富山マネジメント・アカデミー

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「恥」をかくまえに「恥をかいている」人々

2018年02月06日 | Weblog

英語で論文を書いたら如何ですか?では、やります、という人は殆どいない。理由は、「恥」をかきたくない、という引きこもりである。この引きこもりが、すでに「大きな恥」である。日本人の場合、それが極端に酷い。世界のトップ10でも、ミスがあり、10戦全勝はありえない。作家でも、失敗作はある。まして、実験や実証してみないと分からない世界では、見込み違いはある。それで、思い切って「恥」を恐れないで、誰も立論しない仮説を立ててみる勇気が大事。秋田大学の名誉教授の吉永慎二郎さんは、孔子の「春秋」の取材源として、原型となる「左丘明の史資料」があると指摘した。これは、世界で最初の大胆仮説である。もちろん、実証的に可能な大仮説である。僕は、この仮説を支持する。孔子の「春秋」は、無から有が生まれたわけではない。それと、青銅器の銘文の事件は、「左氏伝」と合致し、その他の伝は。「春秋」にぶら下げた解説にすぎない。孔子の後付けの注釈は、「公羊伝」「穀梁伝」である。原「左氏伝」があり、そこから孔子の「春秋」が編纂され、その「春秋」にぶら下げて、漢代に後付けされた「左氏伝の増補」があるという。これが吉永説である。その説は、中国の国学の定説を覆す。では、何が起きるのか?何も起きない。ただ、中国の学者たちが「恥をかくことになる」だけだ。でも、大事なのは、大部分の学者が凡庸だと証明されたら、何もしなかったことで、自然に恥をかいていることになる。研究史に何の名も残すことはない。存在が認められない。それこそが、本源の「恥」である。

 


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