富山マネジメント・アカデミー

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中国文学の本流は、ポエム

2018年02月05日 | Weblog

文学といえば、ノベルつまり小説を思い浮かべるのは、教養が最低の人である。では、僕が「文学博士」というと、怪訝な顔をされる。この「文学」とは、儒学でいう礼楽からきている。文化学といえば、お分かり戴けるだろう。欧米では、文化は、規範文化と生活価値文化に分けられる。規範とは、ノルムと定義され、形而上の価値観を啓発するための芸術が基本となる。他方、生活価値文化というのは、日常の、たとえばコーヒーをどのように楽しむのかという形而下の世界において、身体のニーズを生理的に実現するレベルを超えた価値の創造に重きをおく立場である。

中国を見る時、規範文化は、中国共産党が一元的に異端を刈り込むが、ポエムの形で権力者との距離をおく自由は保障されている。その役目が「詩経」というポエムに許されている。ただ、太古の「詩経」はなじみにくい。それを代行するのが、唐詩の世界であり、宋詞の展開であり、近代の口語自由詩の表現である。この詩は、散文のなかにも織り込まれる。近いところでは、第一次天安門事件、周恩来を追悼する「詩」の運動は、今日の鄧小平を祖とする中国共産党の「階級闘争至上主義の放棄」につながった文学からの政治革命を実現している。

ところが、日本の中国文学界は、魯迅ボケし、文革左派を支持し、小説を中国文学の本流とみなしたために、第1次天安門事件の「詩」による静かな政治革命の意義を見落とした。ただ、日本では、集団・徒党を組まないで、孤立しながら、唐詩、宋詞の世界的な研究者がいる。僕ら日本人は、中国の詩を文字で鑑賞するが、実は自由詩であれ、「音韻」で鑑賞されるものである。日本人の若い世代で、優秀な方は、すでにそれが見えてきている。


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