史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

盛岡 Ⅲ

2022年04月02日 | 岩手県

(恩流寺)

 

恩流寺

 

 恩流寺では、幕末に盛岡藩家老に抜擢され、武備充実、殖産興業策を推進した横沢兵庫の墓を探したが、やはり探しきれなかった。

 

(法華寺)

 

法華寺

 

雅言斎真澄日翁居士(野々村真澄の墓)

 

 野々村真澄は、盛岡藩士。天保十一年(1840)、家督相続。慶應四年(1868)正月、詰合中家老御用勤(近習頭)を命じられた。同年四月、奥羽列藩同盟に当り同盟を強め、薩長に当たることを決意した家老楢山佐渡に従い、沢田斎とともに雫石口から秋田領に進撃したが、戦勢振るわず、九月二十一日、同盟軍は降伏。降伏謝罪の嘆願書を捧呈。楢山、野々村、江幡五郎、佐々木直作らに禁固申し付け、朝裁を仰いだところ、野々村は謹慎を命じられた(ほかの三名は東京に護送された)。明治三年(1870)五月、赦された。明治三十七年(1904)、没。

 

 実は法華寺では佐々木直作の墓を探したが、行き当てることはできなかった。自宅に戻って調べたところ、佐々木直作は、「一度君命により命を終わり、板囲いの裸の草葉の蔭に入り、この世を去った」という意味を込めて、板垣草蔭と自称し、隠遁生活を送った。そう言われれば、板垣姓の大きな墓石があった。もう一度法華寺墓地に挑戦しなければならない。

 

(願教寺)

 

願教寺

 

 願教寺では、島地黙雷、島地大等、村井茂兵衛らの墓を探したが、残念ながら村井茂兵衛の墓は特定できなかった。村井家の墓は、あちこちにあったのだが…

 

勸學逍遥院大等法師(島地大等)墓(左)

勸學離言院黙雷和上(島地黙雷)墓(右)

 

 島地黙雷は、天保九年(1838)の生まれ。元治元年(1864)、萩藩主が火葬を禁じると、「送葬論」を撰してその非を鳴らした。慶應二年(1866)、佐波郡島地村の本派妙誓寺に住し、姓を「島地」に改めた。明治元年(1868)、赤松連城らと協力して本派本願寺の改正を建議し、ついで本山の命を受け、諸方の末寺改正に当たった。明治三年(1870)、本山の参政となるが、東上して太政官に上書し、民部省内に寺院寮の設置を請い、明治四年(1871)夏、さらに教部省開設を建議した。また木戸孝允の内嘱をうけて、東京神田今川小路に日新堂を開き、「新聞雑誌」を刊行した。明治五年(1872)、梅上沢融とともに渡欧して諸国を巡歴し、帰路インドの仏跡を参拝した。僧侶外遊の始まりである。明治六年(1873)七月、帰国。教部省は神仏を混交し、その弊が甚だしかったので、神仏分離を主張し、ついに大教院から真宗を分離した。明治八年(1875)、白蓮社を結び、明治十四年(1881)には女子文芸学舎を創設した。「報四叢談」「令知会雑誌」の発行にも功あり、また三宅雪嶺らと政教社を設け「日本人」を発刊した。明治四十四年(1911)、年七十四歳で没。

 

 島地大等は、明治八年(1875)、新潟勝念寺、姫宮大円の二男として生まれた。西本願寺の大学林に学び、父・大円について天台学を修めた。明治三十五年(1902)、島地黙雷の二女篤子と結婚し、願教寺に入った。同年、東京高輪佛教大学教授。大谷光瑞の命によりインド仏教調査し、翌年帰国した。比叡山、高野山で広く仏教を研究し、天台学の第一人者として東京の仏教学界の中心となった。東京帝国大学をはじめ東洋大学、曹洞宗大学、日本大学、東京高等師範学校などで講じた。大正十四年(1925)、勧学、安居で本講。本願寺二十三世大谷光照師の少年時の輔育係。「仏教大綱」「教理と史論」「仏教教学史」「思想と信仰」他著書多数を遺した。昭和二年(1927)、五十三歳にて没。

 

島地黙雷歌碑

 

 タヌキの親子?が鎮座する碑には、島地黙雷の歌が刻まれている。明治四十二年(1909)十月二十六日、ハルビンで凶弾に倒れた伊藤博文を悼み、現地で黙雷が詠んだ和歌である。

 

 於もひきや君可か堂美能杖つき亭

 帰らぬあ登越介ふ登は無と盤

 (おもいきやきみがかたみのつえつきて

  かえらぬあとをきょうとはむとは)

 

 碑の上のタヌキは、黙雷が本堂で法話を始めたところ、山からタヌキが下りてきて師の法話をじっと聞いていたという逸話に因んだものである。

 

九条武子歌碑

 

 願教寺には、もう一つ歌碑がある。九条道孝の息、九条良致男爵に嫁いだ九条武子(旧姓大谷)の歌碑である。九条武子は、明治二十年(1887)、本願寺法主大谷光尊の二女。大正十二年(1923)の関東大震災の後、西本願寺の救援事業に参加し献身したことで知られる。

 

村井家の墓

 

 これも、比較的新しいものであるが、村井家の墓の一つ。村井(鍵屋)茂兵衛の墓を特定することはできなかったが、いずれ願教寺の墓地を隈なく歩いてみたい。

 村井茂兵衛は、文政四年(1821)の生まれ。商才に長け、時代を見る明があった。巨富を積み、盛岡藩財閥の井筒屋善助を凌駕する勢いであった。幕末多事の折、藩財政に参画し、藩最大の尾去沢銅山を経営し、阪神地方にも進出して注目されたが、維新の変革期に藩役人に悪用され、巨額の負債を負わされ、大蔵省から破産命令を受けた。大蔵大輔井上馨らのために貸金を借金に捏造され、尾去沢銅山を強奪された。明治六年(1873)五月、大阪で憤死した。年五十三。

 

骨堂(鈴木舎定の墓)

 

 鈴木舎定(いえさだ)は、安政三年(1856)、盛岡の生まれ。西南戦争以降、自由民権運動が盛んになると、岩手県における中心的な存在「求我社」で指導的役割を担った。明治十七年(1884)、盲腸炎のため惜しまれつつ急逝した。

 

(源勝寺)

 

源勝寺

 

 源勝寺では、奈良宮司(みやじ)の墓を探した。奈良家の墓は一基あったものの、宮司が葬られているという確証は得られなかった。

 奈良宮司は、享和三年(1803)の生まれ。十七歳にして盛岡に遊学。経済のことを学び、傍ら俳句を学んだ。帰郷して尾去沢銅山に入り、二十六歳にして山方役、三十歳にして和賀郡水沢鉱山詰となり、その経営を一任された。両山とも大いに振興し、幕末多事の際、藩財政の最大の財源となった。活躍が認められ逐次登用を受け、安政五年(1858)、勘定奉行となり、財政改革に当たった。万延元年(1860)、藩債整理のため京阪に赴き、勤王の志士と交わった。藩論は東次郎党と楢山佐渡党に分裂して紛糾し、目時隆之進らと協議して朝儀に服すべきと主張したが、楢山派に拝せられ文久元年(1861)、解職された。慶應三年(1867)、藩学作人館の調役となったが、楢山が藩主代理として上京すると聞き、これ藩の敗れる日であると喝破したといわれる。明治元年(1868)、大監察、会計総裁となり、盛岡城の授受に携わった。磐城白石転封の際は、職を辞して行かず、諷詠をこととして、明治五年(1872)、死去。年七十。

 

(東禅寺)

 

東禅寺

 

 東禅寺は、聖寿寺とともに盛岡南部家の菩提寺である。初代藩主南部利直のほか、四人の藩主の墓所となっている。

 

南宗院殿四品前信州大守月渓晴公大居士

(南部利直の墓)

 

 南部利直は、南部藩二十七代藩主として、盛岡城を築き、城下町を建設し、現在の盛岡市の基礎を築いた人である。十五歳のとき、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣し、前田利家より一字を授かり「利正」として元服したが、のちに利直と改めた。寛永九年(1632)、江戸桜田邸で逝去。当初、三戸の正寿寺に葬られたが、元禄十一年(1698)、東禅寺に改葬された。

 

正四位南部利義墓

 

 南部利義の墓石は、何故か斜めを向いている。

 南部利義(としとも)は、文政六年(1823)、盛岡藩主南部利済の長男に生まれた。天保六年(1835)十二月、従四位下甲斐守に任じられ、嘉永元年(1848)、家を継いだ。北辺の警備に留意し、自ら西洋砲術を修練し、岩手山麓において、軍事の教練を催した。かつて徳川斉昭、松平慶永らと国事を談じ、外寇の備えの急務を説いた。継嗣問題のため嘉永二年(1849)、在職一年余で弟利剛に職を譲ったが、隠居後は粗暴な行為が多く、安政二年(1855)、老中阿部正弘の命により監禁され、晩年は不遇であった。明治二十一年(1888)、年六十六で没。

 

(円光寺)

 

円光寺

 

江釣子源吉之墓

 

 江釣子(えづりこ)源吉は盛岡藩御徒目付。戸田一心流で、盛岡藩随一の使い手と言われ、戊辰戦争で活躍した。楢山佐渡切腹の際には不本意ながらも介錯人を務めた。執行後数ヶ月間、まったくの放心状態となり、家人はひとときも目を離せなかったと伝わる。毎夜のように大杯で酒を呑み、「御家老、拙者もすぐにお側に参ります」と言っては、刀を持ち出す有様であった。ようやく落ち着き、通常の生活に戻った源吉は、そのころ再開した藩校「作人館」の剣道師範となり、子弟の育成に当たった。その後は、盛岡にできた監獄署に勤務した。源吉は剣のみでなく、柔術や居合術など武芸十八般に通じた達人だった。晩年は、しきりに楢山の墓参をしていたという。大正二年(1913)六月十九日没。

 

米内光政墓

 

 岩手県は原敬、斎藤実、米内光政、鈴木善幸という四人の総理大臣を生んでいる。円光寺には、三人目の総理大臣となった米内光政の墓がある。

 米内光政は、明治十三年(1880)三月、旧盛岡藩士米内受政の長男に生まれた。盛岡中学を経て、海軍兵学校へ進み、卒業後、海軍少尉に任官、日露戦争では海軍中尉として従軍した。後にロシアやポーランドなど、ヨーロッパに駐在し、その地の実情を直に見聞した。昭和十二年(1937)には林銑十郎内閣のもと海軍大臣に就任。陸軍の主張する三国同盟に反対した。彼の反戦主義は終戦まで変わらなかった。天皇の信頼も厚く、昭和十五年(1940)に内閣総理大臣に就任した。しかし、陸軍の反対により半年後に退任を余儀なくされた。太平洋戦争末期には、小磯國昭内閣のもとで四期目の海軍大臣として入閣し、終戦のために尽力した。終戦後も海軍大臣にとどまり、海軍省廃省の責任者としてその最期を見届けた。昭和二十三年(1948)、享年六十九で逝去。

 

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 盛岡 Ⅱ | トップ | 盛岡 Ⅳ »

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (歴読)
2022-04-15 00:02:51
佐々木直作(板垣桑陰)の墓石は自分も見かけたことがあります。墓地の端の方にあり、板垣の方の名前で刻まれていました。孫に当たる陸軍軍人の板垣征四郎の墓所を探しに法華寺に行ったのですが本人の名前は無かったように思います。
有り難うございます (Unknown)
2022-04-16 20:44:57
歴読様

いつになるか分かりませんが、次回盛岡訪問時に確認してみたいと思います。

コメントを投稿

岩手県」カテゴリの最新記事