今年はベトナム戦争終結50年の節目の年である。昨年はフランス軍を撃退したディエンビエンフーの戦いから70年ということで、そのことを祝うイベントや看板がハノイの街にあふれたが、今のところベトナム戦争終結記念日(サイゴンが陥落した四月三十日)に向けた機運はさほど高まっていない(最近になって、統一公園の北側に大きなステージが設営されているのを確認した。恐らくサイゴン解放記念日に向けたものだろう)。
ベトナム赴任を機にベトナム戦争のことを知っておきたいと思って、赴任直前に購入したのがこの一冊である。着任して三年が経とうという今ようやく読了した。
開高健が1964年から1965年にかけて約百日間にわたって最前線を取材した迫真のルポルタージュである。1964年8月のトンキン湾事件をきっかけに米軍が増強され、アメリカによる全面的な軍事介入が始まった時期と重なる。開高健特有のとっ散らかしたような文体と多彩な修辞が、この戦争の混沌とした空気感をよく伝えている。同行した秋元カメラマンの写真が随所に挿入されていて、戦争の実態を視覚的にもリアルに伝えている。フエ(Hue)で撮影されたベトコンの戦士の死体を無表情に見つめる子供たちの姿は、戦争が日常と化した戦場の一場面を見事に切り取っている。
ベトナム戦争といえば、南ベトナムを支援する米軍とホーチミンの率いる北ベトナムの戦争というイメージが強いが、実態はもっと複雑である。開高健は「この国には四つの政府がある」としている。「内閣と、将軍たちと、仏教徒と、ベトコン」である。内閣と将軍は南ベトナム政府だが、一方仏教徒とベトコンは、反政府勢力である。反政府という意味では共通の敵を持っているが、彼らが連携することはなく、むしろ互いに警戒しあっている。
開高健は、ベトナム語で「私ハ日本人ノ記者デス」「ドウゾ助ケテ頂戴」と書かれた日の丸の旗をポケットに入れて、これを身分証代わりに戦線の奥深くまで潜入した。仏教徒のリーダーに接触し、時に「従軍僧を通じて全軍の兵士に直ちに武器を捨てろと号令してはどうですか」とか、「仏教徒と解放戦線(ベトコン)のあいだに平和共存または協力体制が生まれる可能性はないだろうか」などと、かなり立ち入った話をしている。もはや一従軍記者の分際を越えた介入であり、一つ間違うと命を狙われかねない行為である。
悪評高い枯葉剤も登場する。この時期枯葉剤による健康被害や奇形児出生率の上昇は問題になっておらず、ベトコンが身を隠す森林を荒野化するために広範囲にわたって使用された。ベトコンのゲリラ活動に手を焼いたアメリカ軍が考案した枯葉作戦である。枯葉剤の被害はベトナムの次世代にまで及び、今なおベトナム社会に影を落とす。アメリカも罪深い置き土産を残したものである。
本書の後半、開高健は秋元氏を伴いベンキャット(Ben Cat)にあった米軍基地に潜り込み、作戦に従って戦場を経験している。ベトコンに包囲され、銃弾から身を隠すため「倒木のかげに頭をつっこみ、顔で土を掘った」という場面は本書でも頂点を成す。このとき生き残ったのはわずか十七名。その中に開高健と秋元氏が含まれていたのは奇跡的であった。秋元氏はベンキャットに赴いたときの思いを「卒業論文」と表現している。このような危険な地域で取材をしようというジャーナリストの方々には毎度頭が下がる。小心者の私にはマネのできない行為である。「卒業論文」という言葉の奥には、使命感やら功名心やら好奇心などが入り混じっているのだろう。
開高健は、キャンプで出会った米軍兵士と酒を酌み交わしながら、彼らの本音を引き出している。ある米国兵士は「おれもベトコンのことはよく知らぬ。しかし彼らは何か百姓に訴えるものを持っているらしい。だからこんなに広がったんだ。おそらくこの戦争は結局のところベトコンの勝ちで、インドシナ半島はコミュニストの手におちるだろうと思う。おれはいいことだとは思わぬが、どうしようもない」と語っている。
さすがにこの米国兵士もその後十年もこの戦争が続くとは予想し得なかっただろうが、歴史が物語るように、その後の経緯はほぼこの兵士の予言通りに推移した。インドシナ半島には、ベトナム、ラオス―――さらにいえばクメール・ルージュが猛威をふるったカンボジア―――と次々と社会主義国家が誕生した。ただしアメリカが恐れるほどの脅威にはならなかったが…。
開高健は、ベトコンは「コミュニストのほかに民族主義者や自由主義者左派など、さまざまなグループ」から構成されていて、「農民のほかに学生、知識人、ある場合には仏僧も入っている様子」であり、彼の聞いたところではコミュニストは一パーセントか二パーセント、最高でも三〇パーセントだったという。
コミュニスト以外のベトナム人をベトコンに走らせたのは、アメリカの傀儡であった南ベトナム政府の中世的な独裁政治と、アジアを理解できないワシントンと、それをつきあげる将軍連中の作戦計画だと喝破する。米軍が空から叩きこむ砲弾にたまりかねてベトナム人は反米・民族主義に傾いた。つまりアメリカ自身が負けることを嫌って戦争に深入りすればするほど敵が増えていくという構図である。戦争に負けたことがなく、異民族に踏みにじられた経験もなく、戦争があるたびに豊かになったアメリカには遂にその仕組みが理解できなかった。せめて1965年に発表された「ベトナム戦記」をかの国の指導者が読むことがあれば、その後泥沼化したこの戦争の経緯も多少変わったかもしれない。
紛争地に取材に赴いたジャーナリストが国費を使って救助されるたびに「自己責任論」が叫ばれる。私も半分は自己責任論に同意である。一方で、現場において取材しないと分からない情報があるし、その実態の中に紛争を早期に解決したり、次の紛争を回避するヒントが潜んでいる可能性もある。
ベトナム戦争におけるベトナム側の犠牲者は民間人を合わせて三百万人にも及ぶ。対するアメリカの戦死者は五~六万人といわれる。ベトナムは戦争に勝利したが、犠牲者の数だけを見ればどちらが勝者か分からない。これだけ多くの犠牲を払って、ベトナムは独立と南北統一と社会主義国家体制を手に入れたが、果たして犠牲に見合うものだったのか。二十世紀はイデオロギーで国家が対立した時代でもあった。今となっては社会主義国家と資本主義国家にさほどの違いなど見当たらないではないか。ベトナムは社会主義国家としてスタートしたが、戦後十年余りを経た1986年にドイモイ(刷新)政策を発表して資本主義経済を導入した。今もベトナムは共産党一党独裁体制ではあるが、中国のように強力な政府ではなく、言論や思想の統制や監視によって人々が束縛されていることもない。当地で生活していても社会主義国家特有の息苦しさを感じることはない。一方、民主主義国家であっても昨今は独裁者のようにふるまう大統領が生まれている。ここに至ってイデオロギーのために血を流すことなど愚だと世界中の人たちも思い知っただろう。ベトナム人によってベトナムの若者(本書によれば「やせた、首の長い、ほんの子供」)が処刑される様子を目撃した開高健は吐き気を催した末に「人間は何か《自然》のいたずらで地上に出現した、大脳の退化した二足獣」だと罵倒している。宗教や民族、歴史観・国家観の違いから戦争することは愚行だと「大脳の退化した二足獣」が理解できる日が来るのだろうか。