人の気のない雨の森を歩くのは楽しい。五月は何といっても、森の一番美しい季節だ。と言っても、ぼくの歩いているのは家の近くの林試の森に過ぎないのだが。今日はジョギングする人もいないし、犬を散歩させる人もいない、ぼくのような変わり者が一人二人遠くを歩いているだけの、静かな森だ。
もう新緑の一番柔らかなときはやや過ぎて、緑が濃くなり始めている。濃くなり始めた緑が雨に濡れて光って美しい。ツツジの季節がほぼ終わって、いまはところどころにヤマボウシが白く静かに咲いている。
ところどころ、木々の周りを、白い蝶がたくさん舞っている。あれは何か特定の樹種に集まっているのだろうか? 群れのようになって、でもおもいおもいに勝手な方向と高さに舞っている。捕まえてみないとわからないことだが、真っ白というよりはいくらか黒い部分があるようだ。でも紋という感じではなくぼんやりと黒ずんでいるように見える。明るい菜の花畑ではなく森の木陰にいるのだから、モンシロチョウではなくスジグロシロチョウだろうか。
今日はぼくは傘を差さず、登山用の上下の雨具に山靴で来ている。これならベンチに腰をおろして、しばしぼんやり過ごすことができる。目の前で高い梢も低木も雨に濡れて光り、風に揺すられている。いかにも森全体が生き生きと雨を楽しんでいるように見える。
保土谷の林の中の一軒家に住んでいたころを思い出す。あの頃しばしば、五月の樹々の枝が揺れ動くのを眺めながら何時間も過ごした。
「ぼくはそろそろ、自然に帰ってもいいな」、とふと思う。病院で酸素吸入器かなんかつけられて苦しみながら死んでいくのは今はまだ嫌だが、こうして自然の中で眠るように死んでゆくことが、もしできるのなら、それは今でも構わない、と思う。
その時ぼくの最後の意識は、自然との一体感ということになるだろう。最後の意識が死後も残るわけじゃないから、それはあまり意味のないことではあるが。
ただし現実には自然のなかでの死というのは、ひどい寒さや飢餓や痛みの中で苦しみながら、ということになるのだろうが。
それにしても椋太君、苦しかっただろうな。考えると涙が出そうになる。たぶん、最後の意識が死後も残るわけじゃない、というのは、悪いことじゃない。死んだ人を思う側のせめてものなぐさめになることだってあるだろう。
感傷的にならない方が良い。立ち上がってもう少し歩くことにしよう。
もう新緑の一番柔らかなときはやや過ぎて、緑が濃くなり始めている。濃くなり始めた緑が雨に濡れて光って美しい。ツツジの季節がほぼ終わって、いまはところどころにヤマボウシが白く静かに咲いている。
ところどころ、木々の周りを、白い蝶がたくさん舞っている。あれは何か特定の樹種に集まっているのだろうか? 群れのようになって、でもおもいおもいに勝手な方向と高さに舞っている。捕まえてみないとわからないことだが、真っ白というよりはいくらか黒い部分があるようだ。でも紋という感じではなくぼんやりと黒ずんでいるように見える。明るい菜の花畑ではなく森の木陰にいるのだから、モンシロチョウではなくスジグロシロチョウだろうか。
今日はぼくは傘を差さず、登山用の上下の雨具に山靴で来ている。これならベンチに腰をおろして、しばしぼんやり過ごすことができる。目の前で高い梢も低木も雨に濡れて光り、風に揺すられている。いかにも森全体が生き生きと雨を楽しんでいるように見える。
保土谷の林の中の一軒家に住んでいたころを思い出す。あの頃しばしば、五月の樹々の枝が揺れ動くのを眺めながら何時間も過ごした。
「ぼくはそろそろ、自然に帰ってもいいな」、とふと思う。病院で酸素吸入器かなんかつけられて苦しみながら死んでいくのは今はまだ嫌だが、こうして自然の中で眠るように死んでゆくことが、もしできるのなら、それは今でも構わない、と思う。
その時ぼくの最後の意識は、自然との一体感ということになるだろう。最後の意識が死後も残るわけじゃないから、それはあまり意味のないことではあるが。
ただし現実には自然のなかでの死というのは、ひどい寒さや飢餓や痛みの中で苦しみながら、ということになるのだろうが。
それにしても椋太君、苦しかっただろうな。考えると涙が出そうになる。たぶん、最後の意識が死後も残るわけじゃない、というのは、悪いことじゃない。死んだ人を思う側のせめてものなぐさめになることだってあるだろう。
感傷的にならない方が良い。立ち上がってもう少し歩くことにしよう。
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