(金柏寺)
金柏寺
佐土原は、現在宮崎市の一部になっているが、かつては佐土原藩という独立した藩であった。ただし、薩摩藩の支藩的存在であった。
佐土原城は、十四世紀中頃に築城され、江戸時代には島津以久(島津貴久の弟忠将の子)が封じられ、以来佐土原島津氏の居城となった。二代島津忠興のとき、山上にあった城郭は破却され、麓に移された。
さらに明治三年(1870)、佐土原城の建造物は全て破却されて、広瀬に移された。その広瀬城も完成の前に廃藩置県を迎えたため、すべて取り壊されている。
佐土原小学校の東側に金柏寺がある。金柏寺は、伊東氏が佐土原を治めた十六世紀に、伊東義祐が自らの菩提寺として建立した寺と伝えられる。西南戦争の戦火により堂宇が炎上し、人々は釈迦堂の大仏を救おうとしたが、何とかその上半身だけを取り出すことができ、今も現存している。
(大光寺)
手元の「歴史読本 幕末維新人物総覧」(昭和五十一年(1976)十二月 臨時増刊号)によれば、能勢直陳の墓は「佐土原町大光寺墓地にある」と記されていたので、それを頼りに大光寺の墓地を歩いたが、発見に至らなかった。その後、小松山墓地で能勢直陳の墓を見つけた。どういう変遷をたどったのか不明であるが、この四十年の間に改葬されたのだろう。
大光寺
(広瀬中学校)
広瀬中学校の正門を入って直ぐ左手に島津啓次郎の胸像がある。
広瀬中学校
島津啓次郎像
島津啓次郎は、安政四年(1857)四月、佐土原十代藩主島津忠寛の三男に生まれた。寺社奉行の町田宗七郎の養子として訓育を受け、さらに鹿児島の重野塾で学び、のち上京して勝海舟の指導を受けた。明治初年に六年余りアメリカへ留学した。アメリカでは当初兵学中心の勉強であったが、国の将来を想い文学への道を志した。帰国すると、上級貴族の子弟教育者として「華族会館勤め」待遇を断り、佐土原に戻った。佐土原では、青年の学習の場「自立社」を結成し、自由平等の学校「晑文學」は明治十年(1877)二月、啓次郎の理想を実現して開校した。しかし、時を同じくして西南戦争が勃発。理を重んじながら、義を大事にする啓次郎は薩摩軍に参戦することを決意した。同年九月二十四日、鹿児島城山岩崎谷で佐土原隊総裁として西郷隆盛と運命をともにした。二十歳であった。その時代でいう、「新帰朝」の一人である。希望をもって人生を歩み始めた直後の戦死であった。佐土原の人に限らず、惜しまれる死といえよう。
広瀬中学校の啓次郎胸像は、昭和三十八年(1963)、時の卒業生に呼び掛けて建立されたものである。
(広瀬護国神社)
広瀬護国神社
戦没招魂塚
佐土原隊として西南戦争に参加したのは千百十四名にのぼり、そのうち戦死者は百六名に達した。佐土原藩では、島津啓次郎をはじめとして多くの若くて、有能な人材を失った。広瀬護国神社は、戊辰戦争の佐土原藩戦没者五十四名から日清日露戦争、太平洋戦争の戦没者を祀る神社である。
神殿の背後の山の中腹に西南戦争に参加した佐土原島津藩の戦没者の慰霊碑が建てられている。正面には「戦没招魂塚」、側面に「島津啓次郎」、そして背面には戦没者の氏名が刻まれている。
(広瀬小学校)
広瀬小学校は、明治二年(1869)、佐土原城を移し、広瀬城とし、一時は佐土原県庁が置かれた跡地である。しかし、明治四年(1971)、廃藩置県により未完成のまま築城は中止された。
広瀬小学校
広瀬城跡
(宮崎県埋蔵文化財センター本館)
「西郷札」製造所跡
西郷札は、西南戦争で、軍資金に窮した薩摩軍が印刷して紙幣として使用したものである。西郷軍は、瓢箪島と呼ばれるこの周辺(広瀬村囲)にて西郷札を印刷した。広瀬の商人たちは、西郷札が紙切れ同然と知りながら、西郷札と引き換えに商品を売っていたといわれる。
(小松山墓地)
小松山墓地には、籾木慥斎や小牧秀発(こまきひでのぶ)らの墓があることが分かったため、小林市の史跡探訪を終えた跡、高鍋町を経て、再び佐土原に戻った。
この墓地には、ほかにも西南戦争戦死者の墓が多数ある。掃苔家にしてみれば、いうならば「釣り堀」みたいな場所である。
早速、掃苔を開始する。椛木慥斎や小牧秀発に続けて能勢直陳の墓も発見。能勢については、大光寺で発見できなかったが、ここで出会うことができた。
ここまでは順調であったが、そこから掃苔作業は思いのほか難航した。二段積みになっているブロックの上に乗ってミーアキャットのように周囲を見渡していたところ、そのブロックが崩れ、私はもんどりうってひっくり返った。立ち上がってみると、右肩と右肘、右の手首に傷を負い、手のひらは出血で真っ赤になった。右半身から着地し、そのまま一回転して傍らの石に頭をぶつけて止まった(「火曜サスペンス劇場」であれば、そのまま絶命していたところである)。幸いにして頭部は軽打で済んだが、一つ間違えば大怪我を負うところであった。
「墓場でこけると早死にする」という俗説がある。これまで何回も墓場で転倒している身としては、今直ぐ死んでもおかしくないが、もはや「早死に」とも言えない年齢に達した。むしろ気になるのは、年々こけ方が派手になる傾向があることである。最初はつまずいてかすり傷を負う程度だったのが、二年前に福島県本宮市ではひっくり返って両手両足を負傷してしまった。もう少し気を付けなくてはいけない。
まだ未発見の墓(有村武英、伊集院太郎、野村正道、村田正宣ら、いずれも西南戦争戦死者)があって後ろ髪引かれる思いだったが、飛行機の時間が迫っており、これ以上、小松山墓地で時間を費やすわけにいかなかった。次回、宮崎を訪れた際には、必ずや小松山墓地を満足行くまで探索したいものである。
小牧秀發之墓
小牧秀発は、島津啓次郎らと西南戦争を戦い、戦後「西南戦争従軍日記」を著わした人。戦争途中、病気負傷により戦線離脱し、官軍に収容された。大正十一年(1922)三月、七十八歳にて没。
慥斎籾木先生之墓
籾木武経(慥斎)は、広瀬小学校の初代校長を務めた。島津啓次郎も教えを受けた。明治三十三年(1900)六月、享年七十七にて没。墓は、島津啓次郎の長兄伯爵島津忠亮によって建てられたものである。
眞月院卓禅道軒居士(能勢直陳の墓)
能勢直陳は、文政四年(1821)の生まれ。直陳は諱。通称は二郎、二郎左衛門。号は卓軒。父は佐土原藩儒者能勢軍治(明陳)。藩内の十文字郷学所授読であったが、のち江戸に上り、山口貞一郎(菅山・重明)について崎門学派の学問を修めた。藩校学習館教主となり、また藩政の改革にも参画し、ペリー来航に当たっては浦賀方面に出張し、情勢を視察した。文久三年(1863)、薩英戦争のときは、祇園洲砲台を守り、横浜におけるイギリスとの和議にも参画した。翌元治元年(1864)、藩の兵制改革に従事し、その費用として幕府から金七千両を借り入れた。慶應四年(1868)の戊辰戦争にも活躍。戦後は、藩大参事となり、明治三年(1870)には藩庁の佐土原から広瀬への移転を断行した。明治二十七年(1894)、年七十四にて没。
能勢陳常遺髪之墓
能勢直陳の横にある能勢陳常なる人物の墓である。直陳の縁者だと思うが、どういう関係があるのか不明。
壱岐佐平太之墓
壱岐佐平太も西南戦争の殉難者。明治十年(1877)、七月三十一日、戦死(場所は不明)。享年四十三。
三島貢遺髪之墓
三島貢も西南戦争殉難者。鹿児島城山にて戦死。享年三十八。
(前牟田墓地)
児玉平格翁諱實徳之墓
児玉平格の墓である。児玉平格は佐土原藩儒者。江戸で山口菅山、御牧直斎に師事した。藩校学習館の学頭からのちに島津直寛の側用人兼教主となった。学者として、また教育者として藩士から尊敬を集め、佐土原藩文教の振興に大いに貢献した。藩主に勤王思想を勧めたともいわれる。
顯考靍田男之進祐業神霊
戊辰殉難者である靍田力之進の墓を発見した。
靍田力之進は佐土原藩士。北陸道口監軍。明治元年(1868)九月十五日、会津青木村(井出村とも)にて戦死。三十三歳。
前牟田墓地については、時間切れでここまでとなった。この墓地も古い墓石が多い。掃苔するには歩き甲斐のある場所である。ここもいずれ再挑戦したい。
ここを最後に宮崎空港に向かった。今回はほぼ予定された史跡を回ることができたので、十分満足している。ただし、宮崎県についていえば、えびのや五ヶ瀬、西米良、日之影といった山間部まで足を伸ばせなかったのは心残りである。何年先になるか分からないが、積み残した場所についてはいずれアタックしたい。
有り難うございます。
上原勇作の誕生地は、都城と思っていましたが、違いますでしょうか。
我が家に「野村正道」と裏書のある小さな遺影がありますが、写真が褪せて顔はわからなくなっています。彼の両親が長くおもてに飾って弔っていたからではと想像しています。
昨年、たまたま小牧さんの西南戦争の本で正道の名を見つけて、私も調べ始めました。
正道は一人息子で、没後に両親は「澁谷」という家から養子をとって今に至ります。
小牧さんの本を見た後は小松の墓地に親しみを感じています。
こちらのブログを参考に、来月は他のお墓も拝見してみようと思います。
貴重な情報を頂戴しまして感激しています。佐土原の小松山墓地にはいずれ再挑戦したいと思っています。新たな情報があれば、またお願いします。
まだ貴ブログを読み始めたばかりですが、歴史の細やかな部分を精力的かつ温かな目で記録される行動力の源など探して読み進めようと思います。
小松山墓地というのは佐土原のどこに存在するのでしょうか?グーグルマップで調べてみたのですが、ヒットしませんでした。教えていただけると幸いです。
住所は「宮崎市佐土原町下田島19457」辺りです。