すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

銀河鉄道―「沈黙の列車」続き

2021-02-24 14:16:44 | 自然・季節

 昨日の記事にUさんからコメントをいただきました。考える手掛かりになるコメントです。ありがとうございます。少し考えてみたいと思います。

 「銀河鉄道の夜。ジョバンニとカンパネルラ。賢治もそういう、宇宙に飲みこまれるような不安をいつも抱いていたかもしれません。」

 ここでは賢治には触れず(それはテーマが大きすぎるから)、鉄道についてだけ考えることにする。
 銀河鉄道は死の鉄道だ。といってキツければ、死者を乗せた鉄道だ。カンパネルラも、難船した二人の子供と青年も、サウザンクロス駅で降りた多数の乗客も死者だ。降りずにさらに行く人たちも死者だ(死者っぽくない鳥捕りも灯台守も死者だ)。彼らは、それぞれの信仰によって定められた、死後の場所に向かう。だから銀河鉄道は片道鉄道だ。汽車は向こうからこっちには決して来ない。
 カンパネルラは、「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだらうか。」以下の言葉から推測するに、自分がすでに死んでいることを知っている。自分がどこに行くのかも知っている
 ただ一人ジョバンニだけが、生きたまま汽車に乗っている。だから彼の切符は、何処まででも行ける、何処でも勝手に歩ける通行券だ。そして彼は、それが死者の乗る汽車であることを無論知らない。どこに向かっているかも知らない。でも行き先の分からない汽車にいつの間にか乗っていることに不安を感じてはいない。彼はただ、カンパネルラと旅をすることがうれしいのだ。彼はその汽車の旅で出会うすべての人に、すべての出来事に心を開いて、新鮮な驚きと関心を持ち続ける。
 ジョバンニが初めて恐れを感じるのは、“石炭袋”を見た時だ。それは死者が赴くべき天上に開いた虚無だ。だが彼はすぐに言う「ぼくもうあんな大きな暗(やみ)の中だってこはくない。きっとみんなのほんたうのさいはひをさがしに行く」と。その直後に彼は、カンパネルラがいなくなってしまったことを知って激しい衝撃を受ける。
 彼は友達と一緒だったら、死者の鉄道だって何だってどこまでも行けただろう。だが、友を失って現実世界に帰ってくる。誓いを地上で果たすために。

 さて、ここからはぼくの問題だ。
 ぼくはこの手の夢を頻繁に見る。それはなぜか?
 「沈黙の列車」は死の列車であるかどうかは、何も手掛かりがないから分からない。乗っているぼくは、いつの間にか乗っていることに、何処に行くのかわからないことに、たった一人であることに、暗闇が迫ってくることに、ひどく怯えている。そして戻りたがっている。だがどこに戻ったらよいのかわからない。
 ジョバンニとぼくとの違いは明確だ。そして上の疑問の答えも明確だ。
 ぼくは、他者と共感を持つように努めたらよい。どこへ行くのかを過度に恐れず、新鮮な驚きと関心を現実生活の中で持つべきだ。そうすれば夢の中の列車に乗客や乗務員や駅員が現れるようになるはずだ。
 そして、戻ろうとばかり焦らないほうが良い。小さな自分にばかり張り付いている意識を離れて、「みんなの本当の幸いを探しに行く」と思えるようになれば良いのだ。そうすれば夢の汽車の旅が不安ではなくなるはずだ。

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