すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

竹久夢二(閑話休題)

2019-10-19 21:12:50 | 
 フォーゲラーの関連で夢二について書こうと思って、今朝「竹久夢二歌曲集」を探したのだが、見つからない。あれを人に貸すはずがないから(関心を持つ人がぼくの周りにいないから)どこかにあるに違いないのだが、楽譜だから比較的見つけやすいはずなのだが、見つからない。
 最近こんなことが多すぎて参ってしまう。気落ちしてしまったので、もう少し気楽なことを書こう。

 夢二の絵の女性が、ぼくは好きではない。あの細長い輪郭の中に描かれる、あの大きな目が、長い鼻すじが、厚い唇が、品が無い、と思う。叙情的? 物憂さ? そういうものは、品がなければいけない。
 幸い夢二にはいくつか、手で顔を覆って(泣いて)いる女、後姿の女の絵がある。表情は見えない。「夢二の女性は好きではない」、と書いたが、顔の見えない女の絵は良い。前者には「ゐのり」「青春譜」「得度の日」「まだみぬ島へ」などがある。後者には「野火」「光れる水」「雀の子」などがある。
 「青春譜」は不思議な絵だ。中央の地面から生えた大きな手は何だろうか? 右奥の山は形が榛名山らしく思われる。赤一色の女は何を泣いて、黄一色の男は何を慰めているのだろうか?この絵を描いた同じ時期に夢二は榛名山麓に芸術家コロニーをつくろうと思い、ほどなく挫折している。
 この絵の鮮やかなシンプルな色彩の対比は表現主義の影響を感じさせる。ヤマ勘だけで言うが、これはコロニーの計画が挫折したことと関連があるだろう。フォーゲラーがヴォルプスヴェーデのコロニーの挫折の後に表現主義の絵を描いたように。

 だが中でもぼくがひどく心を惹かれる、あるいは、心を揺さぶられるのは、「まだみぬ島へ」だ。これは、日本図書センター発行、愛蔵版詩集シリーズ、というのの中の「どんたく」の中にモノクロで印刷されているものしか知らない。「どんたく」は、大正二年、実業之日本社発行の夢二の絵入り詩集(初刊の扉によれば「絵入り小唄集」)だ。挿絵のひとつが「まだみぬ島へ」だ。元はカラーなのか、もともとモノクロなのか知らない。しかし、手元にあるこの小さな絵は、ぼくの心を鷲掴みする。
 手前、海を見下ろす丘の上に、黒い着物を着て帯を締めた娘が左向きに腰を下ろし、左手で(右手も?)顔を覆っている。膝から下は斜面に隠れて見えない。娘の左側に渚が見下ろされ、あとは縦長の画面の下から2/3ぐらいまでは海だ。波打ち際と水平線近くに小さな波が広がる。比較的静かな海だ。島影は見えない。添えられた詩はあまり良い詩とは思わないが、その一節に、
 うしなひしむかしのわれのかなしさに
 われはなくなり
とある。
 そういう感情を持ったことのない人は、この絵に心を惹かれることはないかもしれない。でも、そういう思いを抱いたことのある人なら、一目見るなり思うはずだ。
 「この娘はわたしだ。この娘の悲しみはわたしの悲しみだ」と。

 夢二の詩について書くつもりだったのに、絵について書いただけで終わってしまった。

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