県立図書館で、明治期の富山県庁の作成した統計書を調べると、県下の物流がすべて掌握できていた。なぜなら、当時、鉄道がなく、すべての物流が内海の船舶だったために、県外からの移入と、県内からの移出がすべて品目別に把握されていたことが分かる。移出は米穀がほとんどである。県庁が推進した米作の単作化により、北海道への移出など越中米は、米穀市場の一翼を占めていた。反対に、移入品は建材が圧倒的で、瓦から釘に至るまで、製造業の製品が流入していた。お茶も、呉羽茶だけでは県内自給には不足していたので、どの港からも茶は移入されていた。ただ、人口統計では、東京への移民が多く、社会原因の減少が続いた。
このような県勢の退化を画期的に変革したのが、水力発電による産業化、電気化学工業のよる化成の農業肥料の生産・消費である。さらに、昭和20年の敗戦により、引揚者の流入による山間部の農村人口が増えたことである。これで、富山県は「雄県」の仲間となった。しかし、IT革命の進行とともに、また、重化学工業製品の価格の相対低下とともに、製造業のベースに劣化が生じ、また、戦後の復興需要、高度成長需要が一巡すると、富山の製造業に大きな陰りが生じた。富山県の産業政策が、物流を踏まえた構造図が見えないままに、一部の企業家の意見に引き回された。中沖県政の前半、製薬に比重をおく議論すらなかった。