生後76年と1日目の朝、午前5時起床、富山大学から借りてきたシュムペーターの精密理論の導入部を読む。おそらく僕の18歳んころの学力では、1ページも理解できない水準だ。日本語訳ですら難しい。だが、今にして思えば、なぜ、シュムペーターの理論的な著作になじむ環境になかったか、うらみごとの一つも言いたくなる。周囲のマルクス主義者が、必要以上に多すぎた。それで、人生を赤字決算で終焉した人材が、東アジアではあまりに多すぎる。「経済」という動的なプロセスと、静的な関数関係で表現される「経済学」、国家社会という巨大な生き物の「経済」と、個人の自由な判断、選択を前提とする「経済学」の学理の違いをうまく説明している。
漢王朝の時代は、「儒教」であるから曹参の「孝経」が規範だった。その後、儒仏道の三教の論争から磨かれた儒学では、子思の「中庸」の<独慎>論が精華として定位する。漢代では、関係性のなかに個人が埋没させられる。宋代では、内面の自我という内省の存在が、精密化された人間の科学思考の主体として定位させられる。僕らの漢字文化の背後を理解しておくと、中国の中に世界的な近代が芽生えており、大航海時代、銀本位の貿易で中国が世界一富める国となった背景も分かる。ドイツ語圏は、真に後進地域であり、オーストリア学派のアメリカ移住を通じて、ハーバード大の経済学の礎石がシュムペーターにあることを改めて知ることになった。
数日前、大雪のなか、富山大学にリュックに詰めて、シュムペーターの本を借りてきた覚悟は正解だった。特に大事な、方法論の序説の部分を読んで、マルクスによるアダム・スミスの「諸国民の富」「道徳感情論」の読み間違いと、シュムペーターの古典経済学の正しい咀嚼の仕方がよく理解できた。借れなくしては、ケインズの政策の実践性は、「経済学の理性」が許さなかったかと思うと、その間の説明すらできない日本の経済学者の惨めさは、今に至るも酷い。
今朝は、自分へのプレゼントとして最適な読書だった。