命名したものである。
蓴菜沼
明治天皇蓴菜沼御小休所
蓴菜沼も八王子同心ゆかりの場所である。
明治五年(1872)、蓴菜沼湖畔を通る街道が開通すると、七飯村に入植していた八王子同心出身の宮崎重兵衛はここに旅館を建てた。因みに宮崎重兵衛は、箱館府兵として箱館戦争にも参加した人物である。やがて蓴菜沼は名勝地として知られることになり、旅館も大繁盛した。明治十四年(1881)九月、明治天皇の北海道巡幸の際、宮崎旅館は小休所に指定され、重兵衛はコイや蓴菜を天覧に供したという。明治三十六年(1903)鉄道の開通とともに観光客は大沼に移り、蓴菜沼の旅館群も消滅してしまった。
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