(旧相馬邸)
相馬邸
旧相馬邸は、越後出身の豪商相馬哲平の住宅である。相馬哲平が箱館に渡ったのは、文久元年(1861)、二十八歳のときであった。箱館戦争のとき、米の騰貴を見越して買い占め、巨利を得た。その後はニシン漁の投資と海陸物産の商いによって北海道屈指の豪商となった。邸内には箱館戦争錦絵や勝海舟、榎本武揚の掛け軸などが展示されている。入館料六百円。
(元町カトリック教会)
元町カトリック教会
元町カトリック教会は、安政六年(1859)、フランス人宣教師メルメ・デ・カシヨンが仮聖堂を建てたことに始まるもので、現在の建物は大正十三年(1924)に再建されたものである。
メルメ・デ・カシヨンは、日本語が堪能でロッシュの通訳を務めていたこともある。箱館勤務時代に、竹内保徳や栗本鋤雲とも親交が深かった。慶応三年(1867)の德川昭武一行が渡仏した折には世話掛に任じられた。得意の日本語を活かし、幕府とフランスの関係強化には単なる通訳以上の働きをしたといわれる。勝海舟などは、カシヨンのことを「妖僧」と呼んで警戒していた。
(函館ハリストス正教会復活聖堂)
函館ハリストス正教会復活聖堂
函館ハリストス正教会は、安政六年(1859)にロシア領事ゴシケヴィチが領事館内に聖堂を建てたのが起源で、その後御茶ノ水のニコライ聖堂で有名なニコライが来函して布教の拠点とした。慶応四年(1867)には、澤辺琢磨ら三名がここで洗礼を受けている。現在の建物は大正五年(1916)に再建されたものである。
ゴシケヴィチは、初代駐箱館領事。プチャーチンとともにディアナ号で来日し、戸田で船を建造しているときに橘(増田)耕斎と知り合い、日本語を勉強した。文久元年(1861)のポサドニック号による対馬占拠事件のときには、箱館から現地に赴いて日本側代表と折衝し、露艦の平和的退去に尽した。慶應元年(1865)離任したが、その後も日本語の研究を続け、1899年には「日本語の語根について」という著書を出版した。1875年、ポーランドにて没。六十一歳。
聖ニコライ
ニコライは文久元年(1861)に箱館ロシア領事館付司祭として来日。明治二年(1869)に一旦帰国したが、明治四年(1871)再来日。ニコライ堂の建設など、ロシア正教の布教に尽くした。日露戦争の際も日本に踏みとどまった。大正元年(1912)、七十六歳で没した。
ゴシケヴィッチにしても、ニコライにしてもいずれも幕末から明治に来日して、日本フアンとなった。この時代に日本を訪れた外国人は、多かれ少かれ山師的で冒険家的であったが、ほとんど例外なく日本のフアンになった。この時代の日本には、外国の人を惹きつける何らかの魅力があったに違いない。
(日本聖公会函館聖ヨハネ教会)
日本聖公会函館聖ヨハネ教会
明治七年(1874)、イギリスの聖公会海外伝道教会宣教師デニングが来函し布教を始めたのが起源で、当教会が道内布教の拠点となった。やはり度重なる火災で類焼、移転を繰り返し、現在の建物は大正十年(1921)の大火後のものである。
(東本願寺函館別院(旧浄玄寺))
東本願寺函館別院
維新後急速に発展した函館の街は、住宅が密集していたため、幾度も大火に襲われた。コンクリート製の本堂はその対策の一つであった。
安政四年(1857)、アメリカ人貿易事務官ライスは、ここを宿所としていた。ライスは箱館開港直後から明治四年(1871)まで箱館に在勤した米国官吏である。江戸の米公使館と連絡を取りつつ、箱館における日米間の貿易を主体とする諸問題の処理にあたった。ライスは極めて庶民的で、搾乳法、綿羊飼育、帆走法など、西欧の実用的な新知識を日本人に与えたことでも知られる。
明治天皇御遺蹟碑
叶同館
叶同館とは元町にあった外国人の居宅を買入れ、外人接待用の公館としたものである。その時には今の元町別院の場所であった。
(函館元町配水場)
函館水道発祥之地
ロープウェイの発着する山麓駅の向かい側に函館配水場がある。ここは一般公開されており、水遊びができるようになっている。
噴水の奥に函館水道発祥之地と記された石碑が建立されている。
函館における上水道は、明治二十二年(1889)に完成した。これは日本で横浜に次いで二番目の歴史を持つものである。横浜の水道が外国人の設計監督によるものであったのに対し、函館の水道は日本人の工事監督によるものであったため、「我が国初の国産水道」と呼ばれる。函館はもともと水利の便が悪く、その上年間を通して風が強く、一旦火災が起きるとたちまち大火となり多くの犠牲者が出た。さらに明治十九年(1886)にはコレラが大流行して八百人を超える市民が命を落とした。こういったことが契機となり、水道工事が着工されるに至った。この水道は現役で稼働しており、現在も函館市民に清浄な水を供給している。
相馬邸
旧相馬邸は、越後出身の豪商相馬哲平の住宅である。相馬哲平が箱館に渡ったのは、文久元年(1861)、二十八歳のときであった。箱館戦争のとき、米の騰貴を見越して買い占め、巨利を得た。その後はニシン漁の投資と海陸物産の商いによって北海道屈指の豪商となった。邸内には箱館戦争錦絵や勝海舟、榎本武揚の掛け軸などが展示されている。入館料六百円。
(元町カトリック教会)
元町カトリック教会
元町カトリック教会は、安政六年(1859)、フランス人宣教師メルメ・デ・カシヨンが仮聖堂を建てたことに始まるもので、現在の建物は大正十三年(1924)に再建されたものである。
メルメ・デ・カシヨンは、日本語が堪能でロッシュの通訳を務めていたこともある。箱館勤務時代に、竹内保徳や栗本鋤雲とも親交が深かった。慶応三年(1867)の德川昭武一行が渡仏した折には世話掛に任じられた。得意の日本語を活かし、幕府とフランスの関係強化には単なる通訳以上の働きをしたといわれる。勝海舟などは、カシヨンのことを「妖僧」と呼んで警戒していた。
(函館ハリストス正教会復活聖堂)
函館ハリストス正教会復活聖堂
函館ハリストス正教会は、安政六年(1859)にロシア領事ゴシケヴィチが領事館内に聖堂を建てたのが起源で、その後御茶ノ水のニコライ聖堂で有名なニコライが来函して布教の拠点とした。慶応四年(1867)には、澤辺琢磨ら三名がここで洗礼を受けている。現在の建物は大正五年(1916)に再建されたものである。
ゴシケヴィチは、初代駐箱館領事。プチャーチンとともにディアナ号で来日し、戸田で船を建造しているときに橘(増田)耕斎と知り合い、日本語を勉強した。文久元年(1861)のポサドニック号による対馬占拠事件のときには、箱館から現地に赴いて日本側代表と折衝し、露艦の平和的退去に尽した。慶應元年(1865)離任したが、その後も日本語の研究を続け、1899年には「日本語の語根について」という著書を出版した。1875年、ポーランドにて没。六十一歳。
聖ニコライ
ニコライは文久元年(1861)に箱館ロシア領事館付司祭として来日。明治二年(1869)に一旦帰国したが、明治四年(1871)再来日。ニコライ堂の建設など、ロシア正教の布教に尽くした。日露戦争の際も日本に踏みとどまった。大正元年(1912)、七十六歳で没した。
ゴシケヴィッチにしても、ニコライにしてもいずれも幕末から明治に来日して、日本フアンとなった。この時代に日本を訪れた外国人は、多かれ少かれ山師的で冒険家的であったが、ほとんど例外なく日本のフアンになった。この時代の日本には、外国の人を惹きつける何らかの魅力があったに違いない。
(日本聖公会函館聖ヨハネ教会)
日本聖公会函館聖ヨハネ教会
明治七年(1874)、イギリスの聖公会海外伝道教会宣教師デニングが来函し布教を始めたのが起源で、当教会が道内布教の拠点となった。やはり度重なる火災で類焼、移転を繰り返し、現在の建物は大正十年(1921)の大火後のものである。
(東本願寺函館別院(旧浄玄寺))
東本願寺函館別院
維新後急速に発展した函館の街は、住宅が密集していたため、幾度も大火に襲われた。コンクリート製の本堂はその対策の一つであった。
安政四年(1857)、アメリカ人貿易事務官ライスは、ここを宿所としていた。ライスは箱館開港直後から明治四年(1871)まで箱館に在勤した米国官吏である。江戸の米公使館と連絡を取りつつ、箱館における日米間の貿易を主体とする諸問題の処理にあたった。ライスは極めて庶民的で、搾乳法、綿羊飼育、帆走法など、西欧の実用的な新知識を日本人に与えたことでも知られる。
明治天皇御遺蹟碑
叶同館
叶同館とは元町にあった外国人の居宅を買入れ、外人接待用の公館としたものである。その時には今の元町別院の場所であった。
(函館元町配水場)
函館水道発祥之地
ロープウェイの発着する山麓駅の向かい側に函館配水場がある。ここは一般公開されており、水遊びができるようになっている。
噴水の奥に函館水道発祥之地と記された石碑が建立されている。
函館における上水道は、明治二十二年(1889)に完成した。これは日本で横浜に次いで二番目の歴史を持つものである。横浜の水道が外国人の設計監督によるものであったのに対し、函館の水道は日本人の工事監督によるものであったため、「我が国初の国産水道」と呼ばれる。函館はもともと水利の便が悪く、その上年間を通して風が強く、一旦火災が起きるとたちまち大火となり多くの犠牲者が出た。さらに明治十九年(1886)にはコレラが大流行して八百人を超える市民が命を落とした。こういったことが契機となり、水道工事が着工されるに至った。この水道は現役で稼働しており、現在も函館市民に清浄な水を供給している。
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