(白老元陣屋資料館)
登別から千歳空港へ家族を送る途中、白老に寄り道した。白老にある陣屋跡は、安政三年(1856)蝦夷地の警備を命じられた仙台藩が築いたものである。
安政元年(1854)、アメリカ、ロシアと和親条約を結んだ幕府は、箱館を開港することになった。これを受けて蝦夷地を直轄地とし、翌年、仙台藩を始め、津軽、秋田、南部の東北諸藩と松前藩に警備を命じた。翌年には会津藩、庄内藩も同じように北方警備を命じられた。仙台藩の守備範囲は、白老から襟裳岬を経て、国後・択捉に及ぶ広範な地域であったため、仙台藩では白老に元陣屋を、広尾、厚岸、根室、国後、択捉に出張(でばり)陣屋を築いた。
白老の旧陣屋の広さは、六.六ヘクタールで、周囲に堀と土塁を巡らせ内曲輪と外曲輪を構成した。本陣、勘定所、穀蔵、兵具蔵、長屋といった建物のほか、少し離れた東西の丘陵に愛宕神社と塩竈神社を祀った。
元陣屋には百二十名程度の人が常駐し警備にあたっていたが、戊辰戦争が起こると撤収してその使命を終えた。この付近には仙台藩士の墓地などもあるらしいが、雪に覆われていたため断念した。
また、白老町の社台小学校には、慶応四年(1868)七月、最後の陣屋代官となった草刈運太郎の墓がある。草刈運太郎は、陣屋を新政府軍に手渡すために当地に残っていたが、箱館府より派遣されてきた官軍兵士の横暴を諌めようとして負傷し、社台の番屋に逃れてそこで自刃した。心残りであるが、草刈運太郎の墓の取材は、次の機会に持ち越しとなった。
白老元陣屋資料館
仙台藩白老陣屋跡
登別から千歳空港へ家族を送る途中、白老に寄り道した。白老にある陣屋跡は、安政三年(1856)蝦夷地の警備を命じられた仙台藩が築いたものである。
安政元年(1854)、アメリカ、ロシアと和親条約を結んだ幕府は、箱館を開港することになった。これを受けて蝦夷地を直轄地とし、翌年、仙台藩を始め、津軽、秋田、南部の東北諸藩と松前藩に警備を命じた。翌年には会津藩、庄内藩も同じように北方警備を命じられた。仙台藩の守備範囲は、白老から襟裳岬を経て、国後・択捉に及ぶ広範な地域であったため、仙台藩では白老に元陣屋を、広尾、厚岸、根室、国後、択捉に出張(でばり)陣屋を築いた。
白老の旧陣屋の広さは、六.六ヘクタールで、周囲に堀と土塁を巡らせ内曲輪と外曲輪を構成した。本陣、勘定所、穀蔵、兵具蔵、長屋といった建物のほか、少し離れた東西の丘陵に愛宕神社と塩竈神社を祀った。
元陣屋には百二十名程度の人が常駐し警備にあたっていたが、戊辰戦争が起こると撤収してその使命を終えた。この付近には仙台藩士の墓地などもあるらしいが、雪に覆われていたため断念した。
また、白老町の社台小学校には、慶応四年(1868)七月、最後の陣屋代官となった草刈運太郎の墓がある。草刈運太郎は、陣屋を新政府軍に手渡すために当地に残っていたが、箱館府より派遣されてきた官軍兵士の横暴を諌めようとして負傷し、社台の番屋に逃れてそこで自刃した。心残りであるが、草刈運太郎の墓の取材は、次の機会に持ち越しとなった。
白老元陣屋資料館
仙台藩白老陣屋跡
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