あび卯月☆ぶろぐ

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日本人の愛国心

2009-06-06 13:13:05 | 社会・世相
私はかつて(2007年02月18日)、某コミュニティサイトで

愛国心の問題にしても、今後、グローバル化に対抗してゆく為には世界標準並の愛国心が必要になります。
それに気づかず単純に愛国心を否定しても、結局は偏狭なナショナリズムしか育たないでしょう。


と書いたことがある。これに対してある方から、

あび卯月さんがおっしゃった「世界標準並の愛国心」という意味がわかりません。どこの国を指して言っているのでしょうか。

という御質問を承り、それに対して返答するというかたちで私が日頃抱いていた日本人の愛国心について述べた。
今と多少意見が異なる箇所もあるが、当時私が考えていてた愛国心についての覚書としてここに転載しておきたい。


******


>あび卯月さんがおっしゃった「世界標準並の愛国心」という意味がわかりません。
>どこの国を指して言っているのでしょうか。

御質問にお答えいたします。

世界標準というのはここでは今後、国際社会で政治・経済の主導権を握ってゆく国々を標準と捉えてください。
実際に国名を挙げるならば米・英・中・露・仏の常任理事国をはじめとして、インド、ブラジル、オーストラリア、ドイツ、韓国、中東諸国などを挙げます。

「世界標準並の愛国心」と言っても愛国心は数値化できるものではないので、数字によって捉えることは出来ません。
但し、「もし戦争が起こったら国のために戦うか」、「自国民であることの誇り」という質問に対する各国のデータがありまして、これが一つの参考になると思います。

http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/5223.html
http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/9465.html

この二つの調査結果を御覧になるとお解りになるように日本は前者は最下位。後者の質問には六十ヶ国中、五十七位です。

私は日本は今後、世界標準並の愛国心が必要だと述べました。
しかし、私は日本人に世界並の愛国心を持たせることは殆ど不可能だと思っています。(少なくとも今の状態では。)

以下、ちょっと込み入った説明をいたします。

国家とは本来、人工的なもので相対的なものです。
御存知のように国家という概念が生れ、それが欧州各国で形となったのは人類の歴史から見ればつい最近のことです。
日本に国家の概念が生れたのは明治以降です。
いえ、生れたのではなく欧米列強の外圧によって作らざるを得なくなっただけです。
それまでは日本人は国家という概念を持っていなかった(少なくとも国民は)し、無論、「愛国心」なる概念も持っていませんでした。
かやさんは

>陸続きの国の歴史の教科書をごらんになったことがあるでしょうか?
>年代によって国の大きさが変わり、時には他民族がその国の王になる。
>それに比べ、日本は沖縄などの島を除き、1000年以上も日本列島と日本人の歴史を学べばいい、そのような環境は決して当然のことではないのです。
>私はこの地理的条件が、日本人特有の文化を生み出し、アイデンティティの乏しい国民性を作ったのだと思っています。

と述べられていましたがこの指摘はまさに仰るとおりで、有史以来、まともな侵掠を受けることも侵掠を行うことも無かった日本が国家という概念を生み出すことはあり得ませんでした。
一口に愛国心と言ってもそれぞれの国の歴史や文化が違うように愛国心にも違いがあります。
しかし、どの国の愛国心にも根本には同質の要素を持っています。
それは、多民族に対する嫉妬、憎悪、恨み、不信などで本来、愛国心とは洵に排他的なものであります。
殊に発展途上の国家では国民に他民族への憎悪を忘れさせない為、常々細心のマインドコントロールを怠りません。
グローバルの視点ではこれを否定的に捉えてはなりません。
なぜなら、他国への憎悪が国家サバイバルのエネルギー源であるからです。(全く以って嫌なことなのですが)
例えば、オーストラリア人は比較的愛国心の稀薄な国民だと言われています。
それは国家の形成過程にその原因があるのですがその説明は省きます。
そのオーストラリア人でも愛国心を生み出す装置として第一次大戦と第二次大戦の戦争体験(他国への憎悪)を最大限に利用しています。
例えば、四月二十五日は、第一次大戦時にイギリス軍にいいように利用されほぼ全滅したガリポリの戦闘を記念とする日として毎年愛国心を鼓舞する盛大なパレードが行われています。
似たような例が世界各国で見いだされるはずです。

中国や韓国も日本に対する憎悪を決して忘れようとしませんが、それは強力な国家を維持してゆく為の装置です。
アメリカもイラク戦争をする時、9・11テロの憎悪を最大限に活用しました。

翻って日本人には憎悪と憎しみの歴史は極めて稀薄です。
大東亜戦争でアメリカからあれだけ受けた仕打ちもみんな忘れてアメリカ大好きな日本人ばかりです。
そもそもこの国の民は憎悪や憎しみ、恨みを継続して持つ事の出来ない民族なのかもしれません。
ですから、そんな日本人に世界並の愛国心が持てるはずないと踏んでいます。
明治以降に日本人が持った愛国心も必要にせまられて持ったと言って良いでしょう。
他国から侵略されない強い「国家」を作るにはどうしても欧米のような愛国心が必要でした。
「国家」も「愛国心」も近代の世界で生きてゆく為に必要だったのです。
では、日本人には古来から「愛国心」は無かったかというとそれも少し違います。
日本人にも自分の属する共同体に対する愛着や郷土愛はありました。
『古事記』にも『萬葉集』にも日本の古典には一種の愛国心が歌われています。


大和には 群山(むらやま)あれど
とりよろふ 天の香具山
登り立ち 国見をすれば
国原は 煙立ちたつ
海原は 鴎立ちたつ
うまし国ぞ あきつしま 大和の国は



有名な『萬葉集』の舒明天皇の歌です。
涙ぐましいほどの情緒的な歌で、そこには理論性も他国との比較性もなくただ「大和の国はいい」と云っているに過ぎません。
例えば、フランス国歌「ル・マルセイエーズ」に歌われている生々しい愛国の情とはあまりにも異質なもので、情緒性に頼った自国の讃美です。
世界の国歌を調べればお解りのようにフランスのように憎悪と憎しみで固めた生々しい愛国心を歌った歌が圧倒的に多い。
なにより具体的でリアルです。
再び翻って日本の国歌『君が代』はどうか。


君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌となりて
苔のむすまで



なんと曖昧で、情緒しかなく、小石が岩になるなどと非科学的で、理論もなく、説得力もない歌詞なのでしょう。
因みに君が代の「君」=「天皇」というのも明治以降、そう定義されるようになっただけで、本来「君」に天皇の意味はありません。
天皇を国家の最高機関にしてしまったのも近代の宿命だったといえましょう。
これはまた別の話になりますのでここではこれ以上詳しく述べません。

さて、縷々、日本人とその他の国との愛国心の違いなどについて述べてきました。
無論、私は日本人ですから日本人の考え方のほうに共感を覚えます。
『君が代』に対しても「なんと曖昧で・・・云々」と否定的なことを書いたようですが、それは世界の特に欧米人から見たら否定的に捉えられるだろうということで、日本人の私としては世界各国の歌詞と比べてなんと情緒的で非戦闘的でアジテーション的でなく侵掠的でなく排他的な愛国心を鼓舞するものでもない歌詞なのだろう!と感動すら覚えます。

そんな日本人が初めてグローバル化の波に晒されたのは何度も述べてきたように明治以降です。
そこから日本人の苦悩が始まりました。
欧米人の真似をしなくてはならなくなった。
日本人の不幸の始まりだと思っています。
そして現代に至るまでそれは続いているのですが、戦後の日本はアメリカの保護の元(支配下の元?)まぁ、なんとなく豊かさを感受していましたが、今からはそれさえも危うくなってきます。
再び、グローバル化の荒波に投げ出されようとしています。
だとするならば、やはり、排他的な愛国心も必要となってくるだろうと考えています。
安倍首相をはじめとして、「国民はもっと愛国心をもつべきだ」と主張する人たちの云う愛国心も所詮排他的なものではなく、せいぜい舒明天皇が歌ったような内向きの愛国心です。
左派の人たちは「軍国主義になる」云々と批判していますが、日本人が本来持つ内向きの愛国心は恐るるに足りません。
そういう愛国心すら否定する人の考えがよくわかりません。
歴史を振り返っても日本人が外向きの愛国心を持つのは外圧があった時です。
近年、日本は右傾化しているといわれていますが、それは日本人が自発的にそうなったのではなく中国や北朝鮮の「外圧」によるものです。
(私は本当の意味で右傾化しているとは思いませんが)
そして、今後私が危惧するのはアメリカをはじめとしたハゲタカファンドなどと呼ばれる企業やファンドが日本に対して本格的な経済的侵掠を行った場合、日本人が外向きの愛国心を爆発させるのではないかということです。
そうならない為にはやはり、対抗措置が必要ですし、爆発しない程度の愛国心が必要だと思うわけです。
(そうでないにしろ、今は近代以後なのですから、国家は必要ですし愛国心も必要なわけですが)

それが考えすぎであることを望むと同時に私は今後起こり得るだろうことをあまり楽観視出来ないでいます。
さて、どうなりますやら。。

(平成十九年二月二十一日)

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=349047963&owner_id=95567

******

もともと、この議論はグローバル化する世界において日本は如何にあるべきかというものであり、私はグローバル化という名の世界のアメリカ化を日本は無批判に受け入れて、自らも旗振り役となってグローバル化を推し進めている感があるが、経済問題一つとってもグローバル化は果たして日本人を幸せにするのであろうかということを述べた。
その上で、グローバル化が世界の潮流として日本として抗しえないものだとするならば、日本人は世界並の愛国心を身につけるべきではないのかということを云いたかったわけだ。

奇しくも、このあと世界恐慌が訪れて、日本人はグローバル化という幻影から目が醒めたようである。
ならば、もはや「排他的な愛国心」は必要ない。
いま日本人に必要なのは冷静に現状を分析する事だと思う。

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5 コメント

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Unknown (木造平屋)
2009-06-07 23:36:07
日本人の「愛」国心は
どうしても古語の「かなし」の感情から
離れられない気がします。愛でるというか。

一神教世界の「愛」とは違いますよねえ。
(・・・と単純に言い切れる問題ではないんでしょうけど)
返信する
>木造平屋さんへ (あび卯月)
2009-06-08 19:25:41
書き込みありがとうございます。

仰るように、日本人に「愛」という言葉は似合いませんね。
「愛国心」と云うとどこか違和感があるのはそのためなのかもしれません。
返信する
Unknown (Unknown)
2009-06-13 19:49:48
傍観者気取りも大概にしろよ
返信する
Unknown (あび卯月)
2009-06-14 14:09:06
何かの間違いじゃないという上で返信しますが、傍観者を気取っているんじゃなくて傍観者なんですよ。
返信する
Unknown (白田川 一)
2012-10-23 08:55:06
  日本の左翼のうちで、高齢の世代はGHQレジームの下で洗脳教育されているから、君が代の良さと言うのを知らないんでしょうね。
  開国をしなければ、明治以降の不幸は回避できたのではないかと思えるものがありますが・・・。
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