「論語」の八佾篇の第22章に、この文章がある。中国の学者の現代語訳をみると、「邦君、塞門を樹(た)つ」と読んでいる。樹木の「樹」は、「立つ」の同義語である。ただ、朱子は「屛は之を樹という」と誤った注をつけた。それで、井波律子さんも、「邦君は樹(じゅ)して門を塞(ふさ)ぐ」と訓読し、「君子は石の衝立を立てて門内が見通せないようにする」と口語訳されている(『完訳論語」)。この訓読は、安井息軒に始まる。今朝、中国の漢代に編纂された古い字典「方言」を調べると、「樹植、立なり。燕の外郊、朝鮮の冽水の間はでは、およそ置きて立てる者は、これを樹植と謂う」(『方言』七)。この地名は、後漢の初めころ、今の北京から朝鮮半島では、「立つ」という意味の言葉を「樹植」といっていたという方言の説明である。そもそも、春秋時代の魯の国の孔子が、「樹」を立てる、という意味で使用していた言葉が、東の夷では、「樹植」で「立つ」という意味の方言になっていたことが確かめられる。
これは、何も難しくない。「樹立」という熟語は、「樹」が「立つ」という意味であるから同義の漢字をふたつ重ねて「樹立」、buildの意味になる。「樹」を「たつ」と読んだのは、日本では、加地伸行先生だけである。朱子は、樹を名詞と解した。「樹」は、目的語(賓語)をもつ典型的なVerb である。日本の学生は、岩波の本にどれだけ騙されてきたのか、想像を絶する。孔子は、志を立てるという心の次元を「立」で表し、建造物の場合は、「樹」と動詞として用いている。こんな用語法に区別もしないで、「完訳論語」と称したのは許せない詐欺行為だ。井波さん、「石の衝立」、この日本語も可笑しいでしょう。「石の屛」なら、日本語として正しい。