史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

亀山 Ⅱ

2019年05月05日 | 三重県
(亀山城つづき)
 七年振りの亀山の史跡訪問である。前回訪問時、補修工事中のため見ることができなかった多聞櫓は、美しい姿を見せてくれた。現在、亀山城はほぼ建造物が残されていないが、多聞櫓は唯一の古建造物となっている。全国に古天守閣が残っている城郭は十二、古建造物の残るものが二十一とされるが、そのうちの一つである。


多聞櫓


山嵜雪柳翁遺剱之碑

 山崎雪柳軒は、文政十一年(1828)の生まれ。利右衛門と称し、雪柳軒は雅号。槍術を音羽恭輔、馬術を早崎士太夫、さらに伊庭軍兵衛に心形刀流を学んで免許皆伝を得、慶應元年(1865)、亀山に演武場を開いた。その門人は諸国から集まって三百有余を数え、吉村寅太郎、上田亮三なども門下にあった。明治三年(1870)、剣法教授教頭として門弟十九人を助教に挙げて藩兵の教授に当り、明治四年(1871)以降は剣術の普及に努めた。明治十八年(1885)、単身諸国武者修行に各地道場を訪れ、西郷従道、榊原健吉らと論じ、また山岡鉄舟、逸見宗助らと剣技を交えた。明治二十六年(1893)、六十六歳にて没。


史跡明治天皇亀山行在所遺構 三重縣

 明治天皇は明治十三年(1880)、三重県下巡幸の際、七月十日、東町藤屋を行在所として大阪鎮台、名古屋鎮台の対抗演習を統監した。その際、行在所として使用した玉座が移築保存されている。

(亀山城外堀跡)


亀山城外堀跡

 亀山城の周辺には、太鼓門跡、大手門跡、三の丸跡といった標柱が至るところに建てられているが、残念なことに遺構はみられない。例外的に西ノ丸跡から発掘された外堀跡が復元保存されている。
 西ノ丸周辺には藩校明倫舎も置かれていたという。

(本久寺)
 亀山駅の近くにはレンタサイクルが見つからないので、歩いて市内を回るしかない。以下、歩いて訪問した順番に紹介する。
 亀山駅近くの本久寺は、亀山藩主をつとめた石川家の菩提寺である。なお、歴代藩主の墓は東京都北区田端の大久寺にある。


本久寺


石川家墓所

(飯沼慾斎生家跡)


飯沼慾斎生家跡

 飯沼慾斎(1783~1865)は、亀山西町西村家に生まれた。十二歳で美濃大垣に移り、飯沼家を継いだ。我が国の植物学の基礎を拓き。近代科学草創期の代表的な自然科学者である。


東海道亀山宿西町 にしむらや跡

(館家住宅)


館家住宅

 亀山市内の旧東海道沿いには、古い家屋が点在しており、往時の亀山宿の賑わいを偲ぶことができる。館家住宅はそのうちの一つである。

(亀山藩主石川家家老加藤家屋敷跡)


亀山藩主石川家家老加藤家屋敷跡

 亀山市内には城下町の風情を伝える古い建物が多数残されている。加藤家は江戸後期亀山藩主石川家の家老職を務めた家で、往時は相当広い敷地だったようだが、明治以降建物の大半は他所に移築され、現在は長屋門と土蔵が残されているのみとなっている。

(亀山宿)


東海道亀山宿 樋口本陣跡

 亀山宿は東海道五十三次のうち四十六番目の宿場町。つまり亀山は城下町であり、宿場町でもあった。旧街道沿いに伝統的な町屋が点在している。

 野村集落に所在する森家は、切妻造桟瓦葺で、西面に切妻棟を付設している。


森家住宅

(法印寺)
 東町の法印寺墓地には、樹齢三百年といわれる左巻カヤの大木がある。その樹の根もと辺りに黒田孝富の墓がある。
 黒田孝富は、京の勤王派とのつながりが深く、郡代奉行に抜擢され藩政改革を進めた。明治元年(1868)、反対派によって斬殺された。


法印寺


贈従五位 黒田孝富之墓

(慈恩寺)


慈恩寺

 野村は亀山宿の西端に位置する。野村の慈恩寺には、近藤鐸山(幸殖)夫妻の墓がある。


近藤幸殖 近藤捨子 墓

 近藤鐸山は、幕末の亀山藩士で、五代の藩主に仕え、前後三十年余藩老の重職を勤め、勤皇の志を一貫し、よく藩論を指導して順逆を誤らしめなかった。維新後、東京に住み明治二十三年(1890)没したため、東京谷中霊園にも墓がある。


堀池周空(堀池衝山)墓

 堀池衝山(1776~1845)は幕末の数が数学者で、亀山藩明倫舎で数学を教授し、その普及に貢献した。衝山の業績は子の久道により「要妙算法」として集大成された。

(照光寺)


照光寺

 照光寺は、もと玉泉院と称する日蓮宗の寺院であった。亀山藩主板倉重冬(在任 現禄元年~宝永六年)の養母照光院(俗名筆子)は篤く法華経に帰依し、元禄二年(1689)、野村京口門下に一宇を再興し、照光院の法号から寺号とした。

 境内墓地には、元禄十四年(1701)の亀山敵討ちで石井源蔵・半蔵兄弟によって討ち取られた赤堀水之助(源五右衛門)の記念碑と墓がある。


史跡 赤堀水之助(源五右衛門)の碑


赤堀水之助の墓


山木善太之墓

 山木善太(1800~1837)は、幕末の儒者で、亀山藩校明倫舎で儒学を教授しその普及に貢献した。著書に「海内医林伝」などがある。


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2 コメント

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Unknown (吉盛といいます。)
2019-09-21 08:36:59
先日東京田端の大久寺にお詣りにいって参りました。拙宅に石川総朋(梧堂)の書があり、その墓所を10年ぶりに訪れて茫然自失となりました。小田原大久保、亀山石川町、下館石川、旗本石川(7000石)、旗本石川(4000石)など地震のため墓石が倒壊し荒廃極まれる状態でありました。駒込吉祥寺では旗本丹羽、小濱家の豪壮な墓所、公家の高辻家(明治以降)の墓所が姿を消しました。小濱さんとは連絡をとったことがあってショックでした。丹羽さんと高辻さんは墓仕舞いで合同墓に入られたようです。全く嫌な世の中になりました。石造美術と見ても良い歴史ある墓石が姿を消して行くのを目の当たりにするのに耐えられません。亀岡、下館石川両家は思いっきり悲惨な没落を遂げておりますので両家の墓所もいずれは消え行く定めになりましょうか、危惧の念が去りません。
Unknown (植村)
2019-09-21 11:32:09
吉盛様

有り難うございます。
私も5年前に大久寺を訪ねましたが、やはり墓石が崩れ落ちて近寄れない状況でした。あれから5年も経って、まだ復旧していないというのは残念でなりません。

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