ある方が、TV番組の取材でこういった。富山は昔、水害が多く、貧しかったので、家を財産と考える風習が強まったからだ、と貧困伝説を主張。これは、不勉強すぎる。日本史でも稀有な、越中の歴史の知識がなさすぎる。
歴史的にみると、越中では、加賀前田藩の改作法の土地被配分者と、浄土真宗の門徒としての一人前の資格とが、「屋敷地もちの農家」と二重に重なっている。江戸時代、前田藩は越中の統治において、武士を農村へ派遣しないで、「十村役」制を採用した。この「十村役」が役人として仕切り、ムラの土地の耕作者をくじ引きや輪番で割り当てた。それで、年貢の負担の平等化が行われた。「十村役」の下には、一人前の農家が営農責任者として、自己の属する「ムラ」の自治主体があった。その条件は、ムラに「屋敷」をもつ「ムラの株仲間」である。この「十村」のもとで村の行政を仕切る農家は、同時に、浄土真宗の村にあるお寺の僧侶を兼ねたり、檀家総代などの役目を分担した。さらに、「講」があり、宗教の面で相互扶助したり、京都への本願寺への参観のための旅行の組織となった。
こうした越中の「講」に属するには、「屋敷」地をもつ農家として、一人前の構成員になる必要があった。「屋敷」をもつ「家持ち農家」になることが、郷土の祭りや、水利権、漁業権に1票を割り当てられ、一人前になる基礎資格であった。次三男は、養子となり家督を継ぐ、両養子といって、子供のない家格を夫婦で相続するなどの維持が行われた。したがって、「姓」だけでは、「屋敷」地をもつ「家」と特定できないので、「屋号」制度が発達した。
第2次大戦後、日本各地では、入会地という共同資産をもつ村落共同組織が崩壊したが、富山の場合、浄土真宗の持続力が強く、さらに、「屋敷」地をもつ「家」の持ち主に対して、社会的な信用が供与される地域金融組織の持続性と重なり、都市部でも、「持ち家」所有者の「イエ」を基盤とする富山型社会が出来上がった。
隣県に石川では、家の番地が道路に沿い、区画割の数字がきれいに文字列と数列に振られている。富山では、「十村役」による「改作法」のため、「イエ」と「農地」との関係が固定していかかったので、明治期からの国の土地登記の制度を基点に地番が割り振られた。そのため、第2次大戦後の農地改革でさらに枝番が増えた。石川では「土地に人が従属」、富山では「リーダーに人が従い、それにより土地が流動する」という江戸時代の前からの越中組の仕組みが、現代に非常に近い時代まで生きていた。だから、「一人前にするために家持の所帯主」を育成し、奨励する社会慣行も持続したのである。
歴史を深く掘り下げると、「イエ」「家屋」「屋敷地」「屋敷林」・・・「地面」(屋根雪の除雪のため100坪)という形から、今のデザイン住宅への「流行と不易」が見えてくる。